便利なゆりかご女に偏屈医師の嘘は通じない
「あの偏屈男を篭絡してきなさい」
というのは、私――ニーナの雇い主である王妃様のお言葉である。
たしか私はこれから生まれる御子様のお世話係として雇われたはず。
踊り子か何かと勘違いしたような命令ではないかしら。
そんなわけで、私はまぶしい朝日に目を瞬かせながら目的の孤児院の門前に立っていた。
これから会うのは相手が王侯貴族であろうと平気で待たせると噂の偏屈男だ。私のような押しかけの小娘など門前払いされるだろう。
それでも王妃様の仰せとあらば、何もしないわけにはいかない。
緊張で唾を飲み込み、門を叩こうと手を伸ばした、その瞬間。
「足だけ怪人だー!!」
そんな絶叫とともに、門の奥から子供たちが必死の形相でドタドタと飛び出してきた。
――足だけ怪人!?
生まれてこの方聞いたこともない怪人の名前を叫びながら走り去る子供たち。私は驚き身構えた。
そして、その後を追うようにして奇妙な格好の男が飛び出してきた。
その男は両腕を肘先までズボンの中に突っ込み、腕を封印した状態だった。
それで走るものだから、右足が出るときに右半身が、左足が出るときに左半身が、それぞれ足に引っ張られて前へと突き出ていた。
「フフフフフ……しかもこの足、考えただけで動き出すのだぞ!!」
そんなごく当たり前のことを誇らしげに叫ぶ男から、子供たちが悲鳴と爆笑をあげながら逃げていく。
そんな騒ぎの中で、ふと『足だけ怪人』と目が合った。
悪役めいた奇妙な笑みを浮かべているものの、その顔立ちは端正に整っていた。
思っていたよりも若い……というか、少し幼さが残った顔をしている。
すらりと背は高く細身の体躯。
少し長い黒髪は洗い立てなのか艶があって乱れなく襟元で束ねている。
その髪を結わえている紐だけは、なぜか子供が使うような可愛らしい赤い髪紐だ。
切れ長の黒目は冬の湖みたいに静かだけれど、よく見れば目元には隈ができている。
その涼やかな目を丸く見開いて、彼は私を見つめていた。
数秒間、私と彼はお互い見つめ合っていた。
やがて、先に沈黙を破ったのは『足だけ怪人』の方だった。
「急患ですか、お嬢さん?」
妙な格好をしているくせに、その声は病人の枕元で聞く冷静で低い声だった。
――え、この男が偏屈で有名なあのお医者さん??
目の前の愉快な怪人と、私が篭絡を命じられた冷静沈着な偏屈医師――フォス先生があまりにも重ならない。
この後どんな会話をするにせよ、王妃様にどう報告書を上げればいいのか、私は早くも頭を抱えたくなってしまった。
◇
「ある高貴な婦人がこちらの噂を聞いて、御子様の世話係となる私を研修のために派遣した次第で……」
私がそう説明すると、フォス先生は苦いお茶を飲んだ顔をした。
医師フォス。
彼はなぜだか子どもしか診療しない偏屈男として知られている。
街で病を診て評判を得たら貴族のお抱えになるのがこの国における医師の出世だ。なのにフォス先生は貴族の診療依頼すら断り、子供の治療は貧民のものでも請け負う。
子どもの診療を専門にする医師など前代未聞で、それでも患者が後を絶たない。なぜならそれほどまでにフォス先生が天才的な技術を持っているからだ。
赤子が亡くなるような病でもフォス先生だけはピタリと治してみせる。特にこの国の貴族の子どもは早くに亡くなる赤子も少なくない。
泣かなくなって静かなまま命を落とす。血の濃い貴族特有の遺伝病ではないか……と噂されることもある。
フォス先生はこんな病を患った子供は必ず完治させてきた。だからこそ偏屈な子ども専門医師であるフォス先生を貴族すら重宝するのだ。
「その貴婦人は適当なことを言って追い払われるとは思わなかったのかね?」
嫌そうな顔を隠しもしないでフォス先生はそう言い放った。腕をズボンに突っ込んだまま。
いい加減その手をズボンから抜いてほしい。
「保険のつもりなのでしょうけど……」
私の顔立ちは幼く見えるし背も低い。「子どもと勘違いされて、うっかり引き入れてもらえるんじゃない?」と王妃様は切れ長の鋭い目つきで言った。失礼極まりないけれど、ダメで元々ということだろう。
胡散臭そうに私を見下ろしてくるフォス先生はやっぱり子どもと間違えてはいない。
王妃様は今年で三十六歳。
側妃が御子を授かる中で、正妃である彼女だけは長らく子宝に恵まれなかった。皆が諦めつつあった中でようやく今年授かったのだ。万全を期したいに違いない。
そうして私がフォス先生の冷たい視線に耐えていると、足元で急に何かの泣き声が聞こえてきた。
声のした方へ視線を落とせば、門の陰に布を被せた小さな籠が置かれている。いつからあったのか、緊張のあまり今まで気づかなかった。
「また増えた。今年は不景気なのかなぁ?……泣かなくても歓迎するよ~」
間の抜けた口調でそう言うと、フォス先生はようやく手をズボンから抜いて赤子を抱き上げた。
そこで私は、ここが孤児院なのだと思い出した。
先程の涼やかな表情とは違う、優しげな目で、泣いている赤子を見つめている。
直前まで不機嫌な顔しか見ていなかった反動だろう、私はその穏やかな横顔からしばし目を離すことができなかった。
けれど、そんな優しげな目の下には疲労の隈ができていた。それに「また増えた」と言っていた。こうして増えていく孤児たちの世話に、彼は一人で忙殺されているに違いない。
……別に、彼に取り入る好機だと思ったわけではない。
でも、気づけば私の手が伸びていた。
「貸してもらえますか?」
差し出した両手に、彼は反射的に赤子を渡してしまった。
「あっ、ちょっと!」
我に返った彼が声を上げた時にはもう遅い。
赤子は私の胸の中で、ふっと泣き止んだ。そのままつぶらな瞳で私の方を不思議そうに見つめている。
「……私が赤ちゃんを抱っこすると泣き止むんですよ。あと、なんで泣いているか分かる体質なんです。どうやらお腹が空いているみたいですね」
赤子とフォス先生、二人に不思議そうな顔で見つめられる。
身分の低い私が王妃様から世話係として雇われたのは、この奇妙な体質に目を付けられたからだった。元々は城の下働きに過ぎなかった私を、王妃様が噂を聞いて引き抜いたのだ。
フォス先生は次第に怪訝な顔になっていく。
「そんな特殊な能力、聞いたことがないぞ」
「そう言われても……泣き止むものは泣き止むんです」
腕の中の赤子と私を交互に見ながら、フォス先生はしばし考えを巡らせ――やがて孤児院の方を指さした。
「とりあえずミルクをあげなければね。……君も入りなさい」
その顔には「これは使えるかもしれない」という期待が少し混じっていた。
門前払いされるはずだった小娘は、泣き止んだ赤子を通行証にして門をくぐり抜けたのだった。
通された部屋に入ると、乳飲み子用の籠が四つも並んでいた。今、五人目が加わった形だ。
「よく一人で四人もみてましたね」
「……日中は診療もあるから上の子たちがみてくれる。夜は……この子たちが交代で起こしてくれるから退屈しないんだ」
この部屋を見た後では、フォス先生の隈が痛々しく見えてくる。
五人目の子は私の宣言通り、ミルクを飲んだらすやすや寝始めた。しかし、入れ替わるようにして別の二人が泣き出した。泣いている子の一人を抱っこしながらフォス先生に言う。
「こっちの子は起きぬけで不機嫌なだけで、そっちの子はおしめですね」
相変わらず私に抱っこされた子はピタリと泣き止んで私を見つめる。その間に先生がおしめを替えると、乳飲み子の部屋はもとの静寂へと戻っていった。
先生は唖然とした顔をしていた。
私は赤子の背中を優しくトントンと叩きながら、おずおずと切り出してみる。
「お役に、立てそうですか?」
「……いや、全然役に立たない。さっきおしめ替えた子も『あいつ嫌い』って言ってた」
「どうしてそんなしょうもない嘘をつくんですか!!」
フォス先生は口を尖らせていたが、意を決したように私に向かって言ったのだ。
「……でも、高貴な人とやらに研修を命じられた人間を追い返すのも心苦しい。仕方がないからうちにいてもいいよ」
恩着せがましくそう言い切ると、先生は壁際の長椅子に横になった。
「とりあえず、一時間だけ。この子たちをよろしく……」
そして私が返事をする前に、先生は寝息を立て始めた。
心苦しいとか仕方がないとか言っていたが、四人の――五人に増えた赤子に起こされる生活がさすがに限界だったのだろう。
目の下に隈を作った彼の寝顔は赤子のように無防備だった。
篭絡を命じられた相手は『足だけ怪人』で、出会ってすぐに寝てしまった。王妃様へは「研修としてならいてもいい」と言われたことだけ報告しておこう。
◇
「なんで子どもしか診ないんですか?」
「だって、大人って嘘ばっかりつくじゃないか」
「それをあなたが言うんですか?」
フォス先生の生態その一。
しょうもない嘘ばかりつく。
「この前も子供たちが私のために森から採ってきてくれた木の実を勝手に食べてましたよね?」
「あの子たちが『あの姉ちゃんは嫌いだから先生にあげる』って言っていた」
「また嘘ばっかり……」
ここに住み込んで一ヵ月。
私は孤児院の子どもたちとすぐに打ち解け、あっという間に懐かれた。童顔で背が低いから親しみやすくもあったろう。
しかし一番の理由は私の特技で赤子の世話が抜群に楽になったからだ。先生が診療に出ている間、上の子たちがほとほと手を焼いていた赤子の世話は、私が来た瞬間になくなった。
子供たちは外で遊べるし森でおやつも採ってこれる。
その森で採れた木の実を、私のために持ち帰ってきてくれるほどには仲良くなったのだ。
……いつも先生に横取りされるけれど。
「孤児院長の僕にはなくて、ぽっと出の君にお土産があるのは不公平だ」
「不公平って……だからって勝手にとらないでくださいよ」
「とってない。妖精が持って行ってた」
「……『あのお姉ちゃんは嫌いだから先生にあげる』って言われたんじゃなかったんですか」
むすっとしながら木の実を頬張るフォス先生も私を追い出そうとはしない。
夜泣き対応から解放されて睡眠時間が確保できるようになり、フォス先生の目元の隈は無くなって顔色が良くなっている。感謝されていると思いたい。
切れ長の目が少しだけ穏やかに見えるようになって、元から整っていたきれいな顔が前よりも目について少し困る。
そんな彼がなぜか女性に言い寄られたりしないのは……奇行が多すぎるからだろうか?
フォス先生の生態その二。
たまに『足だけ怪人』になる。
「フフフフフ……まったく、つくづく悪い子たちだ!!」
両腕をズボンに突っ込んだまま高笑いしながら、フォス先生は朝から子どもたちを追いかけ回して散らせていく。
――そして、『足だけ怪人』になった日には必ず赤子を連れてくる。
私に向けられたことはない、ひどく優しげな眼差しを向けながら。
「また一人増えたよー。かわいい子だ。歓迎するよ~」
……住み込みで働いていると、早朝には門の外で誰かがそっと何かを置く物音が聞こえる日がある。
そんな朝に限ってフォス先生は『足だけ怪人』になる。怪人を演じて早起きな子どもたちを門から遠ざけては、誰もいなくなった門の前から赤子を抱き上げて連れてくる。
……自分たちがどうやってこの場所に来たのかを、子どもたちが思い出さなくて済むように。
もちろんフォス先生の奇行は美談で語られるものばかりではない。
私のおやつは勝手に盗み食いするし、突然大声で奇妙な歌を口ずさむし……。
貴族の使いが来たときに、私に「いない」と居留守を使わせるのは正直やめてほしい。
そうやって渋っても、患者が子どもだと分かった途端に最優先で診に行くのだ。
フォス先生の生態その三。
子どもの病気を診る腕は確か。
「庭の花を食べちゃったかな?あれには少し毒があるからね。吐かせて寝かせれば治るでしょう」
「熱が上がりすぎると体が震えることがあるんだ。流行り病だね。東方で使われているこの薬を飲ませて根気強く頭を冷やすんだ。他の医師の薬は飲ませないこと」
フォス先生は子どもの顔色を見ただけで、あるいは体に少し触れただけで、ピタリと病の原因を当ててみせる。
そして何度も往診しては、根気強く病を治す。
「……まるで魔法のようですね。特殊な力なんですか?」
「君の胡散臭い特技と一緒にしないでくれ」
「胡散臭いとは失礼な!どうやって見分けているのか分からないし、研修にならないじゃないですか!」
私が抗議すると、なぜだか彼は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「……前の孤児院長に叩き込まれたのさ。遠い東の国から来た爺さんでね。この国の医者が当たり前にやることをやらなかったし、効き目が薄い穏やかな薬ばかり調合する人だった」
「それで治るんですか?」
「すぐには治らなかった。だから今の僕と同じように、根気強く診てたんだ」
そう語るうちに、彼の目がどんどん怒りに染まっていく。
「あの爺さん、怒鳴るし手は早いし、診断を間違えたらいっつも頭をはたくんだ。そりゃ嫌でも覚えるよ。僕の願いなんてなにも叶えてくれないしさ……」
ぶつぶつと恨み節を並べるフォス先生は呆けた私の方を見ると我に返った。そして、バツが悪そうな顔をして答えた。
「数か月の研修で覚えられるようなものではないからね。君の主人の子どもが病気になったら、特別に僕が診に行ってあげるから」
特別もなにも、患者が子どもだったら誰でも放っておけないくせに……。
◇
そうして奇妙な住み込み研修を続けること、半年が経過した。
私は子どもたちに完全に懐かれ、姿を見せるたびに「ニーナお姉ちゃん!」と笑顔で飛びついてきてくれるようになった。フォス先生は相変わらずしょうもない嘘ばっかりつくし、相変わらず奇行に走る。
それでも出会った当初のように嫌そうな顔を見せることは無くなった。
最近では子どもが採ってきた木の実を半分くれるようになった。
……赤子が泣き止む便利なゆりかごだし、少しは労わっておこうという魂胆かもしれないけど。
そしてついに、王妃様が御子を無事にご出産なされた。
元気な男の子。いままで生まれなかった正妃の御子が生まれて王宮もお祝いムードだ。王妃様は御子を大事そうに抱えながら鋭い目つきのまま私に言った。
「あなた、あの医者を上手く誑し込んだのですってね。病気になれば診に来るとまで言わせたとか。良くやりました。これで備えは万全ね」
誑し込んだとは……『篭絡』の指示といい、王妃様はやはり私を踊り子か間諜と勘違いしているみたいだ。
とはいえ私の本来の役目は『王妃様の御子のお世話係』である。孤児院のニーナお姉ちゃんから王宮勤めに戻ることになった。
それでも「せっかく誑し込んだ偏屈医師に逃げられては元も子もない」という王妃様の指示で、通いで孤児院へ手伝いに行くことになった。
「世話係なら他にもいるけれど、あの医者との貴重な伝手はあなただけだものね」
と言う王妃様は相変わらずだ。
王宮勤めに戻ることをフォス先生に告げると、彼はぼそりとつぶやいた。
「そうか、赤子が寂しがるな……」
しょうもない嘘ばっかりつくこの人が漏らした本音に、私の頬は緩んでしまった。
「寂しがる赤子の世話をするために、毎日通いますから」
私は自然とフォス先生に笑顔を向けていた。
それからさらに半年ほどの月日が、大きな波風も立たずに過ぎていった。
御子はすくすくと育ち、今ではすっかり首も据わっている。けれど元気に育ったものだから、普通の赤子の三倍くらい力強く泣き叫ぶのだ。
私が孤児院から城へ戻ると、他の世話係に救世主のような目を向けられることが多かった。
孤児院でも王宮でも、私は赤子を黙らせる道具として重宝されるのだ。
夜の孤児院を一人で抱えることになったフォス先生は眠そうにしていることが増えた。初めに会った時ほどひどくはないけれど、御子が歩くようになるまでなんとか持ちこたえてほしい。
……と思ったけれど、御子が大きく育ったら、私はどうするの?
御子様が赤子の間は、王妃様も万が一に備えて、私を孤児院へ通わせておくに違いない。
――でも、そのあとは?
私はこの孤児院と子どもたちとフォス先生を置いて、また王宮勤めに戻るのだろうか?
その時、フォス先生は一体どんな顔をするのだろう。
……いや、そもそも私はどうしたいの?
あの孤児院が――そして、あの偏屈な先生の隣がただの職場ではなくなっていることに、私はようやく気がついた。
◇
最近、御子様のお世話を入れ替わるときに、他の世話係たちに以前ほど切羽詰まった顔をされなくなってきた。
御子様が癇癪を起こしづらくなってきたのだ。
「そういえば、そろそろ夜に良く寝る頃合いね」
私が抱けば赤子はいつだって大人しくなるため、あまり意識したことがなかった。あと数か月もすると、また夜泣きをする月齢になってくるんだけど……今は一時的に落ち着く頃合いなのかもしれない。
「お世話をしている赤ちゃんが落ち着いてきたので、これからはもう少し長く孤児院のお手伝いができるかもしれません」
喜んでもらえるかと思い、私は何気なくそんな話をフォス先生に振ってみた。ところがフォス先生はそれを聞いて険しい顔をした。
……私がいるのが嫌なのかな?
そんな私の不満はすぐに杞憂だと分かる。
「赤子が急に癇癪を起こさなくなるのは、必ずしも良いことばかりではないんだ」
……そもそも私の方を見てすらいなかった。分かっていたことだけど、いつでも子ども優先のフォス先生だ。
そして、フォス先生の懸念はすぐに現実のものとなる。
その夜、王宮にいるはずの同僚の世話係が孤児院にしずしずと入ってきたのだ。
「ニーナ、御子様がミルクを吸わなくなったの。お抱えのお医者様は『機嫌が悪いだけだ、よく眠らせれば朝には飲む』って、薬を多めに足していかれたんだけど……念のためにフォス先生をお連れするようにと言いつかって」
……薬?
御子様に薬を与えていたなんて、私はこの時まで知らなかった。何の薬を使っていたんだろう。
フォス先生は子どもたちと遊んでいたが、それを聞くとすぐさま往診の準備を始めた。子どもたちに断りも入れない。明らかに焦っていた。
「急ごう。走っていくぞ」
同僚の世話係が先導する夜道を、フォス先生と一緒に走る。
「そんなに急がれなくても……」と同僚は口にしたが、フォス先生は睨みつけて急かした。
しかし、走る途中でフォス先生の様子がおかしくなっていくことに気がついた。
王宮が近づくにつれて、どんどんと険しい顔になっていくのだ。
もともと色白のフォス先生の顔が青白くなっており、診察の前に倒れそうな勢いだ。
幾度も彼の往診に付き合って、真剣な表情で治療をする様子を見てきた。けれど、こんなに強張った表情の彼は今まで一度も見たことがなかった。
……私の雇い主が高貴な貴婦人だと伝えていたけれど、まさか王族だとまでは思っていなかったのだろうか?
でも、大貴族にすら居留守を使おうとする彼が、そんなことで緊張するだろうか。
案内された部屋につくと王妃様が御子様を見つめていた。
同僚の『念のため』という言葉とは裏腹に、顔面蒼白でいつもの鋭い目つきがどこにもない。
御子は赤子用の寝台で寝かされて静かに目を閉じている。
王妃様を見て一瞬ひるんだように足を止めたフォス先生だったが、御子の様子を見るとすぐに駆け寄って胸を触る。
「貴族の中では、こうして眠るように亡くなる子供がいるのです。様子を見た王妃様が心配されて……」
そう説明する私の同僚の世話係を、彼は睨みつけた。
「……宮廷医は貴族が好んで使う高価な『癇癪の薬』を与えたのか」
彼の剣幕に一歩後ずさった同僚は困惑しながら返事をした。
「ええ。他でも多く使用されている、実績のあるお薬で――」
「――二度とその薬を与えるな」
彼女の言葉を遮ったフォス先生は持ってきた鞄を置いて処置の準備を始めた。
「何をするんですか?」
私が尋ねると、フォス先生は手を止めずに答えた。
「無理にでも起こす。朝まで泣かせ続ける」
そんなフォス先生の言葉に同僚が驚いた顔をして、フォス先生と御子の間に割って入った。
「待ってください!宮廷医様は眠らせておけば朝にはミルクを飲むとおっしゃって――」
「――朝には死んでいる。このまま寝かしていると静かに息が止まって、二度と目を覚まさない。だから泣かせるんだ。泣いている間は息をしているから」
宮廷医様とフォス先生の意見がぶつかっている。
どちらを信じるか決められるのはこの部屋で王妃様ただ一人だ。
しかし、王妃様はどちらの言葉も聞いていないようだった。泣きそうになりながら、御子様だけを見つめている。
「……やはり私の血が」
王妃様のそのつぶやきに対して誰も何も言い出せず、沈痛な静寂が流れる。
フォス先生も王妃様の言葉に目を伏せてしまっていた。けれど、一度深呼吸をすると、意を決したように口を開いた。
「ちがう。これは、遺伝する病ではない」
「なぜ、そう言い切れるの……?」
縋るように聞く王妃様に、フォス先生は突拍子もない返事をした。
「――あるところに、うら若き貴婦人と下男の間に生まれた赤子がいたんだ。貴婦人がたわむれに作ってしまった、望まれない子」
突然何の話を始めたのか、私にはさっぱり分からなかった。同僚も同じような顔をしている。
しかし、ただ一人、王妃様の表情だけが氷りついたように固まった。
「その貴婦人は裕福で、貴族としての血も濃い。結婚前の醜聞はなんとしても避けたかったんだ。だから大量の支度金と泣き声を封じる高価な『癇癪の薬』を渡して、生まれた赤子を下男に押し付けた。赤子と下男を両方黙らせたのさ」
こんなときに何の話をしているのだろう。
けれど、その張り詰めた横顔は、いつものしょうもない嘘をついている時の空気ではなかった。
「その赤子は『癇癪の薬』で眠るように動かなくなり、孤児院に捨て置かれた。下男は貴婦人に『貴族によくある病で死んだ』とでも吹き込んだんだろう。そんな赤子は孤児院長――東の国からやってきた変わり者の爺さんの手によって一命を取り留めた」
東の国から来たお爺さん。
それは先生が話していた前の孤児院長だ。
だとしたら、その赤子は――。
「成長したその子は『望まれて生まれたわけではないから、僕はもう死にたいんだ』と爺さんに語った。でも爺さんはその望みを聞き入れなかった。
『お前は母親に会うべきだ。そして、会って思いを果たせ。そのための力を授ける』
そう嘯き、その子に厳しく医術を教えた。挙句の果てには『子どもたちを頼んだ』と言って無責任に往生しやがった」
そこまで語るとフォス先生は初めて顔を上げ、真正面から王妃様を見据えた。
フォス先生の目。どこかで見たことがあるような、鋭い目つき。
――まさか。
一介の侍女が想像していいことではない。それでも私の頭が一つの結論に達していく。
「そうして、その子は今、母親の目の前に立っている……だから、これは遺伝する病じゃない」
王妃様の震える唇が、何かを言いかけて閉じた。
フォス先生を見つめるその瞳は、私の知っている王妃様のものではなかった。その昔、手放したはずの赤子の面影を、目の前の男の中に探しているかのようだった。
隣では同僚が息を呑んでいる。彼女も気づいてしまったらしく、顔から血の気が引いている。
何が語られたのか、分からない人はもうこの部屋にいなかった。
誰も動けない時間が続いた。
その間も御子は静かに目を閉じたままでいる。
そんな中、動いたのは王妃様だった。
一度だけ強く目を閉じて、開きなおした。
そして寝台の御子様を抱き上げてフォス先生に差し出すと、王妃様が――本来誰にも頭を下げないはずの王族が、フォス先生に深々と頭を下げて言ったのだ。
「私のことは、どうとでもしてください。でも、この子だけは、どうか――」
フォス先生は、何も言わずに受け取った。
腕から重みが消えて、王妃様が顔を上げる。
――切れ長の鋭い目つきが交差した。
先生は御子様の胸に手を当てて、呼吸を聞き、そして足の裏をくすぐった。
静かに眠りかけていた御子様は、不快そうに目を開けた。
静寂に満ちていたこの部屋に、御子の泣き声が上がった。
彼は御子の涙をぬぐいながら、子どもにだけ見せる優しい顔で囁いた。
「僕がついている。だから――もう大丈夫だ」
◇
フォス先生はいつも通り、一晩中御子に張り付いて根気強く付き合った。
寝入ろうとする御子の息を確かめては、時折足をくすぐったりさすったりする。泣き声が部屋に響く。
王妃様は壁際に立ったまま、一晩中それを見ていた。泣き声が上がるたびに、肩が小さく揺れた。
私は部屋の隅から動けなかった。抱けば御子が泣き止んでしまう。半年間ずっと役に立ってきた私の手は、今夜だけは何の役にも立たなかった。
「……薬も抜けて、息も安定してきた。もう大丈夫だ」
フォス先生がそう宣言したのは、朝日が昇った頃だった。
「……ありがとう、ございます」
彼は御子を王妃様の腕に戻した。昨日、王妃様が彼の腕に置いたのと同じように。
フォス先生から御子を受け取った王妃様は、静かに泣いていた。その横顔は打ちのめされているかのようだった。そんな王妃様に同僚の世話係が付き添った。
「……上の子たちも、そろそろ限界だろうな」
フォス先生は王妃様には何も言わずに帰り支度を整えると扉へ向かった。
扉を開ける彼の背中は、不思議といつもと違って見えた。
王妃様には手の中で寝る御子と、そばに付き添う同僚がいる。
でも、部屋を出て行った彼には誰も付き添わない。
だから私は、王妃様に断りも入れずに彼の背中を追っていた。
私とフォス先生は何も言わずに孤児院への道を歩く。私は何も聞けずにいたし、フォス先生は「ついて来るな」とも「王妃の元へ帰れ」とも言わなかった。
それでも空には、すがすがしい朝日が昇っていた。
やがて、フォス先生はぽつりとこぼした。
「……癇癪の薬が良くないことは、この症状を見る度に広めて回っている。でも、偏屈扱いされるばかりでさ。みんな聞かないんだ」
独り言のようなそのセリフに、私も独り言のように返した。
「……宮廷医様ですら何度も処方していたのなら、聞く耳は持たれないでしょうね」
ましてや、癇癪の薬は高価だ。そんな薬を処方して『実は毒でした』などと、権威のあるお医者様は言い出せないだろう。
しかしそんな浅はかなプライドが、御子を殺しかけた。
「……でも、今回は聞いてもらえたよ」
そう言った彼は、なぜか少しだけ嬉しそうな顔をしていた。
……薬のことを聞き入れてもらえたのが、そんなに嬉しいのだろうか。
そんな私の疑問に返事をするかのように、彼は続けた。
「ちゃんとした母親になっていたじゃないか」
「……え?」
「本当は、くだらない奴のままだったら、あの子を孤児院に連れて行こうと思っていた。でも、プライドもかなぐり捨てて自分の子どもを優先してさ。ちゃんと、母親になっていたよ」
そう言った彼は、相変わらず嬉しそうな顔だった。
彼は泣いてなどいない。そして私の背よりも大きい。赤子ではない。
それでも私には――赤子の泣く理由が分かってしまう私には、彼の声が聞こえた気がした。
――その愛情のひとかけらでも、僕にも向いていたのかな?
気づけば私は背伸びをして、彼の頭を引き寄せ、胸元に掻き抱いていた。
「……」
彼は抵抗もしないし、何も言わなかった。
――私はどうしたいのか。その問いの答えは、私の胸の中にあった。
「子どもたちも――私も、あなたにいてほしいんです」
やがて、彼の手が私の背に回された。
朝日の下、孤児院の門の前で、私たちはしばしそのまま抱き合っていた。
◇
「あの偏屈男のところへ行きなさい」
というのは私の主である王妃様の言葉だ。私は御子のお世話係のはずなのに。
……解雇ということだろうか。昨日の一件で、王妃様を置いてフォス先生を追いかけた私の態度が気に食わなかったのか。
しかしそんな私の懸念は次の言葉で霧散した。
「……あの子を、よろしく」
御子様を抱いたまま、王妃様はぽつりとそう言ったのだ。
孤児院に着くと、フォス先生はなぜか扉を半分閉めたまま私を迎えた。事情を説明すると、扉の向こうから妙に堂々とした声が返ってきた。
「お礼の代わりに、君をもらい受けることにした。昨日の午後に来た使いに、そう答えておいた」
「え??」
「赤子たちが『あの人は嫌いだからおしめを替えさせてやる』って言うから」
……フォス先生は相変わらずだ。
「それにさ。あの人には、君もいなくて、癇癪の薬もない。それなのに、これから癇癪がすごいあの子の世話をしなければいけないんだ!ざまあみろ!」
……ふふっ。
まったく、この人ときたら。
「また嘘ばっかり」
そう言って、私は扉を開いて孤児院に入った。
すると扉の陰にいたフォス先生は、私が入ると同時に走って逃げていく。
そして、今度は赤子のいる子守部屋の扉の向こうに立ち、半分閉じた扉からこちらを窺っている――まるで、照れた男の子のように。
……子どもか!!
でも、仕方がない。手のかかる子どものお世話は、私の最大の取り柄なのだから。
それに――あの偏屈男を篭絡してきなさい、というのが私に下された命令だった。
私は扉の前に立ち、彼に詰め寄った。
「フォス先生?『もらい受けた』って、どういう意味で言っていますか?」
「それは……」
フォス先生が何かを言いかけたところで、私は扉を勢いよく開けてやる。
そして、呆けた先生の目の前に立って逃げ道を塞いでやった。
「『子守として』だと言うのなら、給金が良い王妃様の元へ帰ります」
私の言葉に、彼は視線を逸らしてしまう。
それでも耳を赤くしながら、切れ長の目を潤ませて、意を決したように言ったのだ。
「――伴侶として。君と、ずっと一緒にいたい」
――よくできました。
昨日のように、私は彼を抱きしめた。
「……私もです。嘘じゃ、ないですよ?」




