【序章20話】海洋挑戦
アダム・リードの敗北は、政府の権威を地に落とした。
ヒロたちを「知性ある存在」として扱い対話で解決するという建前は完全に崩壊し、
危機対策本部は「人類の優位性」を死守するため、倫理を無視した最も卑劣な手段に訴えた。
「もはや、奴らを捕らえる必要はない。奴らの精神を破壊する。奴らは、恐怖に怯えるただの獣に戻るべきだ!」
政府は、都市全域に特定周波数の超低周波音を静かに拡散させる「広域感情操作兵器」を起動させた
。
この音波は、人間の意識には届かないが、動物の神経に直接作用し、「本能的な恐怖、パニック、そして逃走衝動」を誘発する。
低周波音は、地下廃線区画の分厚いコンクリートを透過し、革命団の潜伏地へ忍び寄った。
ヒロは、この音波が単なる物理攻撃ではないことを即座に演算で把握した。
ヒロ:(これは、ナナの「鎮静能力」をターゲットにした対感情兵器だ。広域かつ持続的。ナナが群れ全体のパニックを抑えきれなければ、バルドの統率力も瓦解する。)
ナナは、その波動を受け止めるため、自身の心の波動を最大まで広げた。
彼女の回復した精神力をもってしても、都市中の動物のパニックを増幅させたこの波動は、あまりにも強大だった。
ナナ(念話):『ヒロ!これは耐え難い……!憎しみじゃない、これは原始的な絶望の波よ!群れ全体が、「ここから逃げ出さなければならない」という衝動に駆られている!』
バルドの群れは、低周波音の影響でざわつき始め、落ち着きを失っていた。
彼らの統率の念波は、「逃げたい」という本能的な叫びによって乱され、バルドの統率を一時的に超越し始めていた。バルド自身も、「何かわからない巨大な脅威」に対する恐怖に苛まれ、体を震わせるのを必死に堪えていた。
バルドは、ナナの苦しむ波動と、自身の内側から湧き上がる制御不能な逃走本能に苛まれていた。
バルド:(逃げろ!逃げろ!この場所は危険だ!しかし、ナナ様が苦しんでいる……!司令官の命令は?いや、この恐怖は……!)
彼の昇華された忠誠心さえも、人類が仕掛けた「本能への直接攻撃」の前には、脆く崩れそうになっていた。
その頃、ヒロの命を受け、シャドウは東京湾へと続く下水管の終端、夜の海辺に到着していた。
彼女の周りには、広大な海のノイズと、人類の船が行き交う音だけが響いていた。
彼女は、岩壁の陰に潜み、海に向かって特定の超音波周波数帯域を使った微弱な「接触の信号」を送り続けていた。それは、「叡智の盟約」の存在を伝える、極めて繊細な念波だった。
ピ、ピピ、ピ、ピ……
その念波は、冷たい深海へと沈んでいくが、何の応答もなかった。
シャドウ:(ヒロの演算は間違っていない。海洋には、長距離通信能力を持つ巨大な知性体が存在するはずだ。しかし、この静寂は異常だ。)
数十分間の試行錯誤の後、シャドウは、海面を滑る微細で一定な、不快な電子ノイズの発生源を突き止めた。それは、海底と海面に張り巡らされた人類の最新鋭の海洋監視システムから発せられていた。
アダム・リードの知性を参考に、政府はヒロたちの潜伏の可能性が高い海洋にも、思考通信を拡散・吸収する電子バリアを密かに設置していたのだ。
シャドウ(念話・ヒロへ):『司令官。海洋への接触、不可能。人類は、海洋に電子ノイズの壁を構築した。私の念波は、この広域監視網によって拡散し、巨大な知性体の聴覚には届かない。彼らは、このノイズの中で「孤独」を強いられている。』
シャドウは、海洋の静寂の向こう側に、シャチやクジラといった強力な生命の波動が封じ込められているのを感じ取った。彼女の任務は、単なる接触から、「人類が築いた電子の壁の破壊」という、単独では絶望的な難易度へと一気に跳ね上がった。
シャドウは、背後から迫る「恐怖の波動」を感じながら、広大な海と、無力な自分を見つ初めて孤立と焦燥の念を抱いた。




