五章 第一話 ニーズアルへ
それは、銀色だった。
壁や床、調度品に至るまで、全てが“銀”で覆われた空間。
その、まともな人間ならば気を違えそうな空間に佇む、影があった。
「素晴らしい」
紡がれた言葉は、感嘆の色に満ちていた。
広い空間に朗々と響く、男性の声だ。
しなやかに伸びる指。
その白い――白すぎる――手に持たれているのは、水晶だ。
大きな丸いその水晶には、ここではない“どこか”の映像が映し出されていた。
『その力を、ここに示せ!
“イル=リウラス|≪光より顕れる者≫”よっ!』
水晶の向こう側では、栗色の髪の少女が光の柱を構えていた。
そう、千里が光の剣を構えて振り下ろす、そのワンシーンだった。
『斬り裂けぇぇぇっっっっ!!』
海淵の王、海の覇者と呼ばれた魔獣が消滅する。
光を携えて無慈悲に敵を駆逐する、その横顔。
輝きを映したその顔を見て、男は抑揚に頷いた。
「美しい」
そう言うと、男は水晶に映った千里の顔を撫でる。
気まぐれで外を見ていた時……アロイアの街で偶然見かけた少女。
ルルイフまで来た時点で興味を持ち、本格的に“観察”を始めた女の子。
その姿を見て、その端正な顔を期待に歪ませた。
「私の“眷属”を退けた、その力。
その美貌とその才能、その全てが……欲しい」
うっとりと、男はそう呟く。
長く野放しにしていた、血を分けた眷属。
海淵の王と呼ばれるほど成長した、名も無きウミヘビ。
興味を失っていた己の眷属は、最後の最後で、最大の“親孝行”をした。
男性がそうして立ち上がると、腰まで届く銀の髪が流れる。
「さぁ、来い。
貴女の全てを、手に入れて見せよう。
クククククッ…………ハハハハハハハハッ!」
銀で彩られた世界。
その中心で、真紅の双眸が輝いた。
E×I
誰かに名を呼ばれるような、安心感。
その奇妙な感覚に身をゆだねながら、ラオはゆっくりと目を開けた。
「俺、は」
見知った天井は、自分の家のものだった。
古びた木目の天井が目に入り、そして違和感を覚える。
「俺は、何故?」
海淵の王に挑み、そして喰われた。
そこまで思い出して、ラオは身震いする。
確かにその眼孔に銛を突き刺して、そして飲まれたはずだった。
なのに自分はこうして、ここにいる。
「夢だった?
いや……そんなはずは、ない」
長年の夢だった。
だが、海淵の王に挑んだその感覚は、しっかりと覚えている。
だから、ラオの胸には疑問だけが残っていた。
「チッ
……まずは起きてみないと、始まらないか」
ラオはそう吐き捨てるように言うと、ベッドから起き上がる。
背筋を鳴らしながら立ち上がり、未だおぼつかない足取りで寝室の扉まで歩いた。
「うん?」
だが、ラオがノブに手をかける前に、扉が開く。
痛んだ蝶番がぎしぎしと軋む音を発し、やがて開いた人物の全容が見えるほどになった。
「親父ッ」
「ラウ……?
おまえ、帰ってきていたのか」
群青色の髪と、同じ色の目。
ラオをそのまま若くしたような、彫りの深い男性だった。
「はぁ……。
元気そうで良かったよ。
親父が“海の覇者”に挑んだって聞いた時は、どうなることかと」
「あ、いや、
そうだ!海淵の王はどうなった?!」
「覚えていないのか?
ったく、あんな立派なモノを持ち帰っておいて」
ラウは呆れたように首を振ると、ラオの手を引く。
さぁこっちだと笑う姿は、見た目に似合わず優しげだった。
ラオは帰省してきた息子の様子に、安堵の息を吐く。
それをため息だと誤魔化すと、ラウの手を振り払って歩き出した。
先ほどまでよりも、ずっとしっかりとした歩みだ。
先導された先。
そこは、居間だった。
リビングの机の上に置かれた、布にくるまれた“何か”に、ラオはそっと近づく。
そして、高鳴る鼓動と震える手を自覚しながら、ゆっくりと布をとった。
「これは」
淀むことのない、白銀。
鋭く伸びる、海淵の王の“角”の、その先端部分。
対峙し、そして討ち斃したという確かな“証拠”が、そこにあった。
視線を上げて、開いた玄関を見る。
その先では、大切な孫と一緒に遊ぶ、少女と少年の姿があった。
「あいつら……。
はぁ、ったく」
そう、言葉にならない感慨を呟く。
トドメがさせなかったことは悔しく思う。
けれど、一矢報いて帰って来られたと言うことが、ラオは何より嬉しく思えていた。
可愛い孫にも会えて、そして夢も叶えられた。
だから、ため息を吐いていても、その目は優しげだった。
ラオはその白銀の角を手に取ると、掲げてみせる。
生涯を賭けた老人の、最後の“夢”が、ゆっくりとその幕を閉じた。
脚本とは少し違ったが、最後は拍手喝采の大団円。
ならばそれでいいと、ラオは小さく笑う。
「ありがとよ、坊主、嬢ちゃん」
その呟きは、側にいたラウの耳にだけ届く。
本人達には素直に言えない、言葉。
だからこそ、それを聞いたラウは、小さく微笑むに止めるのだった。
――†――
前日と同じく、空は快晴。
昨日と違うところを挙げるとすれば、それは彼らの“内側”の天気だろう。
今日は、心の中も晴れ上がっていた。
漁船に乗せていく訳には行かないため、ここまで共に旅をした馬とはお別れだ。
船に乗り込み、千里は見送りに来た街の人たちと馬に手を振った。
「ありがとうございましたーっ!」
元気の良い声に、トールたちも笑って応えている。
その中には、ラオの息子夫婦の姿もあった。
「あんまり身を乗り出すと危ないよ、千里」
「あ、うん」
千里はナーリャに止められて、慌てて身体を退く。
ここで海にダイビングでもしたら、取り返しのつかないことになる。
主に、服の洗濯的な意味で。
「直ぐ治ったとはいえ熱があったんだ。
病み上がりに濡れて重くなったら、大変だよ」
「あはは、
うん、そうだね。気をつけます」
ナーリャの自分を真剣に心配する言葉に、千里は苦笑する。
倒れた後、何故か熱を出した。
けれど、ラオが目を覚ます前に治ってしまったのだ。
「そろそろ二人とも、下がってろ」
「はい!」
それでも前のめりだった千里と、隣りに立つナーリャにラオの声がかかる。
千里はそれに元気よく返事をすると、身体を退いた。
「しっかり捕まってろよ。
さぁ、出発だ。行くぞ!」
ラオの声は、明るい。
命を賭した戦いに身を乗り出す者の“それ”とは違った、心地よい声だった。
海を割って、船が進む。
本土から出たこともなかった自分が、異世界に来て海を渡る。
そのなんともいえない高揚感に、千里は胸を押さえた。
「もう、あんなに遠くになっちゃった」
高速で移動する海獣船。
甲板の上から眺めると、伸ばした手のひらの上に乗るほど、ルルイフの街が小さく見えた。
「千里、どうしたの?」
「あ……、
なんでもないよ、ナーリャ」
感慨を頭から振り払うと、ナーリャに向き直る。
そして、前方の甲板に腰掛けた。
「どれくらいかかるの?」
「半日かけて、一度休憩のために停泊。
そこで一日休んで、更に半日で到着かな」
前に乗った事があると話していたナーリャが、指折り数えてそう言った。
大陸を渡るほどの距離を乗った訳ではないので、これくらいだろうという予測だ。
千里は、どれだけ速いのかよくわからなかったが、とりあえず感心していた。
半日、つまり十時間程度で九州から北海道へ行くようなモノなのだが、千里はその速度を実感できずにいた。
「その割りには全然“酔わない”んだけど、
……私って、そんなに乗り物強かったかなぁ?」
千里は一人そう呟いて、首を捻った。
速く動く車に乗ると、すぐに酔ってしまう体質だった。
だからこそ、風を感じるほど速くても、その“程度”が理解できずにいたのだ。
水面を見ればその認識も変化したかも知れないが、景色の動きが解りづらい海の上だと言うことも、千里の認識を狂わせることを手伝っていた。
「うーん?」
「千里?」
「あ、ううん。
なんでもないよ」
ナーリャに声をかけられて、思考を中断する。
自分の身体のことは、自分がよくわかる。
よくわかるはずだったからこそ、わからないということを実感したくなかった。
「考えても、仕方ない」
そう呟くが、感情は納得していない。
理性だけで行われた理解に、千里は眉を寄せていた。
「はぁ……。
あれ?鳥、かな?」
「うん?
……えーと、蝙蝠、かな?」
空を舞う、黒い影。
それを視界に納めて、千里は首をかしげた。
鳥かと思い声を上げたが、その答えは考えていたモノとは、違っていた。
「蝙蝠って……海にいるの?」
「いや、洞窟で暮らすはずなんだけど……?」
二人は、空を眺めながら揃って首をかしげた。
空を舞う一羽の蝙蝠。その不可思議な、存在。
「もしかしたら海の種族なのかも。
昼時に、ラオさんに聞いてみようか?」
「あー、うん。
そうだね、ナーリャ」
解らないのだから、素直に聞くしかない。
そう言って苦笑するナーリャに、千里もすぐに頷いた。
――†――
フリットを煮込んだ、簡易鍋。
ムルミたちが持たせてくれた野菜を、一緒に煮込んで塩で味付けをすると、海の香りがふわりと立ち上る。
その食欲をそそる香りに、千里は笑顔で手を合わせていた。
「海の蝙蝠?」
「はい、ご存じ有りませんか?」
千里が白身魚を頬張っている間に、ナーリャがそう質問をした。
千里もそれに乗ろうとするが、流石に口にモノを入れたまま喋ることは出来ない。
そうして慌てだした千里に、ナーリャがそっとフォローをした。
「ゆっくりで良いよ。
フリットは逃げないから、ね?」
「…………」
しかし、欠食児童ががっついているように見えてのフォローだった。
そのことに、千里は頬を赤くしながら頷いた。
弁解しようにも、そのためには急いで飲み込まなくてはならない。
そうすれば結局、がっついているという印象を強めてしまうだろう。
その悪循環に、千里は軽く落ち込んでいた。
「それは普通の蝙蝠じゃねぇな。
おおかた、“ニーズアルへ”の住人だろうさ」
「“ニーズアルへ”?」
漸く飲みこんだ千里が、ラオの答えを復唱した。
聞いたことのない単語で自動変換がされないのなら、地名や人名の可能性が高かった。
「強力な存在が統治する自治国家、かな?」
千里の疑問に、ナーリャが捕捉をする。
と言っても、ナーリャが知っているのはここまでだ。
その存在のことも、どんな者が住んでいるのかも、ナーリャは知らなかった。
「不可侵条約みたいなのがあんのさ。
国としても、“触れたい”存在ではない。
だから、いくつかの“約束事”だけして放置しているんだよ」
ラオはそう説明しながら、白菜に似た野菜を頬張る。
味の良く染み込んだ白菜は、その熱でラオの身体を温めた。
「いくつかある約束事の中に、
俺たちみたいな沖に漁をする漁師のために、港を貸すってのがある。
その約束事に沿って、港を借りるんだが、まぁその時に“住人”も見かけるんだよ」
港を借りて、休ませて貰う。
いくら“約束事”があるからとはいえ不気味だが、他に休めるような場所はない。
「蝙蝠の群れが雲を作ってたり、やけにデカいアインウルフがいたり。
まぁ、不気味な場所だよ、あそこはな」
ラオは、苦々しそうにそう語る。
とくに被害にあったことがある訳ではない。
だからといって安心できるほど“良い噂”が流れている訳でもない。
「さて、そろそろ出発だ。
あそこの統治者は“若い娘”を好むっていうからな、
嬢ちゃんも、まぁ気をつけておけ」
ラオはそう言って立ち上がると、背を向けたまま呟いた。
「はいっ」
自分を心配してくれる言葉。
その言葉が嬉しくて、千里はナーリャと顔を見合わせてから、頷いた。
――†――
航海を進めて、しばらく経った頃。
空が夕暮れに染まる時間になって、漸く島が見えてきた。
まるで海淵の王が出現した場所のように、暗雲の浮かぶ島。
周囲は快晴なのに不自然に薄暗い島は、なるほど“不気味”な島だった。
「あれが…………“ニーズアルへ”」
千里の言葉が、空に溶ける。
隣を見れば、その光景に圧倒されたナーリャが、言葉を失っていた。
「寄せるぞ。捕まっていろ」
ラオの声で我に返り、体勢を整える。
薄暗い港に船を寄せ付けると、船体が緩く揺れた。
赤茶色の地面には、真紅の薔薇が生えている。
茨が絡まった道と、荒れ果てた小屋。
その全てが、侵入者を拒む砦のように構えていた。
「あの小屋で一晩休憩だ。
俺たちの休憩には、ならんかもしれんが、
レグルスを休ませる必要はあるからな」
そういうラオも、嫌そうだった。
それはそうだろう。こんな不気味な場所にいたいと思う人間は、そうはいない。
「あ、はい。
ほら、千里も」
「う、うん。
……降りても大丈夫な地面なのかな?」
先に降り立ったナーリャを見ているため、安全は保証されている。
それなのに戸惑ってしまうのは、その場所がとても“安全”には見えないためだろう。
降りたら最後、生命力を吸われそうだ。なにせ、薔薇以外は見事に枯れているのだから。
「よっ、と」
降り立ってみると、なんてことはない。
普通に土を踏みしめる感覚が、足の裏に残るだけだった。
大丈夫だと解ってはいても、千里はそのことに小さく安堵の息を吐いていた。
小屋の中に入ると、かび臭さが充満していることに気がつく。
千里は小さく口元を抑えながら木で出来た窓を開いて、空気を入れ換えた。
だが、そもそも日の光が入らないせいで、あまり快適にはならないようだった。
「けほっけほっ」
「予想以上に埃が充満してるね。
窓を開けたまま、ちょっと外に出ていた方が良いかも」
「うん……。
そうだね、けほっ」
千里は埃に咽せながら、ナーリャの言葉に頷く。
「俺はレグルスに餌をやってくる。
適当に戻ってこいよ」
「はい」
ラオが背を向けて歩いて行くのを、見送る。
埃に咽せる千里の背は小さく、ナーリャは何故こんな儚い背に“あんな”感情を抱いてしまったのか解らず、こっそりと息を吐いていた。
「ナーリャ?」
「ぁ……
なんでもないよ、さ、行こう」
鋭く感づき、千里はナーリャの顔を覗き込む。
だがすぐに、首をかしげて前を向いた。
ナーリャは千里のそんな仕草に、胸が痛むような感覚を覚えていた。
「そんなこと、あるはずないんだ」
そう……“怖い”などと、“友達”に対して思うはずがない。
恐怖感なんて、抱える必要があるはずがない。
ではこの胸に落ち込む感情は、なんのか?
「なんなん、だろう」
小さく、小さく呟く。
握り拳を胸に当てて息を吐いてみても、答えは出てこない。
己の心に問いかけても、理由がわからない。
「ナーリャ?
どこか、痛むの?」
どんな表情をしていたのか。
俯いていたナーリャ自身は、気がつかなかった。
だがナーリャの表情を見て、千里は心配そうに覗き込んできていた。
「ごめん、大丈夫。
大丈夫、だよ。千里」
「それならいいけど
…………無茶はダメ、だよ?」
「うん……うん」
軽く頷くと、すぐに深く頷く。
噛みしめるようなその仕草に、千里は心配していた。
「うーん。
……あ、ねぇ、あれって?」
なんとか明るい話題に持って行こうと、千里は話の種を探して周囲を見回した。
そして顔を上げてすぐに、その“建物”を見つけて顔を引きつらせる。
「あれ?
……って、なんだろう、アレ」
千里が指し示した方向を、見る。
茨に覆われた丘、その上に悪目立ちする城があった。
光の加減で、小屋の側まで近づかなければ、気がつくことが出来なかった城。
丘の上にそびえるその城は――。
「銀、色?」
――その全てが“銀”に染まっていた。
「趣味、悪ぅ」
そう言い放ちながらも、千里の腰は退けている。
こうしてハッキリと見てみると、圧倒的すぎて目眩がするほどの存在感を持つ城だった。
「うん、なんかすごいね」
真剣に考え込んでいたことも忘れて、ナーリャは呆然と呟いた。
銀色に染め上げられた城なんて、見たことがない。
金よりは悪趣味ではないかも知れないが、どちらにせよ“成金”臭さがあった。
「全面“ああ”なのかなぁ」
千里はそう呟きながら、ナーリャから離れて左へ歩く。
角度を変えて見てもやはり“銀色”で、見えない裏側も“銀色”なのだとわかる仕様だった。こうなると、内装が非常に気になる。
「うん?
あれは……蝙蝠?」
空を見上げて、ナーリャはそう呟いた。
無数に羽ばたく蝙蝠が、群れを成して近づいてくる。
どこかへ移動する最中なのかと傍観していたが、急に動きを止めたことに首をかしげる。
「なにか、あったのかな?」
そう思いながら、視線を落とす。
そこには……回り込むためにナーリャから大きく離れた、千里の姿があった。
「っ……まさか、
千里!逃げてッ!」
「え?」
駆けだしたナーリャの声に、千里はゆっくりと振り向いた。
だが、時既に遅く……蝙蝠による“黒の奔流”が、千里に襲いかかった。
「え、は?
……きゃぁぁあああぁぁっっっ!?!?!!」
「千里ッ!」
背負った弓を構えて、咄嗟に矢を番える。
けれど、千里を包み込む蝙蝠を射ることは、できなかった。
どこに照準を合わせればいいのか解らず、矢の先がゆらゆらと揺れる。
「――――っあ」
そんな小さな悲鳴を最後に、千里はその場から消え去る。
蝙蝠がその全てを溶かしてしまったかのように、そこには何も残らなかった。
「ちさ、と」
呆然と佇むナーリャの口から、小さく零れた言葉。
彼以外立つもののいない空間の中、その声だけが虚しく響いていた。
五章開始です。
山場ですので、なるべく日を置かずに更新できるよう執筆して行きたいと思います。
ご意見ご感想のほど、お待ちしております。
それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。
次回もどうぞ、よろしくお願いします。