七章 第一話 偽装の従者
空を突き破るほどの、極光。
誰の目にも見える訳ではない、不思議な光。
その光を視たのは、闘技場にいた一部の人間だけではなかった。
帝国よりも南。
嵐に包まれたその場所で、一人の男が口を歪める。
傍らに従えた黒猫と共に、“短い”銀の髪を靡かせながら、愉しそうに笑う。
帝国から西へ渡った地。
窓辺から見えた閃光に、少女は身を起こす。
だが三拍ほどもそれを見つめると、興味を無くしたようにベッドに横になった。
更に西へ渡った地。
純白に包まれた女性が、その光を強く視る。
そして、静かに祈りを捧げると、その場でしばらく瞑目していた。
開花し始めたばかりの光は、それよりも遠くへは届かない。
けれども、確実に、その影響を伝えて行った。
その光景に、鳥が鳴く。
純白の渡り鳥が、喉を嗄らして“泣き”続けた――。
E×I
身体に篭もった熱が、溶けて消えていく。
暖かさと同時に感じる冷たい寒気。
何か重大なことを頭から追い出してしまったような、寂しさ。
悲しみに痛みを伴う、どうしようもない焦燥感。
洪水のように押し寄せる感情の渦。
その渦中の息苦しさに耐えきれず、千里は切なげな息を吐く。
小さく胸が上下して、その感覚で目が覚めていった。
混濁した意識に呑まれまいと足掻き、両手を天に伸ばすと……その手が、優しく包まれた。
「あったかい」
零れたのは、そんな言葉だった。
自分の手を包んだ相手が誰であるか、理解することが出来ない。
全身を真綿で包むようなもどかしい疲労感に、正常な思考を妨げられていた。
だから千里は、温もりを求める。
掴んだ手を握りしめて胸にかき抱くと、途端に安堵感で包まれた。
そのことに、千里は頬を綻ばせる。
「あったかい、な」
そう一言零すと、千里は意識を落としていく。
瞼の裏に差し込む陽光など、気にならないほどにゆっくりと。
そこに苦しみはなく、ただ安らぎのみがあった。
と、目を開ける。
つい数瞬前の出来事のように感じていたが、周囲は暗い。
「ここは……宿屋の、部屋、かな」
どこ、と呟くまでもなく、そこが帝国に来てから借りていた自分の部屋だと言うことに、千里は直ぐに気がついた。
「どう、なったんだっけ」
疲労感はすっかりと取れ、頭はすっきりとしている。
そうして頭を回転させると、“最後”の光景は直ぐに浮かんできた。
閃光――黄金と、真紅。
衝撃波から飛び出し、刃を交わし。
極度の疲労感と腹部に走った鈍痛。
歪み、白濁する視界と、揺れ、混濁する意識。
「そっか、私」
歓声を背後で聞いた、虚無感。
「負けたん、だ」
せり上がってきた悔しさに、強く唇を噛む。
だがベッドに置かれた手を強く握りしめると、そこには温もりがあった。
「え?」
放り出された、自分の右手。
そこへ視線を這わすと、ベッド脇で眠るナーリャの姿があった。
一度意識が戻り、そうして感じた暖かさの正体。
「ナーリャ……ごめんね」
ナーリャの顔を見てしまうと、負けた悔しさよりも強く、申し訳なさが溢れ出す。
ナーリャは千里との約束を守り、一度敗北した相手から勝利をもぎ取って見せた。
そうして優勝し、ノーズファンへ行く権利を得た。
「なのに……なの、にっ」
空いている左手で、目元を拭う。
溢れ出して、止らない涙。
ナーリャが起きる前に拭いたくとも、拭うことのできないそれを、千里は必死で止めようとしていた。
「手がかりを見つけて、やっと帰れるって思って、ナーリャと約束してっ」
支離滅裂に、言葉を発する。
声を上げないように必死になる余り息が荒くなり、胸が苦しくなる。
もうどこにも怪我なんかないはずなのに、どうしようもなく“心”が痛かった。
「わ、わたし、私、守れなかったっ!
ナーリャと……やく…約束、したのにっ、守れなかった」
目尻が熱を持ち、腫れて痛くなる。
でもそれ以上に息苦しく、千里は陸に打ち上げられた魚のように、ただただ肩を上下させていた。
「わたし、私はっ――」
「――千里」
意味のない言葉の羅列。
それが、小さく遮られた。
ベッド脇で眠っていたはずのナーリャが身体を起こし、空いていた右手でそっと千里の目元を拭う。
「大丈夫だよ。
僕が側にいるから。だから、今は泣いても良いんだよ」
ナーリャは身体を起こすと、右手で千里の頭を抱え込む。
安心させるように、その手を握ったまま、千里を優しく抱き締めた。
「う、ぁ」
千里は左手を、ナーリャの胸に置く。
そして手に力を込めて、ナーリャの黒い服を固く握りしめた。
顔を見られないように、ナーリャの胸に強く顔を押しつけながら。
「あぁぁぁああぁぁぁぁっっっ!!!」
涙で濡れていく、白いベッド。
斑を作りながら泣き声を上げる千里を、ナーリャは優しく受け止める。
抱え込んだ頭を撫でて、彼女が苦しみから解き放たれるように。
帝国の、ある一夜。
少女の瞳から零れる雫を拭う、夜色の少年の姿がそこにあった。
――†――
一夜、明ける。
窓辺から差し込む陽光に、千里は朝になったことを悟った。
おもむろに右手を握ってみても、もうそこに温もりはない。
そのことに一縷の寂しさを覚えて――赤面した。
「うぅ、約束を破っちゃったのは私なのに、結局慰められちゃった」
ナーリャの前で涙を流す。
そのことに抵抗がなくなっているという事実には、千里は触れようとはしない。
男性に泣き顔を見られて、すんなり受け入れている自分。
それを考え出したら、恥ずかしさで目を逸らすことは解りきっているためだ。
「はぁ……それにしても、これからどうすれば良いんだろう」
ノーズファンに招かれるのは、優勝者二名のみ。
行かないという選択肢が選べそうにない以上、ナーリャはノーズファンへ行くだろう。
その間、自分はどうしていればいいのか。
「うーん……わかんないや」
提示された道からは、すでに外れている。
ここからどうすればいいかと考えても、すぐに答えが出てくるものでは、なかった。
――コン、コン
「あ、はいっ」
控えめなノックの音に、千里は思わず返事をする。
心の準備が、などと考えるよりも早く、口が動いてしまったのだ。
「千里……良かった、元気そうだね」
「ナーリャ……うん。ありがとう。それから、ごめんね」
心の底から安心したような、柔らかい笑顔。
千里はその表情を見つめていることができず、頬に熱を感じながら目を逸らした。
「あれから、どうなったの?」
「……千里、君は五日間も寝込んでいたんだ。だから、心配したんだよ?」
「五日……五日間もっ?!」
重く頷くナーリャに、千里は愕然とする。
何度か視界が暗くなったり明るくなったりしていたことには気がついていたが、それがまさか昼夜の明かりだとは思いもしなかったのだ。
「そっか、そんなに……」
「でも、目が覚めて本当に良かった」
ナーリャはそう朗らかに笑うと、右手で千里の頬に残った涙の後を拭う。
明るく振る舞っては見せたが、本当に心配していたのだろう。
その表情からは、憔悴の名残が見えていた。
「あ……」
頬に手を添えたことで、二人の距離が短くなる。
栗色と漆黒の双眸が混じり合い、互いに離すことが出来なくなっていた。
千里の瞳に映る、ナーリャの顔。
普段の優しげな表情はなりを潜め、よく見れば整っていることが解る顔立ちが、すぐ側にあった。
ガランとの戦いでついた、右頬の傷。
目の真下に刻み込まれたその傷は、ナーリャの勲章だ。
その傷を見て、千里はナーリャの仕合を思い出し、更に頬を熱くする。
「千里」
「ナー、リャ」
ナーリャは、千里を見つめると、そっと身を乗り出す。
もう体力は戻っているし、疲労感もない。
押し返そうと思えば簡単なのに、身体は動こうとしなかった。
そして、あと、数センチ――。
「見舞いに来たぞ!すまん、帰ろうライアン!」
――の所で、嵐が過ぎ去った。
バンッと音を立てて扉が開き、次いで直ぐに閉まる。
文字どおり嵐のようにやってきて、そして嵐のように去っていったのだ。
「…………」
「…………」
硬直して、動けない。
流れる沈黙と静寂の時間に、二人は身動きがとれなくなったいた。
目を伏せて戻すと、互いに信じられないほど赤面していたことに、驚く。
「ぷっ」
「くっ」
そして、ほとんど同時に吹き出した。
「あははははははっ」
「はははははははっ」
お腹を抱えて笑い、そして先ほどまでとはまったく違う涙を流す。
一通り笑い合うと、もうそこに重い悲しみは無かった。
「とりあえず」
「うんっ」
ナーリャに続き、千里が頷く。
勢いよくベッドから立ち上がると、シーツをはね除けた。
「待ってジック、いや本当に!」
「ライアン、ララもいたんじゃないよね?!」
そして、部屋から飛び出す。
真っ赤になった顔を誤魔化すように、大きな声を上げながら。
そんな二人の手は……固く、結ばれていた。
――†――
宿屋の中、場所を移してナーリャの部屋。
そこで、ライアンは大きく……大きく、ため息を吐いた。
気まずげに身を縮めるナーリャと千里の姿を一瞥し、今度は小さく息を吐く。
「元気そうで何よりだ」
ライアンの隣で何度も頷く、ジック。
不幸中の幸いかララは現状を見ておらず、また耳にも入っていないためただ首を傾げていた。
「あ、あはは」
「モウシワケアリマセン」
苦笑するナーリャと、赤い顔で俯く千里。
ライアンの皮肉に、どう答えて良いのか解らなかったのだ。
「さて、それで、今後の話しだったな」
埒があかないし、問い詰めるつもりなど最初から無い。
だからライアンは、さっさと流して本題を切りだした。
見舞いに行って元気なら相談に乗ろうと、決めていたのだ。
「ナーリャの出立は明後日。
闘技大会終了から七日目の朝となる」
「あ、そっか。
私、五日間も寝てたんだった……」
表彰もとうに終えて、出立の準備期間もあと僅か。
千里が目を覚ましたのは、そんなタイミングだったのだ。
「うーん、どうにか一緒に来る方法があれば良いんだけど……」
ナーリャと千里、ライアンとジックで一緒になって頭を捻る。
密航が可能なほどノーズファンへの船の警備は甘くなく、それ故に頭を悩ませていた。
そんな中、ララが小さく、口を開く。
「一緒に行ける方法……無いこともないかも、しれないわ」
「えっ?……ほ、ほんとっ?ララ!」
ララの言葉に、千里は大きく声を上げる。
そんな千里に、ララは短く逡巡の表情を見せてから、頷いた。
「しかし姉上、いったいどのような方法が?」
ライアンは、ララの考えに思い至らず首を傾げて訝しげな声を出す。
それはジックも同様で、ララの答えを待っていた。
「従者指定なら、どうにか」
「従者指定?いや、あの制度は……」
ララの答えに、ライアンは首を捻る。
そうして小さく呻り声を上げていると、先にジックが声を上げた。
「いや、行けるぞライアン!
ようは、変装すればいいのだ!」
「変装……そうか、それならば」
納得し合うライアン達の様子に、ナーリャと千里は訳も分からず顔を見合わせる。
その様子にいち早く気がついたララが、二人に説明を始めた。
「貴族が優勝した場合を想定して、ノーズファンへ行く船には同乗者が認められるの」
「同乗者?」
「身の回りの世話をする人間……給士や執事だな」
千里が首を傾げると、ライアンが素早く細くする。
姉弟だけあって、息のあった会話だった。
「ノーズファンという神聖な地への旅路に“いかがわしいこと”があってはならない。
そういった決まりから、自分と同性のものに限り一人同乗させることができるのだ」
「同性って……それじゃあ」
そう、同性……つまり、ナーリャと同じ男性でなければならない。
ちなみに、フィオナは全て一人でこなしていると言うことが周知の事実であるため、頼み込んで従者にして貰うというのは、不自然すぎてできない。
特別な条件がなければ入国できない国というのは、それだけ大変な場所なのだ。
「そう、チサトが変装すればいいのよ。
ナーリャと同じ、男性に」
「え?だ、男装ってこと……?」
正直に言えば、“コスプレ”のように感じてしまうため、素直に頷くことができない。
現代で身についた羞恥心、それを乗り越える必要があるのだが……。
「それなら、一緒に行けるね!千里!」
こうして隣で喜んでくれるナーリャの姿を見れば、それだけでちっぽけな羞恥心は吹き飛んだ。
「うん、やるよ、私!
男装して、ナーリャと一緒にノーズファンへ行く!」
拳を振り上げる千里に、ナーリャは強く頷く。
そうと決まれば、話は早い。
早速手続きを、とライアンとジックが動き出す。
「チサトは私と、衣装選び」
「あ、うんっ」
「それなら僕は、武器屋で代用の剣を探してくるよ」
「あぁ、そっか!」
アギトは、フィオナとの戦いで半ばから折れてしまっている。
そのため、代用に剣が必要だったのだ。
魔法使いの優勝者を想定して、従者が剣を持つ許可を取ることも可能なのだ。
慌ただしく、移動する最中。
千里は小さく、頬を綻ばせる。
確かに敗北して、敷いた道を外れてしまった。
「でも、みんなと力を合わせれば」
こんなにも、前を向くことができるのだ。
そう千里は実感して、嬉しそうに笑う。
諦めなかったその先にある、未来を信じて――。
今回から、第七章に入ります。
ペースも、六章以前のものにある程度戻っていくかと思います。
ご意見ご感想のほど、お待ちしております。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次話もどうぞ、よろしくお願いします。