四章 第三話 海淵の魔獣
突き抜けるような青空、輝きを増す太陽。
やや強めの風が頬を打ち、千里は身体を震わせる。
寒さからではなく、目の前の光景から我に返ったためだった。
波止場にかけられた橋。
木製のそれは、海獣船に向かって真っ直ぐと伸びている。
千里が立っているのは、その橋だった。
「大きい」
感嘆のため息と共に呟かれた、静かな声。
その視線の先には、ラオの海獣船があった。
光を呑み込む深緑の鱗で覆われた、大きな体躯。
蜥蜴のような姿をしているが、両手足は大きなヒレになっている。
全長は、ワゴン車を直列に三台並べたくらいだ。
ラオの相棒、名を“レグルス”というのだと、千里はラオから聞いていた。
その大きな海獣には、手綱のような形で鎖が巻かれている。
鎖の先にあるのが、ラオの乗る船体で、こちらもワゴン車を二台並べたほどもある。
それは、千里が想像していた漁師が単独で乗るような“漁船”に比べて、遙かに大きな物だった。
「何をしている。早く乗れ」
「千里、手、貸そうか?」
呆然と船を見上げる千里に、ラオの厳しい声とナーリャの柔らかい声が届く。
千里はその声に、慌てて頷くのだった。
E×I
大海原を、突き進む。
風を切って海を割り、ただ真っ直ぐと進んでいく。
その姿は雄大で、威風堂々としていた。
「うわぁ」
高速で移動する、木製の船。
木製、といってもこの高速に耐えられる特殊な種類なのだと、千里はナーリャから聞き及んでいた。
船の中央、休憩室の上にある高台で、ラオが舵を握っている。
この舵と鎖が連動していて、海獣を操縦しているのだ。
その斜め下、甲板の上で、千里は感嘆の息を吐いていた。
「すっごーい」
障害物一つ無い、広大な海原。
嵐の後の快晴のおかげもあって、空と海が境無く繋がっているように見えていた。
少し濁った海、人の溢れかえる砂浜、沖に進むことを禁止する看板。
そんな海しか知らない千里にとって、この海は幻想的な空間だった。
「さて、と。
お昼ご飯を獲ろうか」
ナーリャはそう言うと、弓を構える。
千里は、ナーリャのその行動に首をかしげた。
「ナーリャ?
弓で、漁をするの?」
千里の尤もな質問に、ナーリャはただ笑みを浮かべていた。
「ふん。
俺の分も獲っておけよ、坊主」
ラオは、ナーリャの構えから意図を理解したのか、進路をやや斜めにずらした。
一人ついていけないことに不満を覚えながらも、千里はじっとナーリャを見る。
ナーリャはもう笑みを浮かべておらず、弓を斜め上に構えて真剣な表情を浮かべていた。
「来た」
「え?」
じっと待つこと、ほんの数秒。
ナーリャは太陽に向かって目を眇めると、吐く息と共に矢を放つ。
それと、海面が割れるのは、ほぼ同時だった。
――ザパンッ
「先見二手、二射必中」
海面を割って、“なにか”が船を横切るように水のアーチを造った。
その飛び上がった“なにか”を、ナーリャが弓で射る。
ほとんどタイムラグのない、高速連続射出で撃ち落とされたのは、細長い魚だった。
「フリットっていってね。
海面から飛び出て、跳ねるように泳ぐ魚なんだ」
「飛魚、かぁ」
船を軽々と飛び越えて、時には三十メートルほども飛び上がることのある飛魚。
それが、“フリット”という名の魚だった。
「身が引き締まっていて、
けっこう美味しいんだよ」
言いながらも、ナーリャは矢を番えて放ち、落とす。
海面を割った直後には船の向こう側に着水していて、並の目では捉えられない。
視力が強化されている千里ですら、真剣に集中してやっと見える速度だ。
捉えるだけではなく、撃ち落としているナーリャの技量。
それを見て、ラオは目を瞠っていた。
本当に露払い程度にしか考えていなかったツレが、予想以上に“使える”ようだ。
ラオは、そう言いたげに口を歪める。
「今度こそ、討ち取ってやるぞ……“海淵の王”よ」
小さく呟かれた言葉は、誰に届くこともなく消えていく。
ラオのその群青色の双眸には、苛烈な戦意が宿っていた。
――†――
昼食を食べるために、一度船を止める。
海獣船が止まると、海の上に大きな波紋が生まれた。
ラオは、船の奥から七輪を持ってくると、火を熾すのをナーリャに任せて自分は魚の調理を始めた。
鱗と鋭利なヒレを取り、内臓を取り除く。
そうしている間に、ナーリャは七輪に入れた赤い石に、石の鎚を打ち付けていた。
「ナーリャ、それは?」
「これ?
これは“火石”っていって、
衝撃を与えると炎を出す石だよ。
けっこう高価なんだけど、海上への薪の持ち運びとかを考えると、
長期的に見ると薪を買うよりも安上がりなんだ」
言いながら、ナーリャは火石に衝撃を与える。
すると、三度ほど火花が上がり、炎を出した。
ガスコンロのように燃え上がる火石に、千里は感心した目で拍手をする。
「おぉー」
「与えた衝撃によって火力が変わるんだ。
火石のサイズによって、上限はあるけどね」
最初に出た火花が、上限の目安なのだとナーリャは説明する。
生物以外の“ファンタジー”に触れたのは、アレナの魔法以来だった。
ちなみに、自分で出来てしまうためか、光の剣は数えていない。
「千里の所では、どうしてたの?」
「えーと、ガス、
……燃える空気を筒に閉じ込めておいて、
それを調整しながら外へ出して、火を点けるの」
自分の常識、当たり前を説明することの難しさ。
それを自覚して、千里は呻りながら説明をする。
「へぇ……。
面白い世界だね」
「私にとっては、
こっちの方がずーっと“面白い”よ」
千里はため息と共に、そう零した。
面白いと言いつつも、楽しそうな表情ではない。
「ほら、どけ」
二人をかき分けて、ラオが三枚に下ろしたフリックを七輪に並べた。
大きめの七輪に九つの切り身が乗り、香ばしい匂いを充満させる。
その煙に千里は小さく鼻を動かして、喉を鳴らしていた。
「ラオさんは、
いつから海の魔獣と戦っているんですか?」
焼き上がった魚を皿に移すと、塩を振りかける。
余談だが、ルルイフ周辺では塩が取れやすかった。
ナーリャに問われて、ラオは切り身を飲み込んでから口を開いた。
千里も、鯛とヒラメの中間みたいな味に頷きながら、耳を傾けている。
「……ガキの頃から、だ。
親父も、その親父も、その前も。
俺たちはずっと、アイツと戦ってんのさ」
ラオは自分の義手を撫でつけて、ぶっきらぼうにそう言った。
気まぐれに嵐を起こす、海の魔獣。
それさえいなくなれば、ルルイフはもっと盛んになるだろう。
生まれた故郷。
その発展を妨げる、魔獣。
放って置いても、嵐以外に害はないと、国も退治に乗り気ではなかった。
「アレは俺の“宿敵”だ。
街の未来なんざもう二の次さ。
……俺は俺のために、ヤツを斃す」
生涯を賭けてきた。
だから諦められないと、ラオはその目をぎらつかせる。
「ご家族は、いらっしゃらないんですか?」
フリックを呑み込んだ千里が、咄嗟にそう訊ねた。
そして声に出してすぐに、聞いてはならないことだったのかも知れないと焦りを受けべる。
「妻は死んだ。病気だ。
息子夫婦は王都で商人だ。
おまえ達に気にされるようなモノは、背負っちゃいねぇよ」
ラオはそう、鬱陶しそうに眉をしかめる。
さっさと立ち上がって舵を取りに戻る背中は、大きな悲しみを背負っているようには見えなかった。
そのことに、千里は大きく安堵する。
そう何度も家族を失った人に出会うのは、辛かった。
自分の故郷のことを思い出してしまうためだろう。
……きっと、それだけではないが。
「さて、片付けようか」
「あ、うんっ」
ナーリャに言われて、千里は慌てて最後の一口を咀嚼し嚥下する。
顔を上げて見た先では、ラオが舵を握りしめ、ただ前を見据えていた。
――†――
昼食を食べ終わり一時間ほど過ぎた頃。
見飽きることなく海を眺めていた千里は、風が強くなってきたことに気がついた。
「ナーリャ」
「うん」
前方を見る。
すると、先の空が不自然に暗くなっていた。
突然現れたかのように広がる暗雲に、千里は寒気を覚えて拳を握る。
「あれって」
「たぶん、ラオさんの言ってた、
……海の魔獣が生み出す、嵐」
海の魔獣、海淵の王。
そう呼ばれた魔物の生み出す、暗く淀んだ雲と風。
その海域に、ラオの海獣船が侵入していく。
「坊主、嬢ちゃん!
露払いは任せたぞ!」
ラオが舵を強く握ると、呼応するように彼の相棒が雄叫びを上げた。
長年連れ添った海獣は、主の意図に応じて速度を上げる。
風を切り海を割る姿は、勇ましくも雄大だった。
「帝剣、アギト」
千里は、その甲板で剣を抜き放つ。
これから戦う。その自己暗示に、剣の名を呼ぶ。
ミドイル村の“仲間”たちの思いを、意志に宿して身構えた。
「来るよ、千里!」
「うんっ!」
波が荒れ、海が割れる。
そこから飛び出してきたのは、ヒレと角が生えた蜥蜴だった。
海獣船の“レビアルス”に似ているが、鋭い角と群青色の体躯が違いを示していた。
更に言えば、レビアルスよりもずっと小さく、せいぜい大型バイク程度の大きさだ。
「“レビクルス”
……レビアルスの亜種だ」
ラオの声が、風に呑まれる前に千里の耳に届く。
レビクルスと呼ばれるこの魔獣が、千里達が“露払い”しなくてはならない、“敵”だ。
「はぁっ!」
『ガァァッ!』
横薙ぎに振り抜かれた刃が、飛びかかってきたレビクルスの横腹を斬り裂く。
すれ違い様に与えられた衝撃は先陣のレビクルスを海へ叩き落とした。
「ここからが本番だ。
気張れよッ!!」
ラオの声が、風を打ち破り響き渡る。
千里達はその声を聞き、降り出した雨に負けないようにと、足に力を入れた。
「……来た」
第二陣。
今度は、先走りの一陣のようには、いかない。
いくつもの波紋が荒れ狂う海に浮かび上がり、そして飛び出す。
「減らせて貰うよ。
先見二手…………“二拍双雨”」
空に向かって放たれた、一息二発、四射の矢。
それが雨のように降り注ぎ、最初に出てきた四体のレビクルスを撃ち落とした。
『ギァッ』
血の一滴も浮かぶことなく、落ちたレビクルスは流されていく。
それに感慨を浮かべる暇もなく、出てきた第三陣に千里は足を踏み込んだ。
「せいっ!」
縦に振られた一閃が、甲板に届く寸前のレビクルスを切り落とす。
「はぁあっ!」
振り下ろした大剣を、右回転に回しながら横薙ぎに振る。
雨と風を切りながら流れた白刃は、飛び上がった二体のレビクルスを切り落とした。
「てぇえぇぃっ!」
一回転して右に抜けた大剣が、右斜め下の甲板に突き刺さる。
その隙に飛び込むように出てきたレビクルスを、ナーリャが矢で撃ち落とした。
千里は充分に出来た余裕で剣を抜くと、左斜め上に向かって剣を薙いだ。
「っせい!」
『ギガァッ!?』
その刃に血しぶきが飛び、暴風のような連撃に巻き込まれたレビクルスが落ちる。
合計七体のレビクルスを切り落とす。
その間に出てきたレビクルスも、四体ほどナーリャの矢に撃ち落とされ、ついに出てくる雰囲気が無くなった。
陸を支配した“黒帝”から造り出された、剣と弓。
それは、海の魔物達に“暴力”を見せつけて、その抑止力として君臨していた。
「もうすぐ、もうすぐだ。
…………そこかァッ!!」
ラオが舵を取る。
すると、船体は大きく左に傾いた。
「わわっ?!」
「おっと!」
ふらついた千里を、ナーリャが支える。
危うく甲板から滑り落ちるところだったのだ。
「ふぅ、あぶなかった。
ごめん、ありがと、ナーリャ……?!」
突如強くなった風に、千里は眉をしかめた。
ナーリャも同じように、目を閉じて風と雨に耐えている。
『ォォォォォォ……』
海底から響く声。
それはまさしく、“魔獣”の呻り声といえるモノだった。
空が割れ、海が荒れ、暗雲が立ちこめ、激流が巻き起こる。
生み出された嵐の最中、荒れた海原の中心に渦潮が発生した。
「今日で最後だ。
…………来い!海淵の王!」
ラオはそう叫ぶと、義手を外す。
そして、足下に転がっていた箱から、換えの義手を取り出した。
長い穂先を持つ、銛を装備した義手だった。
『ォォォォォォ……
…………オオォォォォオオオオォォォォッッッッッ!!!!』
轟音と呻り声。
海を割って、それがついに姿を見せた。
群青色の肌と、黄金の双眸。
白い髭と鬣、白銀色の角。
「東京タワーくらいあるかも」
千里はその巨大な“ウミヘビもどき”を見て、呆然とそう呟いた。
手足はなく、ただすらりと長い胴体。
それは、暗雲を駆ける稲妻を反射して、時折金に輝いている。
「千里、来るよ!」
その金の眼光が、遙か下の海獣船を捉えた。
ナーリャはその動作を見て、タイミングを読む。
経験が積まれなければ、先見は出来ない。
もっと読むには、もっと“観る”必要があった。
「レグルス!回旋だッ!」
『ガウッ!』
ラオの海獣が、意志を汲み取り呼応する。
海獣船は、海淵の王に回り込むように、右方向へ進み出した。
「読み切れるか……。
いや、“読む”んだ!」
海淵の王は、大きく仰け反ると口を開ける。
その動作に“嫌な予感”を覚えたナーリャが、弓を構えて矢を番えた。
人間相手では本気で放つことが出来なかった、対大型魔獣の大弩の、本領発揮だ。
「先見一手、一撃必中ッ!」
――ドンッ
大砲を放つような、轟音。
反動で弓が仰け反り、ナーリャの手に痺れが伝わる。
それに顔をしかめる頃には、矢は海淵の王へ到達していた。
『ガァウッ?!』
口から透明の“風”を吐き出そうとした、瞬間。
飛来した矢が、その下顎に突き刺さった。
軌道をずらされたブレスは、海獣船には当たらずに、その背後数十メートル地点に着弾する。
――ゴォンッ
「うわっ」
その衝撃は、背後で津波となってナーリャたちを襲った。
濡れる程度でなんの支障もなかったが、直撃すれば命はなかったことだろう。
「油断すれば、海の藻屑か」
「ナーリャ!」
呟くナーリャに、千里の声がかかる。
咄嗟に振り向くと、自分に向かって飛びかかるレビクルスの姿があった。
「はぁっ!」
バランスの悪い甲板の上を、千里が疾走する。
そして、ナーリャの首に噛みつこうとしたレビクルスを切り伏せてみせた。
「油断大敵、だよ!」
「うん、ごめん、ありがとう!」
背中合わせになり、得物を構える。
その二人の上で、ラオはただ海淵の王を見据えていた。
「まだだ、もっと来い、王よ!」
『ギャオォォォッッ!!』
その気合いに応えて、レグルスが吠える。
ともに海を駆けた彼の相棒は、この瞬間、ラオと“一心同体”となっていた。
海獣船が、波を飛び越えるように進む。
大きな波に打ち上げられても転覆しないのは、ラオの腕だろう。
大きな海原で跳ねるように、海獣船が海と空を駆ける最中、海淵の王はその船体に狙いを定めた。
『オォォッッ!!』
――ドドンッ
風のブレスが、海獣船の周囲に着弾する。
下顎に突き刺さった矢が海淵の王の集中力を妨げていなかったら、とうに海の藻屑となっていただろう。
水飛沫が舞い上がり、船を揺らす。
その揺れに振り落とされまいと、ナーリャと千里は身体を低くして耐えていた。
「埒があかない。
せめて、もう一撃!」
揺れる船の上。
震動と海淵の王の動き。
矢の速度と放つタイミング。
その全てを、“観て”先読みする。
「先見二手、一撃必中!」
動きの二手先に、引き絞った一撃を放つ。
嵐を貫き飛来した矢は、海淵の王の首筋に突き刺さった。
『ギッアァァァァッッッ!!?』
群青色の肌から鮮血が吹き上がる。
痛みから大きくうねった身体は海面を揺らし、大きな波をつくった。
「行くぞ!レグルス!」
『ギャウッ!』
レグルスが吠え、その波に乗る。
巨大な津波に舞い上げられた海獣船は、身体を起こした海淵の王のその頭上まで飛び上がった。
「お、落ちるーっ!?」
「ち、千里!
っ……捕まって!」
重力から瞬間的に解放されて、千里の身体が宙に浮く。
慌てて手を伸ばす千里をナーリャはなんとか掴むと、柵を掴んで自分の方へ引き寄せた。
「ハッハーッ!
“追いついた”ぞ!王よッ!」
『オォォォォッッッッ!!!!』
ラオは梶から手を離すと、重力から解放された一瞬を狙って跳躍した。
身体を弓なりに仰け反らせて、左腕を大きく引く。
鋼鉄の銛が狙うのは――――海淵の王の、その黄金の眼孔だった。
「おぉぉぉぉおおおおぉぉぉッッッッ!!!!」
『ギァァァァッッッ!?!?!!』
左の目に、銛が突き立てられる。
ラオはその上で更に、左腕に右腕を添えた。
「特注品だ。
たっぷり、味わえッ!」
肘裏に位置するレバーを引く。
すると、左腕の中から火花が散り、轟音が響いた。
――ドンッ!
『ギィアッ?!』
銛を打ち込む、特注のギミック。
それが、海淵の王の眼孔を深く貫き、抉る。
ラオはその姿をみて、満足そうに笑って見せた。
「ハハッ
これで終いだ。
もう、俺たちの街は、壊させん」
だが、それで終わりだ。
波に乗って滑り落ちるように着水した船はともかく、空から投げ出されてしまえばラオに生き残る術はない。
海に叩きつけられて、海に散るだろう。
海で死ぬことは、ラオにとっては本望だった。
それで死ねるのならば満足だと、笑えていた。
だがそれは……海淵の王が、許さない。
『ガ、アァァァアアアァァッッ!!』
「なに?!」
投げ出されたラオを、海淵の王が襲いかかる。
口を開いて襲ってきたその姿に、ラオは為す術もなく呑み込まれた。
「ラオさん!」
その姿を、海獣船の上から、千里はその瞳に映していた。
その髭と鬣を真紅に染めながらも、海淵の王は健在だ。
いずれは力尽きるほどのダメージは負っているかも知れないが、今逃げられたら回復されてしまう。
「先見二手、一撃必中!」
なんとか逃がすまいと、ナーリャが矢を射る。
だが、着水の衝撃でひび割れた甲板は、ナーリャの狙いをずらす。
「くそっ!」
海淵の王の首筋を傷つけるに終わった矢を見て、ナーリャは悪態をつく。
そうしている間にも、海淵の王はじりじりと後退していた。
このままでは、ラオの“生涯”が無駄骨に終わる。
命を賭してその身を投げ出したラオの姿を、ナーリャはセアックに重ねていた。
だからこそ、セアックと似た様な結末を辿ってしまうということを、避けたかった。
「先見……っ」
続いて矢を放とうとするが、度重なる極限状態がナーリャの処理能力を超えた。
響くような頭痛に眉をしかめて、ナーリャは膝をつく。
強く歯がみして痛みに耐えるが、治まるよりも逃げられる方が早いだろう。
「また、なんだ。
僕はまた、間に合わない……ッ!」
「――でも今は、一人じゃないよ」
拳を甲板に叩きつけて、唇を噛む。
その姿に声をかけたのは、揺れる船の上でしっかりと佇む、千里だった。
「お願い、応えて……!」
空に両手をかざす。
その手の中に光が生まれて、それはまっすぐと伸びていった。
「その力を、ここに示せ!
“イル=リウラス|≪光より顕れる者≫”よっ!」
極光が天に伸び、暗雲を貫き陽光を喚ぶ。
大きくすることが出来るのなら、天を貫くことだって出来る。
自身の常識を覆して、出来ると“信じた”力の発現。
「光の、柱?」
ナーリャの呆然とした声が、静かに響く。
空を割るほどに伸びた光の剣が、ただ悠然と構えられていた。
「斬り裂けぇぇぇっっっっ!!」
暗く淀んだ雲を消し去りながら、光の剣が振り下ろされる。
海淵の王はその刃から逃れる術を持たず、ただ光を受け入れた。
『ギァァァァアアアアアアァァァァッッッッッッ!?!?!!』
脳天からその尾まで、一直線に両断される。
そしてあろうことか、その身体は角の一部を残して光の粒子へと姿を変え、中にいたのであろうラオを包み込んでいた。
「……すごい。
これが千里の、力?」
徐々に波が穏やかになり、風が静まる。
光に包まれたラオは、ゆっくりと甲板に降ろされた。
その姿を見ることなく、甲板に佇む小さな影。
光を消し、ただ前を見つめる背中があった。
「千里、君は一体?」
問いかけるつもりはなく、ただ喉から零れてしまった言葉。
ナーリャは自分の中に渦巻く感情が、暗く乱れたことに動揺する。
それは――――どこか、“恐怖心”に似た感情だった。
「っ……。
僕は、何を考えているッ」
“友達”に対して、宿して良い感情ではない。
ナーリャはそう、首を振って自分の感情を否定した。
「千里?」
聞かれたか。
そんな不安が、ナーリャによぎる。
千里は身動きすることもなく、ただじっと佇んでいた。
「千里……っ!」
再び名を呼んだ時、千里の身体が大きく傾く。
ナーリャは慌ててその身体を受け止めると、想像以上に軽い身体に驚いた。
「こんなに小さな、女の子なのに。
無理ばかり、させてしまっているね」
ナーリャはそう呟くと、辛そうに顔を歪めた。
疲労からか、千里の顔色は悪い。
心なしか、熱もあるように思えた。
「ごめんね、千里。
……本当に、ごめん」
柔らかい栗色の髪を撫でながら、小さく呟く。
そしてナーリャは、よぎった“想い”に、強く蓋を閉めた。
青が戻った空の下、三人には静かな風が吹いていた――。
今回で四章を終え、次回から五章に入ります。
ご意見ご感想のほど、お待ちしています。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次話もどうぞ、よろしくお願いします。