10:新しい名前、新しい日々
のどかな田園風景が、どこまでも続いていた。
黄金色の穂が風に揺れ、空はどこまでも青く澄み渡っている。
王都でも、バリントン侯爵家でも決して見ることが出来なかった、開放的な景色。
この小さな村が、私の新しい住処。
第二の人生を送る場所。
私達はバリントン領を離れて、お母様の実家──ジェレミーお兄様の居るティリット侯爵領にやって来た。
ティリット侯爵領の最も端に位置する、マルコム村。
領都から遠く離れた、国境の小さな村だ。
ここなら、ジェレミーお兄様に見付かる心配もないだろう。
「お嬢様、お加減は如何ですか?」
「大丈夫よ、ナンシーったら心配症なんだから」
マルコム村に到着した私に、ナンシーが心配そうな声を掛ける。
「心配しすぎということはありません。今が一番大事な時期なんですからね?」
「はいはい」
まだお腹は目立ってはいないが、そのうちに膨らんでくるのだろうか。
自分の中に、新しい命が宿っているだなんて……いまだに実感出来ていない。
でも、私の中に芽生えた生命が、私の命までをも繋ぎ止めてくれているのだ。
「田舎で何もない村ですが、良いところですよ」
先に村を訪れ、住む家を探してくれていたナンシーが、笑顔を見せる。
「こんなに民家がまばらだなんて、思わなかったわ」
私がイメージする民家というのは、どこも建物が密集していた。
この村では、一番近くの隣家に行くにしても、数十歩は歩かなければならない。
かく言う我が家も、お隣に辿り着くまでには鼻歌が一曲歌えてしまうほどだ。
「お隣さん、パン屋さんなんです。美味しかったですよ」
「あら、私も買いに行ってみようかしら」
「後で一緒に行ってみますか?」
ナンシーの声は、バリントン家に居た頃よりもずっと弾んでいる。
「そうしましょう。ご挨拶もしたいしね」
新しい家は、二階建ての一軒家。
数年前まで、この村で薬師をしていたお婆さんが住んでいた家らしい。
お婆さんが亡くなってからは、村の人達が時折手入れをして、綺麗に保ってくれていたみたい。
侯爵令嬢の私が田舎の一軒家に住んでいるなんて、少し前まで予想も出来なかったことよね。
でも、今はこの手狭さがとても心地よい。
これくらいの広さならナンシー一人でも掃除は出来ると言ってくれているし、私の部屋だけでなく、ナンシーと、後から来るであろうエリックの部屋も用意されている。
もう一室空きがあるという話だから、お腹の子が一人で歩けるようになったら、子供部屋にしようかしら。
広い屋敷で暮らしている時には、味わえなかった楽しさ。
新たな生活に、期待ばかりが膨らんでいた。
「こんにちは~」
ナンシーが慣れた様子で、お隣さん──パン屋の扉を開く。
田舎の小さなパン屋さん。
今日から、私のお隣さんになる人達だ。
「おや、ナンシーさん……と、そちらの方は?」
「こちらが、私がお仕えしている方です」
「まぁ」
お店の中には、中年の夫婦と若い男性の三人が座っていた。
私達を見るなり腰を上げて、迎え入れてくれる
「はじめまして、シェリーと申します」
初めて出会うお隣さんに、笑顔で挨拶する。
シェリーとは、この地で名乗ることにした偽名──私の新しい名前だ。
変えたのは、名前だけではない。
目立つ銀の髪も黒色に染めて、パッと見では私がアシュリー・バリントンと同一人物だなんて分からないだろう。
「まぁまぁ、こんな可愛らしいお嬢さんがこの村に越してくるなんてねぇ!」
パン屋の女将さん──クレアさんが、驚きに目を見開く。
「ありがとうございます、お世辞でも嬉しいです」
「お世辞なんてことがあるもんかい、ねぇ、あんた」
「あ、あぁ」
クレアさんのご主人でパン屋の主が、ブルーノさん。
ここまでは、ナンシーに聞いて知っている。
ナンシーが言うように、二人とも気さくで人の好いご夫婦といった印象だ。
ガタリと、椅子の脚が床を鳴らした。
若い男性が、まるで何かに撃たれたようにこちらを見つめている。
彼の瞳は驚き見開かれたかのように、暫し瞬きを忘れていた。
「ほら、チェスターなんか滅多に見ない別嬪さんに、すっかり見惚れちまってまぁ」
「母さん!!」
揶揄うようなクレアさんの声に、男性が声を荒らげる。
どうやら、若い男性──チェスターと呼ばれた彼は、クレアさんの息子さんのようだ。
「チェスターとは、ナンシーさんも初めてだったね。紹介するよ、この子があたしらの不肖の息子さ」
不肖の息子と紹介されたチェスターさんは、拗ねたように視線を逸らした。
年は私よりも少し上くらいだろうか。
日に焼けた肌に、よく鍛えた筋肉質な身体。
侯爵邸の騎士達に負けず劣らず、彼も相当に鍛えていそうだ。
「冒険者なんてやってるもんだから、なかなか家に帰ってこなくてね。顔を見せるのは、一年半ぶりだよ」
「まぁ、冒険者をなさっているのですか?」
「あ、あぁ」
私が声を上げると、チェスターさんは落ち着かない様子で頷いた。
いけない、冒険者と聞いて、つい興味が滲んでしまった。
色々な依頼を受けたり、魔獣と戦う冒険者達──話に聞いたことはあっても、本物の冒険者に出会うのは、これが初めてだ。
「……冒険者は粗忽者ばかりといって嫌われるもんだが、あんたは違うのか?」
「え? 冒険者にも色々な人が居るでしょう」
貴族にも、騎士にも、使用人達にも、色んな人が居る。
職業で性格や性質が決まる訳ではなく、あくまで個人の持つ特性だと思うのだけれど……冒険者をしていると、職業だけで決め付けられたりするのかしら。
「そうか。まぁ……そうだな」
チェスターさんは、何やらもごもごと呟いて、一人頷いた。
どうしたのだろう。
「身体付きから、相当に鍛えてらっしゃるようにお見受けするのだけれど……チェスターさんも、剣を使われるのですか?」
「ああ、といっても我流で、力任せに大剣を振り回すような戦い方だが」
なるほど。
彼の上背と筋肉、手足の長さならば、その戦い方だけで十分脅威になりそうだ。
つい観察するような目つきになってしまって、チェスターさんが居心地悪そうに身を捩る。
「ごめんなさい、私も剣を扱うもので、つい気になってしまって」
「そうなのか?」
チェスターさんの小さな瞳が、大きく見開かれる。
私が剣を使うのが、そんなに意外かしら。
「ええ、といっても、今は手合わせをお願いすることも出来ないのだけれど」
「どうしてだ?」
チェスターさんの問いに、苦笑混じりにお腹を撫でた。
「妊娠しているの」
「まぁまぁまぁまぁ!!」
その言葉に真っ先に反応したのは、クレアさんだ。
チェスターさんはと言えば、口をあんぐりと開けたままで硬直している。
「それは大事にしないと。なんと目出度いことかねぇ。この村で子供なんて、何年ぶりのことだろう!」
小さな村では、子供が生まれることも稀なのだろう。
クレアさんが瞳を輝かせ、乾いた掌で私のお腹を撫でてくれた。
「しかし、旦那さんはどうしたんだい?」
「夫は軍に勤めていたのですが、私の妊娠を知るより先に、亡くなってしまって……」
これは、あらかじめ決めておいた設定だ。
ハッと、クレアさんとブルーノさん、それに息子のチェスターさんが息を呑む。
「そうかい、それは悪いことを聞いちまったねぇ」
「いえ……嫁ぎ先を出た後に妊娠に気付いたもので、実家にも帰りづらくて、田舎で一人静かに子育てをしようかなって」
私の言葉に、クレアさんがドンと胸を叩いた。
「そういうことなら、任せておきなよ。困ったことがあったら勿論、子育てだって手伝うからね」
「助かります」
事実、子育てに関しては、私もナンシーも素人だ。
実際に子供を育てたことのあるクレアさんが居てくれるのは、誰よりも頼もしい。
「といってもまぁ、育てた子供はこんなにグレちまったけどね」
「母さん!!」
小さなパン屋さんに、笑い声が溢れる。
良かった、素敵な人達に囲まれて、第二の人生、良いスタートを切れそうだ。
唯一、気掛かりなのは……、
「……?」
じっと、こちらを見つめる、チェスターさんの瞳。
私が視線を向けると、ふいと顔を逸らされてしまった。
ひょっとして、息子さんには嫌われてしまったのかしら。
逸らされた瞳には、隠しきれない感情が滲んでいる気がした。
──新しい生活が、静かに動き始めていた。









