幕間:それぞれの祈り
アシュリー・バリントンは、余命僅かな身だ。
それを知りながらも、報告を見たトリスタン・ファインズは、己の目が信じられなかった。
あのアシュリー・バリントンが死んだ?
それも、自ら命を絶っただと……?
——あり得ない。
あの女は、誰よりも強く、己を誇り高く律する女だった。
「病に屈するくらいなら、酒で命を縮めてやる」と笑っていたではないか。
王太子である自分と、対当に飲み交わす度胸。
怯えるでなく、媚びを売るでなく、自然体で杯を酌み交わしていた。
そんな女が、病に負けて身を投げるなど──事実を確認する為に、その夜の内にトリスタンは王都を発った。
馬を走らせ、駆けつけたバリントン侯爵領。
そこで、しめやかにアシュリーの葬儀が執り行われていた。
しめやかに──という表現は、正しくないかもしれない。
トリスタンが駆けつけるなり、軽やかな足取りで近付いてきた女が居る。
「まぁ、王太子殿下! わざわざ来てくださったのですか!?」
頬を上気させて近付いてくる女に、トリスタンは思わず顔を顰めた。
(なんだ、この不快で醜悪な女は)
トリスタンが呆れるのも、無理はない。
ここは侯爵令嬢の葬儀が執り行われている場。
でありながら、目の前の令嬢は喪服こそ身に纏っているものの、色鮮やかな紅を差し、弾むような声音で声を掛けてきたのだ。
おおよそ、葬儀の場での言動とは思えぬ。
(確か、此奴は……)
記憶の糸を辿る。
王太子であるトリスタンに取り入ろうとする女は、数多く居る。
この女も、そんな中の一人だったはずだ。
──ああ、そうだ。
思い出した。
バリントン家の後継者でありながら、バリントンの色を継がなかった女──アシュリーの妹ではなかったか。
姉の落ち着きながらも機知に富んだ受け答えとは違う、あからさまに媚びを売るような物言い。
おおよそ、葬儀の場に似つかわしくない振る舞いだった。
その笑みを見た瞬間、胸の奥に冷たい嫌悪が広がる。
ふと、記憶が呼び起こされる。
アシュリーと最後に飲み明かした、あの舞踏会の夜。
肉親の不幸だというのに、よくもまぁ嬉しそうにべらべらとまくし立てるものだと、感心した覚えがある。
なるほど、その態度は姉の死に面しても変わらずか。
身内の不幸は、彼女にとって己をステージに上げる為の小道具に過ぎないらしい。
「どうか姉に花を手向けてあげてください。きっと姉も喜びますわ」
しおらしい言葉を口にしながら、ローラがトリスタンにしなだれかかってくる。
……花を手向けたところで、あのアシュリーが喜ぶものか。
わざわざ殿下に来ていただいて、恐れ多いと肩を竦めるか……あるいは、花よりも酒の方が良いと言って、笑うのではないか。
カラリとした性質のアシュリーを思い出せば思い出すほど、己の腕に纏わり付く女を不快に感じてしまう。
腕を引いて絡み付く指を振り払えば、ローラが驚きに目を見開いた。
「も、申し訳ございません、殿下……悲しみのあまりに、つい」
ローラの唇から零れたのは、姉の訃報を言い訳にした言葉だった。
トリスタンの眉間に、深い皺が寄る。
「バリントン家の姉妹仲がそれほど迄に良好だとは、初めて聞いたな」
冷ややかな瞳で、妹のローラを見下ろす。
楚々とした姉アシュリーとは、あまりに違う。
社交に長けた、お喋り雀──どこにでも居る令嬢の一人だ。
打ちひしがれたローラから視線を外した後、トリスタンは一人式場の奥へと歩を進めた。
それっきり、彼の意識からローラのことは完全に消えてしまった。
トリスタンにとっては、取るに足らぬ路傍の石に過ぎぬとでも言わんばかりの態度。
その態度に、姉を亡くした悲劇のヒロインであるはずのローラが、狂おしげに拳を握りしめていた。
王都から馬を走らせたのは、トリスタン一人ではない。
彼の叔父である王弟ルーサー・ファインズも、護衛の騎士達と共に同行していた。
ルーサーにとってアシュリーは腹心の従妹であり、自ら剣を教えた愛弟子だ。
最初はアシュリーが魔力欠乏症に罹っていると聞いて、同情から彼女に優しくしていた。
でも、アシュリーは病に負けない気丈な子供だった。
剣を習いたいと言ったのも、肉体を鍛えて病に抗う為だ。
健気なアシュリーに、いつしか同情以上の気持ちを抱くようになっていた。
それはあくまで幼子に抱く感情であって、男女のそれではない。
気付けば、ルーサーは腹心のジェレミー・ティリット侯爵令息──アシュリーの従兄と同じ目線を抱いていたのかもしれない。
生まれた時から病を抱え、先は短いと言われながらも必死に抗い、剣を習い、身体を鍛えようとする子供。
そんな子供に情を移さぬ大人が、どこに居るだろうか。
気付けば、ルーサーはアシュリーに対して並々ならぬ庇護欲を抱えるようになっていた。
あの夜、最後の舞踏会で久しぶりに愛弟子を目にした瞬間、ルーサーは内心の動揺をひた隠すのに必死だった。
幼子とばかり思っていたアシュリーが、気付けば美しい女性に成長していた。
バリントン家の色である銀の髪を揺らし、ジェレミーが手配したドレスを身に纏う様は、さながら絵画から抜け出た妖精のようであった。
あまりに美しく、あまりに儚いアシュリー。
彼女の命が残り少ないと聞かされたのは、その日のことだった──。
「ようこそおいでくださいました、王弟殿下!」
一人の女性が、ルーサーの元に駆けてくる。
バリントン家の関係者だろうか。
「案内させていただきます、さぁどうぞこちらへ──」
女性の細くしなやかな指が伸びてくるのを咄嗟に躱し、ゆるりと首を振る。
「案内は不要です」
王都の治安を預かる身なれば、葬儀の後は、早々に戻らなければならない。
女性の歩幅に合わせるよりも、自らのペースで歩いた方が速いとばかりに、足早に歩を進める。
「あ……」
ルーサーの背を呆然と見つめたまま、ローラはやり場のない指先を暫し彷徨わせていた。
式場の奥には、無数の花々に囲まれたアシュリーの肖像画が飾られていた。
その前に置かれたのは、白く無機質な棺。
花を手向けられるようにと蓋が開いた棺の中に、本来収められるべき遺体は、そこには無い。
アシュリー・バリントンは己の死期を悟り、自ら断崖絶壁から身を投げたという。
遺体さえ見付けることは叶わず、最後に一目見ることも、声を掛けることさえ叶わない。
「なんとも……人の一生とは、呆気ないものだな」
ルーサーより一足先に式場に入り、一人空の棺の前で佇んでいたトリスタンは、叔父の気配に振り返ることもなく、小さく独りごちた。
騎士団に所属し、部下達の葬儀に多く参列してきたルーサーは勿論のこと、トリスタンもまた、臣下の葬儀には何度も参列してきたはずだ。
しかし、アシュリーほどに若い女性の葬儀となれば、話は別だ。
ましてやその当人と、少し前に会っているというのに……飾られた肖像画よりも、脳裏に刻まれた本人の姿の方が、鮮明に蘇る。
「今はただ……彼女の冥福を祈ろう」
ルーサーの言葉に、トリスタンが頷く。
国の中枢を担う二人が、一人の少女の棺を前にして、静かに祈りを捧げていた──。
そんな姿を前に、心穏やかで居られぬ者が、一人。
(どうして、どうしてお二人とも、私を無視して真っ直ぐに奥へと行かれるのですか!?)
厳かな式場で声を荒らげることはしないまでも、ローラの瞳は怒りを滾らせ、姉の棺に祈りを捧げる二人を睨み据えた。
胸の奥で何かが煮え立つ。
怒りなのか、焦りなのか、自分でも分からない。
ただ、二人の視線が“あの女”に向いていることだけが、どうしようもなく許せなかった。
(あの女は、もう死んだのに! あの棺には、遺体も何も入っていないというのに!!)
怒りに呼気を荒げ、肩を震わせる。
誰も見ていなければ、この場で激しく地団駄を踏んでいたことだろう。
邪魔な姉が消えた。
ローラとサマンサにとって、それは何よりの吉報だった。
これから先、ローラがバリントン家次期当主であることを脅かす者は、誰も居ない。
バリントン家に纏わる全ての栄誉は、ローラ一人がこの手にするはずだったのに。
姉を亡くした不幸な妹として、あの舞踏会の時のように、社交場のように──皆から注目され、慰めの声を掛けられ、その場の主役で居られるはずだったのに。
(どうして王太子殿下と王弟殿下は、私を無視するの!?)
何もかもが信じられなかった。
どうしてあの二人は、自分よりも死んだ姉のことを気にするのか。
どうして自分を見てくれないのか。
邪魔者は居なくなったというのに、何もかもが上手くいかない。
もどかしさばかりが募る。
そんなローラの元に、新たな客人の訪れが告げられた──。









