第一章:存在する証明の消失
1.警察署の「無機質な観測」
公衆電話から通報した直後、僕は数分も経たないうちにパトカーに保護された。正確には、拘束という言葉が相応しかった。僕の服装は埃まみれのパーカーで、何日も髭を剃っていない顔は血走り、目は充血していた。その挙動は、誰の目から見ても「危険な異常者」のそれだった。制服の警察官たちの無駄のない動きと、周囲の好奇の視線は、僕を冷徹に「社会の秩序を乱す異物」として観測していた。連行された警察署は、新宿の雑踏の熱や生々しさとはかけ離れた、冷たく、白とグレーで統一された無機質な空間だった。
ロビーの蛍光灯の光は、まるで外科手術の照明のように強烈で、僕の肌のくすみや、目の下の深い隈、そしてパーカーについた見覚えのない泥の汚れを無慈悲に照らし出した。その光は、僕の内面の狂気や混乱を、客観的な証拠として浮き彫りにしているように感じられた。僕は硬い金属製の椅子に座らされ、壁の時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。そのカチカチという音は、僕の主観とは無関係に流れ続ける「現実の正確な時間」を、僕に突きつけているようだった。
外界に出てからのサイン会での高揚感や焦燥感は消え失せ、今、僕を襲っているのは、無数の冷たい視線に囲まれているにも関わらず、どこまでも深く、重苦しい孤独と無力感だった。ここは、僕の主観や感情が一切通用しない、国家権力による最大の観測装置だ。僕の訴えは、感情的な言葉ではなく、公的な記録という冷たいフィルターを通さなければ、ここに存在する価値がない。
僕は、この場所で自分の存在を証明できるはずだと信じていた。この客観性の牙城で、梓の虚構を打ち破れるはずだと。しかし、この空間の隅々まで行き渡っている「現実」の圧倒的な質量が、僕の僅かな希望を、まるで薄い紙のように押しつぶしにかかっている。僕は身体の自由を奪われただけでなく、精神的な自由さえも、この場所の無機質な秩序に囚われていた。冷房の効きすぎた室温は、僕の体温を徐々に奪い、肌の感覚が麻痺していく。それは、僕の存在が徐々に非実体化していくような、恐ろしい感覚だった。
僕は、この椅子に座っている自分自身を、遠野梓の物語の中の「狂人」という役柄を演じさせられている俳優のように感じ始めた。僕の行動、僕の言葉、僕の表情のすべてが、梓の作り上げた脚本通りに、この警察署の刑事たちによって観測・記録されているのではないか。
僕は、無意識にポケットに手をやった。あの古いカメラも、草稿ノートも、今はここにはない。僕の存在を証明する物理的な証拠は、サイン会場で梓によって虚無へと変えられた。僕に残っているのは、僕の記憶と、僕の言葉だけだ。しかし、この場所において、記憶は妄想であり、言葉は異常者の訴えに過ぎない。
僕は、この冷たい場所が、僕が逃げ出し、そして自ら飛び込んだ、「観測の監獄」であることを理解した。そして、この監獄の看守である刑事たちは、僕を「狂人」として定義することで、梓の虚構の現実を補強する共犯者となるだろう。僕の最後の闘いは、この無機質な空間で、僕の主観的な真実を、彼らの客観的な手続きによって認めさせることだった。しかし、その闘いが、最初から勝てる見込みのない戦いであることは、この冷たい空気の肌触りだけで分かった。僕の存在は、すでにこの場所の観測のルールから逸脱していたのだ。
2.事務的な取り調べと拒絶
僕は硬い金属製の椅子に座らされたまま、薄暗い取調室に通された。部屋は一室だけの冷たい空間で、小さなテーブルを挟んで向かいに座ったのは、五十代前後の、ベテランの木村と名乗る刑事だった。彼の顔には長年の仕事の疲労が深く刻まれており、僕の顔を観察する目には、すでに僕という人間を「厄介な案件」として分類し終えた諦念が宿っていた。
木村刑事は、僕の訴えを、まるで昨日の夕食のメニューを聞くかのように淡々とノートに記録していく。「遠野梓という男が、あなたの人生を盗んだと。そして、あなたの書いた小説を盗作したと。よろしいですか?」彼の声には、感情の起伏が全くない。それは、僕が訴えていることが「現実の事柄」ではないという、彼自身の絶対的な確信の表れだった。
僕は必死に、自身の記憶の断片、部屋で見つけた見慣れない万年筆の痕跡、そして僕の鼻歌が梓のSNSで引用されたという観測の事実を訴えた。感情を込めなければ、僕の言葉はただの空虚な音になる。僕は、身振り手振りを交え、梓が僕の魂の設計図を盗んだと訴えた。しかし、刑事は僕の訴えを中断し、冷静に事実関係のみを抽出した。
「つまり、あなたと遠野梓氏の間には、過去に接点がない。あなたは彼に対し、一方的な被害妄想を抱いている。そして、あなたが提出できる物理的な盗作の証拠はない。これが現状の認識でよろしいか?」
彼の言葉は、僕の真実を客観的な手続きという冷たい型に流し込み、「妄言」として凝固させようとしている。僕は、テーブルの上のざらついた木目を見つめながら、この取調室の持つ絶対的な力を痛感していた。僕の語る物語は、この公的な現実においては、何の効力も持たない「空想」に過ぎないのだ。
「盗作については民事の範疇です。警察が介入できるのは、刑事事件のみ。しかし、あなたがストーカー行為を行ったと彼に訴えられたら、話は別になる」
木村刑事は、僕に被害者ではなく加害者としての立場を突きつけ始めた。僕の正義感に基づく行動は、すでに梓によって「犯罪行為」として定義されている。僕の真実が、彼らの冷酷な手続きによって一方的に逆転されていくのだ。僕は、テーブルを叩きつけたかった。この不条理を叫びたかった。しかし、その衝動さえも、この無機質な空間では滑稽な狂気のパフォーマンスにしかならないことを悟っていた。
僕の全ての熱量、僕の全ての真実が、木村刑事の持つ事務的な書類の一行一行によって、虚無へと削り取られていく。僕は、梓の周到な観測能力が、この警察署という観測の権威を味方につけていることに、絶望的な敗北を感じていた。僕の狂気こそが現実として扱われ、僕の真実が妄想として記録される。僕は、この闘いが最初から梓の勝利として仕組まれていたことを、この静かな取調室の空気から感じ取った。
3.身元確認の難航
木村刑事は、僕の訴えを一旦「精神的な不安定さ」として書類に分類した後、現実的な次のステップ、つまり僕の身元の確認に移った。それが彼らの仕事における優先順位だった。僕の人生の真実よりも、僕が社会のデータベースに登録されている「公的な記号」であるかどうかが、ここでは重要だった。
「さて、本題に戻りましょうか。まず、身分証明書。財布の中にありますか?」
僕は、パーカーのポケットから財布を取り出し、テーブルの上に置いた。中身を広げると、数年前に期限が切れたクレジットカード、変色した数枚の硬貨、そして最後に外界で使った時のレシートが、時間の澱のように沈んでいた。身分証明書はなかった。僕が外界との接点を断ち、「観測されない存在」を選んだあの瞬間から、公的な身分証を必要とすることはなかったからだ。
僕は自分の氏名と生年月日を、はっきりと告げた。刑事はパソコンのキーボードを叩き始めた。その軽快なタイピング音は、僕の存在を瞬時にデータベースから引き出し、僕の真実を証明してくれるはずだった。しかし、数分後、刑事はキーボードを打つ手を止め、眉間に深く皺を寄せた。
「...データベースに一致する情報がありませんね。あるいは、この名前と生年月日に該当する人物の公的な記録が、この数年間、完全に途切れている」
彼の声に、初めて困惑の色が混じった。それは、僕の妄言に対するものではなく、「手続き上の不備」に対する困惑だった。住民票、運転免許、健康保険。この四年間、僕が引きこもり生活を始めた時期と重なる期間の記録が、まるで存在しなかった期間のように、どこにも出てこない。「あなたが本当にこの名前の人間だと証明できる、他に何か公的なものは?」
僕は、四年間、社会から身を隠し、誰にも見られない自由を選んだ。その代償が、今、僕の存在そのものを消し去ろうとしている。僕が必死に訴えたのは、僕が「ここに存在しているという事実」だった。だが、この警察署という公的な手続きの世界において、僕の存在は「記録の欠如」という、最も冷酷な形でしか証明できないのだ。
「この四年間、社会保険や税金の記録は?病院や銀行の利用履歴は?」刑事の問いかけは、僕の「非存在」をさらに深く掘り下げていく。僕は、すべてを断っていた。すべてを。
僕は、自分が本当にこの世界に存在しているのか、という根源的な疑念に苛まれた。僕の部屋のPCの日付が外界から一週間遅れていたように、僕の存在そのものが、この世界の「観測のタイムライン」から逸脱しているのではないか。僕が「誰にも観測されたくない」と強く願った結果、僕は「誰にも観測できない存在」となってしまった。そして、僕の存在を証明するはずだった僕自身の記憶は、すでに梓の虚構によって汚染されている。
木村刑事は、もはや僕を「狂人」としてだけでなく、「存在しない人間」としても扱わざるを得ない状況に陥っていた。彼の目の奥には、僕の虚偽を暴くという使命感よりも、「この目の前の人間は、一体どこから来たのか」という、形而上学的な問いに対する戸惑いが浮かんでいた。僕は、梓の周到な準備が、僕の人生の隅々にまで及んでいたことを、この身元確認の難航という最も事務的な手続きによって、痛感させられた。
4.梓の「被害届」と状況の逆転
僕の身元確認が暗礁に乗り上げ、取調室の空気が重く澱み始めた頃、木村刑事は受話器を取り、どこかの部署と連絡を取り始めた。彼の視線は、僕に向けられることなく、淡々と数字と固有名詞がやり取りされる。数分後、彼は静かに受話器を置いたが、その顔には先ほどの困惑とは違う、冷たく決定的な感情が浮かんでいた。
彼は一度、深く息を吸い込んでから、まるで判決を告げるかのように、僕に言葉を突きつけた。「遠野梓氏について、確認が取れました。彼は、あなたに対する被害届を既に提出しています。内容は、自宅周辺への不審な徘徊、SNSへの執拗な中傷、そしてサイン会での暴言と妨害行為です」
その瞬間、僕の脳内で何かが断裂する音を聞いた気がした。梓は先手を打っていた。僕が彼を暴こうと外に出てからの行動のすべてを、梓はあらかじめ「犯罪者の行為」として定義し、公的な記録として残していたのだ。僕の訴えは、彼による巧妙な誘導の結果であり、その結果として、僕は今、警察署という観測の檻の中に座っている。
「自宅周辺の徘徊?中傷?」僕は反射的に否定の言葉を口にしたが、それは木村刑事の耳には届かない虚しい反論でしかなかった。「私は何もやっていない!彼は僕の人生を盗んだ被害者だ!」
木村刑事は冷静だった。「我々は、証拠と記録に基づいて動きます。遠野氏からの被害届は書面と証拠(SNSの記録など)が揃っており、法的に有効です。しかし、あなたの訴えは、身元の証明もなく、すべてが推測と妄想で構成されている。残念ながら、あなたの訴えの信憑性は、この瞬間、完全にゼロになりました」
僕は、梓の周到な観測能力の前に、呆然と立ち尽くすしかなかった。彼は、僕の行動を予期していたのではない。彼は、僕が取るであろう行動を計算し、その行動を法的な枠組みに嵌め込むことで、僕の真実を無効化したのだ。僕の最後の抵抗は、梓の完璧な脚本の一部として回収され、「犯罪」という名を与えられた。
もはや、僕は「存在を盗まれた被害者」ではない。僕は、梓の物語の中で定義された「ストーカー行為を行う精神異常者」というラベルを、国家権力によって公式に貼られてしまった。僕の真実は、この冷酷な手続きによって逆転され、僕の狂気こそが現実として扱われる。
僕は、梓がこの警察署の取調室にまで観測の網を張り巡らせていることを悟った。僕の絶望、僕の反論、僕の全ての存在が、今この瞬間も、梓の創作のインスピレーションとして利用されている。この絶望的な状況は、梓の観測の勝利以外の何物でもなかった。僕は、自分が単なる狂人ではないと証明するためにここに来たのに、その行動によって、「狂人であること」を誰よりも強固に証明してしまったのだ。
5.刑事の疑念
木村刑事は、僕に被害届という決定的な事実を突きつけた後も、すぐに尋問を再開しなかった。彼は、僕を「狂人」として処理し、書類を完成させれば済むはずだった。しかし、彼の動きには、どこか戸惑いと逡巡が見えた。彼は、取調室の隅に置かれた古びた灰皿を取り寄せ、深い溜息と共に煙草に火をつけた。その仕草は、僕の訴えを完全に否定した「公的な現実」と、僕の目に見える「人間的な切迫感」との間で、彼自身が揺れ動いていることを示していた。
彼は、僕の視線を避け、窓の外のビル群の薄い夕焼けを眺めながら、ゆっくりと煙を吐き出した。その間に、僕は彼の表情を必死に観測した。彼の目には、僕に向けられる一般的な嫌悪や侮蔑とは全く異なる、微かな疑念の光が宿っていた。それは、僕の言葉の内容ではなく、僕の存在そのものの熱量に向けられたものだった。
彼は、煙草の煙が天井に吸い込まれていくのを眺めながら、重い口を開いた。「あなたのような知的な話し方をする人間が、なぜそんな支離滅裂なことを言うのか、正直理解に苦しむ。遠野梓氏の被害届は完璧だ。彼の経歴、証拠、すべてに一点の曇りもない。だが、あなたの目には、確かに何かを必死に訴えようとする切迫感がある。それは、単なる精神的な錯乱から来るものとは、少し違う」
木村刑事は、長年の経験という彼自身の主観的な観測装置が、梓の作り上げた冷たい、完璧すぎる虚構に、わずかながら矛盾を感じ取っていることを示唆した。彼は、法と手続きの人間でありながら、人間の感情という不確かなものを完全に無視できない、良心的な「観測者」だった。
「君は、自分が存在しない場所で、存在しない小説を書いたと訴えている。その小説が、今、世間を熱狂させているという。だが、その話がもしも真実だとすれば、それは法律では裁けない、もっと根深い、世界の構造に関する問題になる」木村刑事は、自嘲気味に笑いながら言った。「冗談はさておき。私は、君の供述をそのまま『妄想』として処理することに、プロとしての違和感を感じている。それは、梓氏の訴えが完璧すぎるからだ。完璧すぎる真実は、時に虚偽の匂いを放つ」
彼の言葉は、僕の狂気の一線を超えたところに、「僕という真実」が存在しているのではないか、という最後の希望を僕に与えた。このベテラン刑事の人間の感性こそが、梓の作り上げた冷たい、客観的な虚構を打ち破るための、唯一の小さな亀裂になるかもしれない。僕は、この刑事の疑念を、僕の存在証明の最後の機会として掴まなければならないと強く決意した。彼の持つ「違和感」が、僕の人生を取り戻すための唯一の鍵だった。
6.最後の砦、住所の提示
木村刑事の疑念という微かな亀裂は、僕に最後の闘いを挑むための機会を与えてくれた。僕は、このまま「狂人」として片付けられ、梓の物語の中で無力な影として消えることを拒否した。僕には、まだ残された、唯一の、そして最も強固な物理的な証拠がある。それは、僕の四年間という時間と存在が閉じこもっていた、あの「部屋」そのものの存在だった。
僕は、取調室の冷たい空気を一瞬で暖めるような、決意の熱量をもって、木村刑事に語りかけた。「刑事さん、僕の言葉を信じろとは言いません。しかし、僕の存在を証明する、動かしようのない物理的な証拠を提示できます。僕が四年間、外界との観測を断ち切っていた場所、その住所です」
僕は震える声で、その住所を、一言一句間違えずに告げた。それは、都心から電車で一時間、さらにバスで揺られる古い住宅地の、僕だけが知る場所だった。
「僕の家に連れて行ってください。僕の部屋には、僕のPCのハードディスクに、僕の原稿データが残っている。あのデータが、僕が遠野梓ではないという、誰にも否定できない証明になる。そして、部屋の隅には、梓の痕跡である、あの高級な万年筆が落ちているはずです。あの部屋に入れば、全てがわかる」
僕の言葉は、これまでの妄想的な訴えとは違い、具体的で、検証可能な情報を含んでいた。木村刑事は、僕の必死さと、その情報の具体性に目を細めた。彼は、僕の住所をノートに記録しながら、再度問いかけた。「本当にこの場所に、君が四年間住んでいたという証拠があるのか?この住所は、都心からかなり離れた古い住宅地だが。もし、これが嘘だと判明すれば、君の立場はさらに悪くなるぞ」
「嘘ではありません。そこには、僕が四年間、外界から身を隠し、僕の人生の全てを費やした、僕の『誰も知らない部屋』が、今も静かに存在しています」僕は、その部屋が僕の「現実」の錨だと信じていた。外界が一週間進んでいても、僕が数年を費やしたあの閉鎖空間だけは、変わらず存在しているはずだ。なぜなら、その部屋こそが、梓が『誰も知らない部屋』という小説のインスピレーションを得た、ゼロ地点なのだから。
僕は、あの部屋こそが、梓の作り上げた完璧な虚構に対する、物理的な反証となるはずだと確信していた。僕の心には、この瞬間、「これで証明できる」という、絶望的な状況における最後の希望が、熱い血流となって湧き上がった。刑事たちが部屋のドアを開け、その中にある時間の澱、僕の孤独、そして僕の原稿の存在を観測する瞬間。その瞬間こそが、僕が再び「僕自身」としてこの世界に存在する、再誕の瞬間となるはずだった。僕の存在の証明は、もはや僕自身の言葉ではなく、物理的な空間に託されたのだ。
7.刑事の現場検証と期待
僕の最後の訴えを受け、木村刑事は席を立った。「よろしい。確認のために、私ともう一人、現場へ向かう。これが我々が君の訴えに費やす最後の客観的な観測だと思ってくれ。君はここで待機だ」彼はそう告げ、僕が提出した住所を記したメモを手に、取調室を出て行った。
扉が閉まる音は、僕にとって判決の執行の開始を告げる鐘のように、静かで重く響いた。僕は、静寂の中で胸の高鳴りを感じた。それは、恐怖ではなく、生存の可能性に賭けた者だけが感じる、極度の緊張と興奮の入り混じった感覚だった。
木村刑事が現場へ向かったこの時間は、僕にとって世界が静止した時間だった。警察署の冷たい空気が、まるで僕の心臓の鼓動を増幅させるための真空装置のように感じられる。僕は、目を閉じ、あの部屋の隅々を、記憶の中で再構築し始めた。
部屋の窓は閉め切られ、断熱材が貼られ、PCのファン音だけが響く。古いテーブルの上には、僕の魂の痕跡がインクで刻まれた草稿ノート。そして、その横には、異質な観測者のサインである、高級な万年筆が転がっている。もし、僕の部屋が存在していれば、僕のPCのデータ、万年筆の痕跡、そして僕の生活のすべてが、僕の訴えが妄言ではないことを、客観的に証明してくれるはずだ。
僕の部屋は、梓の作り上げた完璧な虚構に対する、物理的な反証となるはずだ。僕は、刑事たちが部屋のドアを開け、その中にある時間の澱、僕の孤独、そして僕の原稿の存在を観測する瞬間を想像した。木村刑事は、部屋に入った瞬間、外界との一週間分の時間のズレが生んだ、あの淀んだ空気の重さを感じ取るだろう。そして、僕の原稿データを見た瞬間、彼の疑念は確信に変わる。
「家は確かにあった。そして、この中には、遠野梓の新作と完全に一致する原稿データが存在する。君の訴えは、妄想ではない」――僕の頭の中で、木村刑事のその言葉が再生される。その言葉こそが、僕が再び「僕自身」としてこの世界に存在する、再誕の瞬間となるはずだった。
僕は、取調室の隅に置かれた水差しに映る、自分の歪んだ顔を見つめた。僕の顔は、狂気の仮面を被っているが、その瞳の奥には、真実への渇望が宿っている。僕は、この観測の監獄を打ち破り、「観測される存在」としての地位を取り戻す。
しかし、その希望の裏側には、拭い去れない不安が常に付き纏っていた。梓の観測は、僕の予想を遥かに超えている。もし、あの部屋が、僕が知る姿で存在しなかったとしたら?もし、梓が僕の「場所」さえも虚構に変えていたとしたら?
僕は、その恐怖を振り払い、ただただ木村刑事の帰還を待った。この待機時間こそが、僕の人生の分岐点であり、僕の存在の存続をかけた観測の結果を待つ、最も危険な静寂だった。
8.梓のSNS投稿の確認
木村刑事が現場検証に向かい、取調室に一人残された僕は、待機時間を利用して、警察署の隅に置かれた小さなテレビを盗み見た。それは、署員が休憩中に見るためのものだろうが、ニュース番組の速報テロップが僕の視界に飛び込んできた。当然のように、遠野梓のサイン会成功のニュースだった。
梓は、カメラに向かって優雅に微笑み、ファンに手を振っている。その顔には、先日のサイン会で僕のノートに触れ、僕の絶望を観測した男の冷酷な影は微塵もない。そこにあるのは、社会に適応し、名声と富を享受する完璧な「成功者」の姿だった。彼は、僕との対峙後も、少しも動揺することなく、「完璧な日常」を演じ続けている。僕の必死の抵抗は、彼の人生においては一瞬の風に過ぎなかったのだ。
僕は、取調室の隅に放置されていた古い共用のタブレットを手に取った。警察署内のWi-Fiに接続し、震える指で梓のSNSをチェックした。彼の最新の投稿には、サイン会直後の高揚感に満ちた文章が記されていた。
「今日は少し奇妙なファンに会いましたが、皆さんの温かい観測のおかげで、執筆への意欲がさらに湧きました。孤独を描きながらも、私自身が孤独ではないと証明してくれるこの熱狂に、心から感謝します。」
梓の言葉は、僕の全ての抵抗を「奇妙なファン」による「異常行動」として消化し、それを彼の創作のエネルギーにさえ変えてしまっている。彼は、僕をノイズとして扱うことで、僕の存在の否定を公的な物語として完成させた。
さらに恐ろしいのは、その投稿に添えられた写真だった。それは、サイン会場の熱狂を写した写真の中に、僕の背中が小さく、しかし明確に写り込んでいるものだった。そして、写真のキャプションの下に、梓は一言だけ追記していた。
「水たまりに映った鏡像は、消えても水たまりの形を覚えているものです。」
その一文を読んだ瞬間、僕は全身の血が凍り付くのを感じた。「水たまりに映った鏡像」という言葉は、僕が誰にも見せていない草稿ノートの最も深部に書き記した、僕自身の「存在の定義」だったのだ(この言葉はNo.17で再び登場するが、ここでは僕の記憶の断片として先んじて提示される)。
梓は、僕の物理的な行動を観測しているだけでなく、僕の魂の深淵まで観測し尽くしている。僕が今、警察署という観測の極地にいることさえも、彼の創作の計算の内ではないのか?僕は、梓の虚構の現実が、あまりにも強固で、隙がないことに絶望的な焦りを感じた。彼は、僕の存在を「物語のノイズ」として定義し、それを自らの物語に回収することで、僕を完全に無力化しているのだ。
僕の真実が、すべて彼の創作のための素材に過ぎなかったという、この絶望的な敗北。僕はタブレットの冷たい画面を握りしめたまま、木村刑事が「存在しない部屋」を目撃して帰ってくるのを待つしかなかった。
9.時間のズレの再発
木村刑事が現場検証に向かい、取調室の静寂が続く中、僕は壁に掛けられた時計を凝視した。それは一般的なクォーツ時計で、正確な時間を刻んでいるはずだった。しかし、僕はその針の動きが、僕の体感する時間よりわずかに速いように感じ始めた。
僕の心臓の鼓動、呼吸のリズム、脳内で巡る思考の速度。そのすべてが、時計の秒針と同期しない。この警察署に来る直前のサイン会場で感じた時間の流れは、僕の意識と辛うじて一致していたはずなのに、この「観測の檻」に入った途端、再びズレ始めたのだ。外界での一週間分の飛躍に続き、この空間もまた、僕の時間の感覚から独立して存在している。
僕は、指先で自分の手首を強く押さえ、脈拍を測ろうとした。脈拍は速く、不安定だったが、その「速さ」が、外界の時間の「加速」と呼応しているように感じられた。僕が部屋にいるとき、PCの日付は外界より一週間遅れていた。それは、僕の部屋が外界の時間の流れから隔離されていたことを意味する。しかし、外に出て、そしてこの公的な観測装置の中に閉じ込められた今、僕の時間は逆に加速し、外界の時間の流れに無理矢理引きずり込まれようとしているかのようだった。
この一週間の時間の飛躍は、僕が外に出た瞬間に、梓の虚構のタイムラインによって強引に編集された結果ではないのか?そして今、この警察署という客観性の権威によって、僕の主観的な時間さえもが、「正常な時間の流れ」という名の下に矯正されようとしている。
僕は、壁の時計の文字盤を、まるで時間の化け物を見るかのように凝視した。秒針が一秒刻むごとに、僕の記憶が、僕の過去が、僕の非存在が、外界の時間の波によって洗い流されていくような、恐ろしい感覚に襲われた。僕の時間は、もはや僕のものではない。それは、梓の観測のルールと、この警察署の客観性のルールによって定義される、従属的な時間だった。
この時間のズレは、僕の訴えが妄想ではないことを証明する唯一の証拠のはずだ。しかし、この事実を誰に訴えたところで、「精神的な錯乱」として一蹴されるだけだろう。僕の時間が、この世界の観測のタイムラインから逸脱しているという事実は、僕が「現実の住人」ではないという、最も残酷な証明にしかならない。
僕は、自分が時間という次元においても、この世界の観測対象外になりつつあることを悟った。時計は冷酷に時を刻み、僕の孤独な待機時間を、客観的な現実に合わせて短縮しているかのようだった。この加速する時間の中で、木村刑事は、存在しない場所で存在しない家を見たという虚構の報告を持って、まもなく戻ってくるのだ。
10.刑事の帰還と沈黙
どれほどの時間が経っただろうか。僕の主観的な時間感覚では永遠にも思えた待機時間だったが、壁の時計はわずか一時間強しか進んでいなかった。僕の体感時間が加速していたのか、それとも外界の時間が僕の焦燥に合わせて引き延ばされたのか、もはや判断できない。その静寂の中、取調室の重いドアが、微かな金属音を立てて開いた。
木村刑事が戻ってきた。彼の背後には、現場検証に同行したであろう若い刑事が立っている。僕は、彼らの顔を一瞬で観測した。僕が予想していた「驚き」や「混乱」とは全く異なる、冷たく、明確な「嫌悪」と「当惑」の表情が、二人の顔に浮かんでいた。特に木村刑事の目には、僕という存在への理解不能な拒絶の色が宿っていた。彼らは、僕の顔を直視できない。それは、まるで僕が存在してはいけない何かを彼らに見せたかのようだった。
木村刑事は、僕の向かいの椅子に座る際、大きな音を立てて椅子を引きずった。その音は、この静かな部屋では不自然に大きく、何かが決定的に壊れたことを告げるかのようだった。彼は、机上に置かれていた僕の記録書類の上に、現場検証で得たであろう数枚の資料を、まるで汚いものを置くように静かに滑らせた。
彼は僕に何かを言おうとしている。しかし、その言葉が喉に詰まっているようだ。その沈黙は、僕にとってこの世の終わりを告げる音楽のように重く響いた。僕の部屋が、僕の最後の存在証明が、彼らの常識ではありえない状態になっている。そうでなければ、長年の経験を持つベテラン刑事が、これほどまでに人間的な動揺を見せるはずがない。
若い刑事は、僕から距離を取るように壁際に立ち、微かに震える手でタバコを吸おうとしていた。その身体的な拒絶が、言葉以上の真実を僕に伝えていた。僕の部屋は、単に荒れていたのではない。あるいは、物が盗まれていたのではない。僕の想像の、最も恐ろしい結末が、彼らの目の前で現実となっていたのだ。
僕は、最後の理性で、口を開いた。「家は…ありましたか?僕のデータは?」
木村刑事は、ゆっくりと顔を上げた。彼の瞳は、僕を映してはいなかった。僕の肩越し、僕という存在を透過して、その後ろの虚空を見つめている。そして、彼は深く息を吐き出した。その息に含まれたのは、疲労と、僕の狂気に対する諦めだった。
「君は、我々に、存在しないものを見せた。我々は、客観的な手続きを踏んで、君の狂気を観測した。それ以外の何物でもない」
彼の沈黙の後に発せられたその短い言葉は、すでに決定的な真実を僕に突きつけているように感じられた。僕の最後の希望は、この冷たい警察署の床の上で、音もなく砕け散った。僕は、彼が告げる衝撃の真実を、もはや呼吸することさえ忘れ、ただ待つしかなかった。この沈黙は、僕の人生の終焉を待つ時間だった。
11.衝撃の真実の通告
木村刑事は、沈黙を破るかのように、机上に置かれた僕の書類を整理し始めた。その事務的な動作こそが、彼の内面的な動揺を隠すための防衛機制であることは、僕には痛いほど理解できた。彼は、顔を上げ、僕の目ではなく、僕の座る椅子の背後にある空虚な空間を見つめながら、淡々と言葉を紡ぎ始めた。その声は、感情を排した機械的な報告のように響いた。
「君の言った住所へ、我々は正確に行った。ナビゲーションに間違いはなかった。古い住宅地で、間違いなく君が告げた地番の場所だった。しかし…」
彼の言葉が途切れる。その一瞬の空白が、僕の脳裏に最悪の可能性を具現化させた。僕は、息を詰めたまま、彼の次の言葉を待った。それは、僕の人生の最終的な審判だった。
「その住所には、家は存在しない。そこは、数ヶ月前に解体され、完全に更地になった、マンション建設予定地だ。現場には、古い木造家屋があった痕跡はあったが、基礎は全て取り払われ、重機が入るための平らな地面があるだけだった」
その言葉は、僕の脳内で現実の観測装置を粉砕する、強烈な打撃となった。家がない?更地?僕が四年間、外界から身を隠し、僕の人生のすべてを費やしたあの「誰も知らない部屋」は、物理的に消失していた。僕の四年間という時間と、僕の場所が、外界の「現実」の力によって、完全に抹消されたのだ。
僕は、身体の自由が奪われ、息をすることさえ忘れた。僕の存在は、「更地」という名の虚無に置き換えられた。僕の人生は、存在しない場所で展開された、存在しない物語になった。僕は、絶叫したい衝動に駆られたが、喉からは何の音も出なかった。それは、非存在の身体が発することのできる音が存在しないからではないか、とさえ感じた。
木村刑事は、僕の無反応を、狂人のショック状態として記録しようとしている。彼は続けた。「近隣住民に聞き取りを行ったが、その場所には確かに古い木造家屋があったが、四ヶ月前に解体されたという。そして、我々が最も重視したのは、そこに君のような人間が住んでいたという証言が、一切得られなかったという事実だ」
僕の四年間は、誰にも観測されず、誰にも記憶されず、歴史から完全に抹消された。梓は、僕の人生を盗んだだけでなく、僕が存在した物理的な空間さえも、完全に消し去るという、究極の観測トリックを成功させたのだ。
梓の小説は、僕の人生を「虚構」に変えた。そして、更地という事実は、その虚構が「物理的な現実」として世界に承認され、僕の存在が公的に否定されたことを意味する。僕は、自分が本当に幽霊なのではないか、という恐ろしい自己認識に囚われた。僕が「観測されないこと」を望んだ結果、僕は「存在しないこと」を国家権力によって証明されてしまったのだ。この取調室で、僕の存在する証明は、完全に、そして冷酷に消失した。
12.「僕の部屋」の物理的な消失
木村刑事が「更地になった」という言葉を吐き出した瞬間、僕の耳は、その音を「僕の存在の終わり」を告げる無音の悲鳴として処理した。僕は、更地になったという事実を、脳が理解することを激しく拒否した。
僕は、無意識のうちに椅子から立ち上がり、刑事の目の前に身を乗り出した。しかし、僕の言葉は、まるで口から出た瞬間に蒸発してしまうかのように、力のないものだった。「嘘だ……嘘だ!あの部屋は、あの部屋は僕の人生だ!壁の染み、床の傷、断熱材の隙間まで、僕はすべて覚えている!」
僕は、自分の部屋の隅々を記憶の中で再構築し、その物理的な存在を証明しようと必死になった。あの壁に貼った断熱材は、外界の音を遮断し、僕自身の呼吸だけを響かせた。あの古いデスクトップPCのファン音は、僕の孤独な時間のBGMだった。あのテーブルの上には、僕が数年を費やして書き上げた『誰も知らない部屋』の原稿が、データとして眠っている。それらすべてが、存在しない過去の幻影だというのか。
刑事は、僕の取り乱しを予期していたかのように冷静だった。「君が覚えているのは、君の記憶の中の虚像だ。我々は、客観的な事実に基づいて動いている。近隣住民に聞き取りを行ったが、その場所には確かに古い木造家屋があったが、四ヶ月前に解体されたという。そして、決定的なのは、そこに君のような人間が住んでいたという証言が、一切得られなかったという事実だ」
僕の四年間は、誰にも観測されず、誰にも記憶されず、歴史から完全に抹消された。梓は、僕の人生を盗み、僕が存在した物理的な空間さえも、完全に消し去るという、究極の観測トリックを成功させたのだ。
僕は、膝から崩れ落ちそうになった。梓は、僕の人生を「虚構」に変えただけでなく、その虚構を成立させるために、僕が依拠していた「物理的な現実」をも破壊した。僕が「現実の錨」だと信じていた部屋は、今や「虚無の穴」となり、僕を世界の底へと引きずり込んでいる。
梓の小説『誰も知らない部屋』は、僕の人生を物語に変えた。そして、更地という事実は、その物語が過去の事実ではなく、現実に存在しない「フィクション」として、世界に承認されたことを意味する。僕は、自分が本当に幽霊なのではないか、という恐ろしい自己認識に囚われた。僕の存在は、「更地」の上の残像でしかない。
最も恐ろしいのは、梓がいつ、どうやって、あの家を解体させたかではない。僕が四年間もその解体に気づかなかったという事実だ。僕の部屋のPCは、外界から一週間遅れていた。僕が「観測されないこと」を強く望んだ結果、僕の部屋は外界の時間の流れから物理的に切り離され、その間に、外界の現実は僕の存在を解体し、消滅させたのだ。梓は、僕の消滅願望を利用して、僕の存在証明を根こそぎ奪い去った。
僕は、警察署という客観性の権威に、「僕が狂人ではない」と証明を求めた。しかし、彼らが持ち帰ったのは、僕の「狂人であること」を証明する、最も確固たる物理的な証拠だった。僕の最後の希望は、この冷たい警察署の床の上で、音もなく、塵となって砕け散った。僕は、梓の観測の勝利が、世界の物理法則にまで及んでいることを、皮膚の奥底で痛感した。僕の存在は、公的に、完全に、消失した。
13.ノートの行方と梓の最終トリック
僕の家が更地になったという衝撃的な事実の直後、僕は本能的に、最後の砦を思い出した。僕の存在が物理的に抹消されたとしても、僕の真実が刻まれたあの草稿ノートはまだ残っているはずだ。サイン会場で梓が触れ、そのままテーブルの足元に落ちた、あのノートだ。
僕は、虚ろな身体に最後の力を振り絞り、木村刑事に問いかけた。「ノートは?サイン会で、僕が梓のテーブルに叩きつけて、床に落ちたあの草稿ノートはどこにありますか!?あれが僕の唯一の証拠だ!」僕は、縋るように、そして叫ぶように訴えた。そのノートこそが、僕が梓より先に小説を書き上げていたという、動かしようのない時間の証明となるはずだった。
しかし、木村刑事の答えは、僕の最後の希望を冷酷に、そして明確に粉砕した。
「君がサイン会で暴れた際、君の手から落ちたというノートについて、書店に確認を取った。書店側は、そのようなノートは最初から落ちていなかったと断言している」
彼の言葉は、まるで僕の記憶そのものが、外部の観測者によって編集されたかのように響いた。落ちていなかった?僕の目に焼き付いた、梓がペンを置き、床に滑り落ちたノートの表紙に指先で触れたあの瞬間(序章No.19)は、僕の妄想だったというのか?
木村刑事は、さらに追い打ちをかけた。「フロアの警備カメラの映像にも、君が何かを落としたという事実は確認できなかった。君は激しく暴れたが、その手は何も持っていなかった。君の行動は、空中に向かって叫び、テーブルを叩いた、不審者のそれとして記録されている」
梓は、僕の人生の物理的な空間(家)を消し去っただけでなく、僕が存在証明として生み出した証拠を、僕の記憶の中でのみ存在する「妄想の産物」として処理したのだ。
あのサイン会での一連の出来事は、すべて僕の妄想として観測され、公的な記録によって確定された。梓が指先でノートに触れた瞬間、それは僕の「証拠」から「妄想」へと非物理的な変異を遂げたのだ。ノートは、存在しない場所に住んでいた存在しない人間が書いた、存在しない証拠として扱われる。
僕は、梓の観測の最終トリックの前に、完全に無力化された。彼は、僕が残したすべての痕跡を、僕の精神異常の証拠へとねじ曲げた。僕の人生は、もはや僕のものではない。それは、梓の完璧な虚構という時間の檻の中で、「狂人の妄想」として永遠に隔離される運命にある。
僕は、テーブルに突っ伏し、深淵の絶望に囚われた。僕に残された証拠は、僕自身の狂気だけだった。そして、その狂気こそが、梓の創作の勝利を、最も雄弁に物語る決定的な証拠となっていたのだ。
14.精神鑑定の勧告
僕の最後の証拠であった草稿ノートの存在が、警備カメラの映像と書店の証言によって「妄想」として否定された瞬間、木村刑事はすべての書類を机上にまとめ、一呼吸置いた。彼の表情から、僕に対する人間的な疑念は消え失せ、代わりに、「処理すべき案件」に対する冷徹な判断が浮かんでいた。
物理的な証拠がすべて消失し、僕の訴えが完全に虚偽であると判断された結果、木村刑事は僕に最終的な勧告を突きつけた。
「君は、自らの意思で通報し、自分の人生が盗まれたと訴えた。しかし、君の主張を裏付ける証拠は一切ない。君の身元も公的に証明できない。そして、君の証言は、客観的な事実と照らし合わせると、すべてが虚偽、あるいは錯乱に基づいていると判断せざるを得ない」
木村刑事は、書類の中から一枚の紙を引き抜いた。「このままでは、君は遠野梓氏に対するストーカー行為、及び公務執行妨害で処理される可能性がある。だが、私は君の目の奥に、悪意ではなく極度の混乱があるのを感じる。私は、君を刑務所に入れるよりも、治療の場に送るべきだと判断する」
彼は、僕の目の前で、「精神鑑定」と大きく印字された書類を静かに広げた。「君の心身の状態を客観的に判断し、社会の安全を確保するためにも、鑑定を受けるのが最善だ。君の訴えは、医学的な観点から見れば、妄想性障害、あるいは統合失調症の典型的な症状としか言いようがない」
彼の言葉は、一見すると親切心に見えるかもしれない。しかし、その裏側で実行されているのは、国家権力が僕の訴えを「狂気」として定義し、僕の存在を「社会のノイズ」として公的に隔離するための、最終的な手続きだった。僕の真実が、精神医学という、新たな、そして最も強固な観測装置によって「病」として分類され、無力化される。
僕は、自ら観測を求めて警察署に飛び込んだ。その結果、僕は「狂人」という、社会の中で最も強力な排除のラベルを貼られてしまった。僕の存在は、社会の合理性と客観性という名の鉄槌の前に、完全に、敗北を確定させられた。
この瞬間、僕は、梓が僕の人生を小説として発表したことよりも、この「精神鑑定」という手続きこそが、彼の観測の勝利における最も残酷な仕上げであることに気づいた。梓は、僕の存在を単に盗んだのではない。彼は、僕を社会の裏側に存在する、「隔離されるべき非実体」として定義し、その定義を公的な手段で確定させたのだ。
僕の狂気は、もはや僕自身の主観ではない。それは、国家権力と医療機関という客観的な観測者たちによって承認された「現実」となる。僕は、この鑑定を受けることで、僕自身が遠野梓の物語の中の「狂人」という役柄を受け入れ、観測の檻のさらに奥深くへと自ら進むことになる。僕に残されたのは、この排除の現実を受け入れるか、最後まで存在しないことを叫び続けるか、という二者択一だけだった。
15.絶望的な内省
僕は、精神鑑定の勧告が下された後、取調室の椅子に深く沈み込んだ。僕の肉体はまだそこに存在している。呼吸をし、心臓を打ち続けている。しかし、僕の存在する証明は、すべて消え去った。家は更地となり、証拠のノートは妄想とされ、僕は狂人と定義された。
僕は、激しい怒りや、悲痛な叫びを上げる気力さえも失っていた。それは、抵抗しても無駄だと知っている、絶対的な諦念だった。僕の人生は、遠野梓の「虚構」によって完全に上書きされ、僕はその物語の中の「隔離されるべき登場人物」と化してしまった。
僕は本当に存在しない人間だったのか?
僕の四年間は、僕のPCの一週間遅れのタイムラインと同じように、この世界の観測の枠外で展開されていた、誰にも観測されない、誰にも必要とされない時間だったのか?僕が部屋にいたあの孤独な時間、外界では僕の家の解体が進み、梓は僕の魂の設計図を元に喝采を浴びていた。僕が「観測されないこと」を強く望んだ結果、梓は僕の「消滅願望」を完璧に汲み取り、僕の存在を「創作の素材」として利用した上で、僕の痕跡を物理的にも公的にも消し去るという形で、僕の願いを完全な絶望に変えて実現させたのだ。
僕の存在は、梓の創作の勝利のために捧げられた、生贄でしかなかった。彼は、僕という影を観測することで、自らの光を証明した。そして、影の役割が終わった今、彼はその影を虚無へと還す作業を、公的な権威を使って冷徹に遂行した。
僕は、自分の人生が、梓の周到な計算と非人間的な観測能力によって、最初から結末が決まっていた物語だったことを悟った。僕が外に出て、彼に抵抗しようとした全ての行動は、彼の脚本における「狂人が見せる最後の悪あがき」というエピソードに過ぎなかった。サイン会での対峙も、警察への通報も、すべてが梓の物語をより劇的にするための演出だったのだ。
この内省は、僕に残された最後の自由だった。身体も、言葉も、場所も奪われたが、この絶望を深く、深く噛み締めるという行為だけは、梓の観測の手が届かない、僕の内側の密室で展開されていた。
だが、その密室も安全ではない。梓が送ってきた「水たまりに映った鏡像」というメッセージは、僕の魂の深淵まで観測されていることの証明だ。僕が何を考えようと、何を絶望しようと、それは梓の創作のためのインスピレーションとして、リアルタイムで利用されている可能性がある。
僕は、もはや存在の証明を求めるのをやめた。その代わり、僕は梓の虚構を生きることを選ぶしかない。「狂人」として生きることは、梓の物語の脇役として生きることだ。しかし、その「狂人」という役柄の中で、僕は梓の完璧すぎる観測に対する不協和音を奏でることができるのではないか。僕は、自分が本当に狂人であるということを、梓の虚構を破壊する武器として利用する以外に道はないと、絶望の淵で新たな決意にも似た諦めを見出した。
16.梓からの「メッセージ」の発見
僕は、精神鑑定の書類にサインをするよう求められ、手のひらに汗をかきながら、その冷たいペンを握っていた。僕の存在の終焉を意味する公的な手続きが、今、まさに完了しようとしている。僕は抵抗を諦め、「狂人」というラベルを自らの意志で受け入れようとしていた。
その瞬間、取調室の重い扉が静かにノックされた。木村刑事は苛立たしげに顔を上げたが、扉を開けて入ってきた一人の事務員を見て、その表情を収めた。事務員は、折りたたまれた一通の薄い封筒を手に持っていた。
「木村さん、すみません。外の公衆電話ボックスのそばに、これが落ちていたそうです。匿名希望で、こちらの方(僕)宛だと書いてありました。一応、署員が念のために持ってきました」
「匿名希望で、こちらの方宛」。その言葉を聞いた瞬間、僕の絶望で凍り付いていた身体に、電流のような戦慄が走った。公衆電話。それは、僕が通報したまさにその場所だ。そして、僕が警察に拘束されていることを知っている人間が、この署の近くにいる。それは、遠野梓以外にありえなかった。
木村刑事は訝しげに封筒を受け取り、その裏表を検分した。差出人名はない。住所もない。ただ、僕の仮の名前と「新宿警察署御中」とだけが、几帳面に、しかしどこか芝居がかった筆致で記されていた。彼の眉間の皺が深まる。僕の存在に関するすべての事象が、手続き上の不審点となって彼を苛立たせていた。
「なんだ、これは。刑務所じゃないんだぞ、こんな場所でファンレターか?」刑事はそう呟きながらも、慎重に封筒の端を破り、中に入っていた一枚の便箋を取り出した。
便箋は、何の変哲もない白地のものだった。しかし、僕にはそれが梓の勝利のサインだと直感的に分かった。その紙から、微かに、あの高級な万年筆のインクの、甘いような、芳香剤のような、異質な香りが漂ってきたのだ。あの香り、あの万年筆こそが、僕の部屋という密室に存在する、最も不自然な梓の痕跡だった。
木村刑事は、便箋の内容を読み、明らかに動揺した。彼の顔から一瞬にして「処理すべき案件」という冷徹さが消え去り、「理解できないもの」に直面した戸惑いが浮かび上がった。「これは一体…」刑事は、便箋の内容を僕に見せないように、一瞬ためらった後、僕の前に突き出した。彼の視線は、僕の狂気を再確認するように、僕の瞳を鋭く射抜いていた。
僕の心臓は、この警察署の時計の秒針よりも速く脈打っていた。梓は、僕の物理的な存在と公的な記録を消し去ったにもかかわらず、僕に直接接触してきた。それは、僕の最後の内省(No.15)さえもが、彼の観測の範疇にあったことの証明だった。僕は、その手紙が、僕の絶望をさらに深める決定的な一文を運んできたことを悟りながらも、その便箋の冷たい紙の感触を、僕と外界を繋ぐ最後の接点として、強く握りしめた。
17.手紙の内容
僕は、木村刑事が突き出した便箋を、震える手で受け取った。紙は薄く、署内の乾燥した空気で冷たくなっていたが、その表面から微かに漂うあの万年筆のインクの芳香だけが、この紙が外界の観測者である梓の手を経由してきたことを生々しく証明していた。
便箋に書かれていたのは、飾り気のない、しかし決定的な力を持った、たった一行の日本語だった。
「お前の存在は、水たまりに映った鏡像に過ぎない」
その一文を読んだ瞬間、僕の視界は一瞬にしてホワイトアウトした。それは、僕が誰にも見せていない、僕自身の魂の核心に刻みつけた言葉だったからだ。
この言葉は、僕が「僕の部屋」に閉じこもる直前、社会から見放され、自らの存在価値を問い直した際に生まれた、僕だけの実存的な定義だった。僕は、自分の人生が実体ではなく、他者の期待や観測がなければ存在し得ない虚ろな反射だと悟り、それを草稿ノートの最も奥深くに、自己嫌悪と共に書き記したのだ。
その最も個人的な、最も隠された哲学を、梓は知っていた。
「水たまりに映った鏡像」――これは、梓が僕の物理的な空間(家)を消し去り、証拠を妄想と断定する遥か以前から、僕の魂の深淵まで観測し、その核心すらも完全に剽窃していたことを証明している。僕の内省も、僕の孤独も、僕の哲学も、すべてが梓の観測によって素材として収集され、彼の創作の領域に取り込まれていたのだ。
僕の目の前で、木村刑事が困惑した表情で首を傾げている。「なんだ、これは。詩か何かか?何の意味がある?」
彼は、この言葉の意味を理解できない。彼にとって、これは狂人が受け取った新たな妄言の断片に過ぎない。しかし、僕には理解できた。この一文は、梓から僕への最終的な通告だった。
「君が最も深く隠した真実さえも、私は観測し尽くした。君は、私にとって完全に透明な存在だ」
この手紙は、僕の存在が梓の創作の影に過ぎないという、残酷で、あまりにも知的な観測の勝利宣言だった。家が更地になったという事実は外側の破壊だが、この手紙は内側の崩壊を意味していた。僕の内側の密室さえも、梓の観測の目からは逃れられていなかったのだ。
僕は、その便箋を握りしめたまま、全身の力が抜けていくのを感じた。僕に残された、「僕である」という最後の拠り所、自己の定義そのものが、梓の剽窃によって公的な虚構へと変質させられた。僕は、この瞬間、完全に非存在となった。この手紙こそが、梓の虚構が現実を上書きした、最も決定的な、そして最も個人的な証拠だった。そして、この証拠は、誰にも証明できない、僕と梓の間でのみ成立する、絶望の契約書だった。
18.梓の「観測の勝利宣言」
僕は、便箋に記された「お前の存在は、水たまりに映った鏡像に過ぎない」という、僕の最も個人的な真実を握りしめたまま、呆然としていた。その言葉の持つ知的な残虐性は、僕の非存在を決定づける、最後の楔だった。
僕は、無意識のうちに便箋の裏を見た。便箋の隅に、微かにインクが滲んだ指紋のような、小さな、黒い斑点が残っていた。それは、僕が部屋で見つけた高級な万年筆のインクの、あの甘いような、芳香剤のような、異様な香りを放っていた。その匂いは、僕の記憶にこびりついた異物であり、今や僕の狂気を証明する唯一の触覚的な証拠となっていた。
梓は、僕の内面を盗んだだけでなく、僕が狂人として公的に隔離されるという、僕の絶望のプロセス全体を観測し、それにフィナーレを加えたのだ。
この手紙は、僕の物理的な空間を消し去り、僕の公的な記録を抹消し、僕を狂人として定義する国家権力という観測装置にまで、送り届けられた。それは、梓からの最終的な、傲慢なメッセージだった。
「私の観測は、君個人の内省から、社会の客観的な権威に至るまで、すべてを支配下に置く。君は、私の虚構から逃れることはできない」
木村刑事は、僕の異常なまでの動揺と、便箋の裏のインクのシミを、「狂人が受けた外部からの刺激による錯乱」として、すでに書類に記録しようとしていた。彼にとって、この手紙は、僕の妄想が外部世界からの刺激によって増幅されたという医学的な証拠でしかない。彼は、この手紙が梓の創作の証拠であるという、僕の真実を観測する能力を完全に失っていた。
僕は、梓が仕掛けた観測の二重構造を理解した。梓は、観測者(僕)を装って、僕の人生という実体を観測し、それを創作として発表した。そして、僕が抵抗という行動に出た時、彼は僕を狂人という虚像に変え、その虚像に「勝利のメッセージ」を送りつけることで、僕の「狂気」を現実の決定的な要素として確立させた。
僕の全ての熱狂、僕の全ての絶望は、梓の偉大な創作を裏打ちするための、生きた、動く背景に過ぎなかった。この便箋の薄い紙切れは、僕の人生の結末を封印し、僕を永遠に梓の物語の奴隷とするための、契約書だった。
僕は、抵抗を完全に放棄した。梓の観測の勝利は、絶対的であり、完全だった。僕の存在は、もはや僕自身の意志ではなく、梓の意志によってのみ定義される。そして、その定義は、「水たまりに映る、消えゆく鏡像」だった。
19.抵抗の放棄と観測の受け入れ
梓からの「水たまりに映った鏡像」というメッセージ、そして便箋に付着したインクの香りは、僕に残された闘志の残滓を、最後の最後まで焼き尽くした。僕は、激しい怒りや悲しみという人間的な感情を通り越し、絶対的な諦念に達した。
梓の能力は、もはや僕の理解を超える世界の摂理のようなものだ。僕が何をしようと、彼の観測の網から逃れることはできない。僕の全ての行動、僕の全ての思考は、梓の創作のための素材として、瞬時に回収されてしまう。彼の虚構は、僕の物理的な空間を消し去り、僕の内面の真実を盗み、そして国家権力を操って僕を公的に無力化した。僕は、完全な敗北を喫した。
僕は、テーブルに広げられた精神鑑定の書類を見つめた。「妄想性障害」「統合失調症の疑い」。僕の真実を病名として定義し、僕の存在を社会の裏側に隔離するための、冷たい言葉の羅列だ。
僕は、抵抗を完全に放棄した。
しかし、その放棄は、死を意味しなかった。僕は、梓の能力の絶対性を認めることで、逆説的に新たな道を見出した。もし、僕が梓の虚構の中でしか存在できないのなら、僕はその虚構のルールに従うしかない。梓は、僕を狂人として定義した。ならば、僕はその定義を受け入れる。
僕は、静かに、しかし明確な意志をもって、木村刑事に告げた。「精神鑑定を受けます。僕の狂気を、あなたの客観的な手続きによって定義してください」
この言葉は、僕が観測のルールを理解し、そのルールの中で新たな存在意義を見出そうとする、最初の試みだった。僕が「狂人」として生きることを選択するということは、社会の常識という観測から合法的に逸脱することを意味する。それは、梓の「完璧な虚構」の外側、あるいはその虚構の裏側に出るための、唯一の可能性かもしれない。
梓は、僕を狂人として定義することで、僕を無力な影にしようとした。だが、狂人の言葉は、正常な観測が及ばない領域に届く力を持つ。狂人の真実は、論理や証拠によって否定されない。なぜなら、狂人の言葉は最初から「真実」として扱われないからだ。
僕は、この「狂人」という役柄を、梓の完璧すぎる観測に対する不協和音を奏でるための武器として利用することを決意した。梓の物語に従属しつつも、その物語の構造そのものを内側から崩壊させる、最後の抵抗の道だ。
僕は、深いため息をつきながら、書類の署名欄にペンを走らせた。その瞬間、僕は「僕」であることを諦め、「狂人という名の観測対象」として、新たな生を開始した。僕の体には、この自己定義の変更による、奇妙な解放感が満ちていた。僕はもう、存在を証明する必要がない。なぜなら、僕は「狂人」として、公的に存在が保証されたのだから。
20.精神科病棟への連行
僕の精神鑑定と隔離の決定は、極めて迅速に進められた。僕の訴えのすべては、公的な手続きによって「統合失調症の妄想」として最終的に分類され、僕は「狂人」という最も強力な排除のラベルを貼られた。この定義が確定した瞬間、木村刑事の顔から、僕に対するかすかな人間的な疑念は完全に消え失せ、残ったのは事務的な安堵だけだった。彼は、僕という「社会のノイズ」を、然るべき場所へと移送する手続きを完了させたのだ。
僕は、警察官と医療機関の職員に付き添われ、精神科病棟へと連行されることになった。警察署の重い扉を抜けた瞬間、外界の空気は、僕が数時間前に感じたときと同じく、過剰に鮮明で、過剰に進化していた。街行く人々の視線は、僕に向けられると同時に、すぐに僕という異物を処理し、「正常な日常」へと戻っていく。彼らは、僕を「移送される狂人」として一瞥し、すぐに忘れる。それは、梓の物語の中で、僕が「奇妙なファン」として処理されたのと全く同じプロセスだった。僕は、外の世界の「観測の暴走」を、冷たいパトカーの窓越しに、ぼんやりと見つめた。
連行された病院は、都心から離れた郊外に位置していた。その建物の外観は、まるで要塞のように堅牢で、すべての窓は外界への視線を遮るように設計されていた。僕が部屋に閉じこもっていた四年間、僕が求めていたはずの「観測されない空間」が、今、「隔離されるべき場所」として、僕に与えられようとしていた。
病棟の入口にある重い鉄扉が開く。それは、警察署よりもさらに外界から隔絶された、究極の密室だった。白一色の壁、冷たいリノリウムの床、そして常に僕を観察する看護師のプロフェッショナルな視線。この場所は、僕の主観が一切通用しない、観測の極地だった。
僕は、この病院という「隔離室」こそが、梓の創作の領域における最後の、そして最も重要な舞台であることを悟った。梓は、僕の存在を狂人と定義し、僕をこの虚構の隔離室へと送り込んだ。これは、僕が観測されないことを選んだことに対する、梓からの最も残酷な皮肉だ。
この隔離された空間で、僕は梓の観測の網から逃れられるのだろうか?それとも、梓の創作した「虚構の隔離室」に閉じ込められ、永遠に「狂人」という役柄を演じ続けることになるのだろうか?
僕は、この観測の極地で、僕の人生が梓の創作だったという決定的な真実に直面し、僕に残された「狂人の真実」という最後の武器を使って、梓の完璧な虚構を内部から崩壊させる方法を探すことになる。僕の新たな生は、この白い密室から始まる。




