序章:ゼロ地点の観測
1.僕の部屋と自己の定義
その部屋は、僕にとって世界のすべてであり、世界のどこでもなかった。カーテンは常に閉め切られ、昼夜の境は曖昧だ。壁に貼った断熱材は、外界の音を遮断し、僕自身の呼吸と、古いデスクトップPCの微かなファン音だけが、この空間に生命を与えている。最後に太陽を見たのはいつだったか、いや、そもそも太陽は本当に存在しているのか?そんな問いすら、どうでもよくなるほど、ここは完結していた。僕は、小説家になりたかった僕だ。正確には、デビュー直前にすべてを諦め、自分の存在を社会から切り離した臆病者。誰にも見られず、誰の期待にも応えなくていい。その代償として、僕は「観測されない存在」を選んだ。観測されないなら、僕は何を書いてもいい。外界の評価という名の毒から逃れ、僕は自分だけの物語を、この密室の中で紡ぎ続けた。
2.絶望的な小説の完成
誰も観測しない世界で、僕は数年をかけて、自らの人生と、その底に沈む孤独を元にした小説を書き上げた。それが、『誰も知らない部屋』だ。主人公は、まさに僕自身。社会との接点を全て断ち、部屋に閉じこもることで、外界の「観測」から逃れようとする。その物語を書き終えたとき、僕は強い達成感に包まれた。このデータは、ハードディスクの奥深くに保存された。これは、僕が世界に対して遺す、最初で最後の存在証明になるはずだった。もはや、この作品が世に出る必要はない。僕が書いたという事実、その静かな自己満足こそが、僕にとっての真の救済だった。僕は、そのファイルを何度も開き、主人公の結末をなぞることで、自らの人生を観測し続けていた。
3.異変の発見
観測されないという安心感の中、僕は惰性でネットの海を漂っていた。それは、外界を覗き見るだけの、安全な行為だった。そして、その異変は、ごくありふれたニュースサイトの片隅で発見された。<天才作家・遠野梓、芥川賞候補に!最新作『誰も知らない部屋』が異例の大ヒット!>指が凍り付いたように動かなくなった。僕の脳が、記事のタイトルよりも先に、その隣にある著者写真に反応したからだ。そこに写っているのは、僕だった。正確には、僕が理想としていた、社会に適応し、自信に満ち溢れ、成功を収めた僕の姿だった。その顔には、僕の鏡に映る陰鬱な表情とは全く異なる、「観測される者」特有の輝きがあった。僕はその名前を、何度も唇で反芻した。「遠野梓……」。
4.タイトルの一致への戦慄
タイトルと顔。そのどちらか一方が偶然だとしても、両方が揃うことはありえない。『誰も知らない部屋』。僕の頭の中で数年間熟成された、僕だけのタイトル。僕の人生の断片そのもの。記事を読み進めると、梓が語る小説のテーマもまた、僕の原稿と恐ろしいほど一致していた。「孤独と自己の不確かさ、そして観測されないことの恐怖」。まるで、僕がこの部屋で考えたこと、感じたことの全てが、遠野梓というスピーカーを通して、外の世界に完璧に伝達されているようだった。僕という存在は、彼のインスピレーションの源として、この部屋で常に観測されていたのではないか。僕が存在証明として書き上げた小説は、すでに彼によって剽窃され、現実の物語として世間に認められてしまっている。その事実に、僕は喉の奥が凍りつくような戦慄を覚えた。
5.PCの日付の違和感
僕は慌ててPCの日付を確認した。画面の右下には、2025年9月5日(金)と表示されている。僕はニュースサイトの最終更新日をもう一度見た。そこには2025年9月12日(金)とあった。一週間。僕のPCは、僕がこのニュースを見た日から、常に一週間遅れで時を刻んでいることになる。「ふざけたバグだ」僕はそう呟きながら、一週間も時計が狂っているPCを苛立たしげに睨んだ。だが、時刻を修正することはしなかった。どうせ誰とも連絡を取らないのだ。一週間程度のズレなど、この部屋の時間の流れにおいては些細なことだった。だが、この外界との時間差こそが、僕の部屋が外界から切り離された異空間であることを、僕はまだ知らなかった。僕の現実と、梓の現実に、すでに一週間のズレが生じている。
6.見慣れない高級な万年筆
僕は、自らの目で真偽を確かめるため、書きかけの草稿が挟まったノートを探した。テーブルの上は、数年間放置されたままの乱雑さだ。その乱雑なテーブルの上に、僕は見覚えのない万年筆が転がっているのを見つけた。それは、僕が使っている安物のボールペンではなく、インクの色が奇妙なほど濃い、高級そうな万年筆だった。キャップには、僕の趣味とは全く違う、幾何学的な模様が彫られている。いつからここにあった?誰が持ち込んだ?僕は不審に思いながらも、その万年筆を手に取った。書き味は滑らかで、インクは微かに甘いような、芳香剤のような香りがした。試しにメモ用紙に自分の筆跡で「僕は僕だ」と書いてみたが、インクが滲んで、まるで誰かの癖字が混じっているように見えた。この万年筆が、僕の部屋という密室に存在する、最も不自然な「梓の痕跡」だった。
7.梓のインタビュー解析
僕は再びネットに戻り、梓のインタビュー動画を再生した。梓は穏やかに微笑んでいた。その顔は、僕の記憶にある陰鬱な僕の顔と全く同じ形をしていながら、まるで別人のように輝いていた。その表情は、僕が何年も前に「観測される側」であることを諦めた顔だ。
「私が小説を書き始めたきっかけですか?」梓は上品に紅茶のカップに手を添え、言った。「それは、ある種の強迫観念に近いかもしれません。私は、誰かの悲痛な叫びを聞いていた。閉じられた、誰も観測しない部屋から聞こえてくる、自分の存在を証明したがっている声です。それを、外の世界に出してあげなければならない、と」
梓は、僕の部屋。僕の叫び。梓は、僕の小説だけでなく、僕の存在そのものまでを「観測」し、創作のインスピレーションとして利用している。彼は、僕を「観測対象」として定義することで、自らの才能を証明しているのだ。彼の言葉は、僕の存在の否定に他ならなかった。そして、梓は付け加えた。「その声は、私自身の中にあったのかもしれません。私にとって、あの小説は『影』との対話なのです」その言葉を聞いた瞬間、僕は自分の部屋の冷気が彼自身の影でできているような錯覚に陥った。梓は、僕を彼自身の「影」と認識している。それは、僕が誰にもなれず、誰でもない存在として生きていることを、
8.幼少期の記憶のシンクロ
僕は、梓の新作のレビューから、彼の小説のプロットを抽出した。そして、僕のハードディスクに保存されている僕の『誰も知らない部屋』のデータと、そのプロットを比較する。
梓の小説のあらすじ:「主人公は幼少期に、家族旅行で訪れた古い湖畔の宿で、四つ葉のクローバーをどうしても見つけられず、置き去りにされたと思い込みパニックになる」
僕の草稿の記述:「僕の最も古い記憶は、家族旅行の湖畔での出来事。皆が四つ葉のクローバーを探すのに夢中で、僕は皆から離れた。置いていかれるというパニックが、僕の人間不信の原点だ」
この記憶は、僕自身が分析し、小説の冒頭に使った、僕の人間不信の原点とも言うべき、他者に語ったことのない個人的な記憶だ。その最も個人的な断片が、他人の小説の根幹をなしている。これは偶然ではない。梓は、僕の魂の設計図を盗んだのだ。
9.学生時代の記憶のシンクロ
記憶の一致は、さらに続く。
梓の小説のあらすじ:「主人公は学生時代、唯一の友人と、使っていない古い遊園地のマスコットキャラクターの名前で暗号を作って秘密の交換日記をしていた」
僕の草稿の記述:「友人は、僕が廃れた遊園地のマスコットの名前で暗号を作って書いた日記を、笑いもせずに読んでくれた。それが、僕の唯一の信頼の証だった」
マスコットの名前、暗号という手法、そしてそれが「唯一の信頼の証」であったという感情的な核心まで、完全に一致していた。僕は、過去の僕が誰にも見せないように、鍵をかけて隠していた記憶を、梓が鍵ごと奪い取ったことを悟った。梓は、僕の人生をただなぞっているのではない。僕が人生で感じた痛みや喜びを、正確にトレースし、自分の感情として世間に提示している。もはや、僕の記憶は僕のものではない。それは、梓の作品の素材となってしまった。
10.梓の「空白期間」の発見
僕は、梓の経歴をさらに深く、過去に遡って調べ始めた。すると、不可解な点が見つかった。梓は華々しいデビューを飾る以前の約四年間の経歴が、驚くほど曖昧だった。高校卒業後、地元の美術大学に進学したという記録はあるものの、その四年間、彼は一切のメディア露出がなく、学校の友人や関係者による目立った証言もない。「まるで、存在しなかった期間みたいだ」その空白期間は、僕が引きこもり生活を始めた時期と、ほぼ完璧に重なっていた。僕は震える手で、キーボードを叩いた。梓は、この四年間、何をしていた?梓は、僕が社会から姿を消した瞬間を狙って、僕の人生を乗っ取ったのではないか?僕の身体、僕の才能、僕の記憶……全てを入れ替えたかのように。僕は、あの万年筆を再び手に取った。梓が使うという高級品。僕が使っていた安物のペンは、どこへ行った?
11.観測されている恐怖
僕は自分のPC、スマホ、そして部屋の隅々を調べた。盗聴器、隠しカメラ。何も見つからない。しかし、見つからないことが、かえって恐怖を増幅させた。梓は、物理的な手段ではなく、より高度な、僕の認識の外側にある方法で僕を観測しているのではないか?僕は突然、自分の行動を振り返った。昨日、僕は久しぶりに気分転換にと、自作の鼻歌を小声で口ずさんだ。その晩、梓のSNSに、その鼻歌のメロディをモチーフにしたという投稿があった。一週間前、僕は長年使っていたマグカップを割ってしまった。梓のSNSにも、「お気に入りのマグカップを割ってしまった。悪いことが起こりそうで嫌な予感がする」という投稿があった。観測されている。僕がこの部屋で無意識に行ったすべての行動が、リアルタイムで追跡され、梓の創作の素材になっている。僕の数年間の安寧は、一瞬で崩れ去った。この閉鎖された空間が、最も危険な場所だと悟った。
12.外出と観測者への変貌
「僕が消えたかったから、梓が現れたんだ。僕の『存在を消したい』という強い願望を、梓という鏡像が実現した」
僕はそう結論づけた。その鏡像は、僕が作りたかった「存在証明」の小説を盗み、その成功を享受している。僕は、この鏡像を破壊しなければならない。彼の正体を暴き、「遠野梓という存在は、僕の人生の剽窃に過ぎない」と証明しなければ、僕の存在は永遠に虚無になる。
その瞬間、僕の意識は、観測される側から、観測する側へと、決定的に切り替わった。
引きこもり生活で鈍った身体を叱咤し、埃を被ったパーカーを羽織った。何年も開けていなかった窓を、恐る恐る開ける。冷たい外気が、閉鎖された部屋の淀んだ空気を一気に吹き飛ばした。僕の身体が、一瞬、凍り付くような感覚に襲われた。外界の光が、僕の存在を炙り出すように強烈に感じられた。
僕は、部屋の奥の棚を漁り、古いカメラを取り出した。何年も使っていなかったが、まだ使えるはずだ。梓の顔、梓のサイン会、梓が持つペン、すべてを客観的な証拠として記録しなければならない。僕の主観ではなく、カメラのレンズを通して「僕の真実」を外界に叩きつける。
僕は、カメラのレンズを覗き込んだ。ファインダー越しに見る世界は、まるで薄い膜を通して見ているように、冷たく、そして明確だった。僕の存在は、観測されることでしか証明できない。
「行くぞ、遠野梓。お前を観測し、お前の正体を暴いてやる。お前が僕を観測したように、今度は僕がお前を観測する番だ」
僕は、玄関の重いドアを開いた。僕という存在を、再び世界という巨大な観測装置の前に晒すために。
13.外界の風景の違和感
僕が外に出たのは、実に四年間ぶりだった。外の光は強烈で、僕の視界を真っ白に焼いた。僕はフラフラと歩き出した。四年間で世界は何も変わっていないはずなのに、すべてが過剰に鮮明に見えた。道の角で猫が欠伸をする音、子供たちが遊ぶ声、車のエンジン音。それらすべての「観測されている音」が、僕の耳を突き刺した。
すぐに違和感を覚えた。僕の家の前の通りは、以前は古びた酒屋とクリーニング店があった。しかし今、そこは真新しいカフェとデジタルアートギャラリーになっていた。店の看板は最新のデザインで、通行人の服装も、僕が知る四年前の流行とはかけ離れたものだ。街全体が、僕が知る過去の記憶から、数十年分も未来にワープしたかのように見えた。
スマホの日付は9月5日のまま。しかし、街の風景は、僕の記憶にある9月12日の未来を遥かに超えていた。僕の家自体は変わっていない。しかし、僕の家を囲む外界だけが、この短期間で驚異的な進化を遂げている。僕の家は、この進化した世界から隔離された、時間の澱のような場所に存在していたのか。僕が引きこもっていたのは、四年間ではなかったのではないか、という底知れない恐怖が湧き上がった。この違和感こそが、梓の創作した「現実」と、僕の「過去」が決定的にズレている証拠だった。
14.街の記憶と梓のモチーフ
僕は、梓のインタビュー記事にあった、彼の「インスピレーションを受けた場所」を思い出した。彼は地元の風景を作品に取り入れているらしい。
僕は、よろめきながらその場所へ向かった。それは、僕が引きこもる直前、たった一人で酒を飲んでいた、寂れた川辺のバーだった。バーがあったはずの場所は、今や高級マンションの建設現場になっていた。建設現場のフェンスには、防音のための分厚いシートが貼られている。
しかし、その防音シートに貼られた完成予想図の中に、僕はかつてあったバーの小さな看板を見つけた。それは、梓の新作小説の装丁に、「隠されたモチーフ」として描かれていたのと同じ看板だった。それは、梓が「過去の美しいものへのオマージュ」として語っていたモチーフだ。
梓は、僕が知っている「過去」の街をインスピレーションとして利用し、今の「最新」の街で成功を収めている。僕の過去の記憶は、この進化し続ける街から消し去られ、梓の作品の中でのみ「美しい虚構」として観測されている。僕が観測していた世界は、すでに存在しない過去の世界なのか?僕は、梓に単に人生を盗まれたのではなく、僕の存在した「時間」ごと奪い取られたのだと悟った。
15.時間の飛躍の認識
僕はインターネットカフェに入り、改めて梓の最新情報を検索した。彼の人気は凄まじい。そして、今日、都内の大型書店で新作『誰も知らない部屋』のサイン会が開かれることを知った。2025年9月12日、午後3時。
僕は、PCで確認した日付が9月5日だったことを思い出し、改めてネットカフェのPCの日付を見た。9月12日。やはり、僕の部屋と外界の間には一週間分の時間差があった。外界に来てから、僕の時間の流れは、一気に一週間分スキップしたことになる。
僕の部屋は、外界との時間の流れから隔離されていた。僕が部屋に引きこもっていた四年間、もしかしたら外界では、八年、あるいはもっと長い時間が流れていたのではないか?そんな非現実的なことはありえない。しかし、この一週間の飛躍は、それを現実に突きつけている。
僕の「狂気」と、「外界の狂気」のどちらを信じるべきか、判断できなくなっていた。僕が外に出た瞬間、失われた一週間はどこへ行ったのか?この失われた時間に、梓が僕の人生を完全に「編集」し終えたのではないかという、新たな恐怖が僕を支配した。もはや、僕には冷静な思考が残っていなかった。
16.サイン会会場への移動
僕はサイン会へ向かうことを決めた。梓と対峙し、彼から直接、真実の言葉を引き出すしかない。
電車は混雑していたが、僕の周りだけ、なんとなく空間が「薄い」ように感じられた。人々は僕を見ているようで、僕を見ていない。僕の存在が、彼らの「観測の閾値」に達していないのではないか、という不安に襲われた。まるで、僕は彼らの焦点距離の外側にいるようだった。僕はカメラのストラップを固く握りしめた。これが、僕と外界を繋ぐ唯一の錨だ。
途中の駅で、二人の女性が、梓の小説について話しているのが聞こえた。「遠野先生のインタビュー読んだ?なんか、先生、最近ちょっとナーバスみたいよ。誰かに監視されている気がするって」「えー、人気作家の宿命でしょ?でも、ちょっと憑りつかれている感じ、するよね。まるで、自分じゃない誰かの人生を生きているみたいって」。その会話に、僕は背筋が凍った。梓自身も、僕の存在に気づいている?彼は、僕に観測されていることを知っている?僕の狂気が、彼の観測する側の世界を侵食し始めているのだとしたら、僕にはまだ勝ち目がある。しかし、その女性たちが突然、僕が部屋で口ずさんだはずの鼻歌を、楽しそうに口ずさみ始めたとき、僕の冷静さは完全に崩壊した。僕の存在の痕跡は、すでに街全体に汚染されている。
僕は、サイン会場の書店の前で足を止めた。彼のサインを求める長蛇の列は、梓の成功と存在を証明する巨大な質量だ。僕は、その群衆のエネルギーに圧倒されそうになったが、ここで立ち止まるわけにはいかない。僕は列の最後尾に並んだ。僕のポケットには、僕の存在証明である草稿ノート。そして、もう片方の手には、梓の虚像を破壊するための古いカメラ。僕の目的はサインではない。この熱狂の中心にいる遠野梓という虚像を、この熱狂の中で引き剥がすことだ。
17.梓との対峙
サイン会場の書店は、熱気に包まれていた。列はゆっくりと進み、あと数分で梓のいるテーブルに到達する。僕は、握りしめたノートの角が手のひらに食い込むのを感じていた。
「次の方どうぞ」スタッフの声が、世界から僕へと向けられた。
僕は、梓の目の前の席へゆっくりと歩み寄った。
テーブルの向こうで、遠野梓が僕に向かって顔を上げた。その瞳は、紛れもなく僕自身の瞳だった。しかし、その瞳の中に、僕の影は映っていなかった。彼の視線は、僕の肩越し、あるいは僕という存在を透過して、その後ろの空間を見ているようだった。
梓は、完璧な、穏やかな微笑みを浮かべた。その笑顔は、まるで僕という存在を観測の対象外として処理しているようだった。彼はサインペンを滑らせる指先の動きすら、完璧に計算されているように見えた。
「ようこそ。今日の出会いが、あなたの人生の良い観測になりますように」梓の言葉は、まるで僕の核心を突くように響いた。
僕は、ポケットからカメラを取り出し、梓の顔に向けてシャッターを切ろうとした。しかし、カメラのレンズは、何も捉えられなかった。ファインダーの中の梓の姿が、一瞬、ノイズのように揺らいだのだ。レンズが、虚構を認識することを拒否しているかのようだった。
その一瞬の躊躇が、僕の最後の抵抗を打ち砕いた。僕は、カメラを落とし、手に持った草稿のノートを、梓のテーブルに「ドンッ」と叩きつけた。「お前は、誰だ?このノートは、僕が書いた、僕の人生だ!」
僕は、自分の声が、観測熱に包まれた会場の喧騒にかき消され、誰にも届いていないことを悟った。梓は、僕の叫びそのものを「無音」として処理したのだ。僕が発した言葉は、ただの空気の振動でしかなかった。
18.観測の拒絶と排除
「お前は、誰だ?」僕は、自分の声が、観測熱に包まれた会場の喧騒にかき消され、誰にも届いていないことを悟った。梓は微笑んだまま、無言でスタッフに目配せをした。その動作は、まるで透明な異物を片付けるようだった。「お客様、どうか静かに」体格の良い男性スタッフが二人、僕の両脇から腕を掴んだ。「離せ!この男は詐欺師だ!このノートを見ろ!」僕は、片手で必死に草稿ノートを広げ、梓の顔の前に突きつけた。しかし、梓はノートを見ず、僕の肩越しに次のファンへ視線を移した。「少し、気分を害されただけです。この方の妄想が、どうか早く癒されますように」梓は、僕を「狂人」として、その場で定義した。周囲のファンたちは、梓の言葉を「優しくも被害者らしい対応」として観測し、納得した。僕は、大勢に囲まれながら、誰にも見られていないという、逆説的な絶望を味わった。
19.ノートへの接触と証拠のねじれ
スタッフは僕を、まるでゴミを運び出すかのように、会場の外へと引きずり出した。激しく抵抗する僕の手から、草稿ノートが床に滑り落ちた。僕は叫んだが、ノートは梓のテーブルの足元で、無残に折れ曲がっている。その瞬間、梓がふと、サインを終えたばかりのペンを置き、床に落ちたノートの表紙に触れた。彼はノートを拾い上げることなく、ただ右手の指先を、僕のノートの、表紙の隅に触れさせただけだった。その指先には、僕が部屋で見つけた、あの高級な万年筆のインクが微かに付着しているように見えた。梓はそのまま何事もなかったかのように、次のファンのサインに取り掛かった。僕の存在を証明するものが、梓の指先一つで梓の創作の証拠へとねじ曲げられた。僕のノートは、僕の証拠ではなく、梓の所有物となった。
20.警察への通報と居場所の表明
スタッフに店の裏口で強く地面に押し付けられ、僕は立ち上がった。梓は、僕の存在の証拠を、自分の創作の素材として回収した。そして、僕の手に残ったのは、僕が引きこもり中に使っていた、安物のボールペンの古いインクの匂いだけだった。それは、僕の人生の残り香のようだった。
あの部屋はもう安全ではない。あの部屋は、僕を閉じ込める檻に見えた。僕は、家へと向かう足を止めた。僕には、観測者のいない場所などない。だが、僕自身が観測者になることはできる。
僕は公衆電話を探し、硬貨を投入し、警察の番号をダイヤルした。指が、受話器の冷たさに張り付く。
「事件ですか?どのような?」受話器の向こうで、事務的な声が応じた。
僕は、喉の奥から絞り出すように言った。「僕は、遠野梓という男に、自分の人生を盗まれました。彼は、僕の人生を小説にして、僕を狂人だと決めつけました。どうか、彼の持っている『誰も知らない部屋』というノートを押収してください。それが僕の唯一の証拠です」
警察官は静かに僕の言葉を全てメモしているようだったが、すぐに冷静な口調に戻った。「お客様、落ち着いて。まず、お客様のお名前と、現在の居場所を教えていただけますか?」
僕は、一瞬ためらった。僕の名前は?僕の居場所は?僕の名前は、まだ言えなかった。だが、居場所は言わねばならない。それが、僕の新たな存在証明になる。
僕は言った。「僕は今、新宿区の[具体的な地名:例、〇〇交差点]にいます。そして、あなた方に観測されることを望みます。僕の狂気を、あなたの客観的な目で定義してください。僕の存在を証明してください」
僕はそう言い放ち、受話器を置いた。僕を観測してくれるのは、もう国家権力しかない。僕の次の舞台は、観測の檻の中だ。




