七章 第六話 灼雪蒼炎の悪魔王 後編
――昔々あるところに、とても寒い大陸がありました。
地面は冷たい氷で覆われていて、空はいつも灰色の雲に包まれています。
ここに住む生き物は、食べ物を作ることも出来ず、凍えて死んでしまいます。
だからここには住めないと、誰もいない寂しい場所になってしまいました。
けれどある日、ここに住みたいという酔狂な悪魔が現れました。
歪んだ子供が生まれてしまうからと禁じられていた、人間との契りを結ぶため、愛した女の人と共にここにやってきたのです。
悪魔は、燃え上がることだけが得意でした。
自分の身体をごうごうと燃え上がらせて、契りを結んだ妻を、いつも温めていました。
二人は長い間幸せに暮らしていましたが、それも終わりが訪れます。
それは、悪魔の子供が女の人に宿り、十月ほど過ぎた頃でした。
女の人の家族が、女の人が悪魔に騙されたのだと言って、追いかけてきたのです。
誰も知らないはずのこの場所は、悪魔の友達の裏切りによって、既に沢山の人が知っていました。
歪んだ子供を誕生させる訳にはいかないと、悪魔と人間を止めるためでした。
人間達がお屋敷に攻め込み、悪魔の友達たちはそれをこっそり誘導します。
悪魔は女の人が大好きでしたので、女の人を護るために一生懸命戦いました。
悪魔がごうごうと燃え上がることで氷が溶けて、やがて大きな雪崩が起きます。
悪魔は自分の側の雪を全て溶かしてしまうことで、雪崩から抜け出しました。
けれども、人間と悪魔の友達たちはその雪崩に逆らえず、大きく押し流されてしまいます。
悪魔は追い払えたことを喜びながら、女の人の元へ帰ります。
けれど、女の人は、既に動かなくなっていました。
燃えさかる悪魔が側にいなくなったことで、暖炉の火もに消えてしまい、女の人は凍え死んでしまったのです。
悪魔が女の人に縋って泣いていると、女の人のすぐ下から泣き声が聞こえてきました。
なんと、女の人に宿った赤ちゃんが、息も絶え絶えながら生まれてきたのです。
悪魔譲りの黒い尻尾と、女の人譲りの桃色の髪。
左右で違う色の羽は確かに歪でしたが、それよりも赤ちゃんの誕生の方が、悪魔はずっと嬉しかったのです。
それからしばらく、悪魔は娘と楽しく過ごしました。
娘は大きな力を持っていて、冷たい吹雪は暖かくなり、逆に熱い炎は冷たくなっていました。
娘を中心に他の悪魔たちが移り住み始めて、ここが国と呼ばれるようになった頃。
悪魔が病気に罹ってしまいます。
悪魔は自分を心配する娘に、女の人との思い出を語ります。
生まれてきたことを祝福している、素敵な恋をしなさい、人を愛しなさい。
悪魔は娘に伝えたかったことの全てを伝えると、そっと息を引き取りました。
娘は悪魔の言葉を胸に留めて、沢山の人を愛しました。
しかし悪魔は、娘に大切なことを伝えていませんでした。
それは、自分の思う誰かからの……愛され方でした――。
E×I
太陽の色といえば、思い浮かぶのは金や赤だろう。
奇抜な色をしていたら、それはもう太陽ではなく別の何かだ。
青や緑なら化学反応や温度の変化であり得るかも知れないが、空と見まがうほどの蒼色なんて、千里は知らない。
「ほらほら、きちんと避けないと、あっという間に氷像になるわよっ!!」
ましてやその蒼い炎が、信じられないほど冷たいなんて。
「あーもぅっ……せいっ!」
無数に出現する蒼炎の巨大な弾丸を、千里は石柱のような剣で斬り払う。
思い切り振り抜かれた剣は周囲に余波を残し、それによって切り損ねた弾丸も落としていた。
既にカツラは吹き飛び、どこにあるのか解らない。
炎で燃える訳ではないというのなら、どこかで氷像になっていることだろう。
もっともそれは、もう一つの攻撃に晒されていなかったら、という条件付なのだが。
「そろそろ肌寒いでしょう?
私の雪で、身体の芯から温めてあ・げ・る♪」
ひとたび触れれば、それだけで取り返しのつかない火傷を負いかねない、赤い吹雪。
とても剣で斬り払うことなど叶わないそれを、千里は光の粒子で編み込まれた鎧によって、防いでいた。
「【光よ!】」
千里は、二つの光を捌きながら、剣に光を纏わせる。
このまま避け続けていても、勝てる訳ではない。
むしろ体力的には、人間である千里の方がずっと早く終わりを迎えるだろう。
「あら?反撃かしら?」
宙に浮かび二色の極光を従えたリリアが、愉しそうに笑う。
如何なる状況に於いても享楽を見つけることができるのが、悪魔という種族の特徴だった。
「【断て、光輝!】」
ただただ、鋭い一撃。
横薙ぎから放たれた光の刃は、空気を斬り裂きながらつき進む。
それはフィオナの鞘を打ち砕いた、“最高の一撃”だった。
「【蒼炎/鏡遮】」
対してリリアは、蒼い炎をカーテンのように広げる。
そしてそれを、やや斜めに傾けた。
――ドンッ
カーテンに当たった衝撃波は、ほんの僅かな時間その場所に縫い止められる。
そして、斜めになったカーテンの上を滑るように、リリアの右側へ飛んでいった。
「良い一撃だね。ま、当たればだけど」
当たらなければ、意味がない。
そういって微笑むリリアの表情に、千里は唇を噛む。
なるほどそのとおりだろう。どんな一撃も、逸らされれば意味はない。
けれど、鋼鉄すら打ち砕く千里の一撃にほんの僅かでも耐えうる障壁を持つことは、至難の業であり彼女にとって“予測できないもの”であった。
「ねぇ、わたしそろそろ飽きて来ちゃったんだけど?」
リリアは空中で足を組んで、腰掛ける仕草をする。
半目になって口元に手を当て欠伸をしてみせる姿に、リリアの余裕が見て取れた。
「まだ、飽きるには早いと思うよっ」
それでもなお止まない、炎と雪の猛攻。
千里は玉座の間を走り回ることで対応していたが、そろそろ限界が近かった。
「わたしは彼とこれから楽しまなきゃいけないの。
……あなたと遊んで無駄な体力を使いたくないから、そろそろ終わらせるわね」
さようなら、と口ずさむ。
そして、左手を頭上高くに持ち上げた。
「【灼雪煉氷】」
リリアの左手の中に生まれるのは、熱によって光を放つ、真っ赤な氷だった。
それは最早、雪というよりも炎に沈めたルビーのようで、美しい。
「灼き断て【離別の氷槍】」
薄暗い玉座の間、その光を全て呑み込むような、冷酷な赤。
打ち出された槍は通り抜ける空間を瞬く間に焦がし、あまりの高温に能力によるものでは無い純粋な炎が立ち上がる。
「……【遮れ、斜光!】」
――ドゴォンッ!!
千里が生み出した、光の壁。
そこに氷槍と名付けられた赤の槍が衝突する。
絶対の防御力を誇る盾は槍が衝突した衝撃で大きくたわみ、やがて両者に罅を入れた。
「あ、まず……」
――ドゴンッ!
そして、爆発する。
巨大な力同士の相殺は局地的に強力な爆風を生み、その周辺を煙で覆う。
それを見下すように、リリアは冷たい目でため息を吐いた。
「はぁ、これじゃあ見えないじゃない。
いいわ、煙が晴れるまで休憩時間をあげる」
気怠げにそう言うと、リリアは目を瞑る。
先ほどから連絡が取れなくなっている、己の使い魔の一人。
ナーリャの監視を命じたメイド……アイン。
「完膚無きまでにたたきのめせば、彼も諦めることでしょうし」
如何に抵抗しようと無駄だ。
そう教え込む必要はあるが、リリアはナーリャに暴力をふるって解らせる気は無かった。
人間は脆いということを、よく知っているから――。
「立ち上がりなさい、ニンゲン。
せいぜい足掻いて藻掻いて……折れなさい」
――煙は未だ、晴れない。
――†――
玉座の間と幽閉の塔を繋ぐ長い廊下。
空中回廊と言っても差し支えのないこの場所は、天井や床、壁が透明の板に覆われていた。
少し気を抜けば地上へ落下してしまいそうなほど、足下の危うい場所。
けれども如何なる材質なのか、不安げな箇所は何処にも無かった。
空の上、その廊下の先。
そこに佇む人影を、ナーリャはまっすぐと睨む。
「止まってくださいませ、ナーリャ様」
「アイン……」
白い髪に銀の瞳の女性――アインが、ナーリャの前に立ちふさがる。
軽く目を伏せながらも、その手に持つ銀のナイフが、彼女の意志を表していた。
主人の命に従い、ナーリャを決して通さないという、意志表明だ。
「僕は、先に行かなきゃならない。
それがリリアの意志ではなかったとしても、それはリリアの“ため”になる」
ナーリャはそう、一度だけ目を伏せる。
彼の中に芽生えたジャックの疑似人格は、ナーリャをしきりに急かしていた。
既に生者ではないせいか、ジャックは納得と焦燥を交互に滲ませているのだ。
「僕はリリアを救いたい。救ってみせるって、約束する」
だから。
だからとナーリャは顔を上げて、アインを見据える。
その真摯な双眸に偽りはなく、アインもそれを感じ取っていた。
だが――。
「私はリリアお嬢様の従者です。
死して生を終え、使い魔として救っていただいたその時から」
アイン達は元々、名も無き動物だった。
事故、悪意、寿命。様々な理由で命を落とそうとしていた彼女たちを救ったのが、リリアだ。
「己の影を分け与えることで二度目の生を得る。
そうしてお嬢様に命をいただき使い魔となったその瞬間から、
私は――私たちは、お嬢様に絶対の忠誠を誓っています」
アインはカラス。
ツヴァイはキツネ。
ドライはコウモリ。
フィーアはオオカミ。
フィフはネコ。
千里の世界とは名称や細かい形は異なるが、それぞれ余り力を持たない種族だ。
「お嬢様は私たちと約束してくださいました。
永遠に共に在ると、尊い約束をしてくださいました」
そう語るアインの顔からは、感情が伺えない。
けれど僅かに揺れた瞳に、ナーリャは息を呑む。
幸福と葛藤と苦しみと喜び。その全てがない交ぜになった、瞳に。
「ですから私も、お嬢様との約束は破りません。
お嬢様がくださった命に報いるためにも、お嬢様の幸せのためにも」
銀のナイフを、ナーリャにまっすぐと向ける。
研ぎ澄まされた切っ先に揺らめく、銀の輝き。
その鋭利な煌めきに、ナーリャは目を眇めた。
「ここは絶対に、通しません!」
振りかぶって、アインはナイフを投げる。
ナーリャはそれを、軌道を読みながら躱した。
放たれる動作を見ていてなお避けられないほど、彼は鈍くはない。
「リリアの幸せを願うのなら、解っているんじゃないのかッ!」
一つ二つ三つ、四つ五つ六つ七つ。
次々と放たれるナイフを躱しながら、ナーリャは廊下を駆け抜けて、アインに近づいていく。
「このままじゃ、リリアは幸せにはなれない。
踏みにじった先にあるものが、幸福であるはずがない」
失いかけた命。
誰かの悪意の延長で死にかけたものも、アイン達の中にはいただろう。
だからこそ、ナーリャは問いかける。
「不幸を造って築いた絆に、幸福になるための力なんかあるもんか」
幾つもの人生を経由してきたからこそ、出てくる言葉なのかもしれない。
けれどナーリャのその震える声には、それだけでは言い表せない“何か”があった。
どこか痛みを堪えるような表情で、ナーリャは歯を食いしばる。
どこから取り出しているのか、アインの放つナイフは止まらず、ナーリャを追い詰めていた。
「どのような経緯であろうと、そこにある幸福になんの違いがありましょう。
――過程の不幸を顧みるのは、臆病者の言い訳に過ぎないと存じます」
アインはそう言い放つと、駆け寄るナーリャから距離を取るように後ろへ飛ぶ。
そして、誘い込むように手招いた。
「戻れ――【銀奏刃】」
「くっ」
周囲に転がったナイフが、跳ね起きる。
そして、ナーリャを背中から射抜く勢いでアインの手元へ逆流し始めた。
「戻っているなら……下ッ」
ナーリャは咄嗟に這いつくばると、ナイフの流れを避けた。
それでも避けきることは叶わず、掠めたナイフがナーリャの背に幾筋かの赤を残していく。
「過程を顧みぬことができない幸福に、安らぎなんかあるもんか。
どうしようもないってことだって、あるかもしれない、けど――ッ」
焼けるような痛みを受けてなお、ナーリャは駆ける。
瞳を揺れ動かすアインに、己の想いをぶつけるために。
「――どうにかできる選択肢を捨ててまで、悪意の果てを目指す意味はないッ!!」
慟哭のような訴えに、アインは始めてその人形のような表情を歪める。
溢れ出す感情を隠しきれず、アインは仮面を脱ぎ捨てた。
「黙りなさいッ!
集い、奏でよ……【銀謡刃!】」
再び放った無数のナイフが、ナーリャを取り囲むようにぴたりと止まる。
ここまでくれば、ナイフの次の動きは解る。
だが解っても、無手で全方位から襲撃するナイフを退けるには、それら全てを認識する必要があった。
「使い魔となれば、生き残ることもできましょう。
その命、ここで一度使い果たし、永遠に共に生きながらえましょう」
「永遠なんて、欲しくはない。
途切れることの知らない人生なんて、僕はごめんだ」
唇を噛みナーリャを睨むアイン。
その鋭い視線を浴びてなお、ナーリャは静かに目を閉じた。
「……諦めましたか?
ですがこの指揮を止めるつもりはありません――【終幕】」
ナイフが一斉に動き出す、その一歩手前。
その刹那の空白に、ナーリャはただ両手を打ち合わせる。
たった一度の――祈りにも似た、拍手だった。
「空間掌握」
たった一度の、音の反響。
それだけで、ナーリャはナイフの位置を全て“掴んで”いた。
右から飛ぶナイフを逸らし、斜め左のナイフに当てる。
頭上のナイフは左手で弾き、そのまま落とした手のひらで正面のナイフを弾く。
舞を舞うように両手で円を描き、その過程で掴んだナイフを投げて迎撃に用いる。
ほんの僅かな時間。
それこそ瞬くような時間で、ナーリャは全てのナイフを叩き落とした。
「その、技は――旦那、様?」
「はぁぁぁぁッ!」
驚きに目を瞠るアインに、ナーリャは突進する。
その驚愕こそ隙であり、ナーリャに次の一手を与えていた。
「くぅっ?!」
声による音の反響。
身を翻しアインの後ろに回り込んだナーリャは、自分の位置を気配から探ることができぬよう、撹乱する。
それは少し前までは縁あるものを持ちながらでなくては発動できなかったはずの、クリフの短剣に宿った技だった。
――トン
「しまっ――」
ナイフを手に振り返った、アインの腹。
そこへ、ナーリャの掌底が当てられた。
身を低くしていたナーリャにアインのナイフは当たらず、ほんの一瞬、二人の視線が交差する。
――ごめん、アイン。
――謝らないでください、旦那様。
瞬く間の意思疎通。
そこに思うような意図が込められていたかは、解らない。
その瞬間も、もう過ぎてしまったのだから。
「【Amen】」
――ドンッ
「あぅっ?!」
蒼い光に呑まれて、アインは衝撃と共に悲鳴を上げる。
「お嬢、さ、ま」
そして……どこか穏やかな瞳で、ゆっくりと背後に倒れた。
これでもうしばらくは、指一つ動かすことはできないだろう。
そう安心する、ナーリャの表情を視界に納めながら、アインはただ目を閉じた。
「はぁっ……はぁ、はぁ、はぁ」
途端に、物を通して“視た”時とは比べものにもならない疲労感が、ナーリャを包む。
肩に重くのしかかる疲れと、頭の奥から響く鈍痛に、ナーリャは眉をしかめて蹲った。
「いかな、きゃ」
それでも、なんとか立ち上がる。
急げ、急げと焦りを滲ませるジャックに、その背を押されながら。
「行かなきゃ……!」
走ることはできない。
けれど、止まることも出来ない。
だからナーリャは、のしかかる重圧に耐えながら、ゆっくりと空中回廊を歩き始めるのだった。
――†――
舞い上がる土煙の、向こう側。
衝撃で大きく後ろに弾かれた千里の足下には、剣と足と合わせて三つの轍が刻まれていた。
「つぅ……」
びりびりと痺れる手を、閉じたり開いたり。
千里は若干涙目になりながら、一際大きな柱の後ろに身を隠した。
気休め程度だし、逃げられる気も逃げるつもりもない。
けれど、なんの対策もないまま飛び出すのは、自殺行為だと解っていた。
「それに、最初から全力で飛ばしたら、後が続かないし」
それは、フィオナとの敗北で学んだことだった。
後先考えずに力を使った結果、最後まで体力が持たなかった。
「それにしても」
千里はそう零すと、握りしめた大剣に目を落とす。
その瞳には、もどかしさを含んだ不満の色があった。
「振りにくいなぁ……ホントに剣なのかな?これ」
そう一度考えてしまったら、もう止まらなかった。
剣として用いることが考えられていないようなフォルム。
切っ先はなく、菱形にすることで刃に見せているような石の柱。
「どこかの柱に柄をつけました……なんてこと、ないよね?」
千里は訝しげな表情で、剣真を叩く。
そして、ある一点で、首を傾げた。
「あれ?」
二度三度と叩いている内に、千里は奇妙なことに気がついた。
叩く場所によって、微妙に反響音が違うということに。
「中に、空洞がある?」
柱の影から玉座の間の様子を見ると、未だに土煙は晴れていなかった。
ならば今がチャンスか、と千里は大きく頷き、膝を突いて大剣を調べ始める。
「柄が、回る?」
柄の部分を回そうとすると、何かに引っかかっているようではあるが左右にカタカタと動いた。
「よし……せいっ」
千里は一息気合いを入れると、思い切って柄を捻ってみる。
バイクにアクセルを入れるように、思い切り。
――バンッ
「わわっ」
大きな音と共に、大剣が“開き”千里は腰を退かせる。
地面に置かれたままの大剣は、何故だか二つに割れていた。
「これって……箱?」
柄の部分が箱から飛び出していたから、剣だと勘違いしていました。
そんな感想が千里の頭をよぎり、眉をしかめる。
石柱型の、大きな箱。
中には西洋剣の、台形の鍔が片方取り外された、柄だけの白い剣。
それから、取り外された部分が何故か個別で置いてあり、ついでにそれを装着するためのベルトまで置いてあった。
「よくわかんないけど……とりあえずこの四角いのは何だろう?」
柄だけの剣を持ち上げると、鍔の中心に透明なガラス片が輝いていることに気がつく。
それは取り外された別個の鍔も同様で、まるでメーターのような四角いガラスが嵌め込まれていた。
「ひ、ふ、み、よ、い、む……六個か」
箱の中に安置された別個の鍔は、合計で六個。
千里はひとまずベルトを腰に巻き付けると、六個の鍔を左右に装着する。
柄だけの剣は、腰に提げられるようになっているようだ。
「うーん……スカートの時でも、着けられそうかな?」
そう言いながら、千里は改めて柄と鍔を取る。
鍔の形をよく見てみると突起があり、剣に取り付けることができるようになっていた。
「こう、かな?……ん、できた」
そうして取り付けると、見知った西洋剣の柄が見えてくる。
左右に伸びた、台形の鍔だ。柄だけだが。
「で、どうすればいいんだろう?」
柱の影からもう一度覗き見ると、煙はほとんど晴れていた。
完全に晴れるまでは動かないとでも決めているのか、空中で気怠げに腕を組むリリアの姿が、ぼんやりと見え始める。
「……武器が無くなって、残ったのは柄だけの剣。――ま、まずい」
他に何か無いかと、千里は箱をひっくり返す。
すると、一枚の紙が、ひらりと舞い落ちた。
「こういう物についているといえば、やっぱり“説明書”!」
千里は目を輝かせて紙を拾い、次いで両膝をついて項垂れる。
この間僅か一秒。最速で砕けた希望だった。
「だから、知ってる名前とかじゃないと、読めないんだって……」
今から飛び出ても、頼りない鉄の剣だけではすぐに砕けてしまうだろう。
光の粒子を纏わせた大剣で弾かれたのだから、光の剣だけでは心許ない。
「えーと……えーと……あーもぅっ」
千里は立ち上がると、身体に光の粒子を纏わせる。
ふわりと光が舞い上がり、それが紙に吸い込まれていった。
「光よ……よ、【読んでっ】」
こんな使い方ができるか、解らない。
だができると信じなければ、やっていけないような気がしたのだ。
やけっぱちともいうが。
『おおっと、まさかこの剣を見つける猛者が居るとは思わなかったよ』
「うぇぇっ?!」
読めるようになれば。
そう考えた千里だったが、光がもたらした効果は別のものだった。
脳裏に響く、嫌みったらしい男性の声に、千里は驚きの声を上げる。
『さてさてさて、どんな魔法か知らないが私を一時的に復元しているのかな?』
どうやら、読み上げているのではないようだ。
できてしまった事態に、千里はげんなりと眉を落とす。
『実に実に興味深いっ!が、今はそんな場合じゃないという訳だ』
「う、うん。えーと……私は千里っていいます。貴方は?」
ちなみに千里の脳裏に響く声なので、周囲には聞こえていない。
つまり独り言にしか見えないのだが、幸いなことにそれを聞き届ける第三者はここにはいなかった。リリアが聞くには、距離が離れすぎているのだ。
『私か?私はそう……説明書だっ』
名乗る気は無いようだ。
説明書はそう叫ぶと、鼻で笑ってみせる。
その姿が脳裏でジックのものと重なり、千里は額を抑えた。
『さて、簡単に“君に”わかりやすく説明しよう』
「私に?」
そうだ、と説明書は声だけで頷く。
それと同時に、煙が完全に晴れてリリアの声が響いてきた。
「なぁに?諦めるの?
だったら帰ってもいーよ。面倒になっちゃった」
そうは言うが、リリアは千里が帰ろうとすれば後ろから貫く気なのだろう。
その金の双眸は、殺意に満たされていた。
「誰が、帰るもんですか」
千里はそう言いながら、柱から飛び出す。
これ以上柱の裏にいて柱ごと攻撃でもされたら、たまらない。
『さて、ハリウッド映画でイカしたギャングが拳銃を持っているだろう?』
「言い回しがすごく気になるけど……ってハリウッド?」
『“君に”わかりやすく、といっただろう?』
千里はリリアに聞かれないように、説明書へ小声で返事をしていた。
そんな風に動こうとしない千里に、リリアは苛立ちを募らせる。
「はぁ……来ないならこちらから行くわよ?」
そう、リリアは空に手をかざす。
溢れる光の色は、赤。灼雪による、超高温の吹雪だ。
『この平行四辺形のパーツは、マガジンだ。柄の部分は拳銃本体になる』
「マガジン?って、えーと」
弾倉とも呼ばれる拳銃のパーツで、弾丸を補充するための部分だ。
映画の中でオートマチックの拳銃の下からマガジンを取り出す光景を思い浮かべ、千里は頷く。
「ぶつぶつと、独り言?頭、おかしくなっちゃった?」
「し、失礼なっ」
リリアが中々攻撃に映らなかったのは、一人で百面相をしながら唇を動かす千里の姿を、訝しんでいたためだった。聞こえなくても、視界には映るのだ。
『おあつらえ向きにデカイのを飛ばしてくれるみたいだな』
「おあつらえ向き……って」
リリアは訝しむのを止めると、左手を弓なりに引く。
そこに浮かぶのは、灼けつく雪を纏う、氷の槍だった。
「灰燼と帰せ【灼雪煉氷】」
リリアは小さく呟くと、千里を睨む。
その瞳を、千里はただ真正面からにらみ返した。
「【離別の氷槍】」
練り上げられた魔力が詠唱に呼応し、獰猛な暴力と化す。
その様を見せつけられてなお、千里は折れることなくリリアを睨んでいた。
『合わせろ、千里』
「うんっ」
説明書が脳裏にイメージを描く。
それに合わせて、千里は身体を動かした。
マガジンを剣から外して、接続部分を対象に向ける。
その手に力を通して、照準を定めた。
――『望み、求め、訴えよ』
「【望み、求め、訴えよ!】」
声に合わせて、詠唱を重ねる。
すると、マガジンが透明な光に覆われ始めた。
――『ブレット・ロード』
「【ブレット・ロードっ!!】」
空を灼きながらつき進む、赤の槍。
その一撃がマガジンに衝突する寸前で、光のカーテンに包まれる。
まるで聖母の抱擁のような輝きに、リリアは耐えきれず目を閉じた。
――『マガジン・セット』
「【マガジン・セット!】」
マガジンの透明なガラスの部分に、赤い光が宿る。
その頃には灼雪の氷槍は姿を消していて、後には赤く輝くマガジンだけが残っていた。
それを千里は、脳裏に浮かぶイメージに従い、剣に装填する。
「貴女……わたしの魔法になにを?」
訝しむリリアを、千里はただまっすぐと睨み付けた。
そして、柄だけの剣を、リリアに向ける。
「――【イグニッション】――」
千里の声と共に、赤の光が剣に溢れる。
切っ先はなく、形は肉切り包丁のよう。
でも向こう側が透けてしまいそうなほど薄く、赤透明に輝いていた。
『合計六本まで魔法を閉じ込めることができる、私の最高傑作。
そこまでの容量を手にすることができる使い手が居なかったためお蔵入りとなったが』
どこか興奮の交じった声に、千里は自身でも計ることのできない高揚感を覚えていた。
それは、説明書の感情が流れ込んでいるためか、それとも千里自身の心境か。
『その剣の名はイグゼ――“煌億剣|≪イグゼ≫”だ。
……私の役目はここまでだ。後は上手くやれよ、千里』
「うん、ありがとう。説明書さん」
もう声は響かない。
けれど、千里は、剣の使い方を深く理解できていた。
「なによ、それ」
「“灼氷剣|≪リズ=イグゼ≫”」
その呟きは、反撃の狼煙。
光に満ちた千里の瞳に、リリアは苛立たしげに舌を打つ。
折れることのない心が、更に強くなったような輝きを、リリアは無意識下で感じていた。
「【蒼炎――」
「――灼氷翔刃】」
リリアが掲げた両手の上に、青い炎が集う。
それを千里は、赤の斬撃を飛ばすことで斬り裂いた。
「あつっ……わたしの灼雪を、盗んだの?!」
「はぁぁぁぁっ!!」
千里は背中に光を集中させると、それを爆ぜさせる。
それはフィオナが用いた移動術、炎迅を模した技だった。
だがそのことを知らなければ、それは“瞬間移動”にしか見えないという、強力な技だ。
「【蒼炎冷輝・愛苦の熱槍!】」
青い炎で槍を生み出し、リリアは肉薄してきた千里と剣を交える。
相手が飛べないのなら、自分は飛んで攻撃する。
それが有利に働くと言うことは、千里も解っていた。
「【光よ、翼となれ!】」
だから千里は、光に命ずる。
信じた現象を実現させるために、ただ光に形を与える。
その黄金の輝きで象られた翼は、神話に出てくる天使のようだった。
「わたしの魔法で、わたしを倒しきれると思わないことね!!」
「こうなった時点ですでに、これは私の魔法。だからこれで、倒しきる!!」
青の炎が、冷気と共に爆ぜる。
赤の氷が、熱気と共に膨らむ。
二色の光が幾重にも交じり、剣と槍が激しくぶつかる度に、虹色の光を撒き散らしていた。
「わたしに追いすがる?そんなこと――っ!」
リリアはそう叫ぶと、一気に高度を上げる。
そして、手に持った槍に渾身の魔力を込めて、振りかぶった。
「永遠に眠れ【蒼炎槍刃衝!】」
「――【パージ】」
音の壁を突き破り、大気を震動させ、一直線に降り注ぐ槍。
それを前に千里は、マガジンを取り外して腰に提げると、別のマガジンを槍に向けた。
「【望み、求め、訴えよ】」
透明のカーテンに槍が触れると、耳をつんざくような甲高い轟音が周囲に響く。
燃えさかる炎は冷たく、カーテン越しに千里は震えるような寒さを感じていた。
「【ブレット・ロード】」
カーテンに包まれた青い炎が、マガジンに吸収される。
ガラスに蒼い光がぼんやりと灯ったことを確認すると、千里はそれをイグゼに装填した。
「【マガジン・セット】」
「まさか、貴女……これまでもっ?!」
「【イグニッション】」
最後のワードと共に、蒼い光が剣真を満たす。
鋭い切っ先を持つ、幅広の蒼い剣。
けれどもその刃は、肉を斬り裂くノコギリのように、ぎざぎざと波打っていた。
「“蒼炎剣|≪アルク=イグゼ≫”」
千里が剣を振るう度に、軌跡が陽炎となってその場に残る。
その残った陽炎に触れた床や壁の破片は、たちまちのうちに凍り付いていた。
「あは、あははははっ、なによそれ?」
ふわりと舞うように、リリアは距離を取る。
目を伏せて前髪でその瞳を掻くし、リリアはただ笑っていた。
その不気味な様子に、千里は警戒しながらもじりじりと距離を詰める。
「心を折ろうと思っていたけど、もういいわ」
リリアはそう、気怠げに両手をあげる。
幾度となく見てきた仕草、だが千里はそれに、どうしようもなく肌が粟立つ感覚を覚えた。
「滅びなさい【灼雪蒼炎の魔槍】」
赤の吹雪を纏う、青の炎でできた巨大な槍。
それをリリアが両手で掴むと、大気が爆発するような轟音と共に、槍が膨れあがった。
「上手く避けないと、死ぬわよ?
――まぁ、その方がずぅっとありがたいけど」
リリアは腕を交差させると、頭上で魔槍を回転させ始めた。
すると、灼けつくような吹雪が竜巻を生み、そこに青い炎が巻き付く。
「あれは、まずいっ」
千里は直感で、その竜巻に危機感を覚えていた。
周囲を巻き込むような暴風と、痛みを伴う吹雪。
「マガジンは……いや、同じ魔法は吸収できない、みたいだね」
合成されてだけで、既に千里が吸収した二色の魔法と同じ物。
一度吸収したら変えることは出来ないという代物だった。
「【灼雪蒼炎の魔嵐】」
最後のワード共に、竜巻が解き放たれる。
正真正銘、リリアという悪魔王の“本気”の一撃は、衝撃で玉座の間の天井を吹き飛ばし、それでもなお千里につき進んでいた。
「【光よ……蒼炎纏いて、彼の者を絶て!】」
千里が大きく剣を振ると、蒼い巨大な刃が竜巻に向かう。
一つの力だけでは足らないだろう。だから千里は、“足す”ことにした。
「【パージ!マガジン・セット!イグニッション!!】」
次のマガジンがセットされて、赤透明の剣真が出現する。
千里はそれを、間髪入れずに振り抜いた。
「【光よ……灼雪纏いて、彼の者を絶て!】」
蒼炎の刃が竜巻にぶつかった、直ぐ後。
追いついてきた灼雪の刃が蒼炎の刃と混じり合い、竜巻と拮抗し始めた。
「【パージ……断て、光輝!】」
そこへ千里は、最後の一手をかける。
黄金に輝く光の刃。それを、持てる全ての力を利用して、解き放った。
「砕けろっ!!!」
「そ、んな、そんなっ?!」
三色の輝きは、共に交わり極光となる。
そしてその空間を黄金で満たすほどの輝きは、竜巻を貫き、魔槍を砕き、そしてリリア自身を斬り裂いた。
「あ、あぁぁぁぁああぁぁっっっ!?!?!!」
光に痛みはなく、ただ安らぎに似た何かがあった。
強制的に改心させるようなものではなく、ただリリアの四肢から力を抜く。
「――ジャック」
一言呟いて、リリアが落ちる。
闇に抱かれるようにそっと、リリアは地面に倒れ伏した。
「終わっ、た」
千里も同様に地面に降り立つと、疲労感に包まれる身体を前に進める。
未だ光の矢印が示す、玉座の裏。
そこにある小さな扉へ、千里を導いていた。
「ナーリャ――」
「――ジャッ、クは、わたさ、ないッ!!」
ドアノブに手をかけた瞬間、千里は目を瞠りながら振り向いた。
光の剣によって戦意を喪失させられてなお、リリアは魔力を込めて槍を投げる。
何の属性も持たない、ただ影を固めただけの黒い槍を、“愛”という執念に突き動かされてリリアは撃ち放った。
「あ、だめ――」
――どんっ
スローモーションになって、槍が千里につき進む。
疲労感も相まって避けられず、千里はただそれを呆然と見ている。
槍はコマ送りのように千里へ向かい……そして、視界が“白”で覆われた。
「え?」
自分に多い被さった白いシャツと、額にかかる黒い髪。
開け放たれた扉の向こうに消えていく槍と、背中に回された力強い熱。
「千里」
ずっとずっと聞きたかった、優しい声。
「千里」
耳に響く、暖かい音。
「千里」
切ない旋律、頬に伝う熱い雫。
その全てに千里は、胸を震わせる。
「ナーリャ、ナーリャ、ナーリャっ!」
「僕はここにいる、ここにいるよ、千里」
「わ、私、わたし、ずっと、会いたかったっ」
もっと言いたいことは、沢山あった。
そのはずなのに、涙が止まらず、声が上手く出せない。
ナーリャの声が自分と同じように震えていることが解ったからこそ、千里はナーリャをただただ抱き締めていた。
「僕はここにいる。
だから千里も――“ここ”にいて」
「うん、うん、うんっ!
私はここにいる――ずっと、“ここ”にいる!」
強く抱き締められてなお、千里は涙を流し続ける。
ナーリャの傷だらけの身体に、涙を落とし続ける。
「あ、あはは、は」
そんな二人の背後で、か細い声が響いた。
ナーリャは千里を抱き締めたまま振り返り、倒れ伏すリリアに顔を向ける。
「所詮、わたしに愛は叶わなかった。たったそれだけのこと。
ふ、ふふふふ、いいわ、もう。殺したいのなら、お好きにどうぞ。わたしは――」
「――リリア」
ナーリャが名を呼ぶと、リリアは倒れ伏したまま肩を震わせる。
その表情は、ナーリャからは伺えない。
それでもナーリャは、リリアの泣きそうな顔が、“視えて”いた。
「僕はジャックじゃない。
僕はジャックには、なれない」
リリアはただ、黙ってナーリャの声を聞いていた。
「それでも僕はジャックに触れて――彼の、“ことば”を得た」
「え……?」
思わず、リリアは顔を上げる。
黄金の瞳を真っ赤に腫らして、ただ呆然とナーリャ達を見上げていた。
「『僕は君を愛していた。
そして、君を愛していたのは、きっと僕だけじゃない。
もっと周りを見て、君はもう本当に欲しいものを、持っているから』」
「……ジャック?」
ナーリャの姿に、リリアはもう一度だけ、ジャックの姿を幻視する。
金色の癖毛に、細められた優しい瞳。その笑顔を、思い浮かべる。
「『君は愛されている。だから、怖がらずに愛しても良いんだ。リリア』」
「あ、ぁぁぁ」
リリアが、両手で顔を覆う。
愛されているか解らない、だから臆病な愛し方を続けてきた。
その重く苦しい箍が、音を立てて崩れ落ちる。
と、同時に、ナーリャ達の後ろから白い影が飛び出して、リリアに走り寄った。
「お嬢様っ!」
「あ、いん?」
アインは満身創痍の身体に鞭を打ち、走り寄る。
だが途中で足を縺れさせて、転んでしまった。
「アインは、わたしのこと……愛してるの?」
不安げに瞳を揺らして問いかけるリリアに、アインは泣きそうな顔を浮かべる。
「使い魔といえど、心までは縛れません。
それでも私は、私たちは、お嬢様を愛しております。
ですからっ!ですから……ご無理をなさらないでください、お嬢様」
アインは身体を引き摺りながらリリアに近づき、多い被さるように抱き締める。
その温かさとは無縁なはずの冷たい身体に、リリアは熱を感じていた。
「ごめん、なさい。ごめんなさい……ごめんなさい、アイン」
アインの胸で、リリアは涙を流し続ける。
これまでに抱えてきた全てを、吐き出すように。
「――これから彼女は、幸せになれるかな?ナーリャ」
恋人を死の淵に失った、一人の少女。
その姿が、千里は自分と重なってみえていた。
危険な冒険の最中で、何度も傷ついているナーリャを、顔も知らないジャックと重ねていた。
「なれるよ、きっと」
「うん……うん」
千里は、優しく抱き締めてくれるナーリャを、そっと抱き返す。
「ナーリャ……私ね」
「うん」
千里は逡巡し、そしてぐっと前を向く。
そして、ナーリャの瞳を真正面から見つめた。
「私、ナーリャのことが――」
「――リリア様っ!」
千里の言葉が続く前に、ぼろぼろの身体のフィーアが飛び込んできた。
次いで、レウが追いすがり、フィフとドライが飛び込み、フィオナが入ってツヴァイが飛び込む。
「あー……えーと」
ナーリャは突然のことに身動きがとれなくなり、俯いて表情がみえない千里を覗き込む。
千里はナーリャから身体を離すと、玉座の後ろへ飛び込んで、ナーリャの腕を引っ張った。
ほんの僅かな時間。
気がついたのは、フィオナだけ。
玉座の後ろに飛び込む際、千里は目があったフィオナにウインクを一つ、落としていた。
「もう、逃げないって決めたから」
「え?」
そして、首を傾げるナーリャの頬に右手を添えて、笑う。
咄嗟の機転でフィオナが玉座の後ろに投げてくれたカツラを左手に取り、呆然としていたナーリャに向かって……背伸びを、した。
「――ぁ」
ほんの僅かに重なり合った、唇。
柔らかさと熱を感じて、ナーリャは身体を固まらせる。
そんなナーリャに千里は、満面の笑みを浮かべて、笑った。
「好きだよ、ナーリャ。
――もう逃げないから、覚悟しててね♪」
ウインクを一つ落とすと、千里はカツラを被って玉座から出る。
頬に朱を刺し、唇に指を這わせながら。
「え、ぁ」
残されたナーリャは、玉座に背を預けてずるずると腰を落とす。
その顔を、千里よりもさらに赤く染めながら。
響く喧噪、交わる熱。
ナーリャは虚空に向かって、一人小さく微笑むのだった。
漸く七章が終了。
次回から第八章、やっと名前だけ出続けていたノーズファン編へ。
ご意見ご感想のほど、お待ちしております。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次章もどうぞ、よろしくお願いします。