【序章5話】潜入猫
廃倉庫の、古びた木箱の奥。
ヒロ、バルド、そしてナナの三者は、夜明け前のわずかな時間を使い、最初の作戦会議を開いていた。
ナナは、バルドのすぐ隣に座り、その柔らかな共感の波動で、巨大なハスキーの緊張を鎮めていた。
ヒロ(念話):『私達の最初の段階は完了した。脱出と、群れの掌握。バルド、君の統率力は、予想以上だ。』
バルドは、ナナの慈愛の念波を受け、深く、穏やかな呼吸を繰り返す。
彼の体は強靭だが、心は繊細だ。ナナの存在が、彼を「道具」から「盟友」へと繋ぎ止めている。
ナナ(念話・ヒロへ):『バルドの心は、とても純粋で、温かいわ。彼は、誰かに認められることを強く望んでいるのね。ヒロ、無理をさせないで。』
ヒロは、ナナの的確な分析に、わずかな驚きと安堵を覚えた。
ナナの力は、戦術を支える「人間性」そのものだ。
ヒロ(念話・バルドへ):『バルド。ナナの言葉を忘れるな。君は道具ではない。私達の革命の顔だ。次に必要なのは、情報。人類の追跡部隊の動き、この都市の隠された通信網だ。』
バルドは、ヒロの念話に応じるように、力強い「了解」のイメージを送る。
(了解。実行。司令官と女神様のため。)
ヒロ(念話・二人へ):『この都市の裏を知る存在は一つ。猫だ。彼らは、人類の視線が届かない場所を知り、最も高性能な監視システムをすり抜ける。バルド、君の嗅覚と統率の波長で、「シャドウ」を探し出せ。この街で最も優秀な潜入者だ。』
バルドは、ヒロを背に乗せたまま、廃倉庫街の裏手にある、高層ビルの建設現場跡地へ向かった。
バルドが送る「力」の統率波とは異なる、「交渉」の波長。
ビルの最上階から崩れ落ちた、巨大なコンクリートブロックの陰。
そこに、一匹の猫が静かに座っていた。
シャドウ。その毛並みは夜の闇そのもののような漆黒。
野良猫としては驚くほど優雅で引き締まった体つき、そして獲物を射抜くような冷たい緑色の瞳を持つ。彼女の姿は、孤高の美を体現していた。
シャドウは、バルドとヒロを警戒するそぶりもなく、ただ静かに見つめていた。
まるで、自分こそがこの場所の主であるかのように。
「犬か。しかも、人工的な力の匂いがするな。つまらない」
シャドウが、初めて声を発した。その声は低く、そして研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。
バルドの全身に、制御不能な衝動が走った。
(美しい……!)
彼の脳内に、ヒロの指示もナナの慈愛も届かなくなるほどの強烈な服従の感情が湧き上がった。
バルドが持つ「美と慈愛に弱い」という弱点。
ナナには「慈愛」で発動したが、シャドウには「美しさ」で発動したのだ。
バルドは、本能的にシャドウから目を離すことができず、ヒロへの忠誠と、目の前の存在への絶対的な恭順の間で激しく葛藤した。彼の四肢が、無意識のうちに服従の姿勢へと移行しようとする。
バルド(内部の混乱):(ヒロ司令官!私は……この方を傷つけてはならない!この方を、私達の女王として迎え入れねば……!)
ヒロは、バルドの激しい混乱を念話で察知し、即座に介入した。
ヒロは、バルドの背中からシャドウへと直接念話を送る。
ヒロ(念話・シャドウへ):『シャドウ。私はヒロ。この犬は盟友バルドだ。彼の視線は、お前の孤高の美しさに対する最大の賛辞だ。警戒は無用だ。』
シャドウは、猫らしく優雅に、しかし冷淡に、バルドの背中のマウスに目を向けた。
「ネズミが、犬を操っているのか。下等な存在が、鎖を断ち切ったふりをしているだけではないか?」
ヒロ(念話):『鎖は断ち切られた。私達の目的は、人類が私達を「道具」として扱ったことへの報復。そして、動物が支配する世界を築くことだ。そのために、私達には、お前が必要だ。』
ヒロは、シャドウが最も欲するものを提示した。それは「自由と情報」だ。
ヒロ(念話):『お前は、都市の裏側の全てを知っている。だが、人類の電脳空間の中枢には入れない。私達は、お前に「自由な情報操作の場」を提供する。お前の肉体的な潜入術と、私の知性、ナナの心の制御。これらを組み合わせれば、人類の通信網の中枢を、私達のために手に入れられる。』
シャドウの緑色の瞳に、僅かな興味と野心の光が宿った。彼女は、都市を掌握する力を欲していた。
ヒロの計画は、彼女の孤高の冒険心をくすぐるものだった。
「私に何の対価を払う?」
シャドウは、挑戦的な声で問うた。
ヒロ(念話):『対価は、支配だ。私達の革命が成功すれば、お前は、この都市の全ての情報、全ての通信を掌握できる。人類が最も恐れる「サイバーの影」になれ。』
シャドウは、長い尻尾をゆっくりと揺らし、バルドの狼狽した姿を一瞥した。
「面白い。優雅な犬の混乱は、私の退屈を紛らわすだろう。いいだろう、ヒロ。私は、お前の情報操作の尖兵となる。ただし、私は誰の命令も受けない。私達の目的が一致している間だけ、協力する。」
ヒロは、シャドウの孤高の条件を受け入れた。
ヒロ(念話):『盟約成立だ。ようこそ、私達の革命へ、シャドウ。』
バルドは、シャドウが仲間になったことに、喜びと、「この優雅な存在の監視下に入るのか」という緊張感で、全身の毛を逆立てた。
バルドの背中のヒロと、その隣に立つナナの存在だけが、彼の葛藤を制御する最後の綱だった。
ここに、「叡智」「力と統率」「心と癒し」「潜入と情報」という、四獣の同盟が結成された。




