09:// アインソフオウルより愛を込めて
魔女の心はすでに月に囚われていた。
自由と希望に満ちた、甘くて幸せな檻の中に。
<1>
夕食を適当に済ませ、適当に歯を磨き、適当に風呂に入る。何を食べたかも覚えていないし、きちんと体を洗えているのかさえも分からない。ただ、レイは一刻も早くあの場所に、ルナリアに戻りたかった。
「……さて、今度はどこを見て回ろうかな。」
誰にともなくつぶやいて、レイは部屋の明かりを消し、ベッドに横たわりながら考えた。瞼を閉じてすぐに思い浮かぶのは、あの高架線を走る列車から見た夜景。見たことなんてあるわけないのに、どうしても既視感のようなものを感じてしまうあの街並み。
(……ああ、そろそろ行けそうだな……)
魔女と自由の国、ルナリア。誰にも邪魔されない、自分のもう一つの居場所。レイは自分の本当の故郷は実はあそこなのかもしれない、などというありもしない妄想をしながら、ゆっくりと意識を手放した。
<2>
目を開けるとそこはやはりソムニアの入り口で、珍しくツクヨミの姿はなかった。レイは思わず大声で呼んだ。
「ツクヨミー、いないのかー?」
周囲の人たちが何事かと一瞬レイのほうを振り向いたが、皆すぐに自分の世界に戻っていった。レイは自分が見られていることに気づき、そそくさとその場所を去った。普段のツクヨミなら呼ばなくても近くにいるのに、呼んでも来ないということは今は起きているか、ほかの場所にいるのかもしれない。そう考えたレイはソムニアを後にし、別の町に行くことにした。まずは最初に行った十二番街に行ってみよう。
「えっと、すみません。十二番街行の電車ってどれですか?」
「ああ、十二番街行ならあれだよ。お嬢さん、この国は初めてかい?」
駅について、レイは迷うことなく駅員を探して訊いた。そのほうが結果的に迷わずに済むことは分かっていたからだ。ただ、少しばかり緊張して声が上ずってしまったせいか、それとも今着ている服のせいか、女子だと勘違いされたようだ。レイは一瞬訂正しようと思ったが、それも面倒なので放っておいた。地上と違って、男女で扱いが違ったりしないことは周りを見ていればすぐに分かる。それなら放っておいても問題はないだろうとレイは思った。
「ありがとうございます。」
レイは今しがたホームに滑り込んだ列車に乗って、窓際の席に腰を下ろした。発射と同時に、がたんと音を立てて車体が揺れ、レイの身体が背もたれに押し付けられる。隣にツクヨミがいないルナリア生活は初めてで、少し物足りなさも感じたが、それもまた楽しみだった。
<3>
ルナリア十二番街に置いてある本は自由に読んでいいということで、レイは着いてすぐに近場にあった一冊の本を手に取った。冒頭の一ページ目を読んですぐにレイは気分が悪くなった。一ヶ月前、ユウナに殺されかけてリッカ先生たちに通学を禁止された、あの日とほとんど同じことが書かれていた。
「なんだよこれ……まさか私のことを書いた本なのか?」
胸が締め付けられるような感覚がして、ページをめくる手が少しだけ止まる。もしこの続きを読んだらここに書いてある内容がそのまま自分の未来になってしまうのではないか。レイはそんなことを考えつつも、無意識にページをめくっていた。次のページでは、主人公が心優しい少女に拾われて新しい生活を送るくだりが書かれていた。
「ふん……世の中そんなに簡単じゃないっての。」
レイは悪態をつきながらも、その少女にツクヨミを重ねていた。確かにツクヨミに連れられてここを知ってから少しだけ世界が変わった気がする。レイは次々とページをめくり、あっという間にその本を読み終わった。レイは気づいていなかったが、その顔は少し微笑んでいるように見えた。
<4>
目が覚めると、自分でも不思議なくらい体が軽かった。カーテン越しの光の眩しさが、窓の外から入り込んでくる風が、どれも爽やかで気持ちよかった。
「おはようレイくん。今日はいつもより顔つきが穏やかね。何かいいことでもあったの?」
「そうですか?」
リッカ先生の診察室に入るなりそう言われた。リッカ先生の安心したような笑顔にレイは一瞬戸惑ったが、すぐに平常心を取り戻した。
「ええ。バイタルも安定してるし、もしかしたらやっと薬が効き始めたのかもしれないわね。」
「そうですか。それはよかったです。」
リッカ先生はパソコンの画面を見ながら満足げにうなずいた。もし本当にそうならやはりレイは魔女ではなかったということになって、学園にも通えるということだろうか。
「あの、先生。もし薬が効いたら学園ってどうなるんですか?」
「そうね。もし調子でいけば大丈夫だと思うけど、二学期から行ってみる?」
「……はい。最後の一年ですし。」
レイは少し迷ってから答えた。ルナリアに行く時間は減ってしまうが、せっかく第二の故郷に戻れるならそれも悪くないと思った。
<5>
ユウナは耳を疑った。リッカの話によると、今のレイには魔女らしい兆候は一切なく、むしろ前よりも精神状態が安定しているとのことだ。
「私たちも驚いているんだけどね。でも実際に安定してるんだから、このままなら問題はないというのが私たちの結論よ。本人の希望もあって二学期からは普通に登校することになるから、仲良くしてあげてね。」
「……そうですか。ですが私たちはその研究結果を認めてはいませんからね。監視は継続しますよ。」
ユウナは診察室を出ると風紀委員会の腕章をつけ、わきあがる感情をぶつける対象を探すように第三学区の町へと繰り出した。
「レイ、あんたの化けの皮、私が剥いでやるんだから……!」
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レイはルナリアに戻ると、今日は少しだけまだ知らない場所に行ってみようという気になった。列車に揺られて向かうのは、一番街。駅に着いた瞬間、どこからかメロディが流れてきた。店先のスピーカーから、通りすがりの人の口笛から、ありとあらゆるところから音楽が聞こえてくる。それらが重なり合って、まるで町全体が一つの曲であるかのように鳴り響いていた。レイは人混みの中を歩きながらふと思った。
(……この音はうるさくないんだな……)
レイは基本的に周囲の音が嫌いで、廊下や教室のざわめきはもちろん、窓を叩く雨音や鳥の鳴き声でさえも苦手なはずだった。ただ、この通りに溢れかえっている音からは不思議と気持ち悪さは感じなかった。むしろ、ずっと聞いていたいような懐かしささえあった。
「ルナリア、か。ほんと、何でもありなんだな。」
「そりゃ自由の国だからね。歌が歌えない国なんて、そんなの自由じゃないよ。」
振り返るとフードを被った少女がレイの隣に立っていた。背丈はレイよりも少し低いくらいで、ツクヨミ同様不思議な雰囲気を纏っていた。
「えっと、君は?」
「たまにここで歌ってる。学校じゃ歌えないから。」
少女はそれだけ言うと近くのステージに上がって歌い始めた。その歌声を聞きながら、彼女も魔女と呼ばれているのだろうかと、レイはそんなことを考えていた。
<7>
今日のレイは三番街行の列車に乗っていた。この前行った一番街とは打って変わって、ここはとにかくやかましい場所だった。仮面で顔を隠した人々が、意味のわからない議論を交わしながら各々の武器をふるっていた。法廷のような見かけをしている割に厳粛さはまるでなく、傍観者たちもまるで祭りの見物客のようだった。レイが普通に歩いていると、仮面の一人に呼び止められた。
「あれ、君は仮面をつけていないんだね。まあ仮面をつけないのも自由だけどね、あとで刺されたくなかったらつけといたほうがいいよ。」
「……ぜひそうさせてもらおう。」
あとで刺されるとか冗談じゃない。レイは仮面を受け取ってしっかりと顔を隠し、ほかの大勢と同じようにして戦いを見物した。
「……こんなのも自由にカウントされるのか……」
「おいそこ! 今自由を否定したな! さては貴様教会の人間か!」
レイはしばらくの間見物人の中に紛れて戦いを聞いていたが、つい本音がこぼれてしまった。議論をしていた一人がレイに剣を向け何やら不機嫌そうに怒りの声を上げた。どうやらレイの呟きが聞こえていたらしい。
「いやいや待ってくれ。私は自由を否定できるほど自由について知らないんだが――」
「だとしたらそれこそ問題だ! これも何かの縁だ、私が教えてやる!」
レイは法廷に上げられると、先程まで無関心を貫いていた見物人たちが拳を振り上げて、思い思いの言葉を浴びせかけてきた。レイは大きなため息をついたが、不思議なことに、心のどこかでこれを待ち望んでいた自分がいたようにも思えた。
<8>
「自由とは! 何を言ってもいいということ! どんな発言をしても許されるということだ!」
相手の仮面は大きく剣を振りかぶって斬りかかってきた。レイはひょいと身を翻して避け、剣は見物人の群れに直撃した。見物人たちは傷一つなく、一切動じずに騒ぎ続けている。レイはいつの間にかその手に握られていた黒いナイフを相手の仮面に向けて構え、鋭く切り込みながら言った。
「じゃあ私が自由を否定してもいいんじゃないか。言うだけなら何言っても許されるんだろ?」
レイのナイフが相手のもとに届き、相手の仮面は剣を取り落として一歩後退った。見物人が歓声を上げる。どうやらレイの勝利ということらしい。レイは最初のうちは何も感じなかったが、手に持ったナイフが消えてなくなったときには確かな快感があった。
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「おはようレイくん。今日も一段と落ち着いているのね。」
リッカ先生がいつも通りの口調でそう言った。レイが落ち着いていると先生も落ち着くのか、先生の声も一段と穏やかだった。レイはこともなげに答えた。
「はい。最近少しずつ気分が楽になっているというか、そんな気がします。」
「最近は何か変わった夢を見たりはした?」
「いいえ。特に変わった夢は見ていないかと。ようやく薬が効いてきたんだと思います。」
レイは首をすくめて笑って見せた。ついさっきまで月にいて、言い合いになって、剣を抜かれたりナイフを抜いたりしましたなんて、言えるはずもなかった。
「そう。それならよかったわ。ここまで安定していたらもう魔女と疑われることもないわね。一応夏休みいっぱいはここに来てもらうし、薬も飲み続けてもらうけど、二学期から学園に戻る準備をしてもよさそうね。」
「そうですか。それはよかったです。ありがとうございます。」
レイは口も顔にも出さなかったが、自分の心が落ち着いてきたのはルナリアに行くようになったからなのではないかと思い始めていた。
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「よかったわねレイ。もうほとんど疑いは晴れたみたいじゃない。」
「疑いが晴れるもなにも、そりゃ最初っから魔女なんかじゃないんだから当たり前でしょ。むしろ最近まで疑ってたのがおかしいんだって。」
家に帰ると、母親が嬉しそうに話しかけてきた。レイは言いながら、自分が本当に魔女ではないのかどうか分からなくなってきていた。ユウナに殺されかけたあの瞬間までは、自分が魔女ではなかったと確信している。だが今は、一日の大半を魔女の国で過ごしている自分は本当に魔女ではないと言えるのだろうか。
「レイ? どうかした?」
「……なんでもない。ちょっと眠いだけ。」
「それならいいんだけど。ご飯できたら呼ぶから部屋で寝ててもいいよ。」
母親に言われるままにレイは自室に向かった。薬が効き始めたことで副作用も出てきたのかしら、と母親が呟いているのが聞こえた。
<11>
レイはいつものようにルナリアに来ていた。今日行くところを決めかねていると、ちょうど十九番街行の列車が目の前に停まったのでレイは十九番街に行くことにした。
「「こんにちは! 十九番街へようこそ!」」
「……ここは……なんというか、眩しいな……」
レイが十九番街に足を踏み入れた瞬間、個性的な衣装に身を包んだ美少女たちがレイに向けて笑顔を振りまいた。大勢の人々が少女たちの立つステージを取り囲んでいて、崇拝にも似た表情で少女たちを見つめていた。少女たちはその熱意に応えるように笑いかけ、盛り上がる崇拝者たちを前にとりとめのない話をし続けていた。レイがほかの人の輪を見に行こうとしたとき、崇拝者の一人に声をかけられた。
「ねえそこの君、もしかして十九番街は初めて?」
「そうだけど、初めてだと何かあるの?」
「初めてってことはまだ推しはいないんでしょ? なら一緒にあの方を――」
レイは崇拝者の青年が指したほうを見た。満面の笑みを浮かべた少女が、群衆の歓声にかき消されないような澄んだ声で歌っている。少女は一曲歌い終えると、歌っていたときとはまるで別人のような声で語りかけた。
「みんなー! 明日はいよいよ彗星祭だよー!」
彗星祭。その言葉を聞いてレイはふと思い出した。そういえばツクヨミは彗星祭の日にまた会おうと言っていたっけ。レイは十九番街の散策を後回しにしてソムニア行の列車に乗り込んだ。
<12>
クレーターの中に作られた都市、ソムニア。レイがそこに向かうと、すでにツクヨミはその縁で待っていた。ツクヨミは上空に浮かぶ星屑たちをぼんやりと眺めていた。
「……来てくれたんだね。見て、彗星祭の前夜だよ。」
「まあ一応約束したからな。」
ソムニアは明日の準備をする人でにぎわっていて、彗星祭を見たことがないレイにとってはすでに祭りが始まっているように見えた。町のいたるところに、レイがこれまで見てきたような本や絵、音楽などが飾られている。ツクヨミはレイの手を引いて、光り輝くソムニアの中心へと歩き出した――そのとき。
「……え?」
空気が急に冷たくなった。一瞬にして風が止まり、音が消えた。まるで世界の全てが凍り付いてしまったかのようにソムニアはその動きを止めた。今さっきまで空にあったはずの星たちは一つ残らず姿を消していて、町の明かりもどこかに隠れてしまっていた。
<13>
鍋の煮える音が静かに響いていた。
「レイ、もうすぐご飯できるからね。」
キリカは二階に向けて声をかけたが、レイが降りてくる気配はなかった。珍しいことだが、最近ようやく効き始めた薬の副作用なら仕方がない。キリカは足音を立てないように階段を上り、部屋のドアをノックした。
「レイ、いつまで寝てるの? もうご飯できたよ。」
静寂だけが返ってきた。キリカがそっとドアノブを回して部屋に入ると、レイはまだベッドに横たわって眠っていた。まるで、時間ごと凍り付いたかのように。
月が氷の牢獄に閉ざされる。
目覚めることすら許されない悪夢が始まった。