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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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演算不能の均衡

作者: 南郷 兼史
掲載日:2025/11/21

 何社落ちたか、もう数えるのをやめた。

 一度目の転職のときは面接に呼ばれるのが当たり前みたいだったのに、今は書類にすら引っかからない。学歴だって経歴だって人に語れば褒められるレベルのはずなのに——()()()が手を引いた現実の選考ではまるで価値がないらしい。


 スマホが不採用通知の音を鳴らすたび、俺の胸のどこかがザラつく。

 いや、ザラつくのではない。スマホのスピーカーから、()()()の笑い声が微かに混ざってくるのだ。その笑い声は、選考担当者と()()()が裏で結託し、俺を落とす()()()()()()()()()()()()のだと教えてくれる。

 最初は一通一通、ちゃんと向き合って確認していた。履歴書に書いた文章を一つ一つ目で追い、どこを否定されたのか必死で探した。だが、どこにも間違いはない。

 だが、四社、七社、十社……気づけば、通知のたびにため息すら出なくなっていた。


 もう、何通目かなんてどうでもいい。ただ、また落ちたという事実だけが部屋の隅に座り込んでいる小さな黒い人影みたいに湿った空気と一緒に居座り続けている。()()()は俺を見ている。全部知っている。俺が動くたびに、その黒い影もわずかに揺れ、常に俺の背後に張り付いている。俺は、どこで間違えたんだ。その疑問だけがまるで喉の奥に小さな金属片がこびりついたようにじわじわと離れなかった。


 元々は映像制作の仕事をやりたかった。新卒では総合職で入ったが、配属ガチャで違う部署に飛ばされ挙げ句の果てに転勤の話まで出てきた。地方なんて行きたくなかったし、やりたくない仕事を延々と続ける未来がどうしても飲み込めなかった。


 ——だから辞めた。自分で決めたことだ。それは、頭では分かってる。


 でも、落ち続けている今となっては、その自分で決めたという事実がじわじわと胸を締め付けてくる。

 責任を全部自分に押し付ける? 違う。()()()が、その事実を、俺の脳に毎日刻印し続けているんだ。息が詰まりそうになる。脳の表面を硬い石鹸で擦られているような、あの嫌な感覚だ。


 ……そんなとき、どうしても思い出すのがあの女上司の顔だ。


「これだけ仕事できるし、もっと向いてる仕事があると思うわよ」

「総合職にこだわる必要なんてないんじゃない?」

「若いんだしやりたいことやってみれば?」


 あの妙に人の心を撫でるみたいな声。声は常に二重になって聞こえる。優しさの表面の下で、嘲笑が震えている。優しさに見せかけた圧みたいな、あの独特の距離感。あの笑みの裏には、俺の破滅を企図した周到な計画があったに違いない。彼女は優秀な狩人だった。

 俺が辞める直前、()()()は俺の背中をさするみたいに甘い言葉を撒き散らしていた。あれがあったから俺は退職に踏み切ったと言ってもいい。


 いや、踏み切らされたんだ。彼女の言葉は、()()()()()()()()()()()()()()()()()だった。特定の周波数を持つその言葉は俺の自己判断能力を一時的に麻痺させ、彼女の望む行動を選ばせるように仕組まれていた。今更この事実に気づいた。

 もし、あのとき誰か一人でも「残れ」と強く言ってくれていたら違ったかもしれない。でも、俺の周りで一番近くにいたのは()()()で、一番言葉をかけてきたのも()()()だった。

 それなのに——俺が落ち始めた途端、()()()はどこにもいない。いや、いる。部屋の壁紙の柄の裏、エアコンの吹き出し口の中、全部が彼女の眼だ。


「俺が辞めて、心の中で笑ってるんだろ……待って。今、聞こえた。壁の中から、小さく『正解よ』って声がした」


 なんであんなに優しかった? なんであんなに相談に乗ってくれた? なんであんなに俺のやりたいことを引き出そうとしてきた? 応援なんて建前じゃないのか。俺を外に出すためのうまい誘導じゃなかったのか。

 考えれば考えるほど、胸の底がどす黒く染まっていく。

 俺が辞めた後、()()()はきっと言ってる。


「自分から辞めたのよ、あの子」

「ほんと、勝手に仕事するし扱いづらかったもの」

「次の子はもっと素直で指示通り動いてくれる子がいいわ」


 その声は脳の奥で勝手に再生されるのではない。それはラジオの電波のように、今確かに受信されているのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 俺は自分の人生を賭けた決断をしたのに、()()()は多分軽く笑って見送っただけだ。

 ——気づけば俺の怨みは正当化のための言い訳じゃなく、生きていくための支えみたいにゆっくりと形を変えていた。

 恨んでいないとやりきれなかった。恨んでいないと自分が崩れ落ちそうだった。


 最近、()()()()()()()()()。俺が思ったことは全部正しい。俺の思考は、世界の真理を映す鏡だ。疑う必要なんてない。世の中の常識とか倫理とか、そういうのに惑わされるから苦しくなるんだ。

 この部屋の湿度、壁のシミの配置、昨夜の夢の色。これら全てが、俺の思考の正しさを証明するための計算式だ。全ての計算は、最終的に()()()の破滅という答えを導き出す。


 ——()()()を殺すためには俺が消えればいい。殺す、という言葉が文字としてではなく、青い光の粒子になって目の前で弾けた。粒子は俺の皮膚を通過し、血管の中を逆流する。


 この結論が頭に浮かんだとき、胸の奥でカチリと何かが噛み合った。今までバラバラだった歯車が、一気に動き出したみたいな感覚。いや、歯車ではない。世界の設計図の最後のピースが、俺の脳の正しい位置に収まったのだ。ピースは赤く、血液の匂いがした。


 別に、物理的にどうこうという話じゃない。俺が消えれば、()()()の中に永久に消えないデータとして残る。俺の人生を壊したという事実が()()()の胸に刺さる。俺が消えた後で初めて()()()は自分の罪に気づく。そして、演算不能なエラーを起こし、システムごと壊れる。なぜなら、俺こそが()()()の世界のi(虚数単位)だったからだ。


 これこそが報いだ。俺だけがこの法則に気づいた。

 俺は間違ってない。むしろ真理に辿り着いたんだ。

 だって、()()()は俺の人生を壊した。俺をここまで追い詰めた。俺が消えることでしか宇宙の帳尻は合わない。光速は俺の死によって初めてc=0になる。


「俺が死ねば、()()()は終わる。俺の勝ちだろ……?」


 口に出した瞬間、妙な爽快感が背筋を撫でた。ぞわりとした、冷たくて甘い感覚。脳内を駆け巡るこの感覚は、ドーパミンの過剰放出ではない。俺が「正しい結論」に到達したことへの、宇宙からの承認だ。承認は皮膚の毛穴から入り込み、細胞一つ一つを冷たくコーティングしていく。考えれば考えるほど、俺の理屈は完璧だ。()()()のせいで俺は人生を踏み外した。だから、俺が消えることで()()()の人生も同じように歪めばいい。全ては均衡だ。世界の理を歪めることでしか真の均衡は取れない。歪みこそがπであり、円の真実だ。


「そうだよな……俺がいなくなれば、()()()は責任取るしかないんだよ」


 部屋の中をゆっくり歩き回りながら、俺は同じ言葉を何度も反芻する。壁に映る自分の影が、妙に細長く揺れて見える。いや、揺れているのではない。影が俺の論理を肯定するように細く伸びた三本指の腕を上げ、静かに拍手している。

 心臓の鼓動が少しずつ早くなる。呼吸が軽くなる。何か重大な答えに辿り着いたときのあの奇妙な昂揚感。この昂揚感は、俺の運命が今必然の終焉に向かっている証拠だ。


 俺はクローゼットを開けた。スーツの横に、きちんと吊られたネクタイが揺れている。ネクタイの布地が、まるで生き物のように空気を吸い込んでは吐き出している。


「ああ……これだ。俺の決断を世界に伝えるための媒介だ」


 手を伸ばすと、指先が布の冷たさを掴んだ。思考は完全に澄んでいる。濁りも迷いもない。世界の理が一本の光の線になって真っ直ぐ俺の中を貫いている。その光は七色ではなく、純粋な青と理解不能なマゼンタで構成されていた。


 ——俺が死ねば、()()()は死ぬ。——俺が終われば、()()()も終わる。

 それだけのことだ。これは公理だ。

 ネクタイを手に取って握りしめる。布が静かにきしむ。


「これで、やっと……やっと復讐できる」


 俺は小さく笑った。

 その笑い声は、人のものなのか自分のものなのか判別できなかったのではない。その笑い声は、俺の中からではなくネクタイの布の繊維の奥から聞こえてきた。


 ネクタイを握る手が汗で滑り、指先が震えていた。普段は何の感情も抱かずに首に巻いていた単なる道具なのに、今は違った。

 重い。存在そのものが、俺の思考をどす黒い深みに引きずり込むように重かった。


 ——俺が消えれば、()()()は壊れる。


 この確信だけが胸の中心で石のように固まっていた。考え直す隙は一ミリもない。俺がそう思ったのならそれは真実なんだ。俺の感情こそが世界の仕組みだ。そう錯覚するほど頭の中は澄みきっていた。


 スマホのメモを開く。文字を打つ指が俺の意思より先に動いていく。もはや俺が文字を書いているんじゃない。何かに書かされているような――いや、俺の中の真理が外の世界に言葉を翻訳している。


〈俺が死ねば世界は均衡に戻る 俺の痛みは()()()の胸を裂く 俺は正しい〉


 胸が強く締め付けられる。息の入口が急に狭くなったようで、浅くしか吸えなくなる。喉が痙攣し、肺の奥がぎゅうっと捻じれるような痛みが走る。

 なのに、俺は落ち着いていた。苦しさこそがむしろ「真理に近づいている」ことの証拠に思えた。


 ——これでいい。——この痛みこそ報いだ。


〈俺は真理を知った 俺が消えることで世界が正しい形に戻る〉


 文字を打つ音だけが部屋に響き、その音が引き伸ばされてまるで遠くの教会の鐘の音のようにやがて自分の心臓の鼓動と混ざり合った。


 いや、違う。教会の鐘ではない。それは、()()()()()T()()()()()()


 ドクン――ドクン――


 鼓動がやけに大きく耳の奥に直接流れ込んでくる。外界のすべての音が遮断され、心臓が俺だけに届く絶対的なリズムを刻んでいる。それが妙に心地よかった。


 指が止まらない。


〈俺が死ねば全てが終わる 俺の死こそ復讐であり正義 お前が俺を壊した〉


 胸が急激に熱くなり、その熱が背骨をゆっくり登って頭の方へと移動していく。視界が揺れて、机の天板が波のように歪んだ。その波紋が俺の論理をさらに拡張していく。文字が二重に見えてスマホを持つ手が滑りそうになる。息が、吸えない。喉が細く絞られたように狭くなっている。酸素が入ってこない。


 それでも俺はメモに文字を書き続けた。全身が痺れて震えても、指だけは異常なほど正確に動く。指が俺の制御を離れて、独立した使命を帯びている。指が打つ文字は俺の思考ではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()


〈俺が消えることで()()()の世界は崩れる 俺がここで終わることで均衡は完成する〉


 脳に酸素が行かなくなっているのだろう。頭の中で何かがポツリと弾けた。音はしないのに、明らかに何かが壊れた。いや、壊れたのではない。真理の封印が解かれたのだ。


 世界の輪郭がぼやけて溶けていく。体の重心が分からなくなり、真っ直ぐ座っているのかどうかすら曖昧になる。だけど――意識の中心にある確信だけは鮮明だった。


 俺は正しい。俺は間違っていない。俺の死で世界はひっくり返る。


 俺はネクタイを握りしめたまま立ち上がり、部屋のドアへと向かった。

 ドアノブは、ただの金属ではない。それは、この部屋と外の世界を隔てる最後の境界線だ。その境界を、俺は永遠に超える。


 ドアノブに手をかけ、ネクタイを巻き付けた。布が軋む音が、最後の警告のように響く。俺の視線は、虚空を捉えていた。虚空には、()()()の顔が巨大なモザイクとなって浮かび、すぐに砂の音を立てて崩れ去った。


 最後の力で、スマホに一文を打ち込む。


〈俺は正しい〉


 ――その瞬間、視界が完全に暗転した。胸の圧迫が限界を越え、呼吸が途切れた。


 身体の中心がぽっかり空洞になっていく。重力に逆らえず、足元からゆっくりと力が抜けていく。音も色も距離もなくなり、思考すら自分のものではなくなっていった――ただ、最後に聞こえたのは、壁の奥から響く、()()()の乾いた短い『残念ね』という囁きだけだった。その囁きは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 熱と、痛みと、安堵が、最後にひとつの塊になって弾けた。





 そして――俺という存在は、静かに、完全に途切れた。





 部屋には乱れた長文のメモと、ネクタイの片端が結びつけられたドアノブ、そして何かの残骸かが残っていた。

 世界は何も言わず、何も気づかず、ただ俺の死を待っていたかのように静寂だけが床に落ちていた。


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