5:目覚めの朝に
見覚えのある天井。
見覚えのある景色。
しかし、起き上がろうにも身体の節々が重く、鈍い痛みを訴えている。
なんとか上体を起こしたところで、ズキズキと頭が痛んだ。
こめかみで脈打つ痛みと共に、喉の奥に微かな渇きが張り付いている。
体幹に力を入れる度に筋が軋むように重く感じられ、胸の奥で小さな鈍痛が燻った。
「なに、これ……」
ぼんやりと霞んだ目で、周囲の様子を確認する。
間違いない、王都のバリントン侯爵邸……私が寝泊まりしている部屋だ。
首を動かすだけで、髪が肌に貼り付く感覚がした。
寝汗をかいていたのかもしれない。
どうして、こんなに身体が重いのだろう。
記憶を辿ろうとして……昨夜のことを思い出した。
「そうだ、私……」
王城のパーティーで、調子に乗って飲み過ぎて……その後の記憶が、すっかり途絶えている。
どうやって帰ってきたのか、いつ侯爵邸に戻ってきたのか……それすら覚えていない。
ベッドから起き上がろうとしたところで、ふらりと足元がよろけた。
足元が覚束なく、真っ直ぐ立つことさえ難しい。
年代物のワインは芳醇さのわりに口当たりがよく、調子に乗ってグラスに注ぎまくっていた……ことまでは覚えている。
あの時はジェレミーお兄様が王弟殿下に呼ばれて中座して、リスター公爵と王太子殿下が居て……ダメだ、そこからはもう思い出せない。
一体どのような醜態を晒してしまったのだろう。
ただ一つ、はっきりしない感覚だけが肌に残っている。
誰かの腕に包まれていた温もり──それとも、あれは夢だったのだろうか。
思い出そうとすると、記憶は水面の月みたいに揺れて、指の間から零れ落ちてしまう。
「あ、お嬢様。お目覚めですか?」
扉が開いて、ナンシーが顔を覗かせる。
きっと、私の様子を見に来てくれたのだろう。
「ねぇ、ナンシー……」
声を掛けようとして、自分の唇から漏れた音に驚愕した。
今のは、誰の声かしら。
低く掠れていて、とても聞けたものではない。
喉の内側に、微かな鉄の味が滲んでいる気がした。
乾いた空気を吸い込む度、ひりひりとした痛みが遅れて追ってくる。
「お水でもお持ちしましょうか?」
「……お願い」
ナンシーも、私の声がおかしいことに気付いたのだろう。
すぐさま廊下に出て、厨房から水差しとグラスを持ってきてくれる。
「ふぅ……」
冷たい水で喉を潤し、ようやく人心地ついた。
盆の上には、薄く切ったレモンと蜂蜜まで添えられていた。
昨夜の記憶は曖昧だけれど、なんとか息を落ち着かせることが出来た。
いまだ身体の節々は痛むし、頭痛はするし、喉も違和感があるけれど、話せないほどではない。
「ナンシー、私昨夜どうやって帰ってきたの?」
「昨夜というか、今朝のことですが……」
なんと。
それはつまり、夜通し飲み明かしていたということなのだろうか。
「ティリット侯爵令息様と、王弟殿下が、お嬢様をお屋敷まで送り届けてくださいました」
「え……」
昨夜のパートナーであり、従兄でもあるジェレミーお兄様が送り届けてくれたならばいざ知らず、王弟殿下まで……!?
「そ、それで、その時の私は……」
「それはもう、ぐっすりとお休みでした」
……なんてことだ。
ナンシー曰く、馬車が侯爵邸に到着しても私が目を覚ます様子はなかったとのことで、王弟殿下が私を部屋まで抱きかかえて運んでくださった……らしい。
ジェレミーお兄様なら、まだ良かった。
よりによって、王弟殿下にそんなご迷惑をお掛けしてしまうだなんて……。
「私……寿命が尽きるより先に、不敬罪で処刑されたりしないわよね……?」
「怖いことを言わないでください!!」
不安から零れた言葉だが、ナンシーの顔色が一瞬で真っ青になる。
冗談にもならない。
あまりに高貴な御方に、とんでもない迷惑をかけてしまった……。
いつ王城に呼び出されるかとビクビクしていたのは、最初の数日だけ。
時は緩やかに流れていく。
王都の侯爵邸に身を置く間、様々な貴族達が訪ねてきた。
式典で王都に人が集まる時は、社交の機会でもある。
ここぞとばかりに顔を繋ぐ為に、多くの貴族が屋敷を行き来する。
当然、私を訪ねてくるような物好きは居ない。
しかし、我が家には次期バリントン家当主となる妹ローラが居る。
ローラが毎日のように茶会を開き、その度に「お姉様も、ぜひご挨拶を」と、呼び出されてしまう。
ローラの狙いは、分かっている。
茶会の席でも私の余命が僅かなことを喧伝して、可哀想な妹を装い、皆の関心を引いている。
彼女の露骨なやり口に協力なんてしたくもないが、屋敷を訪れる客人に挨拶をと言われれば、断る訳にもいかない。
見世物にされる毎日……日々がとても窮屈だった。
その感覚は、日に日に形を変えて膨らんでいった。
「まぁ、お気の毒に」と扇の向こうで笑う夫人。
「いつまで王都に?」と探りを入れる若い令嬢。
「お姉様もご挨拶を」と、わざとらしく声を張るローラ。
茶器が触れ合う澄んだ音でさえ、私には鎖の鳴る音に聞こえた。
ああ、もう……全てが煩わしい。
「ナンシー……領地に帰りましょうか」
「お嬢様……」
私が心身共に疲れ果てていたことを察してだろう。
ナンシーは何も言わずに頷いた。
ローラと義兄ケネス、継母サマンサ様を王都の屋敷に残したまま、私はナンシーだけを連れて、領都に戻った。
馬車こそ用立ててくれたが、御者が居るだけで、護衛すら付かない旅。
彼等が私をどう思っているか、そのことだけで察するに余りあった。
ガタン、ゴトンと馬車が揺れる。
御者は寡黙な男で、旅の最中、私達と話をすることもほとんどない。
……それくらいの方が、気楽で良いか。
気分的には、ナンシーとの二人旅だ。
車窓の外を、麦の波が風に伏しては起き上がる。
牧草地に点々と白い羊が見え、遠くの小川には洗濯する人影。
王都の煌めきが嘘のように、色彩は穏やかで、空は広かった。
「ねぇ、ナンシー」
「なんですか、お嬢様」
馬車に揺られながら、ナンシーに声を掛ける。
窓からは、屋敷に居ては見ることの出来ない豊かな自然が映し出されていた。
「私ね……領地に戻ったら、お父様にどこかの別荘での療養を願い出ようと思うの」
「別荘での療養……ですか」
ナンシーの言葉に、ゆっくりと頷く。
「家族も、屋敷の者達も、誰も居ないところで静かに暮らしたい……最後くらいは、そう願っても許されるかなって」
突然ナンシーが腰を上げ、前のめりになって、私の手を掴む。
「お嬢様、お一人では大変です。ぜひ、私をお連れください!」
「ええ……一緒に来てくれる?」
「もちろんですとも!!」
ナンシーの言葉に、自然と笑顔が零れる。
残り僅かな時間、私を不快にさせる全てのものから距離を置きたい。
自然に囲まれて、一人静かに死を迎える時を待つ……それくらいの贅沢は、許されるかしら。
賑やかな王都から、住み慣れたバリントン侯爵領へ。
緩やかに、だが確実に、時が刻まれる。
まるで季節が静かに移ろうように、私の運命もまた、知らぬ間にその形を変え始めていた──。









