一章 第一話 光の外側
木漏れ日が、小さな肢体を照らし出す。
動くことのないその身体は瑞々しく、森に住む獣たちにとっては、降って沸いた“ご馳走”だった。
『グルルル……』
黒い体毛の狼。
尾が二本あり、目は血のように紅かった。
『グゥゥゥ』
狼は低く呻り声を上げて、動かない獲物に近づく。
突然動き出すことを警戒して、鼻を鳴らしながらゆっくりと。
『ガウッ』
一鳴き吠えて、反応を確かめる。
しかし、獲物は動きを見せない。
ならばこれは獲物ではない――ただの、餌だ。
噛みついて、その血肉を貪る。
その光景を想像しているのか、狼は涎を垂らしながら吠えようとする。
これで群れの仲間が集まって、餌にありつくことが出来るのだ。
だが、それは風を切る高い音によって遮られた。
――タスッ
『グルッ?!』
大きく後ろに跳躍する。
すると、先ほどまで狼が立っていた場所に、一本の矢が突き刺さった。
深く暗い森の、その先。麓に近づき、明るくなっていく森の中。
鬱蒼と茂る木々の間から、焦げ茶の外套を羽織った人影が、弓を構えて立っていた。
「退け」
警告。
森を知り尽くした、狩人の声。
森の獣たちと、今、事を構える気は無いという合図。
『グルルル……ウゥ』
狼は獲物を一瞥すると、もう一度狩人の姿を視界に納めた。
黒い髪の人間が纏う、黒色の皮鎧……それは、自分たちの強靱な肌を貫いてきた、証だった。
『ウゥゥゥ……グゥゥ』
狼はもう一度だけ低く呻ると、狩人を睨み付けながら後退して、茂みに入る。
狩人の視界が遮られる木々の狭間に入ると、群れへと走り去っていった。
「アインウルフ、か。
ふぅ、群れでなくて良かった」
耳が隠れる程度の、黒い髪。
二十歳前の少年が、大きく息を吐いた。
「それにしても……
おーい、大丈夫?」
少年は周囲を警戒すると、倒れ伏した人影に近づいた。
見たこともない紺色の服装と茶色の靴に首をかしげながら、俯せになったその人影を抱き起こした。
「軽い……
女の子、だね」
俯せのままでは体調を確認することも出来ない。
だから、抱き起こしながら仰向けにした。
すると、少年の腕の中で、栗色の滑らかな髪が柔らかく広がった。
「非道い熱だ。
……早く、治療しないと」
少年は、少女――千里を負ぶさると、周囲を警戒しながら走り出した。
E×I
視界に光が差し込む感覚は、痛みを伴う。
太陽の光は強くて熱い。それ故に、“悼む”のだ。
「は……ぁ」
その光を遮るように右手をあげる。
そのまま目元に持って行くと、自分の目元が濡れていることに気がついた。
「あ、れ?
なんで、私……」
涙を流すような、悲しいこと。
そんなことがあっただろうかと、千里はハッキリとしない頭でぼんやりと考えた。
「起きなきゃ、遅刻しちゃう」
ベッドの頭下へ手を伸ばす。
だが、いくら探っても目覚まし時計は見つからない。
寝ぼけて叩いて、落としてしまったのだろう。
それでお気に入りの目覚まし時計を壊したのは、半年前のことだった。
「壊れてなきゃ、いーけど……」
そう言いながら、起き上がる。
上半身を起こすと、大きく背伸びをした。
「今、何時だろ?
……あ、れ?」
時計を見ようと、周囲を見回す。
だがそこは、見慣れた自室ではなかった。
木造の家。
板張りの床と壁。内装は質素で、木で出来た小さな机と椅子、それから箪笥が置いてあるだけだ。
「え、えと?」
ベッドは、自分の部屋にある物よりも、ずっと固い。
くすんだ白のシーツと、申し訳程度に掛けられた毛布。
来ている服は桃色の寝間着ではなく、茶色の野暮ったい上着とズボンだった。
「え、えぇっ!?」
知らない部屋にいて、おまけに着替えさせられている。
なにかされたのではないか、むしろ誘拐されたのか、今は一体何時なのか。
取り留めもない“心配事”が頭を埋め尽くして、千里は混乱から顔を青くした。
「ど、どうしよう
警察?で、でもケータイもないし……」
両手を振り回して、慌てる。
ベッドから降りようにも身体に力が入らず、困惑したまま何も出来ずにいた。
そして、何とか息を整えて落ち着こうとしていた時、それをノックの音で再び乱された。
「入るよ
……って、まだ起きてないか……な?」
黒い髪に黒い目。
灰色の上着に茶色のズボンの少年が、パンと水を乗せた木製のトレイを持って立っていた。まさか起きているとは思わなかったと、そんな表情で呆然としている。
「おとこの、こ?」
「大丈夫っ?!
どこか、体調が悪いとか、ない?」
机の上にトレイを置くと、少年は慌てて千里に駆け寄った。
見知らぬ男の子に詰め寄られるという状況は、本来ならもっと騒ぐだろう。
けれど、混乱の最中に於いて、千里はただ固まることしかできなかった。
本当に混乱すると、動けなくなるのだ。
「今、薬師さんを呼んでくるから、そこで待っていてっ!!」
「え、ぁ」
手を伸ばす千里を尻目に、少年は駆けだしていった。
男の子に着替えさせられたかも知れないし、誘拐犯的な人かも知れない。
そんな動揺も困惑も、先に少年に持って行かれてしまい、千里は叫び声を上げるタイミングを失っていた。
「うぅ……
なんなんだろう、ほんとに」
身動きがとれない以上、先ほどの少年を待つしかない。
その上で困惑できなくなった千里は、大きく息を吐いた。
想定とは違うが、冷静になれたのだ。だったら、この機会に状況を整理すべきだろう。
そうでもしないと――――蓋を閉めた感情が、溢れ出そうだったから。
「えーと、まずは」
顎に手を当てて、頭を回す。
最後に見た光景はなんだったか……それを思い出す必要がある。
「みんなと帰って、それから――そう、頭が痛くなって、空が……止まって」
頭痛をもたらすほどに響いていた声が、今は止んでいる。
その音が現実の物ではないと思わせるほどに、静かだった。
「声が“助けて”って、それで……っ」
最後の光景。
息苦しい、宇宙にでも投げ出されたかのような、無限の光。
それに飲み込まれていく光景を思い出して、千里は息を呑んだ。
「光の外側、なのかな?」
ガラスの嵌められていない、ひさしだけがついた窓。
かろうじて動く上半身を大きく伸ばして、千里は窓から外を眺めた。
「なに、ここ?」
鬱蒼と茂る緑。
木漏れ日がむき出しの地面を照らし出し、そこにアスファルトなどがないことを示していた。舗装もされていない地面と、都心部では見られないような大きな木々。
「え、えーと……
どこかの山奥に紛れ込んじゃった、とか?」
そんなはずがない。
そんなはずがないと解っているから、声が震える。
唇は青く、顔は白い。
戸惑いは不安に、不安は恐怖に塗り替えられる。
不思議の国に迷い込んだのなら、そろそろネズミのヒントが欲しい。
「こっち!早く!」
「ええぃ、
落ち着かんか!」
先ほどの少年の声と、しわがれた老人の声。
その二種類の音に、千里は現実へ引き戻された。
「ええっと……
は、入るよっ!」
「は、はい」
慌ててきたのにもかかわらず、少年は律儀に確認をする。
その後ろから大きなため息の音が聞こえて、千里は小さく笑った。
そんな余裕はないはずなのに……いや、余裕がないからこそ、笑うのだ。
「村長、お願い」
「わかっとる。
さて、ワシはここ“ミドイル村”の村長、イルルガじゃ。
お嬢ちゃん、自分の名前はわかるか?」
色素の抜けきった白い髪に、黄色い目。
ぼさぼさの髪と小さな体躯で、陽気な笑みを浮かべていた。
人に親しまれる、人を安心させる、そんな笑みだった。
「わ、私は千里……高峯、千里です」
「タカミネ?」
「あっ……えと、ち、千里が名前です」
慌てて、言い直す。
日本語を話しているはずなのに、外国の人に自己紹介をするような感覚。
その不可思議な感覚に、千里は目眩がした。
「さて、どうして森に倒れていたのか
……その様子では、解っておらんな」
「はい……」
それは、千里が聞きたい事だ。
学校帰りだったはずなのに、気がついたらこのベッドで眠っていたのだ。
どうしてこんな、妙なところにいるのか……その答えが、欲しかった。
「最後にどこにいたか、解る?」
黒髪の少年。
故郷を思わせる髪の色に、千里は僅かな安堵を覚えた。
まったく違う場所ではないと、そんな風に思えるからだろう。
――もうここが“そんな場所”ではないと、解っているはずなのに。
「――県、酒大路市の道端、です」
「えーと、国は?」
聞いたことのない地名、少年は首をかしげた。
この周辺の地理は解るが、“セオウシ”などという街は聞いたことがなかった。
ならば考えられるのは、何らかの事情でここまで運ばれてきたという可能性だ。
誘拐や獣に運ばれたにしては、不自然に過ぎる状況だが。
「日本、です。
……あっ、あの、ここはいったいどこなんですか?」
悲痛な声だった。
見たくない現実、知りたくない真実、目を背けられない光景。
それを前にして、千里は唇を噛みしめた。
「村長……」
「うーむ
……ここは王国“スウェルス”の東南にある村、ミドイルだよ」
王国という言葉。
聞いたことのない地名。
外国なのに通じる言葉。
とうてい信じられない状況に、千里は胸に手を当てて震えた。
まるで、弟が好きなRPGの世界に迷い込んだような、状況。
「村長、もしかして……」
「うむ……おそらく」
何か情報があるのなら、少しでも良いから状況を掴める何かがあるのなら。
それが欲しいと、千里は声を上げた。
「あ、あのっ……心当たりがあるんですかっ?!」
身体に力が入らず、詰め寄ることが出来ない。
でも姿勢だけは前に、心の慟哭を疑問と一緒に叩きつけた。
「おそらくお嬢ちゃんは
――――“流れ人”だろう」
「ながれ、びと?」
「うむ」
聞いたことがない単語は、先ほどから山のように出ている。
それら全部を聞くのは後でも良い。今はただ、この単語の意味が知りたかった。
その意味を込めて、千里は少年を見る。
黒髪黒目のこの少年が、一番安心できる雰囲気を持っていたからだった。
「僕も爺ちゃんに聞いたことがあるだけだから、詳しくは知らないんだけど……」
少年はそう、前置きした。
そして、戸惑いつつも、イルルガと千里に目で促されて続ける。
「数年に一度、こことはまったく違う場所から流れてくる人がいる。
何年か間隔が空いたり、一度に複数人来たりとまちまちだけど、
……そうやってここへやってきた人間を、“流れ人”っていうんだ」
「違う場所……違う、世界?」
「うん」
口元に両手を当てて、真っ青な顔で俯いた。
その表情、その仕草が余りにも痛々しく、少年は思わず目を伏せて顔を逸らした。
「帰り方……あの、わ、私はっ」
縋るような声は、震えていた。
何故縋るのか……それは、薄々気がついているからだろう。
――もう、
「方法は、解らないんだ」
「前例も、あるかわからん」
――“帰れない”という事に。
「そん、な」
突然の状況。
突然の絶望。
あまりに唐突すぎる状況に、千里は涙すら流すことが出来なかった。
まだ実感がわかない……まだ、夢であって欲しいと思っているのだ。
「少し、時間をおこう。行くぞ、ナーリャ」
「うん、村長」
少年――ナーリャは、イルルガに連れられて外へ出る。
呆然と虚空を見つめる千里を、最後に一瞥だけして。
――†――
「村長」
「うむ」
部屋から出て、二人はナーリャの家の前に立っていた。
森で狩りをするナーリャは、村から少しだけ離れた位置に居を構えている。
今は亡き彼の“爺ちゃん”の、持ち家でもあった。
「しばらくは、おまえの家に置いてやってくれ」
「うん、でも」
「わかっておる」
ずっと長くいるのは、耐えられない。
ナーリャがではなく、千里が、だ。
「それもそのうち、なんとかしよう」
「うん……ありがとう、村長」
「なんだかんだで体調もみれなんだ。
まぁ、ショックはあるだろうが、体調を崩している様子ではなかったがな。
失った体力も、明日にはある程度回復するだろう」
ミドイル村の村長、イルルガは薬師でもある。
人の体調を見て、調薬した薬を処方するのだ。
千里の体調を確認したのも、イルルガである。
「森で倒れていた時は、どうなることかと思ったなぁ」
「“高熱”を出した人間を運んで、
あんな高価な薬で治療なんかするお人好しは、おまえくらいだよ」
呆れたような声で、イルルガはそう言った。
声色こそ呆れているが、その目は暖かい優しさに満ちていた。
そんな目で見られて、ナーリャは思わず顔を逸らした。
「爺ちゃんがしてくれたことを、爺ちゃんの遺してくれた物でしただけだよ」
「セアックの意志と言いたいのか?……そうか、それなら仕方があるまい」
小さく笑い声を上げるイルルガ。
その顔は、どこか懐かしそうな色を帯びていた。
「あの子も同性がいないと厳しかろう。
明日、村の女衆に話しを通しておくから、連れて来い。
……それまで、頼んだぞ。ナーリャ」
「うん、村長。解ったよ……ありがとう」
ナーリャは、イルルガの目を見て、まっすぐと頭を下げた。
ナーリャの誠実さが解っているから、イルルガは“幼い”少女を預けることに、躊躇いを見せなかったのだ。可愛い女の子だからどうこうするような、男ではない。
「今日は一度帰るが、様態が悪くなるようだったらすぐに知らせてくれ」
「うん、送ろうか?」
「カカッ!まだそんなに老いてはおらんよ」
イルルガはそう言って大きく笑うと、ナーリャの背を強く叩いた。
その勢いに驚いて、ナーリャは少しだけ肩を跳ねさせた。
「うわっ」
「鍛えが足りんぞ?では、な」
それだけ言って、今度は喉の奥で小さく笑う。
そして、背を向けて村へと帰っていった。
「はぁ、元気だなぁ、村長」
そう、大きくため息を吐く。
嫌悪感が含まれていないのは、そんな村長も好きだからだ。
村人も、森も、この家も……ナーリャは、“好き”だった。
「とりあえず、水を汲みに行かないと」
家の裏手に回って、井戸水を汲む。
そして、それを持って家に戻ろうとして……足を、止めた。
その視線の先には、千里の部屋の窓があった。
千里が目を覚ましたのが、夕刻間際……西日の当たる時間だったため、もう外は暗くなりつつある。当然部屋も暗くなり、千里の部屋も例に漏れず暗い。
「声?いや……」
すすり泣くような、声。
その音に、千里の心情に思い至った。
不安だし、悲しいだろう。生まれ育った地にも、血を分けた家族にも、逢えないのだ。
「よし」
ナーリャはそう、小さく呟くと、懐から筒状の木を取りだした。
そしてそれを持ったまま、窓の下にそっと座った――。
――†――
一人残された千里は、ぼんやりと虚空を眺めていた。
そして、大きく息を吐いた。
「はぁ、なんなんだろう。
ある日突然異世界にやってきました!……って、ゲームじゃないんだから、さ」
肩を竦めて、呆れたような声を出す。
必死に明るく努めようと、軽い口調で放たれた言葉。
だがその声は、震えていた。
「明日から授業開始なのに
お父さんとお母さん、心配してるだろーなぁ」
ついでに言えば、弟の陸人も。
千里は小さくそう付け加えると、無理に声を出して笑った。
「利香ちゃんと泉美ちゃんは……
明日にならないと、まだ私がいなくなったってわからないか」
心配はかけたくない。
けれど、嫌でもかけてしまうだろう。
「帰ったら、謝らなきゃ」
帰ったら、謝ろう。
帰ったら、愚痴をこぼそう。
帰ったら、少しだけ不満を言って。
帰ったら、久しぶりに甘えてみよう。
「かえった、ら……あ、あれ?」
涙は出なかった、はずなのに。
一人になった今になって、熱を持った雫が、頬を伝って流れ落ちた。
「あ、や、やだ、
今泣いたら、やだ」
今泣いたら、立ち上がれなくなってしまう。
だから、千里は涙を拭う。両手で擦るように、一生懸命涙を拭う。
「だ、だめ、止まらない
……や、やだ、泣いたらダメだって、わかって、いるのに……あ、あぁ」
声が漏れる。
喉の奥からしゃっくりが出て、今までよりも大きな雫が零れる。
涙は熱を持ち、その熱が頬を朱に染め、心を灼く。
「お父さん、お母さん、陸人っ
利香ちゃん、泉美ちゃんっ……あぁぁああぁっ!」
声を上げて、泣くのだけは、嫌だった。
泣いて泣いて、それで現実を受け入れてしまうのが怖かった。
夢でありたいと、見知らぬ地なんかじゃないと、もう少しだけ信じていたかった。
「ひっ、いっく、うぅ」
声を殺し、感情を殺し、理性で蓋をする。
けれど溢れる想いは、簡単に蓋をこじ開けた。
「あ、ぅう、ぁぁ」
――……
涙を堪えようと俯く千里の耳に、柔らい音が届く。
優しく和やかな、旋律。
――……♪~――♪―♪~~♪
「だ、れ?」
笛の音だろう。
優しい音が、千里の心を落ち着かせて、包む込む。
なんとか身体を起こして、窓に手をかけて身を乗り出す。
音は直ぐ側――千里の、真下。
「あ――」
――~♪―♪―♪――~♪
黒い髪の少年。
イルルガが、“ナーリャ”と呼んだ、年上の男の子。
ナーリャは、窓の下に座り込み、木製の横笛を吹いていた。
千里が声をかけても、止めることはなく。
ただただ千里の涙を止めようと、旋律を重ねていく。
いつしか千里は、その音に引き込まれていた。
逢えないことは悲しいけれど、悲しんでばかりではいられない。
それでも今は泣いても良いんだと、優しく諭す暖かい音色。
「ありがとう」
そう小さく、言葉を零す。
そして、千里はゆっくりと目を閉じた。
声は出ないけれど、涙はもう拭わない。
流れるままに涙を流して、明日からは前を向こう。
――それでも、今は。
ただこの音色に身をゆだねて、まどろむ意識の中で悲しみを流そう。
この世界で、顔を上げる為に――。
第一話をお送りしました。
次回から、少しずつ周囲を巻き込んだお話を展開していこうと思います。
ご意見ご感想のほど、お待ちしています。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました。
次話もどうぞ、よろしくお願いします。
2011/04/07改訂後の序章との矛盾点を修正。