7:潮風に包まれて
馬車の中にまで、ほんのりと潮風が香る。
窓から見える景色は、青一色。
澄んだ空と、広い大海原。
この風景のどこにも、バリントン侯爵邸で感じていたような陰鬱さは見られない。
同じ領地だなんて、とても信じられないくらい。
私は療養の為に、バリントン侯爵領の外れにある海辺の町に来ていた。
何もない小さな田舎町だけれど、この町には、海がある。
小高い丘の上には、生前お母様が何度も足を運んだという別荘が建っていた。
「すごい、綺麗ですね……」
馬車を降りたデイジーが、眼下に広がる海を目にして、息を呑む。
デイジーに遅れて、先に降りた男性に手を取られながら馬車を降りた私の髪を、潮風が舞い上げた。
「この地でしたら、雑事に煩わされることなく、ゆっくりと過ごせるでしょう」
私に手を差し伸べてくれた男性が、笑顔を見せる。
彼の名前は、エリック・オズボーン──オズボーン男爵家の三男で、バリントン家お抱え医師であるトゥイガー先生のお弟子さんだ。
私にとっては診察の度に会う、顔馴染みの相手でもある。
屋敷を離れて別荘で療養するということで、ナンシーと共に、彼も同行を申し出てくれた。
「町に降りて買い物をする為には、坂を下りなければいけないのね」
海辺の町まで距離にしてそう遠くはないが、丘の上の別荘だけあって、坂道が続いている。
「大丈夫です、買い出しなどは私が頑張りますから!」
ナンシーが力こぶを作ってみせた。
「食料などは、定期的に運んで貰えば大丈夫でしょう」
「そうね」
エリックの言葉に頷き、新しい我が家となる別荘を見上げる。
貴族の屋敷にしては小さな建物だが、私達三人で暮らす分には、これくらいが丁度良い。
広くなりすぎると、掃除や手入れが大変だものね。
見上げた建物の二階には、海に面して窓が設けられている。
部屋からの景色も、きっと綺麗だろう。
「二人とも、私の我儘に付き合ってくれて、ありがとう」
「何をおっしゃいますか、お嬢様!!」
真っ先に声を上げたのは、ナンシーだ。
「私はお嬢様のいらっしゃるところならば、どこへでもお供します」
「ありがとう、ナンシー」
“冥府までもお供します”と言い出しかねない勢いに、つい苦笑が零れる。
「貴女には貴女の幸せを追い求めてほしいのだけれど……」
「私はお嬢様にお仕え出来て、それだけで幸せです」
屋敷で冷遇される私の専属で、さぞ形見が狭いだろうに……ナンシーはそんなことは全く感じさせずに、毎日元気に働いてくれている。
なんと出来た侍女だろう。
——ふと、胸の奥に小さな痛みが走った。
彼女が与えてくれる温もりとも、別れなければならない時がやってくるのだ。
しかも、それはそう遠くない未来のこと。
「私が亡くなった後は……屋敷に戻ることになるのかしら?」
「それは……っ」
私の問いに、ナンシーが息を呑む。
亡くなった後のことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
今年の冬は越せないと宣告されている身だもの、身の回りのことは、ちゃんと考えておかないとね。
「もし貴女がバリントンの屋敷に戻るのが嫌ならば、ジェレミーお兄様に紹介状を書いておくから。ティリット侯爵家を訪ねてちょうだい」
「お嬢様……」
じわりと、ナンシーのオレンジ色の瞳に、涙が滲む。
ああ、泣かせたかった訳じゃないのに……。
「泣かないで、ナンシー。貴女には、誰よりも幸せになってほしいの」
「わた、わたしは、お嬢様にこそ幸せになってほしいのにぃ……っ」
ボロボロと涙を零すナンシーをそっと抱きしめ、背を撫でる。
その様子を、医師のエリックが目を細めて見守っていた。
「僕も最後までお付き合いしますよ、アシュリーお嬢様」
「よろしいのですか?」
「どうせ一人気儘な身ですからね」
エリックの生家であるオズボーン男爵家は、騎士の名門。
三男のエリックも、また騎士として身を立てることを期待されていた。
しかし、彼が興味を持ったのは、医学の道。
人を切ることよりも、人を生かす道を選んだ──そんな彼を放っておけず、トゥイガー先生が彼を引き取り、己の弟子としたのだ。
「それに、女性二人では何かと物騒ですし……男手も必要でしょう?」
「そうね、居ていただけると嬉しいわ」
あの窮屈なバリントン侯爵家で、数少ない私が心許せる相手。
これからは、二人と共に海を眺めて暮らしていこう。
残り少ない人生、一日一日を大事にしていきたい。
侯爵家の長女が療養に来たと聞いて、小さな町の住民達は、最初はおっかなびっくりだったそうだ。
万が一私の不興を買ったら、小さな町などあっという間に潰されてしまうのでは……そう考え、恐れていたという。
私にそんな力は無いというのにね。
最初に話をしたのは、別荘に食料を運んでくれている、商店を営む親子だった。
手伝いで一緒に来ていた娘さんは、十一歳。
育ち盛り、何にでも興味を持つお年頃だ。
居間で寛ぐ私の姿を建物の外から窓越しに眺めていたらしく、父親が慌てて謝罪してきた。
「大変申し訳ございませんでした!!」
そう言われた時は、心底ビックリしたものだ。
窓の外から姿を見ただけで、どうして謝られなければならないのか。
彼等にとっては、侯爵家のご令嬢など雲の上の遙か上空に住まう人々。
同じ空気を吸うこと、視界に入ること、一方的に姿を見ることさえ恐れ多いと考えていたらしい。
「気にしないで。私はバリントン家とは、もはや縁遠い身ですから」
「ええ……?」
そう言われても、社交とはほど遠い小さな食料品店を経営する親子には、ピンとこない話だったのだろう。
キョトンとする彼等に笑顔を見せて、ナンシーにお茶を用意してもらう。
「そんなことより、一緒にお茶でも如何ですか。普段訪ねてくる人も居なくて、暇なのです」
侯爵令嬢が小さな店の親子と席を同じくするなど、人が聞いたら驚くことだろう。
でも、どうせ残り僅かな人生だもの。
最後の時くらい、私の好きに過ごさせてもらいたい。
お高く止まった貴族達より、汗水垂らして働いている市井の人達の方が、ずっと好感が持てるもの。
一度でいいから、彼等の話を直に聞いてみたかったの。
こうして、週に二度食材が届けられる度に、食料品店を営む親子とお茶をするようになった。
その頃からだ、私の噂が少しずつ変化していったのは。
最初は怖々だった町の人達が、声を掛けてくれるようになった。
ナンシーが買い物に行くと、お土産を持たせてくれるようになったらしい。
時折窓の外から子供達の笑い声が聞こえてきて、二階の窓から手を振ったりもする。
侯爵邸に居ては、触れ合えなかった人達。
屋敷では知ることの出来なかった、温かさ。
小さな町に暮らす人々が、私の心を癒やしてくれていた。
いや、癒やされたのは心だけではない。
身体も、驚くほどに快調だ。
とても自分では歩けないだろうと思っていた別荘への坂道も、自分で上り下り出来るようになって、ナンシーと一緒に町まで歩いてお出かけ出来るようになったのだ。
余命半年と言われている私にとって、これは驚くべき快挙だった。
当然、医師のエリックが付き添ってのことだが、エリックもまた、私の体調がみるみる回復していることに驚いていた。
まさか、余命宣告を受けてから逆に元気になるだなんて、誰も思わないじゃない。
そうして、ある日──ついに、エリックから驚くべき一言が告げられた。
「え、魔力欠乏症が回復した……ですって!?」









