一章 第三話 森の主
強い風が、森を揺らす。
ざわめきはそこに暮らす獣たちに伝わり、空気を震わせた。
森の奥。
漆黒に彩られた深い場所。
そこに、四本の赤い光が走った。
闇を溶かし込んだような、黒い体躯。
血を飲み込んだような、真紅の目。
獲物の体液を纏った、白い大きな牙。
巨大ななにかが、縦横無尽に森を走っていた。
どこを目指し、どこへ往くのか。
それは、人間では解らない、獣の境地。
王者の風格を持つ、獣の到達点の一つ。
『グルルルル――――
――――グルォオォォォオオオオオォォォッッッ!!!!』
森の最深部で、空を震わせる咆吼が響き渡った。
E×I
早朝のミドイル村は、少し肌寒さが残る。
身を包む毛布からなんとか抜け出すと、千里は大きく背伸びをした。
宴の翌日。
ナーリャの家には帰らず、今日は村の宿屋に泊まっていた。
夜遅くなってしまったので、獣道を歩くのが危なかったのだ。
「うぅ、さ、寒い」
寒さには弱いのか、千里は毛布を畳みながら肩を震わせた。
いくら寒いからといっても、何時までも寝ている訳には行かない。
だから、名残惜しくも暖かいベッドから抜け出した。
「はぁっ、
さて、今日も一日頑張ろう!」
大きく背伸びをして、頷く。
気合いを入れておかないと、前を向けないのだ。
「えーと、箪笥に一式、と」
この宿屋の奥さんが、千里の服装を整えてくれたのだ。
制服は捨てたくないと千里が頼むと、制服をベースに改造してくれたのだ。
ブレザーやネクタイはそのままに、厚みをつけて防寒防熱に備える。
足を出しておくのは危ないので、紺色の布地でロングスカートに改造。
その下から灰色の長ズボンを穿いて、アインウルフの素材で出来た黒革のブーツを履く。
「これでいいの、かな?」
それらを全て身につけると、改造軍服のような出来あがりになっていた。
ちなみに、紺色の布地などは、全てナーリャ……ひいては、セアックの持ち物である。
着替えを済ませると、千里は部屋を出て階段を下りる。
宿屋の一階は食堂になっていて、降りたら朝ご飯だ。
「今は……
って、時計を見てもしょうがないか」
デジタル式の腕時計に表示されているのは、十五時四十五分三十八秒。
秒単位で動かない時計からは、その本来の役割が失われていた。
これは、千里が“声”に招かれて光に呑み込まれた時刻だ。
世界を渡ったショックで、時計が壊れたのだろう。
「おはようございますっ!」
「おはよう、チサトちゃん!」
良い笑顔で千里を迎えたのは、この食堂の主人、アグルだ。
彼の妻ミリネと二人の娘のメリアが、この宿屋の住人である。
旅人なんて滅多に寄らない地なので、部屋を借りているのは千里だけだった。
「チサトお姉さん、
おはようございます」
「おはよう、
メリアちゃんっ」
黄緑色の髪に、紺色の目の少女。
彼女がメリア……この宿屋の、看板娘だ。
メリアは千里を見つけると、丁寧に腰を折った。
メリアは、村の子供達のお姉さん役をしている、少しだけ大人っぽい女の子だった。
「今朝方、ナーリャが森でマクバードウを獲ってきてくれたから、
今日は朝から良い出汁の取れたスープだぞ!」
アグルは、そう言うと千里の前に野菜と肉のスープを置いた。
これにパンとミルクが、朝食だ。
「マクバードウ?」
「森の低いところを飛ぶ鳥です。
緑の羽で森に溶け込み、木の葉のように滑らかに飛行するんですよ。
ナーリャお兄さんくらいの腕前でないと、狩猟するのは難しいそうです」
スープに手を合わせながら呟いた千里に、メリアが説明をした。
その口調は穏やかで、そしてどこか誇らしい物に見えた。
彼女は、ナーリャを尊敬しているのだ。
「へー……。
すごいんだ、ナーリャ」
ナーリャは自分を“大したことはない”と言っていた。
だが実際は、村の“誇り”と呼ばれるくらいには、卓越した腕前だった。
「ナーリャお兄さんは、自己評価が低いから」
「本当さね!あの子も、もっと自信を持つべきだと思うわ」
メリアがそう苦笑すると、続いてミリネが同意しながら大きく頷いた。
ナーリャの自己評価が低いのは、やはりセアックの腕前と比べている為だろう。
「えーと……、
エルリスの恵みと、イルリスの導きに感謝を。いただきます」
手を合わせてから、木のスプーンを手に取る。
先が割れたスプーンで、突き刺すのにも使える食器だ。
「……うぁ、おいしい」
柔らかい鶏肉と、ニンジンのような野菜。
味の相性が非常に良く、おいしい。
パンは少し硬めだが、スープに浸して食べれば、何の問題もなく喉を通った。
量は余り多くないが、千里は元々そんなに食べない。
だから、丁度良い量だった。
「戻ったよー」
「おう、ナーリャ!」
最後の一滴を飲み干すのとほぼ同時に、食堂にナーリャが入ってきた。
その手には籠を持っていて、中から緑色の羽毛が覗いていた。
「とりあえず、もう二羽だけ捕れたから、お昼ご飯にみんなで食べて」
「ひゅー、さすがだなぁ」
「ナーリャお兄さん、すごい」
アグルとメリアに褒められて、ナーリャは少しだけ頬を赤くしていた。
素直な賛辞に照れて、目を逸らしながら頬を掻く。
「ナーリャって、すごいね」
「はは、千里まで。……あんまり、からかわないで」
困ったように笑うナーリャの様子に、千里は笑みを零す。
なんだか“可愛い”男の人だ、とそう思ったのだ。
「さて……と、それじゃあ僕たちは村長のところへ行ってくるよ」
千里が食器を片付けている間に、ナーリャは鳥を手渡しながらそう言った。
そして、扉に背中を預けて、千里が来るのを待つ。
「アグルさん、ミリネさん、メリアちゃん!すっごく美味しかったです!」
最後にそう手を振ると、アグル達は互いに顔を合わせてから、大きく笑った。
その笑顔に乗せて手を振ると、千里も元気に振り返す。
「それでは、また!」
「おうっ!」
頬を緩ませながら、ナーリャに並ぶ。
村に溶け込み始めている、千里の姿。
その様子を見て、ナーリャはどこか嬉しそうに眼を細めた。
――†――
村の奥の、大きな家。
イルルガの部屋に招かれた千里とナーリャは、躊躇うことなく椅子に座った。
「さて、まずは簡単に地図を見せよう」
イルルガはそう言うと、色あせた地図を机に広げた。
小さなカーペットほどもある、大きな地図だ。
「ワシらの住むミドイル村が、ここ――」
千里は、自分の頭の中で方角を考えながら、地図を見る。
地図の左端に矢印のようなマークがあるので、名称は違えどそちらが“北”と考えたのだ。
地図には、中央に二つの小さな島と、東西南北に大きな島。
そして、東南、北東、北西、南西に大きな陸地があった。
「――ウィズ大陸を統治する、スウェルス王国だ」
東南の大陸を指さし、更にその東南にある森を見せた。
ここが現在地、ミドイルの村だ。
「次がここだ。
アストーイ大陸を統治する、リックアルイン帝国。
続いて、ルノリ大陸の神聖国家、ノーズファンと、
ヴェースト大陸を統治する民主国家、スエルスルードだ」
順番に、北東、北西、南西の大きな大陸を指す。
ここが、主な地理だった。
「その他は、随時ナーリャに聞くと良い。
ひとまず今は目指すべきところだが……ここだ」
指したのは、スウェルス王国の北側だった。
海に近いこの場所に、イルルガは石を置いた。
「ここは旅人達が寄る大きな宿場街でな。
“ギルド”に所属する“情報屋”が、多く住まう場所だ」
ギルドとは、一言で言ってしまえば登録制の仕事斡旋場だ。
一定の金額を年に二回納めることで、仕事を回して貰うことが出来る。
年会費は安いが、その分仕事から何分の一かお金が引かれるシステムになっている。
また、信頼できない冒険者や武器屋、情報屋などのことも解るので、ギルドには安心して仕事を頼むことが出来る。
ナーリャは、首をかしげる千里に、簡潔にそう教えた。
「へぇ……。
それじゃあ、ギルドに登録してある情報屋さんを当たればいいの?」
「そう言うことだろうね」
「うむ」
情報屋を当たれば、なにか掴むこともできるだろう。
その宿場街を見て、千里は強く頷いた。
「もしかしたら、大陸を渡ることになるかも知れん。
何が起こるか解らないが、それでも行くか?」
覚悟を問う、視線。
イルルガの真っ直ぐな目に、千里は正面から見返した。
「はい。
みんな下へ帰りたい。
帰るために、諦めたくない。
……だから、私は行きます!」
千里の宣言を聞くと、イルルガは大きく息を吐いた。
その視線を柔らかな物にして、「そうか」と一言呟いた。
「おまえも行ってこい、ナーリャ。
なにか、“自分”について、手がかりを得ることが出来るかも知れんぞ?」
「はいっ!……ありがとう、村長」
力強く頷く二人に、イルルガは満足そうに笑う。
それならば、後は旅の準備をするだけだ。
旅の心得も、教えなければならない。
「さぁて、忙しく――――」
「――――大変です!村長!」
柔らかい空気のまま終わろうとしていた空間は、駆け込んできた村人の声によって乱された。
まずは、何故顔を青くしているのか。
とにかく今は、それを聞くのが先だ。
「メリアがっ
……メリアが、アグネークに!」
「え――――?」
ナーリャとイルルガの顔が、強ばる。
その表情に、千里は強い不安を覚えて、強く握った拳を胸に当てた。
――†――
宿屋の二階。
千里が使っていた部屋の、隣の部屋。
白いベッドの上で、メリアが寝かされていた。
吐息は荒く、顔は過剰に赤い。
時折苦しげに零す声が、何よりも痛々しい。
「メリアちゃんっ」
「止めるんじゃ、レネ」
ベッドに縋り付くレネを、イルルガが抑える。
その表情は暗く、悲しげだ。
「どうして、アグネークがあんなところに……ッ」
爪が肌を切るほど強く、アグルは拳を作った。
そのアグルを、ミリネが痛々しげに支えていた。
「アグネークは、本来森の深い場所や洞窟にしか居ないんだ」
千里にそう説明するナーリャの目は、俯いていて見えない。
ただ、血の滲む唇が、その感情を表していた。
「男性の腕の長さもある赤い蛇で、鋭い牙を持っている。
牙には強力な毒があって――――噛まれれば、一晩で……」
「そんな……だって、なんで」
千里は、自分でも何を言っているのか解らなかった。
毒蛇に噛まれても、病院ですぐに治療することが出来る。
だが、ここではそうはいかない。高度な医療など、ないのだから。
「店の前で遊んでいた子供を、庇ったそうだ」
イルルガが、そう悔しげに呟いた。
このままではもう、ダメだろう。
薬師としての目が、そう語っていた。
「おじいちゃん!
アルナの花……アルナの花はっ?!」
「いかん!」
訴えかけるレネに、イルルガは大きく声を上げた。
その声に、レネは肩を震わせる。
「アルナの、花?」
「治療薬だ。
それがあれば、メリアの毒を癒すことが出来る。
――――だが」
生息しない訳ではない。
だが、入手することは出来ないと、その表情で示す。
「森の最深部。
そこは――――“森の主”の領域だ」
「森の主?」
メリアの側に近寄り、千里はその手を握る。
不自然なほどに熱い手は、幼い子供らしく、小さく儚い。
「毎年、最深部から出てきては、村から何人もの犠牲者を出す。
何度も倒そうと試みたが、その全てが“無駄”だった。
そうして、半年前に――――」
イルルガがナーリャを見る。
その視線につられて、千里もナーリャを見上げた。
「僕のたった一人の家族、
――――セアック爺ちゃんが、殺された」
寿命や病気で死んだのではない。
森の主と呼ばれる魔物によって、“喰い殺された”のだ。
「弓の名手と呼ばれたセアックも、強靱な体毛は貫けなかった。
セアックもまた、全盛期ならまだしも、引退して長く身体も老いていた」
結果、弓の名手“セアック”は、森の主に挑んだきり帰ってこなかった。
おかげで、森の主は村に来ることなく、満足して帰っていたが……。
「もうこの村には、
森の主を殺すどころか……
退ける能力を持つ者すら、いないのだよ」
もう、諦めるしかない。
ただここで最後の時を看取るしかないと、イルルガはそう言った。
「っ!」
「レネちゃん!」
その言葉に耐えきれなくなったのか、溢れる涙を拭いもせずにレネが飛び出した。
それを、少し迷ってから、千里が追いかけた。
「あの子は、メリアと仲が良かったから……」
「ミリネさん……」
寂しそうに、ミリネがそう零す。
諦められることではない。けれど、諦めるしかない。
その状況が、普段誰よりも気の強い彼女を、弱々しくしていた。
「村長、僕もちょっと見てきます」
「あぁ……
レネを、頼むぞ」
「はい」
重い沈黙が続く中、帰りの遅い千里達を心配して、ナーリャも外に出る。
後に残った大人達は、ナーリャの背中を見送ってから、ゆっくりと崩れ落ちた。
「畜生……ッ」
大柄なアグルの両目から、涙が落ちる。
憎くても、悔しくても、悲しくても。
人はどこまでも――――“無力”なのだ。
――†――
レネの背中を追って部屋を飛び出した千里は、その姿を探して周囲を見回した。
そうしていると、アグルやミリネの前では出すことが出来なかった感情が、大きく膨れあがった。
「こんなのって、ないよ」
昨晩の宴と、今朝。
そのたった二回だけだけれど、言葉は交した女の子。
常に年下の女の子に気を配る、苦労性で優しい少女。
「こんな風に終わっちゃうなんて……私は嫌だっ!」
スカートを両手で握って、唇を噛む。
両目からこぼれ落ちる涙を、千里は頭を振って払った。
「探さなきゃ、レネちゃんだって、辛いんだ」
大切な友達。
利香や泉美が同じような状況になったら、きっと千里も正気ではいられない。
「あれ?――レネちゃん?」
ふと顔を上げた先。
暗くなりつつある森へ駆けてゆく、レネの姿。
水筒や籠、それにスコップのような物を手に持っている、その姿。
「スコップと、籠……っまさか!」
森の最深部。
森の主の領域で――アルナの花の、生息地。
「っ……ダメだよ、待って!レネちゃん!」
声は届かない。
届かないほどに、遠い。
だから、千里は――その背中に向かって、走り出した。
――森が、啼く――
――†――
悔しかった。
尊敬する祖父が、あっさりと諦めたことが。
悔しかった。
大好きな兄代わりが、ただ俯いていたことが。
悔しかった。
泣いて縋ることしかできなかった、自分が――。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
タイムリミットは、翌日。
まだ半日以上、時間は残っている。
生まれ育った森なのだから、夜道くらいで迷ったりはしない。
最深部へはただ突き進めばいいし、帰り道はスコップで木につけた目印を辿ればいい。
「待ってて、メリア!」
大切な友達の名前を、口走る。
呼んでいないと、鬱蒼と茂る森が、レネの心を削るのだ。
足を取られることなく、森の奥へ辿り着く。
不自然なほど静かな森は、警戒していたアインウルフの一匹すら出ることはなかった。
「我らがエルリスとイルリスに、感謝を」
胸の前に握り拳を当てて祈ると、奥へと進んでいく。
ランプに火を点けて掲げるだけで、アグネークは近寄ってこない。
疲労から吹き出た脂汗が目に入り、痛みで涙を流す。
枝に引っかけたのか、服は所々破けて肌には血が滲んでいた。
「あ、れ?」
最深部――その、更に奥。
わき水を中心に広がる、白銀色の花。
対毒万能薬の材料として重宝される、貴重な植物。
「あった」
――アルナの花が、そこに群生していた。
「っ!」
駆け寄って、スコップで掘る。
イルルガの孫として、薬師の知識を受け継いでいる彼女は、花の採り方なども知っていた。
「これだけ、あれば」
満面の笑みを浮かべて、アルナの花を収めた籠を抱き締める。
これで助かる……これでメリアは、死なずに済むのだ。
――ガサッ
「え?」
背後から聞こえてきた、音。
その音の主を想定して、レネは絶望を顔に浮かべた。
振り向くのが嫌でも、確認せねばならない。
「どうか、
エルリスよ、イルリスよ、どうかっ」
震える足に力を入れて、振り向く。
だが……その視線の先には、誰もいなかった。
「あれ?
えーと……うん?」
首をかしげて、周囲を見回す。
すると、足下に何かが落ちていることに気がついた。
「なんだろう?」
腰を屈めて、落ちているものを見る。
所々に赤い染みがついた、白いモノ。
「アインウルフの、牙?」
――ドンッ!
もっとよく見よう。
そう更に体勢を低くした時、頭上を大きなモノが通り過ぎて、わき水の流れる岩にぶつかった。
「ひっ
な、なに?」
振り向くと、そこには――首のない、アインウルフの死体があった。
『グルルルル』
濃密な殺意とともに、レネの背後から響く呻り声。
その声を聞いて、レネは……咄嗟に、身を屈めた。
「っ!」
『ルグァッ!』
風を切る音と共に、漆黒の前足が通り過ぎる。
その恐怖に竦む足を、レネはメリアの事を考えて、動かした。
ここで死んだら……なにもかもが、無駄になる。
前のめりに、走る。
闇色の体毛と真紅の目。
左右で二つずつ、四つの赤が、闇夜に煌めく。
それは、黒色の巨大な“虎”だった。
「森の、主
……“黒帝”ッ!」
両手で籠を抱えて、ただ前へ走り抜ける。
すぐに捕まえられるはずなのにやってこないのは、獲物を嬲って“遊ぶ”ためだろう。
猫科の動物は、そうして獲物で遊ぶ習性がある。それは、異界の地であるここでも変わらなかった。
森の主――黒帝は、レネ“で”遊んでいるのだ。
「負ける、もんかっ」
遊ばれているということが解っていても、諦められない。
遊ばれているのなら、まだ生かされているのなら、そこに活路を見いだす必要がある。
そうしなければ……生きて帰ることなど、できないのだから。
『グルルル……』
だが、いずれ彼にも“飽き”が来る。
散々追いかけ回したことでレネの体力はすり減り、動きが鈍くなっていた。
小腹を空かせるだけの運動をしたのなら、後は……。
『ガァウッ!』
目の前の獲物を、狩るだけだ。
「やだっ!」
「危ない!」
そして飛びかかった黒帝の前から、“獲物”が消えた。
いや、消えたのではない。横合いから出てきた“何か”に、掻っ攫われたのだ。
『グルルル』
だが、彼に怒りはなかった。
――なにせ、“餌”が増えていたのだから。
「ちー姉ちゃん……」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ。
……だ、大丈夫?レネちゃん」
肩で息をしながらも、千里は黒帝を睨み付けていた。
その足は、恐怖から震えていた。
「だ、ダメだよ!
このままじゃ、ちー姉ちゃんまでっ」
「大丈夫だよ。
諦めちゃダメ……一緒に、メリアちゃんを助けよう」
そう言って、千里は力強く笑った。
恐怖を押し殺し、ただ幼い少女を守るために、笑って見せた。
小刻みに震えていてもなお……その笑顔は、力強い。
『ガアッ!』
「甘い!」
黒帝の突進を、千里はレネを抱えたまま避けた。
二十キログラムそこそこある少女を抱えて、三メートルも跳躍する。
その異常な身体能力に驚いていたのは、他ならぬ千里だった。
運動は好きだ。
だが、言うほど得意ではない。
得意ではない……はずなのに。
「ふっ!」
『グルァッ!』
振り降ろしの爪を、高速で黒帝の脇に回り込むことで避ける。
恐怖のせいで感覚が麻痺していなかったら、戸惑いで動けなかったことだろう。
『ルガァァァアアアアァッッッ!!!』
「つぅッ!?」
咆吼と共に、衝撃波が放たれる。
いくら早く動けるといっても、全体を攻撃されたら避けることは出来ず、ただレネを庇うことしか叶わなかった。
「あうっ」
「ちー姉ちゃん!」
背中を木に強かに打ち付けて、千里は口から空気を零す。
骨の軋む音を聞いて、千里は顔を歪めた。
「あ――――」
そして、寝そべる千里に爪が迫る。
黒い爪の狭間から見える真紅。
その色に、千里は恐怖する暇もなく、ただ呆然と見ていた。
死の間際だからだろうか。
全てがスロー再生されて、まだ口を動かす余裕があった。
――受け入れたくない、現実。
痛みを包んでくれた、優しい音色――。
その音が二度と聞けないということが――――無性に、苦しかった。
「なー……りゃ」
そして――――。
「千里とレネから離れろッ!」
――――閃光が、風を切った。
――†――
矢を番えて、弦を引く。
風を切って放たれた矢は、牙の鏃によって加速する。
アインウルフの牙を加工した、特殊な鏃。
――ガキンッ
「くっ!
やっぱり、通らないかッ!」
だがそれも、鋼鉄よりも硬いといわれる黒帝には、通じない。
それでも……気を逸らすという役目は、果たせた。
「村のみんなを、森の入り口に集めてある。
だから二人は、早く逃げて!」
次々と矢を射ることにより、黒帝を牽制する。
文字どおり牽制にしかならないが、無いよりはマシだった。
「で、でもッ!」
「――メリアちゃんを、治すんだよね?なら、急いでッ!」
千里達に背を向けたまま、ナーリャは動かない。
その姿に、千里は歯がみした。
「すぐに、戻ってくるから!」
「ナーリャ兄ちゃん、ちー姉ちゃんっ?!」
千里はレネを抱きかかえると、そのまま走り出す。
戻ってこられたら、足止めしていた意味がない。
それなのに、ナーリャはなぜだか、少し嬉しかった。
二人の気配が、背後から消える。
すると、獲物を逃がされた黒帝が、漸く“本気”になった。
『ガルルルルルルル――
――グルオゥオオオオオオオッッッ!!!!』
空を震わせる咆吼。
それを一身に受けてなお、ナーリャは怯まない。
それどころか――一歩踏み出して笑って見せた。
「森の狩人――セアック=ロウアンスが一人息子」
それは、名乗り。
宿命の敵とも言える存在への、宣誓。
「ナーリャ=ロウアンス。
――――爺ちゃんの仇は、ここで討たせて貰うッ!」
『オォオォォォォオオオオッッッ!!!』
矢を番えながら、前へ前転する。
すると、その上を跨ぐように、黒帝が飛びかかるところだった。
「先見一手!」
狩人としての経験が生んだ、セアック流の技能。
常に先を予測して、行動する技術。
それが――――先見である。
「シッ!」
『グゥアッ!?』
足の先、爪の間を狙った矢。
高速展開する命のやりとりの中、ナーリャもまた、動体視力を上昇させていた。
脳のリミッターが一時的に外れて、周囲の時が遅くなる。
ここまで来てなお、ナーリャは劣勢だった。
『ガァアアアァァッッッ!!!』
「あぁあああぁぁッッッ!!!」
普段の穏やかな様子からは想像も出来ないほど、獰猛な叫び声。
獲物を殺しきる、命の奪い合いにおける強い“覚悟”を秘めた双眸は、黒曜石よりもなお美しく、煌めいていた。
『グガァッ!!』
「ぐっ、うぁっ!?」
読み切れないほどの速度。
爪の振り下ろしと同時に、黒帝は肩を使ったタックルを入れた。
その衝撃に、ナーリャは大きく弾かれる。
『ガァッ!』
短い、啼き声。
それとともに飛びかかる黒帝の目は、闇の中で真紅に光っていた。
「赤い、光?」
赤い光。
四つの閃光が、ナーリャの失った過去を刺激する。
「死ね、ない」
こんなところで、死ねない。
過去にもそう強く思ったことがあるのか、胸が激しく、動悸を打つ。
「爺ちゃん……僕、は」
無口で、無愛想で、優しい“親代わり”の老人。
尊敬して憧れた、心の底から慕っていた人。
誰よりも強かった。
そう誇れる“父親”は、本当に“この程度”の獣になにもできなかったのか。
セアックに貰った、多くのモノ。
過去を補填する新しい記憶、空虚を癒す優しい感情、空っぽの魂を埋める心。
そして――――。
「先見三手――」
崩れた膝を立てる。
一度に三本の矢を持つ。
瞳の奥に火焔を灯し、魂に灼熱を込める。
――――経験と知識と技術から、三本の道筋を導き出す!
「――三撃必殺」
一息の間に放たれた、三本の矢。
それらは全て、黒帝が避ける方向へ、動く方へ突き刺さる。
まるで誘導されたかのように降り立った黒帝。
その真紅の瞳を――三本目の矢が、貫いた。
『ガァアァァッ?!』
痛みから蹲る、黒帝。
その瞳を、もう一度射る。
『グガウゥッ!?』
完全に左側の視界を潰されて、黒帝は混乱から大きく下がる。
そして、警戒しながら低く呻った。
『グゥゥウウウ』
手負いの獣となった黒帝は、危険だ。
だが、この傷が癒える前ならば、村人でもきっと勝てるだろう。
番えられる矢は、あと一本。
殺すには、足りない。
「それでも、
僕の――爺ちゃんの矢は届いたぞ、黒帝」
これで詰み。
もう後はなく、押すことも退くこともできない。
「ごめんね、千里。
……一緒に旅は、できない」
ただ一つの気がかりを、零す。
それを合図にして――――黒帝が、吠えた。
――†――
レネを抱えていた千里は、周囲に獣がいないことを“見て”確認すると、そっとレネを地面に降ろした。
「レネちゃんは……、
早くメリアちゃんに、お花を届けてあげて」
そう言って、千里はレネに背を向けた。
レネはその小さな背中に、手を伸ばす。
「ちーお姉ちゃんは?」
「私は――――ナーリャを、助けてくるから。」
先ほどまで、レネと一緒になって震えていた。
それなのに、千里は“助ける”と、胸張って言って見せた。
「ダメだよ!ちー姉ちゃん、死んじゃうよぉ」
涙を流すレネに、千里は振り向かない。
振り向いたら、震える唇と涙の溜まった目元に、気がつかれてしまうから。
「死なないよ」
「……ちーお姉ちゃん?」
「私は、死なない。
絶対帰るよ。ナーリャと、二人で」
もう、何を言っても止まらないだろう。
だからレネは、強く頷く。
何度も何度も……頷く。
「帰ってくる?
お父さんとお母さんみたいに、居なくなったりしない?」
レネの両親。
イルルガの息子夫婦は、数年前に死んでいた。
それもやはり――“森の主”の爪によって。
「帰ってくるよ。レネちゃんと私の、約束だよ」
「約束。……うん、私、待ってるから!」
返事はしない。
これ以上言葉を交したら、その場に足が縛り付けられてしまいそうだったから。
レネを突き放すように、ただ走る。
「私をここに呼んだ、誰か!」
喉の奥から、声を出す。
その度に肋骨がズキリと痛むが、無視する。
「私に何をさせたいのか知らないけれど」
何故呼んだのか?
何故招いたのか?
何故連れてきたのか?
そんなことは、解らないけれど。
「私にさせたいことがあるのなら!」
異常に良くなった、視力。
その先では、最後の一本を番える――――“友達になりたい人”の姿が、在った。
「そのための力を、私に頂戴!」
――――…………そのための力は、貴女の中にあります……ですから……解き放って。
頭の中で、幾重にも反響する声。
その声にしたがって、千里は右手を掲げる。
手のひらの中に光が集い、星の輝きを宿して煌めく。
それは――――銀と黄金の、聖なる剣。
「“イル=リウラス|≪光より顕れる者≫”」
光り輝き続ける剣を、まっすぐ向ける。
背中に羽が生えたかのように加速して、ナーリャの隣に並び立つ。
「ッ――千里?」
――――ドスッ
そして――――飛びかかってきた黒帝の額に、その刃を突き立てた。
『ガァァアアアアアアァァァアアァッッッッッッ!?!?!!』
断末魔の叫びと共に、漆黒の巨体が崩れ落ちる。
黒帝の身体が倒れると同時に、突き刺さった剣がずるりと抜ける。
その刃には、血の一滴も付着していなかった。
……まるで、聖なる光に“穢れ”が祓われたかのように。
黒帝を討った光の剣が、薄ぼんやりと発光する。
やがて淡い輝きと共に虚空へ消え、同時に千里に限界が来た。
「う、くぅ」
体勢を崩して、倒れ込む。
肋骨の痛みが、今になって響いてきたのだ。
土に顔を埋めるのが嫌で、なんとか仰向けに倒れ込んだ。
だが、それで力尽き、起き上がれそうもない。
「ち、千里っ……あ、あれ?」
慌てて千里に手を貸そうとするが、極限だったのはナーリャも同じだった。
膝から崩れ落ちて、そのまま千里の隣に倒れ込む。
やはり、千里同様仰向けだ。
「あーっ。私、立てないや」
「あはは、うん、僕もちょっと、立てそうにない」
完全に力が抜けて、もう起き上がれなかった。
光の剣のおかげか周囲には獣も蛇もいないため、そういった意味では安心だ。
二人の間に刹那の沈黙が流れる。
そして、示し合わせたかのように息を吸った。
「助けに来てくれて、ありがとう――千里」
「助けてくれて、ありがとう――ナーリャ」
口を開いたのは、ほとんど同時。
同じタイミングで、互いに同じ言葉を言った。
お互いそのことに、一瞬反応が遅れて目を丸くした。
「ふっ、ははははっ」
「ふふ、あはははっ」
そして同時に、笑い出す。
笑う度に肋骨が痛み、涙目になる。
それでも、止めることは出来そうになかった。
「私、さ」
「うん?」
一通り笑い終わると、千里は首を曲げて、隣に寝そべるナーリャを見た。
ナーリャはそんな千里に、同じように視線を向けた。
「ナーリャと、友達になりたい。
その……ダメ、かな?」
上目遣いに、ナーリャを見る。
ナーリャはその視線を受けて目を丸くし、すぐに柔らかく微笑んだ。
「僕で良ければ、
その……喜んで」
一緒に過ごした時間は短いけれど、交した心は確かなモノで……。
一緒に“在りたい”と、互いに思えた。
「えーと、
これからも、よろしくね――ナーリャ」
「うん、
これからも、よろしく――千里」
ナーリャの伸ばした左手が、千里の伸ばした右手の上に置かれる。
その暖かさと冷たさから“生き残った”実感を得て、大きく息を吐く。
そして、互いに顔を見合わせて……小さく、笑い合った。
「おーいっ!
みんな、あっちだ!」
遠くで響く、アグルの声。
ぼんやりと光る松明を見ると、とたんに瞼が下がりだした。
大きな谷を、乗り越えた。
だから、今は――――。
「おい、大丈夫かっ?!
……って、寝てんのか?」
――――この瞬間に感謝を捧げて、眠りにつこう。
今回が、一番最初の大きな山でした。
次回は、二章への繋ぎのお話となります。
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それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました。
次話もどうぞ、よろしくお願いします。
2011/04/07
誤字修正と一部加筆修正。