序章 終わりの音/始まりの光
――お願い。
――声を、聞いて。
――私の、世界を…………。
暗いところだった。
しんと静まりかえった空間。恒久に続く黒の世界。
溢れ出したような白は、光のそれとは似てもにつかない。
誰が自分を、呼んでいるのか。
喉は擦れて、声は出なかった。
叫びだそうとしても、同じこと。まるで今の今まで、叫び続けてきたかのように。
(私を呼ぶのは、だれ?)
だから少女は、心で思う。
胸の内で問いを出して、それを世界に響かせる。
声が出ないから響くはずがない、そんな“常識”は、持っていなかった。
この世界では“そんなもの”は通じないと、無意識のうちに理解していた。
(辛いの?苦しいの?それとも――)
必死に、ただ必死に声を絞り出す。
誰が自分を呼んでいるのか、誰が自分を求めているのか、誰が……。
(――“痛い”の?)
頷いた、気がした。
誰かが暗闇の底で、誰かが光の天蓋で、誰かが虚無の狭間で。
心を軋ませながら、首を縦に動かした。
――どうか。
はっきりと聞こえてきたのは、教会に響くパイプオルガンのような、神秘的で澄んだ声だった。たった一言で綺麗だと解る旋律は、それゆえに痛々しい苦しみに満ちていた。
――お願い。
何をお願いされているのか、何を請われているのか、何を望まれているのか。
少女はそれが知りたくて、痛む喉に手を添えながら口を大きく開く。
何故自分の喉がこんなにも痛んでいるのかなんて、解らない。
解らないけれど……“知って”いた。
(苦しまないで、悲しまないで、お願いだから……っ)
どうして、こんなにも自分の胸が痛むのかわからない。
それでも、喉から零れるのは痛みを訴える音だけだった。
痛みを和らげたいと、自ら痛む悲しみの声。
――……。
(え……?)
視界が白に、包まれる。
先ほどまでの白ではなく、希望を紡ぐ光の白。
その遙か先に、少女は――――黄金の光を垣間見た、気がした。
E×I
――ジリリリリリッ
けたたましい、音。
枕元から響くその音に反応して、小さな手が桃色の布団から伸びる。
場所が掴めないのか、二度三度と空を行き来して、四度目に漸く目覚まし時計の頭を押した。
「うーあー」
女の子らしい、とはほど遠い、低い声だ。
普段は高い声なのだろう、低く出してもそれほど重い音にはならない。
だが、それだけで、寝起きの悪さは見て取れた。
「あれ、なんか、あれ?」
ベッドから身体を起こして、左手で強く目元を擦る。
十六歳、というには幼さの残る仕草も、彼女の幼げな顔立ちに追従させるとそれほど違和感のあるものでは無かった。
「変な夢、みたかも」
呟いて、首を傾げる。
だが一向に答えは出てこず、少女はしきりに首を捻っていた。
唇を尖らす仕草もまた幼げだが、本人は気がついていない。
「千里ー!ご飯よー」
「はーいっ」
階下から響く母親の声に、少女は声を絞り出す。
朝は本当に弱いのか、ベッドから立ち上がるのも億劫そうだ。
「千里ー、今日入学式でしょーっ」
「わかってるってば!今行くよー」
最後の言葉は、どこか不満げに。
ナイトキャップを外して零れた、ウェーブのかかった栗色の髪を、少女は軽く手櫛で整えながら返事をした。
少女の名前は、“高峯千里”――この春から、高校生になる。
ゆるゆると立ち上がると、姿見の前に立つ。
身長は百四十の中頃と、同年代の少女達よりも十センチほど低い。
未だに小学生に間違われることを、千里は気に病んでいた。
牛乳を飲んでも小魚を食べても、身長は一向に伸びない。
ブレザータイプの制服に袖を通すと、大きな欠伸をする。
髪よりもやや薄い栗色の目から雫がこぼれ落ちると、左手で拭い去る。
今日から高校生だというのに、こんなに眠いのでは頭が働かない。
「ふわ……。
ダメだ、眠い。顔洗ってこよう」
学生鞄を持って、デジタル時計を腕に巻く。
そうして、ふらふらとおぼつかない足取りで部屋から出た。
春先の廊下は、まだまだ冷たさが残る。
白い靴下の裏から感じる寒さは、千里の目を覚ますのに役立っていた。
鞄を玄関に置いて、顔を洗って歯を磨く。
そうしてからリビングに向かうと、すでに家族が全員、食卓についていた。
「姉ちゃん、遅ぇよ」
「うるさいよ、陸人」
自分に似た、栗色の髪の少年が、キュウリの漬け物を口に放り込みながらそう言った。
行儀が悪いと父に怒られて、やや涙目だ。
「今日は入学式だろう?
そんなにゆっくりとしていて大丈夫なのか?千里」
「まだ時間に余裕はあるよ、お父さん」
そうか、と一言零すと、黒い目を新聞に落とした。
この目は、陸人とよく似ている。
黒い髪は、姉弟のどちらにも似なかったのだが。
「ごちそうさまっ」
「もう食べ終わったの?」
「うん、行ってくる!」
台所から顔を覗かせた母が、陸人を見送りに走る。
母は、さらさらのストレートヘアだが、その色は千里と同じ栗色だ。
瞳もまた、千里と同じ栗色。だが、母親のそれの方が、千里の瞳よりも濃い色をしているのが特徴的だ。
「ごちそうさま」
「気をつけて行ってこい」
「うん、行ってきます」
味噌汁にご飯、それから焼き鮭を食べ終わると席を立つ。
いつの間にか母も席に着いていて、立ち上がった千里についてきた。
「貴女はおっちょこちょいなんだから、気をつけなさいよ」
「だ、大丈夫だよ」
母の言葉に不満げな声を零すと、千里はローファーを履いて鞄を持つ。
少しだけ気になって持ち物を確認したのは、内緒だ。
決して、忘れ物があるかも、などとは思っていないのだ。
「行ってきます!」
「はいはい、行ってらっしゃい」
母に手を振って、扉から外に出る。
燦々と光る太陽が少しだけ眩しくて、千里は手で太陽を遮りながら目を眇めた。
「良い天気」
天気が良いと、心も晴れる。
だが今日は何故だか、天井知らずの青空を見ていると、どうしようもない不安に苛まれてしまっていた。
「気のせい、だよね」
そう一言呟くと、頭を振って歩き出す。
背中を押す風はひやりと冷たく、千里の肌を粟立たせていた。
――†――
学校までの道のりは、バスを使う。
徒歩十分で着くバス停からバスに乗り込むと、そのまま十五分ほどつり革を手に船を漕ぐ。そう簡単に眠気が消えるのなら、苦労はしないのだ。
『次は、酒大路橋に止まります』
「あっ、と」
はっと目を開けて、白いボタンに指を置く。
だが、指に力を入れた段階で既に他の人が――赤く光っていた――押してあり、千里は二度押しをするという微妙に気恥ずかしい気分を味わうことになった。
「はぁ、運がない」
運ではなく、不注意である。
入学式に向けた不安や希望で寝付きが悪かった。
それも眠い理由に入るはずなのだが、千里はどうにもそれだけではないような気がしていた。
何か大きなことを、忘れているような――。
バスが止まり、後ろのドアから降りる。
学校まで目と鼻の先にある、大きな石橋だ。
この辺りは酒屋が沢山あり、そのことから酒大路と呼ばれていた。
それがそのまま橋の名前になり、市の名前になり、そして高校の名前になったのだ。
「誰かが、泣いていたような」
千里は、無意識のうちにそう零していた。
石橋を進むにつれて心の隅から綻んでいく、殻の中の夢。
ひび割れ剥がれ落ち消えゆく壁に、千里は意識を傾ける。
「そう、だ。確か――」
「――おはよう!千里っ」
背後から響く快活な声。
その声に、千里は肩を跳ねさせた。
ぐらりと心が揺れて、考えていたことを忘れてしまった。
「り、利香ちゃん?」
「なんで自信なさげなの?」
ポニーテールの髪を揺らしながら、千里の隣りに立つ少女。
彼女の名前は村上利香。千里の、中学時代からの友人だった。
「いやぁ、入学式だねー」
「受験合格して良かったね、利香ちゃん」
「そう……あの辛い日々とはお別れしたんだよ!」
おおげさに手を広げてみせる利香は、開放感に満ちあふれていた。
ランクの高い学校というほどでもないが、それでも一応、進学校だ。
勉強よりも運動が好きだと公言してはばからない利香は、当然のように勉強が苦手だった。
「でも、毎日予習復習くらいはしておこうよ」
「お母さんみたいなこと言わないでよ……」
肩を落とす利香の姿に、千里は苦笑する。
だがここで言っておかないと、“また”追い込みに付き合わされるのだ。
そう、高校受験時も期末や中間試験時も、経験済みなのだ。
「あら、お二人とも、今日は早いのですね」
「泉美ちゃん……は、車?」
「はい」
黒い車――ロールスルイスから足を降ろした、黒髪姫カットの大和撫子。
利香同様千里の中学時代からの友達である、姫小路泉美だ。
姫小路は酒大路と並ぶ名家で、食の小路、酒の大路と地元民から並び立てられるほどの“お金持ち”だった。
そんな彼女もまた、この酒大路高等学校の生徒になる。普通の進学校なら彼女の親も口を挟んだことだろうが、由緒正しいという意味では、この地域で酒大路よりも古い学校はない。だから彼女も、こうして千里達と背を並べることができるのだ。
ちなみに、泉美も利香の“追い込み”に手伝わされた一人である。
「はぁ……」
それにしても、と千里は思う。
利香は女子の平均よりも五センチほど背が高く、百六十そこそこも身長がある。
泉美は背は百五十四と平均的だが、雪のように白く繊細な肌とくびれた腰は、同年代の少女の中で、飛び抜けて彼女を美しく見せていた。
「どうしたんですか?千里さん」
「う、ううん、なんでもないよっ」
ある意味、邪なことを考えていました。
そんなことを言えるはずもなく、千里は慌てて誤魔化した。
だがそれも、動物的に勘の鋭い友人の前では、無意味だった。
「ははーん……さては千里、気にしてるでしょ?」
「へっ?!」
「大丈夫大丈夫、そのうち伸びるって。身長」
千里の頭を子供のように撫でる利香に、千里は慌てて弁解する。
それは誤解だと叫ぶ、その前に、泉美が口元に手を当てて呟いた。
「そんな、千里さんだってすぐに伸びますよ!」
「うぅ、そんな真面目に慰めないで」
肩を落とす千里、困惑する泉美、お腹を抱えて笑う利香。
夢の淵からこぼれ落ちた記憶の残滓は、ゆっくりと日常へ溶けていった。
その確かな違和感と、ともに――。
――†――
眠気を誘う校長の挨拶。
クラス分けでも離れなかった友人。
初めてできる友達や、若い新任の担任教師。
陽光の差し込む窓際の席。
真新しい木の机と座り慣れない椅子。
年間行事予定のプリントと、自己紹介。
新しい全て、その中で微かに覚える違和感。
渇きで軋む心臓と、喉に詰まった感情の塊。
「思い、出した」
夢の全容ではなく、その欠片。
チャイムが鳴り友人達に手を振り、酒大路橋の上で呆然と呟いた。
誰かが助けを求めていて、自分はそれに答えようとした。
その声が、苦しくて悲しくて、そして痛々しくて。
手を差し伸べたいと願った、旋律。
「ただの夢、なのかな?」
橋の上から、川を眺める。
透明の川に映る自分自身の姿に、夢の中の光を重ねる。
ただの夢なんかじゃないと、誰かが千里に訴えかけるのだ。
「お願い、たすけて」
――…………。
夢の中の声、それを、うろ覚えながら暗唱する。
すると……千里の胸に、声が掠めた。
「あ……」
――……、……。
断続的に聞こえ続ける音。
その声に、その旋律に、その言葉に……意識を、重ねる。
「誰が、私を呼んでいるの?!」
思わず、声を荒げる。
求める言葉を掴み取ろうと、喉から心の叫びを溢れ出させる。
――お願い。
はっきりと、聞こえた。
確かに聞こえた言葉に、千里は顔を上げる。
辺りはいつの間にか夕暮れになっていて、空は橙色に染まっていた。
どれほど意識を集中していたのか、千里は苦笑しながら腕時計を見る。
「五時四十五分、三十、八……秒?」
秒数まで、ぴたりと止まった時計。
千里は大きく目を瞠ると、思わず空を見上げた。
風が強い日なのに、動かない雲。
空に縫い止められたように、止まった二羽の鴉。
川に落ちた小石が生み出した波紋は、消えることなく残り。
……千里を除く世界の全てが、静止していた。
「そん、な」
――お願い。
「っ」
痛みが、千里の頭に響く。
声が何度も反響して、胸を侵して脳を打ち付け魂を支配する。
ぐらりと揺れるアタマとココロを、千里は右手と左手でそれぞれ抑えた。
「誰なの……だれが、私を呼ぶの?!」
悲痛な声だった。
瞳から一筋の雫がこぼれ落ちて、千里から離れた途端空中で静止する。
千里以外が、止まっているのではない。
――お願い、どうか。
――私に、力を貸して。
――どうか、どうか、私たちの世界を……。
千里だけが……世界から切り離されている。
その感覚を感じ取って、千里は両目を見開いた。
「なに、これ」
視界が、白で染まっていく。
綺麗な絵を漂白していくように、塗りつぶされていく世界。
落ちるような、浮き上がるような、不可思議な浮遊感。
水の中で息をしているような、空気の中で泳がされているような、奇妙な不快感。
やがて、全てが白で溢れかえる。
虚無にも似た純白の光が、千里の身体を呑み込んでいく。
「ぁ」
小さな呟きを残して、意識が薄れる。
その寸前、千里は――――遙か遠くに、黄金の涙を垣間見た。
――私たちの、世界を…………“救って”ください。
光が、消えた。
かねてより書きたかった、異世界召喚モノです。
読み易さをテーマにして、続けていきたいと思います。
手法なども今までと変化を持たせて、実験的に色々試していきたいと思います。
ご意見ご感想のほど、お待ちしております。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
次話もどうぞ、よろしくお願いします。
2010/10/02
現在細部修正中。
全体的な書き直し、手直しも後ほどします。
2010/11/22
改訂完了。
序章全て、書き直しました。