05:// ダンアツロンパ
異常はやがて正常へと飲み込まれ、その一部となる。
しかし、すでに異常を飲み込んだそれは、はたして本当に正常と言えるのだろうか。
<1>
試験結果が返ってきた次の日、ユウナは学校を休んだ。別にほかの生徒なら体調不良くらい珍しいことでもないはずだが、あの永久機関でも積んでいそうなユウナが休んだ、というだけでもちょっとした異変のように感じられた。
「やあ榊原くん、一人なんて珍しいね。川澄さんは?」
レイが風紀委員会室に行くと、ユウヒがそう言ってコーヒーを注いだ。コーヒーから立ち上る湯気が、まるで世界のように揺らめいていた。
「あいつは今日休みだ。試験が終わった疲れでも出たんじゃないか。」
「そうか……友達が来ていないのは寂しいね。」
「いや別に。そもそも友達じゃないからな。」
ユウヒは空いた席をちらりと見て目を伏せた。ユウナがここに来てからまだ二ヶ月しか経っていないのに、レイにはもう何年も前からこうしているような気さえしていた。
<2>
「おっはよーレイっち! 昨日はごめんね~!」
ユウナがいつものように、いや、いつも以上に明るく元気に笑って教室に入ってきた。だが、その目の奥にはどこか焦りのようなものが見え隠れしていた。ユウナは授業中も休憩中も、ときどきレイのほうを向いたりはしていたが特に話しかけてくることもなく、ずっと教科書を読んでいた。
「……はぁ……」
ユウナが小さく息を吐いた。懸命に教科書を読み続ける横顔は明らかに疲労がたまっていて、それでも手元にはすでに次の試験範囲の参考書が置かれていた。
「なあ」
「ん……レイっちから話しかけてくるなんて珍しいね! 何かあった?」
「いや、今日は風紀委員会の仕事はしないのかと思ってな。」
レイが声をかけると、ユウナは教科書を持ったまま顔をレイのほうに向けた。そういえば、今日はユウナの左腕にあの腕章がついていない。いつも肌身離さず着けているのに、寝坊でもして付け忘れたのだろうか。
「わかった! 今日はどこを見に行く?」
「そうだな……とりあえず委員会室にでも行かないか?」
「おっけー! じゃあすぐ行こう! 全ては正義のためにだよ!」
ユウナはノートをぱたんと閉じると、レイの腕をつかんで走り出した。なぜレイのほうから誘うような真似をしたのか、答えは簡単だ。レイにとって、ユウナに振り回される生活はすでに日常の一部なのだから。
<3>
風紀委員会室のドアを開けると、ユウヒが椅子に座って書類をめくっていた。
「やあ二人とも。仲が良さそうで何よりだよ。」
「……これがそう見えるか?」
レイは即否定したが、ユウナはそりゃ私たち仲いいから、と言ってぐいぐいと腕を引っ張った。
「それでユウヒ、何かすぐに終わらせられそうなものはないか? できれば五分くらいで――」
「これなんてどう? なんかすっごく怪しいよ? まさに私たち風紀委員の出番って感じ!」
ユウナは一番厄介そうなものを選んだ。第二教室棟で不審な声、と書いてある。こういうのは風紀委員というより専門の大人の出番ではとレイは思ったが、ユウナをここに連れてきたのは自分なのだから今回だけは自業自得な面もある。レイは自分の軽率な行動を後悔しながら覚悟を決めた。
「それじゃあ、今回のは三人で行こっか!」
ユウナが笑顔で言った。ユウヒも被害者候補になった。
<4>
「それにしてもさ、榊原くんって最近変わったよね? 前はもっと面倒くさがりな感じだったのに。最近はむしろ榊原くんが引っ張ってるように見えるよ。」
「そう見えるなら働きすぎだな。明日からはサボるとしよう。」
先導するユウナの後ろでユウヒとレイは雑談をしていた。レイにとっては肉を切らせて骨を断たれないようにしているだけだったのだが、周りからはそうは見えていないらしい。
「事件現場にとうちゃーく! ささ、犯人捜し開始!」
ユウナたち三人は第二教室棟の中を一部屋ずつ見て回った。特に不審者そうな人物は見当たらない。最上階への階段を上っていると、前から爆睡少女が降りてきた。
「あ、月詠さん! こんな時間にこんなとこりにいたらだめでしょ! 早く帰りなさい!」
「……あなたたちは帰らないの?」
「私たちは風紀委員だからいいの! あ、この上に不審者っていた?」
「……今帰っていった。」
ユウナと多少の問答をして、爆睡少女もとい月詠は帰っていった。相変わらず神出鬼没というか、掴みどころのない奴だとレイは思った。ユウナさえいなければ自分もああなれたのかもと思うと少しだけ憎らしくなって、不審者の罪を月詠にかぶせることにした。
「あーあ、でもこれで振り出しかあ……」
「いや、不審な声って月詠の寝言とかそのへんなんじゃないか?」
「確かにそうかも! 何それレイっち天才じゃん! じゃあ今日の仕事はおしまいだね!」
レイが適当に言ってみるとユウナは大いに納得したようで、今日の探偵ごっこは無事終了となった。明日からはもう少し携帯できる護身用具を用意しないといけないなとレイはつくづく実感した。
<5>
ユウナは携帯を片手に自室を行ったり来たり歩き回っていた。電話の向こうから声が聞こえる。
「それで、魔女にはもうとっくに接触したんですよね? 結果は?」
「……接触はしましたが審判はまだです。」
「もう二ヶ月も経っているんですよ。それに――」
「……そ、それは……」
ユウナはあからさまに狼狽した。一方で電話の主は淡々と続ける。
「まあ初任務だから緊張するのも分かりますけどね。ですが私たちは世界全体を守らなくてはならない。少しでも兆候が確認出来たら躊躇わずに断罪しなさい。それが世界を守るということです。」
電話の主はそれだけ言うと電話を切った。残されたユウナは携帯を握りしめたまま立ち尽くしていた。
<6>
六月になって、学園を雨雲が覆うようになった。もし雨が誰かの涙なら、それはレイのものに違いないとレイ自身は感じていた。雨のせいで気分が晴れない生徒が多いらしく、レイは何回か母親特製の護身用具を披露する羽目になっていたからだ。一度しか使えないようなものではないが、使うたびに奥の手が減っていっているような気がして不安だった。
「ねえレイっち、今日はこれにしよう!」
「また不審者かよ。もう全部月詠ってことでいいんじゃないか? あいつならどこにでもいそうだぞ。」
「ダメだよそんなの! 罪を犯したって確証がない人を裁いたらダメって神様も言ってるんだから!」
ユウナは教会の経典に書いてある一節を引用してレイを叱った。別にレイも本気で月詠のせいにしようとは思っていなかったのだが、やっぱりユウナは教会とか正義とか、そういう話に異常に敏感だった。
<7>
定期面談の季節がやってきた。いつもと全く同じ時間と場所、同じポーズの先生に同じような話を聞かれ、適当に流すか答えるかするだけの簡単な作業の日だ。
「一か月ぶりね。川澄さんとは最近上手くやれているってあなたのお母さんから聞いたけど。」
「……ええまあ、もう二ヶ月以上経ってますからね。上手くやれているというか振り回され慣れたと言ったほうが正確ですが。」
「……そう。最近の川澄さんの様子はどう?」
イレギュラーな質問が飛んできてレイは一瞬思考が止まった。そういうことは本人に聞いてください、という言葉を飲み込んでレイが考え込んでいると、先生はこう続けた。
「ごめんなさいね、こんな話しちゃって。ただ最近、ちょっと分からないことがあるみたいだから。」
「そうなんですね。でも私には関係ないことですし。」
「それもそうね。まあ一応覚えておいてちょうだい。あとは――」
それからはイレギュラーな質問はなかったが、レイはあまり面談に集中できなかった。定期面談が必要なのはユウナに付きまとわれているレイではなくユウナ自身のほうなのでは、とレイはそんなことを考えていた。
<8>
六月も終わりに近づいて、期末試験シーズンが始まった。ユウナはレイに話しかける暇なんてないとばかりに教科書とノートにかじりつき、一方でレイはユウナに雑談を持ちかけるくらいには余裕綽々だった。いつもダル絡みされている意趣返しというやつだ。
「なあユウナ、もし分からない問題があったら私に聞いていいぞ。嘘は教えないと約束してやるよ。」
「……うるさいなあ。今集中してるから話しかけないでよ!」
「なんだ。せっかく教えてやろうというのに。」
「私はいいの! こんなのちょっと復習すれば……」
ユウナは教科書に書いてある単語を一言一句暗記しようとしているようだった。レイはユウナの成績不振の原因の一端が見えた気がした。
(……こいつって案外不器用な奴なんだな。)
<9>
数日後の放課後、職員棟の一室に呼び出された。夕焼けが世界を血のような赤に染める中、レイは重い足取りでドアを開けた。
「……失礼します。」
部屋にいたのはユウナとシエル先生の二人だけ。先生は窓際の壁に寄りかかって、ユウナは部屋の真ん中をせわしなくうろついている。二人の無言の圧力が部屋の空気を支配していたが、まず先生が沈黙を破った。
「ようこそレイくん。ユウナさんが話があるみたいだから、聞いてあげてちょうだい。」
「……何があったんですか?」
先生はいつものふわふわした口調ではなく、真面目そうな口調で言った。それだけでも、何か普通ではないことが起きているのだと、そう直感せざるを得なかった。
「ユウナ、こんなところで話ってなんだ? いつもみたいに――」
「うるさい黙れ!」
ユウナが怒鳴り声とともに一歩踏み出した。ユウナとレイの間にある円卓、その上に置かれていた書類が風に吹かれたように舞い上がった。レイは咄嗟に身構えたが、書類が刃になって襲ってくるようなことはなかった。代わりにユウナが今にも襲い掛かってきそうな形相をしている。
「レイ、やっぱりあんたが魔女だったんだね……!」
<10>
「……は?」
「だってそうでしょう? そうでもなきゃこんなことにはならないよ!」
ユウナは散らばった書類を拾い上げて言った。ついこの前の期末試験の結果だった。ユウナの成績はレイの三分の一くらいで、前回のよりもさらにひどい成績だったことがうかがえる。
また試験か。ユウナがなぜこんなにも試験成績にこだわるのかも、ユウナがさっきから何を言っているのかもレイにはさっぱり分からなかった。
「最初はまぐれかもとか思ったけど、今回もなんてあり得ない! 私の成績があんたより低いわけないでしょ! 私はもう全部勉強してるんだから!」
ユウナの声が跳ね上がった。目には涙と怒りがにじんでいる。先生がユウナにハンカチを渡した。ユウナはそれを奪い取って涙を拭いたが、かえって涙が溢れ出したようだ。それと怒りも。
「こんなのあり得ない、あり得ないの……! もうあんたが魔女で現実を書き換えたとしか考えられないの!」
「……いやちょっと待ってくれ。」
レイはなるべく落ち着いた声で反論した。正直魔女とか現実とかはよく分からないし、そんなことあるわけないだろうと一蹴してもよかったが、ユウナの中でそう見えているならその前提で話をしたほうがいいだろうとレイは判断した。
「仮にその成績が魔女のせいだとしよう。それでなんで私が魔女ってことになるんだ。他の生徒が魔女の可能性もあるんじゃないのか?」
「あんた以外の可能性とかそんなのどうでもいいの! あんたが魔女『かもしれない』ならそれで充分よ! 私が今ここであんたを殺して世界を守る!」
ユウナは聞く耳を一切持たず、拳銃を取り出した。前に見たものとは違う、もっと威力の強そうな銃を。
「ねえシエル先生、これって……」
「ごめんなさいね。ユウナちゃんがあなたを魔女だって認めたなら、私は庇ってあげられないわ。」
<11>
ユウナは躊躇うことなく引き金を引いた。レイは咄嗟に円卓の陰に隠れる。射撃の反動か、それとも緊張か、ユウナの手は震えていた。
「ユウナ、頼むから一旦話をしよう。ほら、教会も有罪が確定するまでは――」
「うるさいうるさい! 魔女が神学を語るなっ!」
ユウナは円卓に向けて立て続けに発砲する。レイは近くにあった椅子を盾にしたりしてなんとか凌いだ。カチカチと音がして銃撃が止まる。ユウナは銃を投げ捨てて、今度は銀色のナイフに持ち替えた。
「いい? 魔女かもしれないことそのものが罪なの!」
そんな理不尽な、と言いながらレイは胸ポケットからボールペンを取り出した。カチリとノックしてペン先を出し、構える。ユウナがナイフをまっすぐ構えてレイに突っ込んでくる。レイはその刃先を身を捻るようにして避け、ユウナの首筋にペンを突き立てた。
「……こ、の……」
<12>
「はい二人ともそこまで。」
扉が強引に開かれて、二人の大人が乱入してきた。天根先生とレイの母親だ。母親はレイをユウナから引き離し、天根先生は最初からその場にいた三人を見回した。ユウナは一歩下がった。
「……なるほどね。キリカ、あなたはその子を連れて帰ってもいいわよ。」
天根先生は視線をユウナに向けたまま母親にそう言うと、そのまま話を続けた。
「さてと、それじゃあ交渉といきましょうか、聖騎士さん。もしレイが魔女だというなら、それは私たち魔女対策係の管轄になるわ。これは統括理事会の承認を得ているから安心してちょうだい。」
天根先生は何かの紙を見せながらユウナに語り掛けた。今のユウナには何を言っても無駄な気がしたが、よほど重要なことが書かれているのか、ユウナは黙っておとなしく天根先生の話を聞いていた。レイに対してもそうしてくれればよかったのだが。
「それで、レイが魔女じゃないなら、それは単なる心の問題。つまり母親である私の管轄よ。」
「なんにせよ、うちでしばらく経過観察すれば魔女かどうか分かるから、それまでレイはしばらく学校をお休み。それで問題ないでしょ? もし魔女だったらそのときはあなたにお願いするわ。」
ユウナは何も言わなかった。言えなかった、のほうが正しいのかもしれないが、それはレイも同じだった。突然やってきた大人たちが勝手に話を進めるのを、黙って聞いているしかなかった。
<13>
レイは自室の天井を見上げて考えていた。学園、教会、シエル、聖騎士、ユウナ、魔女、対策、リッカ、キリカ……情報量が多すぎて考えがまとまらなかった。
「ふん……考えるだけ無駄か」
レイは考えるのをやめて寝返りを打った。明日からあの場所に登校することはない――余計なトラブルにこれ以上巻き込まれる心配もない、そのはずなのにレイの心は何かが渦巻いていた。
(……まさか。そんなわけ、絶対にない。)
この学園での暮らしが、故郷に帰ることと同じくらい大切なことになっているなんて、到底認められなかった。気づきたくもなかった。
「……そう、それだよ。やっぱりキミは魔女に相応しいよ。」
頭の中に誰かの声が響いた。
少年は自分が失ったものの大きさを知って、初めて涙を流した。
そして、それこそが第一の魔女、アレセイアの誕生の瞬間――