16:治療の代償
ジェレミーお兄様が、倒れた──?
耳に届いたはずの言葉が、まるで遠い水底から響いているようだった。
世界が音を失い、私の胸の奥で、何かが軋んだ。
いつも優しい、ジェレミーお兄様。
家族に虐げられていた私を、唯一気遣ってくれていた人。
そんな彼が、負傷したと──?
「容態はどうなんだ!」
中隊長さんが、慌てた様子で伝令の騎士に声を荒らげる。
「この村の医師が現在治療にあたっていますが、いまだ意識は戻らず……」
息を呑む音。
私が上げたものか、それとも中隊長さんか。
「現在傷口の縫合中ですが、出血も多く、状況はかなり絶望的かと……」
伝令に来た騎士の声は、尻すぼみだった。
そんな中、伝令の騎士と中隊長さん、二人の視線がこちらに向けられる。
「……シェリーさん」
「はい」
ごくりと、唾を飲み込む。
「どうか、お願いします。ジェレミー様を……領主様のご子息を、どうか助けてはいただけないでしょうか」
私は死を装って、隠れ住む身。
そんな状況で従兄と顔を合わせることなど、避けなければならない。
それは分かっている。
分かっているが──その従兄が死に瀕しているとなれば、話は別だ。
こんなの……放っておける訳がない。
「一つだけ、お願いがあります」
「何なりと」
中隊長さんに向き直り、息を整える。
一歩間違えれば、今の生活が崩壊してしまうかもしれない。
その危険を冒してでも──私は、ジェレミーお兄様を助けたい。
「私が治療したということは、内密にしてはいただけないでしょうか?」
「それは……それで治療していただけるのならば、構いませんが……何故?」
中隊長さんの声は、戸惑いがちなものだった。
それはそうだろう、侯爵家の令息を助けたとなれば、相当な謝礼や報酬が期待出来る。
その権利を、自ら放棄しようと言うのだから。
「知っての通り、聖属性の使い手は稀少です」
「え、えぇ、まぁ確かに……」
「ですが、私はこの村が好きです。目立つことなく、この地で静かに暮らしていきたいのです」
じっと、中隊長さんのトパーズ色の瞳を見上げる。
彼はじっとこちらを見つめ、重々しく頷いた。
「分かりました。どうか、ジェレミー様の治療をお願いします」
中隊長さんが深々と頭を下げて、伝令の騎士もそれに倣う。
……彼等に頭を下げられるまでもない。
ジェレミーお兄様は、私にとってもあの辛い生活を支えてくれた、大事な恩人なのだ。
「案内してください」
この決断が、自らを窮地に追い込む可能性が高いことは、分かっている。
分かっていて、なお──私には、彼を見捨てることなど出来なかった。
マルコム村の、中央。
広場に敷かれた、いくつもの天幕。
その中の一つに、ジェレミーお兄様は居た。
人払いを済ませたテントの中に残っているのは、医師のエリックと中隊長さん、そして今回の総指揮官であるギル・ウィルミントン卿だけ。
ウィルミントン卿は、王国中にその名を轟かせた大将軍だ。
年老いたとはいえ、彼の名はいまだティリットの守護神として健在。
そう言われていたというのに──今私の目の前に居るウィルミントン卿は、頬が痩せこけ、憔悴しきっていた。
……仕えるべき主のご子息が、このような状況なのだ。
将軍は勿論、兵士達も気落ちするのは仕方ない。
だからこそ、ジェレミーお兄様には元気な姿を見せてもらわなくてはならない。
皆の為に。
そして、マルコム村の平穏の為に。
「失礼します」
エリックと入れ替わるようにして、横たわるジェレミーお兄様の傍に屈み込む。
彼の胸から腹にかけて、おそらく魔獣の爪牙だろうか、惨たらしい傷が遺されていた。
エリックによって傷口は縫合されたようだが、縫い合わせた箇所から滲み出る血が、今も白い手ぬぐいを赤く染め続けている。
大量の出血、戻らぬ意識。
ここに来るまでにすれ違った騎士達の表情が蒼白だったのも、致し方ないことだろう。
でも、ここには私が居る。
ジェレミーお兄様を、死なせはしない。
悲壮な空気が漂っていた天幕は、それを振り払うかのように、眩しい光に包まれた。
「……っ」
手をかざした瞬間、温かな光が掌から零れ落ちる。
それは炎ではなく、春の日差しのような光。
傷口を包み、静かに命の鼓動を呼び覚ましていく。
「ジェレミー様!!」
声を上げて駆け寄ろうとした中隊長さんを、ウィルミントン卿が制止する。
大量の出血で先ほどまで蒼白だったジェレミーお兄様の頬には、うっすらと桜色が差していた。
傷口はすっかり塞がって、赤く染まった糸が申し訳程度に傷の名残を匂わせている。
逞しい胸は、ゆっくりと上下している。
先ほどまでの苦しげな様子もなく、静かに眠っているかのようだった。
「大丈夫……なの、か?」
中隊長さんの不安げな声が響く。
「おそらく……私に出来るのは、ここまでです」
振り返り、皆に笑顔を見せる。
途端に、足元が崩れるような感覚に陥った。
「おっと」
その場に頽れそうになった私を支えてくれたのは、老騎士のウィルミントン卿だ。
ウィルミントン卿とは、私が幼い頃に、一度だけお会いしたことがある。
ティリット侯爵家を訪れた際に、ご挨拶した程度のことだ。
……一度会っただけの子供のことなど、流石に覚えてはいないだろう。
そう自らに言い聞かせ、笑顔を浮かべる。
「ありがとうございます、助かりました」
「いえ、御礼を申し上げるのはこちらの方です。我が主家のご子息を治療していただき、感謝の言葉もありませぬ」
老将の声は掠れていたが、不思議と力強かった。
その瞳には、かつて幾多の戦場を見てきた者だけが宿す光があった。
将軍と呼ばれるほどの方に頭を下げられるのは、流石に恐れ多い。
「今はまだ体力が戻りきっていない状態ですが、暫くすれば、じきにお目覚めになると思います」
「そうですか……」
中隊長さんが、ホッと安堵の息を吐く。
そう、ジェレミーお兄様が目覚めるのは、時間の問題。
ここでのんびりしている訳にはいかない。
「それでは、私はこれで失礼させていただきます」
恭しく頭を下げ、天幕を後にする。
……大丈夫。
ジェレミーお兄様には気付かれていないし、後は中隊長さんが約束通りに私のことを黙っていてくれたなら、何も問題はない、はず。
そう自らに言い聞かせ、早鐘を打つ鼓動を落ち着かせる。
せっかく得た、安息の地。
穏やかな暮らし。
今の生活を、失いたくはない──。
そんな願いは、我が従兄ジェレミー・ティリット侯爵令息の訪れによって、脆くも崩れ去るのだった。









