家族に殺される未来は、どうやら真逆になるようですね?
国の辺境に領地を持つ我がブラウアー伯爵家は古い慣習に囚われている、魔導師の家系だった。
現代では殆どが何の根拠もない迷信に過ぎないと証明されているような言い伝えすら信じ続けている我が家では……双子は凶兆。
生まれてすぐ、双生児の妹として生まれた私は殺され、双子の姉だけがその日生まれた単胎児として育てられるはずだった。
そうならなかったのは……姉であるヨゼフィーネとは比べ物にならない程の魔力を私が保有していたから。
長子の存在を重んじる我が家は姉を殺すという選択肢はない。
しかし魔導に通ずる家として誇りを持つ両親は、私の体をただ捨てるには勿体ないと考えた。
それ程までに、私が秘めた魔法の可能性は大きかったらしい。
結果、私には十六年という猶予が与えられた。
十五から入学できる王立魔法学園で一年間、魔法の基礎と技術を可能な限り詰め込んだ後、私の猶予は尽きる。
十六の誕生日を迎えた晩、私の体はヨゼフィーネへ与えられる。
何でも、古くから魔法に精通している我が家には精神を別の体に移し替える魔法が存在しているとか。
それを使ってヨゼフィーネの精神を私の精神に上書きさせ――私は消える。
空になったヨゼフィーネの体は病死した私の体として処分されるらしい。
幼い頃から聞かされていた事だったから、十五になった今更、思う事もない。
両親に沢山の愛を注がれて生きてきたヨゼフィーネとは違い、愛もなく、心を殺せと命じられて生きて来た。
ヨゼフィーネに渡す前に魔法で直せばいいからと、家族は私に暴力を振るう事で日々の鬱憤を晴らしていた。
物心ついた頃からずっと続くそんな日々の中、希望も絶望も生まれはしなかった。
ただ、ヨゼフィーネの未来に必要な準備を済ませるだけの『器』。
それだけ。
そしてその短い一生も、残り僅かまで迫っていた。
***
「……何だ、これは」
王立魔法学園に入学して二度目の試験。
その答案をうっかり落としてしまった私が、床を滑る紙へ手を伸ばせばそれより先に伸びる手があった。
恐らくは善意から拾ったのだろう。
しかしその拍子に目に入った点数を見た相手は怪訝そうに顔を顰めたのだ。
数学二十八点。赤点である。
答案を拾ってくれた男子生徒はまるでゴミを見るような目で私を見た。
「……レナータ・フォン・ブラウアー」
「はい」
「もしやとは思うが、これが貴女の試験結果だとは言わないだろう?」
「と……答案の名を見ればお分かりかと」
私の名を読んだ生徒が再び答案を見る。
残念ながら、そこに書かれているのは私の名である。
男子生徒は信じられない物を見るような目をした。
それから遅れて我に返ると、私に答案を渡す。
「……いや、すまない。その気はなかったとしても、不躾に答案を見て物申す方がおかしな話だ」
それはその通りだろう。
……と思いはしたが、そんな可愛げのない返事は出来ない。
「いいえ。お気になさらず」
「それにしても……まさか、魔法学で俺と競るだけの成績を残している優等生が…………」
余程衝撃だったのかもしれない。
普段は不愛想で有名なお方は、この時ばかりは思っている事をそのまま口にしてしまっているような言葉を零した。
ユーリウス・リンデンベルク公爵令息様。
入学試験、前回試験と殆どの科目で学年一位を叩き出す優秀なお方だ。
彼が唯一、一位を取れない科目こそが――魔法学。私が唯一、一位の席を保持している科目だった。
「魔法以外がからっきしなのです。ずっと魔法ばかりを学んでいるものですから」
「からっきしで片付けられる話なのか……? そもそも、これでは補習だろう」
「そうですね」
「そうですね、って…………」
ユーリウス様が呆然と立ち尽くしている。
『こんな生徒に俺は……』などという言葉が顔に書いてあるようだった。
「ご期待に沿えるような相手ではなく、申し訳ございません。しかし私が魔法以外でユーリウス様を越える事はないかと思いますので、ご安心ください」
私などを敵視する必要はない、と。
ただそう伝えるつもりだっただけの言葉は、何故かユーリウス様の気を悪くさせたらしかった。
普段、異性の視線を集める涼しげな顔のこめかみは血管が浮かび、ぴくぴくと動いていたのだった。
放課後。
私は図書館で多くの魔導書に囲まれながら魔法の勉学に時間を費やしていた。
しかし、共有スペースである大きなテーブルで読書を始めて程なくして、背後から大きな溜息と呆れるような声が聞こえる。
「魔導書よりも読むべきものがあるだろう」
声が聞こえた方へ視線を移せば、そこに立っていたのはユーリウス様だ。
彼は私の行いが理解できないと言いたげに鋭い視線をこちらへ向けていた。
「他を学ぶくらいならばその時間と労力で魔法を学べというのが我が家の方針ですので」
「……ブラウアー伯爵家か」
我が家の在り方や、それに絡んだ噂などは耳にした事があったのだろう。
ユーリウス様は腑に落ちたようだった。
「だとしても、いくら何でもこれは極端が過ぎるだろう」
「一般的に見ればそうかもしれませんが……それとユーリウス様に一体何のご関係が? 他の科目で点が取れなかろうとユーリウス様には何の問題もないでしょう」
私がそう返せば、ユーリウス様の眉間に皺が寄る。
「俺の格が下がる」
「はい?」
「魔法以外であんな点数を取るような生徒に唯一負けているという事実を受け入れたくない」
何という傲慢さ……という不敬な言葉を私が吐いてしまうより前。
ユーリウス様は突然私の隣に腰を下ろした。
「答案は」
「はい?」
「試験の答案だ。持っているだろう」
恐らくは出せという事なのだろう。
しかし何故そんな事を求められているのかが分からず、私はユーリウス様の顔色を窺う。
「……何故?」
「魔法の勉強がしたいのなら、補習何かに時間を取られている方が損だろう。補習についていける程度の知識くらいは詰め込んでおくべきだ。そのくらいなら手を貸してやる」
「何故?」
「今の話を聞いていたか?」
「いえ。何故……その様な助言と手助けを? 私が補習に時間を取られるのも、追試に苦戦するのも、次の試験で私を出し抜く為の要因になり得るでしょう」
純粋な疑問を投げ掛ければ、ユーリウス様が信じられない物を見るような目をする。
「何を言っているんだ、お前は」
「え?」
どれだけ呆れていても守っていた最低限の体裁をすら剥がれ、辛辣な二人称が出た。
恐らくはこれが彼の素なのだろう。
「そんな風に掴んだ勝利に意味はないだろう。俺は俺を負かしたお前に勝つ事に意味を見出しているのであって、万全ではないお前へ勝つ事に興味はない」
恐らく、彼は相当な変わり者だろう。
当時の私はそう考えていたけれど……その評価は数ヶ月後には覆る事になる。
彼はぶっきらぼうで不器用だが、その反面とても誠実で、世話焼きで……困っている人に手を差し伸べずにはいられないような人だったのだ。
「な、んだ……これは……」
さて。
補習に手間取られない方が結果的に利益を生むというユーリウス様の主張は一理あると判断した私は、彼に全科目の答案を見せた。
テーブルに広げられる試験用紙を見た彼が大きくよろけ、危うく椅子から転がり落ちそうになった。
「私の答案用紙です」
「よくこんな点数ばかりでそんなにも涼しい顔をしていられるな……!?」
私の試験結果は散々であった。
魔法学の座学の試験のみ満点。他の科目は地理のみが数点という差で辛うじて赤点を回避しているだけで――他はすべて赤点が確実であった。
「何だこのふざけた点数は」
「大真面目です。ほら、地理は赤点ではありません」
「誇らしそうにするな! 逆にどうして地理だけが悪足掻きしたような微妙な結果なんだ……っ! もっとあるだろう、優先すべき科目が!」
ユーリウス様には大変申し訳ないと思いつつ、愕然とし、大きく狼狽える彼の姿は、これまですれ違った際に見て来た『冷静沈着な公爵令息』としての姿からは大きくかけ離れており……少し愉快だと思ってしまった。
「……ああ、もういい。あれこれ言ってる時間が惜しい。明日から昼休憩と放課後は図書館に来い」
「承知しました」
こうして、私とユーリウス様は毎日顔を合わせる関係となった。
***
ユーリウス様の説明は端的で、非常にわかりやすかった。
どの科目も、躓いてしまった箇所は彼の説明を挟むだけで急に思考がはっきりとして、要点を得ることが出来る。
たまにユーリウス様の頭を抱えさせることはあったが、それでも私が理解できないままに放置される問題は一つもなく、最後には必ず私の理解が及ぶようになっていた。
お陰で補習は躓くこともなく、『この課題を終えたものから退室してよし』という性質の補習ではあっという間に教室を離れることが出来た。
勿論、追試も全て合格。こうして私の単位は守られたのであった。
……けれど、私とユーリウス様の関係はそこでは終わらなかった。
何となく、成り行きで、勉強の為に落ち合うという私達の日常は継続していたのだ。
私としては彼と会う事で困る事など何一つないので、敢えて関係の終わりを申し出るような事はせず……彼が言い出すまで待っていたのだが。
驚く事に、ユーリウス様自身も、この関係を切り上げるような提案をする事がなかった。
こうして気が付けば、私達は学友として良い関係性を築いていった。
私も彼も人付き合いが上手い方ではない。
愛想笑いすらあまりせず、口数も多い方ではない。
しかし、だからこそ、波長が合ったのかもしれない。
彼と過ごす穏やかな時間は悪くはなかったし、不意にあの鉄仮面が見せる感情の変化は面白いと思った。
「数学と歴史くらいはもう少し努力したらどうだ」
「数学は……確かに魔法の術式にも絡みますから理解できますが、何故歴史を?」
「魔法の起源、成り立ち、進化……それらの過程を頭に叩き込んでおくことで現代の魔法に応用を利かせることが出来るからだ。それに、人は過ちから発見をする事が多い。そして大きな過ちや罪程語り継がれる事が多く……そういう教訓を頭に入れておくことで実際に失敗を経ずとも、失敗を犯した時と同様の経験を容易に積むことが出来る」
「そうですか」
こういう価値観や他の勉学と魔法を関連付けられる彼の頭脳は、彼の魔法の性質にも表れているのだろう。
私もユーリウス様も魔法学の筆記試験は満点。
私達の成績の差は実技試験によって生まれていた。
私は高濃度、高精度、高火力という、生まれ持った魔法に有意な体質やセンスに重きを置いた魔法を得意とする一方で、ユーリウス様は知識や工夫、発想によって評価を得ている。
魔力量やセンスで私に劣るが、工夫や応用、知識によって身に付けた魔法の数だけならば、彼の方が上手と言わざるを得ないだろう。
「あまりピンと来ていないみたいだが、存外馬鹿にならないぞ。現実では失敗を許されない風潮にあるし、失敗する暇があるなら多くでも成功体験を積んでおきたいものだろう。そうして積み上げたものが、未来に生きるはずだ」
「……未来」
ユーリウス様はきっと、何十年も先を見据えて助言をくれているのだろう。
しかしそもそも、私は彼とは違う。
私に『未来』はない。
『私』に残された時間はあと半年程度なのだから。
「レナータ?」
私が余所事を考えて黙ってしまったからだろう。
ユーリウス様が不思議そうに声を掛けた。
「ああ、いえ……」
「あら。器」
何でもない、と応えようとした時だった。
私達の傍へ近づく声があった。
視線を移せば私と瓜二つの顔がある。
双子の姉、ヨゼフィーネだった。
顔は他者が見間違うほどにとてもよく似ているのに、髪型やアクセサリー、顔に施した化粧などから漂う華やかさが地味な身なりの私と対極的。
今の私達なら、誰もが一目で見分けるだろう。
「えっ、ちょっとそれ……何してるのぉ?」
ヨゼフィーネは図書館のテーブルに並んだ教科書を見て目を輝かせる。
おもちゃを見つけたような、無邪気な瞳だった。
「貴女もしかして、魔法以外の勉強をしてるの!? ちょっと、やだ。お父様とお母様からあんなに言われているのにぃ」
魔導書以外を広げる私を見たヨゼフィーネがこの後する事などよくわかっていた。
……帰宅後の自分の運命も。
私が魔法を学んでいなかった事を、彼女は嬉々として両親に告げるだろう。
どれだけ合理的な理由を並べようとも両親はきっと聞く耳を持たない。
帰宅した私に待っているのは恐らく折檻だ。
今更そんなものを恐れるような心は持ち合わせてもいないので、特段焦る必要もないのだが。
「ヨゼフィーネ嬢」
その時。ユーリウス様が静かな声でヨゼフィーネを呼んだ。
「ここは図書館だ。もう少しだけ声を落とすように」
「あら、申し訳ございません、ユーリウス様。愚妹が両親の言いつけを守らずに勉強をサボっていたものだからぁ」
「なるほど、貴女やご両親にとって、これは勉学ではないという訳か」
「勿論、ユーリウス様や私、他の者達にとっては大切なお勉強ですわ。けれど……彼女には魔法以外に取り得がありませんもの。他は何もできない出来損ないならば、唯一出来る事に注力しろという話も一理ある……というのが我が家の方針なんです。それよりも、ユーリウス様?」
ヨゼフィーネは甘い声でユーリウス様に近づき、彼の腕に自分の腕を絡ませようとする。
「愚妹なんか置いておいて、私にお時間を頂けませんかぁ? きっと、楽しく――」
しかし、ヨゼフィーネが何かを言うよりも先。
ユーリウス様はその腕を乱暴に振り払った。
「あっ、ゆ、ユーリウス様……!?」
「レナータ、来い」
「え?」
「放課後なら、中庭のガゼボが空いているかもしれない。場所を移そう」
ユーリウス様はテーブルに散らばっていた教科書を手早くまとめると席を立った。
それから彼は、ヨゼフィーネを鋭く睨み付け……
「異性の、それもより上位の者の体に許可なく触れるとは。我が国で伯爵位を持つ家の娘は皆こうなのか? 随分落ちぶれたものだ」
彼の言葉にその場の空気が凍り付く。
この学園に通う生徒の殆どが何かしらの爵位を持つ家だ。
勿論図書館の中には伯爵家の生徒もちらほらといた。
公爵家の嫡男であるユーリウス様の逆鱗に触れ、更に彼の中で伯爵家全体の評判が落ちようとしているその現場を、彼等は見過ごすことが出来なかったのだろう。
ヨゼフィーネに冷たい視線が突き刺さっていた。
「な、な……っ」
「行くぞ、レナータ」
「……はい」
顔を強張らせ、戦慄くヨゼフィーネを置いて、ユーリウス様は図書館を後にする。
私はその背中を追うのだった。
何だあの女は、と不機嫌さを顔に出し、ぶちぶちと文句を零す彼の姿を見ていれば、何故か心がスッと軽くなるような感覚を覚えるのだった。
***
翌日、案の定折檻を受けた私は痛む体を騙し騙し、学園で生活をしていた。
幸い、服で隠れるような場所にしか怪我はない。
制服の袖を捲ったりでもしなければ痣や切り傷も見えないだろう。
何でもない風に過ごす事にも慣れていたので、いつも通りの涼しい顔で私は昼休憩を迎える。
そしていつも通り図書館へ向かうと、ユーリウス様の姿があったが……そこに、先客がいた。
「ユーリウス。本当にないのかい? 望む事は」
「ありません。殿下ほどではないにせよ、我が家も大抵のものは手に入れられますから、困っていないですし」
「それは……そうだろうが。しかし、君が挙げた成果というのは……」
ユーリウス様と話しているのは金髪碧眼の美青年……この国の王太子であられる方と、そのご友人方だ。
ユーリウス様は王太子殿下の幼馴染であり、私と過ごす時間以外の殆どは王太子殿下やご友人達と学園生活を過ごしている。
彼等はユーリウス様にとって、気心知れた仲であった。
私は少し離れた場所から彼らが会話を終える機会を窺っていたが、それよりも先にユーリウス様が私の存在に気付く。
「殿下。先約がありますので」
「……ああ」
ユーリウス様の言葉で遅れて私の存在に気付いた王太子殿下はにこりと柔らかに微笑む。
私は深くお辞儀をしながらユーリウス様達へ近づく。
「すまない、レナータ嬢。約束の間に割り込んでしまって」
「いいえ。……あの、何か御用があれば私は外しますが」
「必要ない」
「……驚いたなぁ。こりゃ確かに……」
私の言葉を遮り、断言するユーリウス様。
そんな彼を見てご友人達のお一人が意外そうに呟いた。
しかしその言葉は何かを咎めるようなユーリウス様の視線によって遮られる。
「おおっと、悪ぃ悪ぃ」
「ふふ。これ以上長居をすると、ユーリウスが機嫌を損ねそうだ。邪魔者は退散しようかな」
「殿下」
「これも失言かい? 厳しいね。まぁ……報酬については前向きに考えておいてくれよ。君の望みならば出来得る限り手を打つから」
「身に余るお話です」
「謙虚だなぁ。……それじゃ」
王太子殿下は他のご友人達を連れて去っていく。
その姿が見えなくなってから、私はユーリウス様へ視線を戻した。
「よろしかったのですか」
「構わない。大した話ではない」
王太子殿下が直々に……というのは大した話になるのではと思いはしたが、何やら彼が顔を顰めたままそわそわとしていたので、下手に口を挟むのはやめておこうと考えた。
「……そうですか」
私は抱えていた教科書をテーブルに置く。
その際、傷を負っていた腕が痛んだ。
けれど痛みに反応を示すような事はしなかった。
少し、慎重に動いただけ。
……それだけだったのに。
「待て」
ユーリウス様は教科書を私の手から離させ、真剣な面持ちで私を見た。
「怪我をしてるのか」
「……え」
驚いた。
今まで、誰だって気付かなかった。
自分自身も上手く隠せていると思っていた事が、こんなにも簡単にバレるだなんて。
「腕を痛めているのなら、この数の本は無茶だろう」
「いえ、別に怪我なんて……」
咄嗟に嘘を吐いた。
家族からの暴力を告げ口すれば、より激しい暴行を受けるだろうと悟っていたし、何より……怪我を理由に、この勉強会の時間が潰れるのを惜しいと思ったのだ。
それが悪手だった。
ユーリウス様の目の色が変わる。
鋭く細められた目。
彼の纏う空気が変わったと思った次の瞬間……私は制服の袖を少し捲られた。
やや長い黒髪の下、青い瞳が私を映す。
「怪我なんて……何だ?」
誤魔化そうとした事も見透かされているだろう。
そう確信する視線を受ければ、私は何も言えない。
私達は暫く、静かに見つめ合った。
やがてユーリウス様は深く長い息を吐いて、席を立つ。
嘘を吐いた事を怒っているのだろうか、そんな焦りから何か声を掛けようとした。
しかしそれよりも先にユーリウス様が口を開く。
「医務室に行くぞ」
偶然にも医務室の中は空いていた。
養護教諭は離席中のようだ。
使った備品は後で報告すればいいだろうとユーリウス様は判断した。
彼は私をベッドに座らせると、腕の治療を始める。
自分でやると断ろうとしたが、片手が塞がったままよりも別の者がやった方が早いだろうとユーリウス様は首を横に振った。
「他は?」
手早く腕の手当てを終えたユーリウス様が問う。
「言っておくが、適当な事を繰り返し言われるのはあまり好きではない。そんな事をされたら付き合い方を考えるかもしれない」
先回りされた発言は、私を躊躇わせるには充分過ぎた。
開きかけた口が一度閉じ、その後訪れる静寂を恐れた私は再び口を開き……。
「……背中が、痛いです」
ユーリウス様は目を瞬かせた。
それから……何故か、とても優しい笑みを浮かべる。
「そうか」
彼は手当てした腕を優しく撫でる。
「お前が隠したい事なら、敢えて事を荒立てようとはしない。俺は……あくまで他人でしかないからな。だが」
ああ、人は瞳だけでこんなにも心が通わせるのだと。
この時の私は少々場違いな事を思っていた。
「その隠し事を明かされるのも、この関係の終わりを惜しまれるのも――悪い気は、しないな」
――青い瞳が、とても優しく私を映してくれていたから。
それから彼は、医務室に戻って来た養護教諭に私の治療を任せ、廊下で待ってくれていた。
治療を終えた私はユーリウス様と合流し、その後は他愛もない話をして時間を過ごした。
***
生まれてからの十五年という時の流れに比べて、最後の一年はあまりにあっという間だった。
ユーリウス様との勉強会を始めてから、私はどの科目でも補習を受ける事は無くなっていた。
魔法学の成績も落とさなかった。
途中、魔法の勉学を怠っている訳ではないという証拠を携えた上で、他科目も最低限勉強する事の有用性を両親に説いたお陰で、以降、私が魔法の勉学を疎かにしているという理由で折檻を受ける事は無くなった。
そして……誕生日の前日。
放課後、図書館の前にやって来た私は、何故か不満そうな顔で扉の前に立っているユーリウス様を見上げていた。
「あの……ユーリウス様? お勉強は」
「今日はしない」
「え?」
「代わりに付き合って欲しいところがある」
そう言われ、私はあれよあれよという間に……街まで連れ出されていた。
沢山の屋台やお店が並び、多くの人々が行き交う街。
普段は馬車で横切る事しかない風景が目の前に広がっていた。
「あまり行かないのか」
「降りたのは初めてです」
「……そうか」
ユーリウス様は何かを憂いるように小さな相槌を打つと、私へ手を差し出した。
「初めてなら、迷うかもしれないだろう」
「子供扱いですか?」
多少不服ではあったけれど、差し出された手に触れたいという欲に負け、私はその手を受け取る。
それから私達は、街を遊び歩いた。
屋台の物を食べたり、服を見たり、大道芸を楽しんだり。
時間はあっという間に過ぎた。
気が付けば空は赤く染まっていて。
「……綺麗」
そんな感想がぽつりと漏れる。
いつも見るような、変わり映えしない空のはずなのに。
不思議とその夕焼けが輝いて見えたのだ。
視界の端、ユーリウス様が優しく目を細めるのが映った。
「何か、欲しいものはないのか」
「え?」
随分突然の問いに私は驚く。
「色々と見て回っただろう。いくつか買ってやってもいい」
「そんな。必要ありません」
「……そうか」
どうせ明日いなくなるような存在だ。
それに、家族からすら蔑まれるような私に、他者から施しを受ける程の価値があるとも思えなかった。
お金が勿体ない。
純粋にそう思った。
「なら、少しだけ付き合ってくれ」
ユーリウス様はそういうと屋台に並ぶアクセサリーを物色し、一つを選んで購入する。
庶民でも買えるような、公爵家の跡取りが買うには少々見劣りしそうなもの。
彼の瞳の色によく似たガラス玉を鎖で括りつけただけのネックレスだった。
それから私達は、空いているベンチを見つけて、並んで腰を下ろす。
ユーリウス様は購入したネックレスの石を指先で転がしている。
そんな彼の横顔を覗き込んでいるとぽつりとユーリウス様が言う。
「地理が少しだけ得意だったのは」
「え?」
「どこかへ、逃げたかったからではないのか」
何の脈絡もない問いだった。
けれど何故か……鼓動が激しく高鳴る。
「最初に勉強を見ていた頃。魔法以外の勉強は講義以外に受けていなかったはずなのに、地理だけは少しだけ点が良かっただろう。同じだけの労力で学ぶなら、興味があるものの方が覚えが良くなるのは、当然だ」
「……偶然では」
「そうか? 俺には……お前のその表情が、自分すらわからないと言っているように見える」
ユーリウス様が私の頬に手を伸ばす。
酷く優しい感触と温もりが伝わる。
これまで感じた事のないような感覚が襲って、危機感を覚えた。
これは――今、気付いてはいけない感情だと。
「ユ、リウス……さま」
「今、まだ整理がついていないのだとしても……どうか覚えていて欲しい。逃げたいと……助けてくれと、ただそう言ってくれればいい。そうすれば俺はどんな時だって助けになろう。約束だ」
溢れそうになる感情をどうにか堪える。
口を引き結び、恐れている感情に必死に蓋をする。
けれど……そんな私の気など、彼は知る由もない。
「それと、これを」
「これは……」
ユーリウス様は持っていたネックレスを私に握らせた。
「どうやら明日、歳を重ねるどこかの御令嬢は、俺にパーティーへ来て欲しくない様だからな。今日渡してやろう」
ユーリウス様の言葉の意図が分からず私は目を丸くしたまま首を傾げる。
すると何故か不服そうな顔をされた。
「明日、誕生日なんだろう。お前の姉の方が騒いでいた」
「……あ」
漸く私は思い至る。
明日、我が家では誕生日パーティーが開かれる。
毎年行われている……ヨゼフィーネの誕生日パーティー。
私は病弱で人混みを嫌う娘という理由を付けられ、部屋に押し込まれて来た為、誕生日パーティーに出席した事がなかった。
しかし家の事情を知らない者からすれば、双子の姉が誕生日パーティーを開くのだと嬉しそうに語っていれば勿論、同日に妹のパーティーも開くつもりなのだろうという考えに至るのは至極当然の事だった。
ユーリウス様は、私が自分の誕生日パーティーに招待してくれなかったと考えたのだろう。
つまるところ彼は、拗ねていたのだ。
……という考えが纏まるのに十秒程はかかり。
呆然とした私はやがて、小さく吹き出してしまう。
一度吹き出してしまった笑いは尾を引いて私に付き纏い、私は何とか声を押し殺しながらも前のめりになりながら笑い続けた。
「おい」
「す、すみませ……っ、ふふっ」
「おい。一応直前に良い事を言ったつもりなんだが」
ユーリウス様が恥ずかしさから顔を歪ませる。
答案を拾ってくれたあの日まで、彼がこんな顔をするような人だとは思わなかった。
そして十六年という短い生涯の中、こんなにも笑える日が来るとも思えなかった。
「誕生日パーティー、ないんです」
「は?」
「私のパーティーはやらないんです、毎年。だから誘えなくて……申し訳ありませんでした」
ユーリウス様の顔が強張る。
私とヨゼフィーネの扱いの差。私が家でどんな扱いを受けているのか。
薄々は感じていただろう。
けれど私の方から我が家の暗い部分に触れたのは初めてだった。
「いや……それはお前が謝るような事では…………」
なんと声を掛ければよいのかと、ユーリウス様が視線を巡らせる。
困らせてしまったのだろう。彼が気に病まないよう、話題を変えるべきかもしれない。
そんな私の心配は杞憂に終わった。
「いや。辛気臭さはいらないな。レナータ、貸してくれ」
ユーリウス様はそう言って笑みを深めると私に渡したネックレスを手に取り、私の首に掛けてくれた。
「これに魔法を掛けておいた。もし逃げ出したいと……助けて欲しいと思った時はこれを壊してくれ。壊れたネックレスの反応を追って必ず駆け付ける」
それから私と向き合い――
「――誕生日おめでとう、レナータ」
眩い笑顔と共に祝福を告げる。
実際には一日早くて、くれたネックレスは貴族が見れば無価値に映るかもしれないもので、彼がくれた言葉はきっと、多くの人が聞き慣れているような言葉で。
けれどこの瞬間、彼が私に与えてくれたものはどれもが私にとっては初めてで、かけがえのないものばかりだった。
こんな私が生まれた事を、生きてきた事を喜んでくれる人がいる。
その事実が、どれだけ……どれだけ嬉しい事か。
一度は耐えた感情が溢れ出す。
瞳から大粒の涙が零れていく。
この十六年はきっとこの瞬間の為にあったのだと。
――生きてきてよかった、と。
心の底から思えた。
「……こんなに喜ばれるなら、もっときちんと用意をすればよかったな」
パーティーに誘って貰えないような人間が高価なものを渡しても重すぎるかと思ったのに、と自分の判断を悔やむ彼を笑う余裕など私にはなくて。
「ありがとう、ございます……ユーリウスさま」
「勘弁してくれ、こんなに格好がつかない事もそうそうないんだ」
「そうでしたっけ……?」
「おい」
「んっ、ふふ……」
ユーリウス様がハンカチで私の頬を拭ってくれる。
私はそれに甘えて目を閉じた。
「明日、きちんとした物を渡させてくれ。それとは別に」
――明日。
その言葉に胸が痛む。
「……お気持ちだけで充分ですよ」
「いや、俺の気が――」
私の返答に不満を顕わにするユーリウス様だったが、その言葉を甲高い声が遮った。
「いたわ!!」
聞いた瞬間にわかった。
この幸せが終わるのだと。
「ちょっとアンタ、一体何処をほっつき歩いてたの!? 器の分際で、私達を困らせて――」
声のする方には怒りの形相のヨゼフィーネがいた。
普段ならばもう帰宅する頃合い。それもよりによって誕生日の前日だ。
帰りが遅い私に気付いた家族達が、私が逃げたのではと焦るのも当然の話ではあった。
ヨゼフィーネの怒りを見たからだろう。
ユーリウス様が私の前に出ようとした。
「ユーリウス様」
そんな彼を私は止める。
「レナータ、だが……」
「問題ありません」
それから私はユーリウス様に頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。とても、楽しかったです」
今日だけではない。
彼と出会ってからの日々が、私には十五年以上の価値があったのだと……今日、それに気付けた。
だからこそ胸は酷く痛んだが、それでもこの想いに気付けて良かったと思う。
「っ、あ、あら、ユーリウス様。ご機嫌よう」
遅れてユーリウス様に気付いたヨゼフィーネが慌てて取り繕う。
ユーリウス様は返事をしなかった。
「お邪魔をしてしまい、申し訳ございません。この後、用事があったものですから」
「彼女は俺が連れ回しただけだ。そうとは知らず、すまなかった」
「いいえ、いいえ。それでは、失礼いたします」
ヨゼフィーネが鋭い視線で、先に馬車へ向かうよう促す。
私は最後にユーリウス様に一礼し、『さようなら』という想いを込めて微笑んでから――その場を後にするのだった。
***
翌日。
私は家から出してはもらえなかった。
前日に私の帰りが遅かった事から、『もし逃げられたら』という危機感を煽ってしまったのだろう。
あの日、ヨゼフィーネが駆け付けた時点でこうなるだろう事は何となく悟っていた。
だからこそ、ユーリウス様に遭うのもあの瞬間が最後だろう……と、覚悟を決めることが出来たのだ。
出入口に監視を付けられ、日が暮れるまでを自室で過ごす。
そして日が暮れた頃。パーティーの前。
私は全身の治癒魔法を掛けられてから、家族達と共に家の地下にある隠し部屋へ連れて行かれる。
ひんやりとした空気が漂うそこには禁忌とされる魔法を扱う為の魔法陣が至る所に散見される。
その中で最も大きい魔法陣が部屋の中央に描かれていた。
「乗れ」
父に命じられた私は魔法陣の上に乗る。
「ヨゼフィーネ、ついによ。長かったわ」
「ええ、お母様」
母とヨゼフィーネが抱き合っている。
それから、ヨゼフィーネが嬉々として魔法陣の上に乗った。
(ああ、ついに)
私は自身の生の終わりを実感する。
父が杖を構え、難解な呪文を唱える。
真っ黒な泥のような何かが魔法陣から溢れ出し、私達を包み込んだ。
ぐにゃりと視界が歪む。
平衡感覚が失われていく。
頭の中に、自分が持ちえない思想や価値観、記憶が流し込まれる感覚があった。
そうして人格が壊れていくのを実感して、私は……
……ユーリウス様の笑顔を思い出していた。
どうして、こんな時に思い出してしまったのだろう。
だって、思い出してしまったら……思ってしまう。
――死にたくない。
(……嫌だ)
まだ彼の傍に居たい、彼を感じていたい。
そんな欲求が溢れ出した。
その時だった。
無意味にもがく両手の下で揺れるネックレスを見つける。
ユーリウス様がくれた、最初で最後の誕生日プレゼント。
――もし逃げ出したいと……助けて欲しいと思った時はこれを壊してくれ。
――必ず駆け付ける。
彼の言葉が過る。
今、彼の言った通りに動けば……私は助かるかもしれない。
そんな考えが過った。
私は咄嗟にネックレスを掴む。
けれど、彼の瞳とよく似たガラス玉を掌で包み込んだ瞬間……。
昨日の彼の笑顔や、これを付けてくれた時に芽生えた感情を鮮明に思い出してしまう。
だからこそ悟ってしまった。
(…………壊すなんて、出来ない)
初めて貰った形ある幸せは、私にとってあまりにも大きすぎる存在だった。
私は大切に、ガラス玉を握る。
「ばかだなぁ……」
こんな選択をした事を知れば、きっと彼は怒るんだろう。
『こんな事なら渡すんじゃなかった』と何度も見た呆れ顔で告げる彼の顔を思い浮かべて、小さく笑ってしまいながら、私の意識は……
――闇の中、静かに呑まれていくのだった。
***
祝福のムードに包まれたパーティー会場の隅にユーリウスは佇んでいた。
ブラウアー伯爵邸。その長子であるヨゼフィーネの誕生日パーティーに彼は訪れていた。
ヨゼフィーネに何故か気に入られた彼の家には、ヨゼフィーネからの招待状が届いていたのだ。
本来ならばわざわざ訪れるつもりもなかった。
しかし今日会えると思っていたレナータが学園を休んだ事で、渡そうと考えていた贈り物が手元に残ったままだったのだ。
彼女の家族に交渉すれば、レナータに一目会う事くらいできるのではないか。
そんな期待から、彼はヨゼフィーネの誕生日パーティーに訪れていた。
ユーリウスはポケットの中に隠し持っていたケースを取り出す。
蓋を開ければ、そこにはダイヤモンドがあしらわれた指輪が収まっている。
婚約指輪を渡したい、と友である王太子に告げれば仰天された挙句『重すぎる』と若干引かれたが、そんな言葉で『ならやめておくか』という考えに至る程度の想いではなく。
王太子や他の友人に呆れるような視線を向けられながらも贈り物にこの指輪を選んだのだ。
元々、何度か店に足を運んでは物色するようになっていた事もあり、指輪の購入に時間はかからなかった。
……いつか言おうと考えていたのだ。
ただユーリウス自身が素直に想いを口にできるような質ではない事と、レナータの気持ちが読めなかった事から、言い出す機会を失っていただけで。
しかし昨日、ただのガラス球にあんなにも喜ぶ彼女の笑顔を見て気が変わった。
あの笑顔をもっと見たい。
あんな風に彼女が笑える場所を作りたい。
彼女を……守りたいと。
断られてもいい。そんな事で自分の思いは変わらないし、想いを告げた事を悔やむ事もないと確信が持てた。
もし彼女の心がまだ自分の元にないのだとしても、いつか振り向かせればいいだけだ。
そしてまずは何よりも――彼女を守る事。
彼女が家で虐げられている事には気付いている。だからこそ、まずは彼女の幸せを奪うような環境に対し、公爵家の者として牽制することが先決だ。
そういう意味でも婚約という選択はユーリウスにとって最善のように思えた。
(……と、思いつつも、どこかで期待してしまうのはやめられないか)
僅かに速まる鼓動を感じてユーリウスは苦く笑う。
誕生日を祝い、とっておきの贈り物をする。
その先で彼女が見せてくれるかもしれない笑顔が待ち遠しいと思った。
その時だ。
「ッ、ユーリウス様!」
ユーリウスの耳は聞き覚えのある声を拾う。
しかし、同時に妙な胸騒ぎを彼は覚えた。
その口調、声色に僅かな違和感を覚えた。
顔を上げる。
笑顔で駆け付けて来る少女がいた。
普段の身なりとは掛け離れた、豪奢なドレスとアクセサリーで美しく着飾った姿。
たとえ格好が異なろうと、瓜二つと謳われる家族がいようとも、見間違えるはずもない。
――レナータだ。
「まさか本当に来てくださるなんて! 嬉しいですぅ」
自分の前で足を止める少女を見てユーリウスはすぐにそう思った。
だが……彼女が見せる振る舞いが、表情が、言葉が。
その全てが――あまりに彼女らしくない。
「お前は…………誰だ」
嫌な予感が膨れ上がる。
レナータの顔はきょとんとした後、満面の笑みで答えた。
「ヨゼフィーネですわ」
彼女の首元には別のネックレスが付いていた。
それからの事を、ユーリウスはあまり覚えていない。
ヨゼフィーネと名乗った彼女がとても嬉しそうに話していた。
それに上の空で返答をしながら状況を整理しようと頭を働かせ続けていた。
しかしそんな彼の思考すら奪うようにヨゼフィーネが聞いた。
「これ、ユーリウス様が妹にあげたものなのですか?」
そう言いながら彼女は握っていたネックレス……傷一つついていないそれを差し出す。
それを見て、ユーリウスの嫌な予感は更に大きくなった。
確かにそれは昨日、ユーリウスがレナータに与えたものだった。
認めると、ヨゼフィーネが言う。
「やっぱり! あの子、今は体を壊して部屋にいるんですけど。これは安物だからいらないと私に押し付けてきたんです。でも、私は……これはお金以上にきっと素敵な価値があると思って、とっておいたんです。ねぇ、これ、私がいただいても良いですか?」
勝手にしてくれ、とこれ以上の会話を拒絶したかった。
何が起きているのか、考えを整理したかった。
しかしそんな中でも過ったのは、レナータが無事かもしれない可能性だった。
もし彼女が本当に部屋にいるのならば、このネックレスを彼女の手元に戻せるのは家族以外の人間だけだろう。
そんな、現実逃避のような考えからユーリウスは、「貸していただけだから、返してくれ」と答えた。
***
レナータの死が告げられたのは、その数日後の事だった。
死因は流行り病による急死。
元々体が強くなかった事もあり、突然息を引き取ったと、そんな風に伯爵夫妻は告げたそうだ。
彼女の葬式は小さな教会で執り行われる事となっていたが、ユーリウスは伯爵夫妻に無理を言って参列の許可をもらった。
葬儀の日。
ユーリウスは教会へ向かう前に王宮へ訪れていた。
王太子を待っている間、彼はヨゼフィーネから取り返したネックレスをぼんやりと見つめていた。
脳裏では、あの日のレナータの泣き笑いが過る。
(…………気付いていたはずだ)
彼女が抱えた傷に、彼女を取り巻く環境がどうしようもなく汚れていた事に。
それでも踏み込めなかったのは自分が彼女にとって他人でしかないと感じていたから。
あの日、たかだかガラス玉一つに涙を流す程喜んだ彼女の様子が、普段とは違っていた事もどこかで悟っていたはずだ。
(気付けたはずだ。……こんなものでも、彼女は大切にしてしまうだろうと)
「……こんなもの、いくらでも買えるというのに。お前が望むなら、何だって用意してやれたのに」
呆れるような作り笑いを浮かべるも、吐き出した皮肉はどうしようもなく震えていた。
あの日、『明日、伝えればいい』などと考えずに想いを伝えていたなら。
もっと彼女を問い詰めていれば。
去っていく彼女を見送らず、その手を掴んでいたならば。
(俺なら、彼女を助けられていたはずだ)
ユーリウスは過去の自分の判断の甘さに沸々と沸き立つ怒りを覚えていた。
「ユーリウス」
ユーリウスが追い詰めていると、そこへ王太子がやって来る。
「すまない、遅くなった」
「いいえ。……こちらこそ突然の訪問にご対応いただきありがとうございます」
「……葬儀は今日だったね」
既に喪服を着ているユーリウスを見て王太子は顔を曇らせる。
「……ろくに寝ていないな。そんなにも憔悴した君を見るのは初めてだ」
「そうでしょうか。あまり実感はなく」
ユーリウスはそう答えたが、事実、彼の顔色は悪く目の下には深い隈が刻まれていた。
そんな友を案じ、王太子は顔を曇らせる。
「気に病むなというのが無理な話だという事は分かっているが……」
「……殿下」
ユーリウスを労わろうとした声を彼は静かに遮った。
「何だい」
ユーリウスは項垂れたまま続けた。
「…………報酬の話を、させてください」
以前から王太子側から持ち掛けていた話題。何度も彼自身が突っぱねていた話だった。
王太子は驚き、両目を見開く。
初め、憔悴した友が冷静さを失って無理難題を口にするのではという考えが彼の中で過った。
しかし王太子はすぐにそれを改める。
青い瞳が真っ直ぐと王太子を見ていた。
その顔には激しい悲しみや怒りが入り混じっていた。
けれど同時に……強い決意が見て取れた。
それは自暴自棄の類ではない。
確かな理性を以て、彼は発言していた。
「……一体どんな考えに至ったんだか」
王太子はこれまでの学園生活を思い出す。
レナータと出会ってからのユーリウスは目まぐるしく変わっていった。
長い付き合いの中、見せたこともないような表情を何度も目の当たりにするようになったし……今、この瞬間だってそうだった。
(彼女が現れてから、僕も驚かされっぱなしだな)
「いいよ。話してごらん」
王太子はユーリウスの頼みを聞く。
ユーリウスから聞かされる話は想像していなかった事ばかりで、中には随分な無茶をさせると言いたくなるような事もあった。
しかし王太子は彼がそれらを望む理由も全て聞いた上で、喜んで引き受ける事にしたのだった。
***
葬儀に参列したユーリウスは棺の中で眠る少女に花を手向けながら思った。
(やはり、これはレナータではない)
いくら双子と言えども、顔付き、身長、体型、その全てが全く同じわけではない。
ユーリウスはレナータを深く想っているからこそこの違いをすぐさま見抜くことが出来た。
やがて棺は蓋をされ、教会の墓地の一角に埋められる。
「そんなぁ……」
わざとらしく目元をハンカチで拭うヨゼフィーネの目からは涙が溢れていない。
それを視界の隅に捉えながら、ユーリウスは葬儀を終えた教会を後にした。
(……今回ばかりは俺が理屈的な魔導師でよかったと言わざるを得ないな)
魔法学に於いて、センスがある者とそうでない者との差は大きい。
だからこそ、ユーリウスが知識や理屈で実力を伸ばしてもレナータに追い付くことが出来なかった。
だが逆に……レナータのような直感で成功してしまう天才型は魔法の仕組みを細かく細分化する感覚を養う必要がなく、魔法の性質や仕組みを深く掘り下げる事が不得手になりやすい。
そして一見、未知の魔法に出会った時……その正体を掴みやすいのは――ユーリウスのような秀才型の魔導師だ。
だからこそ彼は、あの誕生日パーティーで絶望を覚えた日から考え、足掻き続け――ある活路を見出していた。
(絶対に、取り戻してやる)
思い出すのは、レナータの笑顔ばかり。
それを思い浮かべるユーリウスの瞳は強い決意で燃えているのだった。
***
「すごい! 本当にすごいわ、お父様、お母様!」
レナータの葬儀から一ヶ月が経った頃。
ブラウアー伯爵邸の中庭で、ヨゼフィーネは数々の難解な魔法を扱っては興奮していた。
「本当に良かったわ、ヨゼフィーネ」
「ああ。十六年……忌み子による災厄に怯える日々ももう来ないと思えば、漸く一息つけるというものだ」
「こんなに立派な魔導師になったのだし、あの魔法がバレる心配もなくなったのだから、婚約者を探してもいいのよね?」
「そうだな。お前に見合うような相手を探さなければ」
「それなら私、リンデンベルク公爵家のユーリウス様がいいわ! 彼は顔しか取り柄の無いような器を相手にしてくれたくらいだもの、私の事もきっと大切にしてくれるわ」
「ああ、そう言えば葬儀にも来ていたな。そういう事ならばさっそく文を用意し――」
親子が満面の笑みで話している最中。
「っ、旦那様!」
ブラウアー伯爵邸の門番が駆け込んでくる。
「何だ、騒々しい!」
「申し訳ありませんっ、しかし――王宮の騎士団が門を開け、取り調べに応じろと……ッ!!」
「な……っ」
ブラウアー伯爵夫妻とヨゼフィーネは一斉に顔を強張らせるのだった。
開いた門から真っ先に中へ飛び込んだのはユーリウスだった。
彼はヨゼフィーネの腕を掴むと捻って後ろに回させる。
「動くな」
「ゆ、ユーリウス様……!?」
「俺だって傷付けたい訳ではない。――レナータの体をな」
「な……っ」
「っ、突然なんです!? 我が愛娘をそのように乱暴に扱い――」
「静粛に」
ブラウアー伯爵が声を荒げ、ユーリウスを批判する。
しかしそこへ新たな声が降った。
声がした方を見たブラウアー伯爵夫妻、そしてヨゼフィーネは瞬く間に顔を青白くさせる。
穏やかな微笑みを浮かべて佇んでいたのは王太子だった。
彼は持っていた調査書を彼等へ突き付けた。
「貴方方には禁忌の魔法を用いた嫌疑がかけられている。大人しく捜査に協力いただきたい」
「そ、そんな……っ! こんな乱暴に押し入ることが許されるのですか!?」
「残念ながら、裏付けも取れているからね。教会と医師の協力により、貴方方がレナータ嬢と呼んだ彼女の体が病に侵されていなかった事は明らかとなった」
「ぐ……っ」
異を唱えるブラウアー伯爵家の者達を差し置いてずかずかと足を踏み入れる騎士達。
それを見たブラウアー伯爵はあろう事か魔法を使おうとした。
詠唱は非常に小さな声で行われたが、それにいち早く気付いたユーリウスは無詠唱で魔法を扱う。
どこからともなく生まれた氷がブラウアー伯爵夫妻の体を包み込み、その口をも覆った。
「公務執行妨害か。余計に罪が増えるだけだというのに」
「ユーリウス、分かっているね。君が殺してしまうのは許さないよ」
「わかっています。彼らの命を奪うのは俺ではなく――司法です」
鋭く、冷たい眼光。
それに射抜かれ、おまけに圧倒的な魔法の才を見せつけられた伯爵家の者達。
彼らはそれ以上抵抗する事も出来ず……自分達の悪事が明かされる瞬間を震えて待つ事しかできなかった。
やがて、ブラウアー伯爵家の地下室が見つかり、そこに描かれていた魔法陣の一つが、且つて禁忌に指定された魔法を発動させるものである事が発覚する。
これにより、伯爵家の罪は浮き彫りとなった。
本来ならばこのまま三人は牢獄へ送られる事となるが……その前に為さねばならない事がもう一つあった。
ブラウアー伯爵夫妻の前でユーリウスは大きな魔法陣を描く。
そしてその真ん中にヨゼフィーネを座らせた。
その魔法陣が何を意味するものなのかを理解していたのだろう。
布によって口を塞がれたブラウアー伯爵は何やらくぐもった声で訴えていた。
「こちらへ」
ユーリウスの合図と共に、騎士団が棺を運んでくる。
そして魔法陣の上……ヨゼフィーネの隣にそれを添えた。
「お前の体はこちらだろう?」
ヨゼフィーネは顔を青くさせたまま何も答えない。
「別にお前の精神がどこへ消えようと知った事ではないが……何の痛みも苦しみ設けずに消える事は許さない。精々戻った体で苦しみを受けながら死期を迎えろ」
「――ヒ」
ユーリウスは震え上がるヨゼフィーネから離れ、詠唱を始めた。
やがて、レナータとヨゼフィーネの体を乗せた魔法陣は煌々と輝き、白い光が二人を包み込む。
ブラウアー伯爵夫妻のくぐもった悲鳴と、ヨゼフィーネの泣きじゃくる声が響く中、光が一際強まった。
そしてそれを最後に、光は収束し……。
静まり返った魔法陣の上には倒れるレナータの体と、意識がないまま棺の中に納まり続けているヨゼフィーネの体が残されていた。
最初に目が覚めたのはヨゼフィーネだった。
彼女は何度かゆったりとした瞬きを繰り返した後、ハッと我に返って飛び起きる。
そして自分の両手や、棺の中に入っている状況を確認するや否や、頭を掻き毟って悲鳴を上げた。
「嘘……っ、嘘よ! 漸く私の体が手に入ったのに!!」
「せめて魔法の失敗を装ってレナータのふりでもすれば混乱くらい招けていたかもしれないのにな」
「それも難しかったと思うけどね」
ヨゼフィーネの発言は、彼女の精神が正しい場所へ戻された事を証明するようなものだった。
それにユーリウスが皮肉を零せば、騎士に指示を出していた王太子がすぐに口を挟む。
「君が気付かない訳ないだろうから」
「……そうでしょうね」
ユーリウスは少し目を見開いてから苦笑する。
彼らの先では、ヨゼフィーネが騎士によって捕らえられ、両親と共に王宮の馬車へと引きずられていく。
それを見送ってから、王太子はユーリウスの肩を叩いた。
「後は僕が請け負うよ。ご苦労様」
「…………ありがとうございます」
「馬車は一台残していくから、ゆっくり戻っておいで」
王太子の計らいに甘え、ユーリウスは未だ倒れたままのレナータのもとへと駆け寄る。
「レナータ」
彼女を優しく抱き起し、腕の中に収める。
そして、閉じている瞼が開く事を願いながら彼女の名を呼んだ。
何度も名を繰り返す度、彼女との思い出が過る。
どうか、どうか早く目を覚まして。
想いを込め、何度目かの名を呼んだ、その時。
「…………ん」
長い睫毛が震えた。
ユーリウスは小さく息を呑む。
その視線の先で、瞼がゆっくりと持ち上げられる。
開かれた瞳はぼんやりと頭上を映し、そして――
「…………ユーリウス、さま……?」
彼女の声を聞いた途端、青い瞳が大きく揺れる。
ユーリウスは、歪みそうになる表情を何とか堪え、ぎこちなく笑みを浮かべた。
「起きるのが遅い」
「え……わ、わたし……」
覚醒と共に徐々に記憶を手繰り寄せたレナータが、自分の意識が残っている事に疑問を持ち始めた時。
ユーリウスは彼女を抱き寄せた。
「わ……っ、ゆ、ユーリウス様……!?」
「すまなかった」
レナータの耳元で、震える声があった。
彼女の体を抱く腕は小さく震えていて、それに気付いたレナータは意識を失う直前に抱いていた寂しさと恐怖を思い出す。
「ゆ、りうすさま」
「ああ」
「こ、こわか……っ」
「……ああ、すまなかった。俺のせいだ」
何故か自責を覚えているユーリウスの言葉にレナータは首を振る。
自分が何故無事なのか。
目を覚ました直後抱いた疑問は既に解消されていた。
きっと、彼が何とかしてくれたのだと。レナータはそう悟ったのだ。
……彼の計らいを台無しにしても尚、彼は助けに来てくれた。
「――ありがとう、ございます。ユーリウス様……っ」
「戻ってくれてよかった。レナータ……」
二人は互いに顔を埋め、静かに涙を流す。
もう二度と離れたくはないという二人の想いは強く、彼等は暫くその場から動けずにいた。
抱き合い、すすり泣く二人の姿を遠目に見ながら王太子は満足そうに笑みを深める。
レナータの無事も確認し、ユーリウスの魔法に問題が生じなかった事を悟ってから彼はその場に一部の騎士を残し、一足先に去っていくのだった。
***
目を覚まし、私の気持ちが落ち着いた頃。
私はユーリウス様に促されて馬車に乗り、王宮を訪れていた。
王太子殿下の計らいで用意されていた客室に辿り着き、異変がないかなどをお医者様達に確認してもらってから、漸く一息つく時間が出来た。
今、この部屋には私とユーリウス様しかいない。
何故私が無事なのかと問えば、ユーリウス様が事の顛末を話してくれた。
私の体を奪ったヨゼフィーネを初めて見た瞬間、起きている事象については粗方把握したらしいユーリウス様は何故そのような事が起きたのか、何が原因なのかを徹底的に調べたという。
我が家の古い慣習は且つての我が国の常識が根強く残った結果である為、ユーリウス様はブラウアー伯爵家ならば双子を忌むだろうという思考も理解したそうだ。
動機を悟った上で、私の体をヨゼフィーネが奪った事実について、ブラウアー伯爵家の魔導師としての長い歴史を鑑みつつ歴史書や古い魔導書を調べたそう。
そして彼は禁忌とされる魔法の一つ――私に掛けられた魔法の存在を知った。
ここまででも彼の行動力と的確に物事を調べ上げる技量は充分過ぎる程だが、本当に驚かされたのはこの先の話だ。
彼は私に掛けられた魔法の正体を知り、詳細な情報を集めた後、この魔法を無効化する魔法の可能性を見出した。
ここまでを数日でやり遂げた彼は私の葬儀の日、王太子殿下に協力を仰いだそう。
まず、埋葬されるヨゼフィーネの体の検査と保管。それに必要な教会の説得。
また凄腕の魔法研究者達を集め、無効化の魔法の開発を進める事。
そして同時に、ブラウアー伯爵家の悪事について調査をさせる事。
これらを同時進行させ、またユーリウス様自身も研究に大きく貢献し……そうして魔法の完成と確実な証拠の浮上という好機を以て、私の家族は捕らえられ、私の精神を塗り潰していたヨゼフィーネの精神は正しい体へと引き戻された。
捕らえられた私の家族は禁忌の魔法に触れたとして三人纏めて極刑となるだろう、との事だった。
「……では、王太子殿下も私の為にお力添えくださったのですね」
「そうではあるが、お前が気にする事ではない。殿下に至っては『今度礼を言いに行かなければね』と仰っていたくらいだ」
「礼……? 一体何故?」
「俺への借りを漸く返す機会が得られたといった所だろう」
そう言えば、と私は思い出す。
「以前お会いした時も報酬がどう、などと言うお話をされていましたね」
「ああ」
「借りというのは、一体どのような……?」
「殿下の暗殺を何度か防いだことがある。それだけだ」
「な……っ」
未来の国王の命を幾度となく救う。
その功績を『それだけ』で簡単に片付けようとしているユーリウス様の様子に私は目を剥いた。
「幼い頃から傍に立つ事が多かったし、俺はその辺りの勘は鋭い方だからな。人を遣って先回りをさせたり、襲撃を魔法で防いだことがある。当然の事をしているだけだ」
「そ、それは……恐らく、他の方ではなかなか難しい事なのでは」
「まあ、俺は基本的に優秀な人間だからな」
「……自分で言うんですね」
「ああ。尤も……ただ一人の女性の前以外では、の話だが」
そう言うと、ユーリウス様はソファに座っていた私の前に立ち、顔を覗き込んで来た。
「魔法の成績では未だに勝てていないからな」
「少なくとも……立場が逆であれば、私にはあの状況を打破できなかったでしょう」
「確かにそれはそうかもしれないな。……だから言っただろう、歴史は存外役に立つと」
いつだったか交わした言葉。
こんな結果を伴って証明されてしまえば、認めるしかないだろう。
私は小さく笑って頷いた。
「今度から、もう少し真面目に勉強します」
「良い判断だ」
それから彼は私に何かを握らせる。
――青いガラス玉のネックレスだった。
「これは……」
「壊したくない程大切なものだったんだろう」
「……怒らないのですか」
「何故?」
ガラス玉をしっかり握りしめる。
厚意を無下にした事を窘められるのでは、と思っての問いには呆れるような表情を返された。
呆れ気味の……けれどとても優しい微笑みだ。
「確かに俺にとって、それは大した事のないものだ。だが……お前にとっては違うんだろう。俺が贈ったという事実そのものに、大きな価値を見出してくれた。……俺は、それが嬉しいと思っている」
「……ユーリウス」
意識を手放す前と今。
ユーリウス様の纏う空気が随分変わった様な気がして、私はそれを問おうとした。
けれどそれよりも先に、ユーリウス様は私の前に膝を突く。
そしてポケットの中から小さな箱を取り出し、その中を見せる。
「レナータ」
美しい指輪が、照明の光を受けて輝いていた。
「俺と、結婚してくれ」
予想だにしていなかった言葉に、私は言葉を失う。
驚いてユーリウス様を見つめれば、真剣な眼差しが私だけを捉えていた。
……こんな未来が待っているだなんて、考えたことはなかった。
十六歳を迎えても尚、生き長らえ、愛する人が出来、そして今――愛してくれる人が目の前にいる。
幼くして人生を諦めてからというもの、泣いた事などなかったくせに。
何故か彼には何度も簡単に泣かされている。
けれど胸を満たすこの温もりが、とても心地良い。
「……喜んで」
左手の薬指に、そっと指輪が通される。
それからユーリウス様は私の頬を伝う涙を優しく拭ってくれた。
「きちんとした結婚指輪はまた贈る」
「これは違うのですか?」
「これは……婚約を申し出るつもりで選んだものだ。だが、気が変わった。もう少しだって俺の傍から離したくはない」
随分と直接的な言葉に私の頬が熱くなっていく。
「気付いたんだ。下手に遠慮しても悔いが残るだけだと。もう二度とあんな想いはごめんだ」
だから、とユーリウス様が笑みを深める。
視線のすぐ先で、青い瞳細められた。
「覚悟するんだな」
「……望むところです」
だって、こんなに嬉しい事はない。
私達はくすくすと笑い合う。
それから互いに顔を寄せ合い、唇を重ねた。
長く深い口づけから伝わる甘さは、私達の明るい未来を仄めかしている様だった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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また他にもたくさん短編をアップしているので、気に入って頂けた方は是非マイページまでお越しください!
それでは、ご縁がありましたらまたどこかで!




