17:呼び戻された名前
……まるで、深い海の底を彷徨っているかのようだ。
私ジェレミー・ティリットは、領境の森で発生した大恐慌の鎮圧に向かっていたはずだ。
それが、どうしてこんなところに居るのだろう。
思考が何も纏まらない。
このまま、黒い海の底に溶けて眠ってしまいそうだ。
それもまた良いか……とさえ思えた。
もはや自我を保つことさえ出来ずに、ゆっくりと身体が沈み込んでいく。
闇の底に、柔らかな波紋が広がる。
聞こえるはずのない“声”が、確かに私の名を呼んだ。
(ジェレミー、お兄様……)
もう、聞けるはずのない声だった。
助けられなかった少女。
あの呪われた家で、彼女はどのようにして、自ら命を絶つ決断をしたのだろう。
そんなことならば、もっと早くに──己の元に呼び寄せるべきだった。
この声は、私の後悔が具現化したものなのだろうか。
ああ、そうか。
私は──このまま死ぬのだな。
愛する女性一人も救えなかった愚か者には、似合いの末路だ。
(お兄様、どうか……)
アシュリーの声が響く。
優しい、温かな声。
ああ、最後に君の声が聞けたなら……それだけで、この死に様も悪くないと思えてしまう。
ふわりと、身体が光に包まれる。
……温かい。
このまま、彼女の元に行こう。
アシュリーに会えるのならば──死さえも、怖くはない。
そう思っていたのに……、
(お願い、生きてください──!)
祈りのような声が響いた瞬間、眩い光が裂けるように闇を貫いた。
焼ける痛みが、いつしか温かなぬくもりへと変わっていく。
深い海の底から、ゆっくりと浮上する感覚。
やがて、視界が光で溢れて──。
「ここ、は……?」
気付けば、天幕の中だった。
状況が分からず、上体を僅かに起こしたままで、呆然と周囲を見回す。
「ジェレミー様!!」
中隊長のウォーレン・メイスンが、慌ててこちらに駆け寄ってくる。
こいつがこんなに取り乱すところは、珍しい。
「私は……気を失っていたのか?」
「う……っ」
顔を上げて、ギョッとした。
厳つい大男のメイスンが涙を浮かべるところなど、早々見られるものではない。
「気を失っていたどころの話ではありません。一歩間違えれば、いや、治療が間に合わなければ、命を落とすところだったのですよ!?」
「そう、か……」
ここに来て、ようやく私は状況を理解した。
ああ、なるほど。
私は死の淵にあったのか。
そこで、アシュリーの声を聞いた。
きっと、彼女が私を生の世界へと送り返してくれたのだろう。
とはいえ、現実的には私を治療した医師に例を言うべきなのかもしれない。
そこで、ふと気が付いた。
身体のどこにも、痛みはない。
見下ろす肉体は、いつも通り。
いや、むしろいつもよりも身体が軽い気がする。
「私は……死にかけていたのではないのか?」
「は、それが……」
メイスンが、何やら口籠もる。
「そういえば、この村には凄腕の治療師が居ると聞いたな。私もその人の世話になったのだろうか」
「い、いえ、決してそのような!!」
慌てて声を上擦らせる様子は、やはりいつもとは違う。
こいつ……私に何かを隠しているのか?
「では、他の者が治療を行ったというのか?」
「それ、は……」
メイスンの視線が一瞬だけ逸れた。
……どうにも、歯切れが悪い。
こいつ、こんなにハッキリとしない男だっただろうか。
まぁ、いい。
私の治療をしたのがこの村の治癒師ではないにせよ、部下達が世話になっている以上は、一度礼をしなければと思っていたところだった。
「この大恐慌が落ち着いたら、一度その治癒師の元に向かおう」
「は……」
答えるメイスンの顔は、やはりどこか浮かないものだった。
◇◆◇◆◇
魔獣の発生は収まり、後は鎮圧だけ。
村を混沌へと陥れた大恐慌は、ようやく下火を迎えていた。
とはいえ、いまだ発生した魔獣が全て駆逐された訳ではない。
騎士達も、冒険者達も、日々辺境の森に向かっては魔獣の討伐にあたってくれている。
とはいえ、大量の魔獣に囲まれていた当初よりは、負傷する騎士達も減ってきた。
臨時治療師としての役割も、そろそろ終わりそうと考えていた、そんな頃だった。
「は~い」
ノックの音が響いて、扉に向かう。
また負傷者がやってきたのだろうか。
最近は重症者がめっきり減ってきたため、軽傷でも、私の元にやってくる騎士達が増えていた。
ティリット家の騎士達と交流を持つつもりはないのだけれど、私を慕って来てくれる彼等を追い返すのは、忍びない。
最近では“辺境の聖女様”なんてご大層なあだ名まで一部で囁かれている始末だ。
やめてほしいんだよなぁ。
そんな風に言われていることが万が一教会の耳にでも入ったら、大問題だ。
せっかく病を乗り越えたというのに、聖女を騙った罪で罰せられるなんて、死んでも死にきれない。
扉を開けた瞬間、春の陽光が部屋に流れ込んだ。
日の光を背負い、陰になった訪問者の姿。
じっと彼の顔を見上げれば、こちらを見つめる碧色の瞳と視線が交差した。
「あ……」
彼の視線に絡め取られ、身動きが取れなくなる。
幼い頃から、ずっと私を見守ってくれていた瞳。
懐かしい色合い。
優しい彼の眼差しが、今では驚愕に見開かれている。
「ア……シュリー……?」
震える声で、名前を呼ばれた。
ダメだ、内心の動揺を気取られてはいけない。
認めてしまえば、私は再び“アシュリー・バリントン”として生きなければならなくなる。
「あの、どちら様でしょうか?」
私の声に、ジェレミーお兄様がハッと身体を強張らせる。
……ごめんなさい。
嘘を吐くのは心苦しいけれど、私は今の生活を守らなければいけないの。
「あ……」
ジェレミーお兄様は口を開きかけたままで、呆然と私を見つめている。
今の私は目映い銀の髪を、黒く染めている。
それでも、顔立ちも、瞳の色も同じ。
従兄である彼ならば、私がアシュリーであると簡単に察することが出来るだろう。
「紹介します、こちらが当家の騎士達を治療してくれたシェリーさんです」
ジェレミーお兄様に付き添っていたのは、あの時の中隊長さんだ。
どうやらお兄様の治療が私だと知られた訳ではないらしい。
あくまで、村の治癒師に礼を述べに来たということか。
それならば……。
「御礼をされるようなことではありません。騎士団の皆様からは、既に十分過ぎるほどの謝礼をいただいております」
玄関先で、深々と頭を下げる。
向こうから名乗りはしていないが、中隊長さんが丁寧に接している時点で、傍目にもジェレミーお兄様が地位のある方だとは分かるはずだ。
そんな御方を、小汚い民家に招き入れる訳にはいかない。
こちら側の事情も、ある程度は察してくれるだろう。
「ですから、どうか──」
お引き取りを……と、言いかけた時だった。
「あら、お客様ですか?」
階段を降りてくる足音と、弾むような明るい声。
声の主が、私の背後から玄関先を覗き込む。
「あ──」
表れた侍女のナンシーに、再びジェレミーお兄様が硬直してしまった。
専属侍女のナンシーは、あのバリントン侯爵家での、数少ない味方だ。
私はいつもナンシーと一緒に居た。
そのことは、ジェレミーお兄様も良く知っている。
そんなナンシーが、私の後ろから姿を見せたのだ。
「やはり、君は──」
呟くジェレミーお兄様の声は、もはや確信に満ちていた。
その言葉の続きを、聞きたくはない。
──止まっていた歯車が、再び、軋む音を立てた。
20話となりましたので、先行公開はここで一時ストップとします。
以降の更新は、今暫くお待ちください。









