幕間:遺された者達
快晴のその日、小さな町に暴風が吹き荒れた。
侯爵令嬢の死──僅かな領民達が受け止めるには、あまりに大きな事実。
彼等は侯爵家の怒りの矛先が向くことを恐れ、事実をありのまま報告することしか出来なかった。
医師エリックが別荘で遺書を発見した後、町民総出で捜索にあたった。
──発見されたのは、崖の上に置かれた靴とストール。
朝露に濡れた布地が風に揺れ、まるで彼女の名残を惜しむかのように翻っていた。
見下ろす切り立った絶壁は、激しい波を受けて白い飛沫を上げていた。
あまりにも遠く、深く、渦を巻く波飛沫。
誰もが思った――あの高さからでは、とても助かるはずがない、と。
アシュリー・バリントン侯爵令嬢が身投げしたという報せは、すぐさま領都のバリントン侯爵家にもたらされた。
アシュリーの病を知っていた侯爵邸の者達にも、決して小さいとは言えない衝撃が走る。
「まぁ、お姉様が!? まさかご自分から命を縮めるだなんて!」
最初に声を上げ、思わず手を叩いたのは、アシュリーの腹違いの妹ローラ・バリントンだ。
「なんてこと、そこまで追い詰められていたのかしら」
言葉とは裏腹に、その面には隠しきれない喜色が浮かんでいる。
彼女に仕える侍女達もまた、主家の娘が死んだというのに、どこか浮き足だっていた。
「ふふっ、可哀想なお姉様。ま、どうせあと半年もしないうちに尽きる命でしたけど!」
報せを告げた従者が居なくなれば、楽しげな表情を隠しもしない。
ざわめく侍女達を振り返り、満面の笑顔を浮かべた。
「さぁ、今日はお祝いをしましょうか!」
◇◆◇◆◇
同じ頃、侯爵邸の執務室。
報告を聞いた後、暫しの人払いを済ませた当主のヘンリー・バリントンは、合わせた掌に額を埋めていた。
(アシュリーが、自ら身を投げただと──!?)
その報せに、心臓が鷲掴みにされたような錯覚に陥ってしまう。
亡き妻ノーリーンは、ヘンリーが唯一愛した女性だ。
そのノーリーンが遺した、自分と同じ色を宿した子供。
魔力欠乏症さえ患っていなければ、アシュリーがバリントン家の後継者になるはずだった。
バリントンの血を引く者は、皆目映い銀の髪をもって生まれる。
後妻サマンサが産んだローラは、母と同じ栗色の髪をしていた。
バリントン家に嫁ぐ以前から、サマンサには様々な噂が付き纏っていた。
ローラが本当に己の娘であるかどうか──ヘンリーには確信が持てずにいた。
髪色以外の証拠は何一つない。
それでも、心のどこかでは違うのだと、薄々感じていた。
唯一の肉親であるアシュリーが、死んだ。
しかも、彼女は自ら死を選んだという。
(アシュリー、お前は……死ぬ為に、あの別荘に行きたいと言い出したのか?)
ヘンリーの胸は、後悔で埋め尽くされていた。
(いずれは死ぬ運命だったとしても、どうして自ら命を投げ出したりしたんだ……)
父として、自分はあの子に何をしてあげられたか。
どれだけ問いかけても、答えなど出てこない。
それはそうだろう、ヘンリーは、何もしていないのだから。
父として。
家族として。
アシュリーにしてやれたことなど……何もない。
妻を失った悲しみを繰り返さぬ為に、自らの心を守る為に、娘から目を背け続けていた。
(そんなにも、苦しかったのか──?)
問いかけたところで、アシュリーが答えてくれる訳もない。
苦しかった?
当たり前だ。
あの子は生まれた時から、魔力欠乏症に罹っていた。
それだけではない。
後妻には疎まれ、連れ子にも虐げられ、腹違いの妹にも馬鹿にされて育ってきた。
その全てを知りながら──自分は、何もしなかった。
情を移せば自分が悲しむことになるのだと、言い訳をして……全てから、目を背けてきた。
結果は、どうだ。
結局、あの子を亡くした悲しみに、打ちひしがれている。
それだけではない。
あの子の為に何も出来なかった自分の愚かさに、気が狂わんばかりだ。
どうして、もっとあの子を愛してやれなかった。
どうして、あの子を庇えなかった。
どうして──、
今更な言葉が、沸々と沸き上がってくる。
自分がもっと愛情を注いでいれば、あの子は自ら死を選ぶようなことはしなかったのではないか。
どれだけ問うても、答えはない。
ただ一つ残されたのは──自分で自分を許すことが出来ぬ、愚かで哀れな男だった。
◇◆◇◆◇
ローラ・バリントンは、バリントン家の娘でありながら、銀の髪を持たずに生まれた。
そのことで一番気を揉んでいたのは、他ならぬ母のサマンサ・バリントンであった。
前の夫と死に別れてから、サマンサは決まった相手を持たずに、複数の男達と交際を続けていた。
その関係は、彼女がバリントン家に嫁ぐその直前まで続いていた。
名門バリントン侯爵家の後妻となることが決まって、ようやく全ての関係を清算したというのに……嫁いですぐに妊娠が発覚し、生まれた子供は、自分と同じ栗色の髪をしていた。
髪色などで不貞を疑われては、たまったものでは無い。
陰口を叩く使用人は全て解雇し、誰にも文句は言わせずにいた。
嫁いだ後に、夫以外の誰かと肌を重ねたことはない。
しかし、嫁ぐ前ならば──直前まで、心当たりはある。
娘のローラは、可愛い。
それだけに、不憫でならなかった。
前妻の娘であり、銀の髪を持つアシュリー……あの子さえ居なければ、ローラが不貞の子と陰口を叩かれることもなかったはず。
唯一の跡取りとして、バリントン家に君臨出来たのだ。
幸いにして、アシュリーは先の長くない命だった。
自ら手を下す迄も無く、どうせ死に至る身。
待っていれば、全てはローラの元に転がり込んでくる。
ああ、その時がようやくやってきたのだ……。
血の繋がらない娘の訃報を聞いて、サマンサは口元を醜く歪ませた。
◇◆◇◆◇
ケネスは一人、廊下の突き当たりに飾られた肖像画を見上げていた。
代々のバリントン一家が描かれた肖像画が並ぶ廊下。
その一番奥に位置する、現バリントン家の肖像。
その中には連れ子であるケネスと、前妻の子であるアシュリーの姿もあった。
ケネスがバリントン家に引き取られたのは、三歳の頃だった。
当時のことは、あまり良く覚えてはいない。
大きなお屋敷に来る前の母は、代わる代わる別の男達と逢瀬を重ねていた……ような気はする。
それも全て、曖昧な記憶だ。
そう自分に言い聞かせ、記憶に蓋をして生きてきた。
気付いた時には、アシュリーが傍に居た。
妹と言うには、あまりに美しく、あまりに高貴な姿。
初めて目にした侯爵様と同じ、銀色の髪。
こんな子が自分の妹になのだと知って、心が高揚したのを今でも覚えている。
もう一人の妹ローラとは、あまりに違う姿。
銀の色を纏うアシュリーは、妖精の如き美しさだった。
幼いケネスの視線は、いつも自然とアシュリーに吸い寄せられていた。
それが妹に向けてはいけない感情だと気付いたのは、いつのことだったか──。
肖像画を見上げながら、ケネスは一人、拳を握りしめる。
(確かに辛く当たってはきたが──別に、嫌いではなかった。いや、むしろ俺は……)
美しく成長するアシュリーを見るにつれて、近年は自分の欲を抑えきれずに居た。
母と妹を通じて、縁談の話は数多く舞い込んでくる。
しかし、興味を持てる物は一つも無かった。
釣書のどんな似顔絵を見たところで、アシュリーほどに美しいとは思えなかったからだ。
前妻の遺した子であり、銀の髪を持つアシュリーを、母と妹は疎んでいた。
それを知るからこそ、自分もまた、アシュリーには冷たくあたっていた。
いや、しかしケネスのアシュリーに対する態度は、素直になれない感情の裏返しと呼べるものであったのかもしれない。
(こんな風に死んじまうのなら、もう少し優しくしてやっても良かったのかもしれない……)
そうすれば、自分の誘いが断られることも無かっただろうか。
そうすれば、せめて一度でも、あの白い肌に触れることが出来ただろうか。
今となっては、答えも、アシュリー自身も、手に入れることは叶わない──。
◇◆◇◆◇
バリントン家の夜は静まり返っていた。
豪奢な屋敷のどこからも笑い声は消え、灯だけが虚しく揺れている。
誰もがそれぞれの思惑を胸に、長い夜を過ごしていた。
門前には、各地から弔問客が訪れた。
屋敷には香の煙が絶えることなく、侯爵家の悲報は王都中に広まっていく。
けれど、誰も気付いていなかった。
侯爵令嬢アシュリー・バリントンの死が、一人の女性にとっての新しい人生の始まりであることに。









