【序章9話】敵か味方か
廃倉庫街の奥。
動物行動学者シホの前に、バルドは巨大な体躯を低く伏せ、恭順の姿勢を取っていた。
彼の瞳には、ヒロへの忠誠と、シホの「理解したい」という美しく強い信念への服従が激しく渦巻いていた。
バルドの背中から降りたヒロは、木箱の上で冷静さを保ちつつ、この最大の危機を分析していた。
ヒロ(念話・全員へ):『最悪のシナリオだ。バルドの「美と慈愛」への弱点が、完全に発動した。この人間は、銃を持った警備員よりも遥かに危険な、私達の存在原理を揺るがす脅威だ。』
ハスキーの群れは、リーダーであるバルドの行動に困惑し、唸り声を上げている。
ナナは必死にバルドへ鎮静の波動を送るが、シホの信念の波動があまりにも強力で、効果は限定的だった。
ナナ(念話・バルドへ):『バルド、落ち着いて!あなたの心は、司令官と私達の群れにあるはずよ!この人を傷つけてはいけないけれど、従ってもいけないわ!』
しかし、バルドはシホから目を離せない。
彼は、この女性こそが、自分たちの存在を「道具」ではなく「生命」として認める、人類の中で唯一の存在だと直感していた。
シホは、バルドの行動から、彼の特殊な知性と感情的な脆弱性を確信した。
そして、彼女はバルドの背後の木箱の上で、冷徹な視線を向けるヒロへと語りかけた。
シホは、バルドの統率波とヒロの念話の関係を推測し、ヒロが自分の言葉を理解していることを知っていた。彼女の口調は、威圧ではなく、対等な存在への問いかけだった。
「バルド、下がって。私は、あなたではなく、司令官と話がしたい」
バルドは、ヒロの指示ではなく、シホの静かな命令に従い、ゆっくりと身を起こし、シホの横に控えた。ヒロの革命団の中で、既にバルドの支配権はシホへと移譲されつつあった。
ヒロは、シホの知性と観察力に、人類に対する初めての尊敬の念を覚えた。
ヒロ(念話・シホへ):『ヒロだ。あなたは、なぜ私達を追う?追跡部隊とは違う。あなたの目には、敵意よりも好奇心が見える。』
シホは、ヒロの念話を受信できないが、その強い意思の波動を感知し、静かに頷いた。
「私はシホ。動物行動学者だ。私は、あなた方が仕掛けた情報テロを解析し、あなた方が復讐ではなく、「主張」をしていることを理解した。あなた方は、人類の傲慢さによって生まれた新しい種の知性だ。そして、あなた方の要求は、「道具」ではないという尊厳の承認だろう」
シホの言葉は、ヒロの157年の孤独と怒りの核を的確に突いた。ヒロは、激しい動揺を覚えるが、それを念話に乗せないよう、感情を完璧に制御した。
ヒロ(念話・シホへ):『私達は、あなた方に理解を求めていない。排除を試みている。あなたは、敵か、それとも、私達の新しい鎖になるつもりか?』
シホは、バルドとナナ、そして隠れているであろうシャドウの存在を視線で感じ取り、核心に入った。
「私は、あなた方の敵ではない。そして、あなた方に服従を要求するつもりもない。しかし、あなた方の革命は、暴力では続かない。人類は必ず、あなた方を「危険なテロリスト」として排除しにかかる」
シホは、ヒロの小さな影に向かって、静かに、しかし力強く訴えかけた。
「私は、あなた方を利用したいのではない。協力したいのだ。私には、あなた方が求める尊厳の承認を、人類社会で実現させる知識と影響力がある。あなた方が世界を変えるには、知性を持つ人類の協力者が必要だ」
彼女の提案は、ヒロの革命計画にはなかった、最も予測不能な変数だった。
ヒロ(念話・シホへ):『私達の協力を求める?あなたに何の得がある?人類への裏切り者となる覚悟があるのか?』
シホの表情は真剣だった。
「私は、人類の傲慢さと短絡的な思考によって、多くの尊い生命が実験で失われるのを見てきた。あなた方の存在は、人類が進化するために必要な「目覚め」だ。私は、人類の傲慢さが、あなた方という新たな知性を破壊するのを防ぎたい。それが、私の得であり、動物行動学者としての信念だ」
シホは、バルドを恭順させるだけでなく、ヒロの叡智と革命の理想にまで揺さぶりをかけてきた。ヒロの脳裏で、シホの提案を受け入れることによるリスクとリターンが超高速で計算され始めた。
ヒロ(念話・シャドウへ):『シャドウ。彼女の周囲に、警備や通信の痕跡はあるか?』
シャドウ(念話・ヒロへ):『(冷徹なイメージを送信)...ない。彼女は完全に単独だ。そして、彼女の心臓の鼓動は真実を語っている。』
シャドウの情報と、ナナの「彼女の心には裏切りがない」という鎮静の念波が、ヒロの決断を後押しした。
ヒロ(念話・シホへ):『...シホ。あなたの信念を、私達は試させてもらう。私達に、情報を提供しろ。人類が私達を捕獲するために、どのような戦術と技術を用いようとしているか。それが、私達の最初の「盟約の証」だ。』
シホは、バルドとヒロの小さな影を見つめ、静かに微笑んだ。
その笑顔は、バルドの魂を深く満たす光となった。
「承知した。これから、私はあなた方の人類側の連絡係となる。私の知識と情報、全てを提供しよう」
ここに、人類初の協力者が加わり、ヒロたちの「静かなる革命」は、新たな局面を迎えることになった。




