03:// ようこそ日和見至上主義の学園へ
魔女はその魂を七つに分け、やがてそれらは一つの世界を形作った。
これは最も若く、そして最も深い闇を見た、第一の魔女の物語――
<1>
レイは生まれ育った住宅街を歩いていた。家はどれも輪郭がぼやけていて、蜃気楼の中を歩いているようだった。ふと道端を見ると、一匹の黒猫が器用にもフォークを握って高級そうなケーキを食べていた。
(……この町にこんな猫いたっけかな?)
そこでレイは一つの結論にたどり着いた。これは夢だ。夢の中なら自分が故郷の町を歩いていてもおかしくないし、ケーキを食べる猫だっているかもしれない。
「――そう。だったら早くここに戻っておいで。」
どこかから声が聞こえた。少女の声だったが、レイには心当たりのない声だった。
「誰だ?」
「私は――」
少女が名前を言おうとしたそのとき、蜃気楼の町は空に溶けるように消え、レイは目を覚ました。
<2>
レイが目を覚ますと、懐かしくはないが見慣れた天井が見下ろしていた。視界の端でカーテンが揺れる。レイはそこに人影が見えたような気がしてベッドから飛び起き、ありもしないナイフを構えてカーテンを睨みつけたが、そこに人影などあるはずもなかった。
「……気のせいか」
レイがカーテンを開けて外の光を部屋に招き入れると、ちょうど太陽が城壁の上から姿を現したところだった。壁は光の加減でオーロラのように虹色にきらめいている。
――セント・ユリウス・フィールド。高さ五十メートルの城壁に囲まれた学園都市。授業では外の危険から守るためにあると教わったが、レイには自分を閉じ込める鳥かごのように見えていた。
<3>
食卓に降りると、トースト、ハムエッグ、サラダとまるで見本のような朝食が並べられていた。
「おはよー」
「おはようレイ。制服はもうできてるから早く食べちゃいなさい。」
「制服を?」
キッチンから聞こえる母親の声に、レイはそんな冗談を返しながら食卓に着いてトーストをかじった。部屋の片隅を見ると、この六角六面な学園都市のイメージとはかけ離れた、やけにひらひらした制服がハンガーにかかっていた。
「あれが今回のやつ?」
「そうよ。可愛いでしょう? せっかく作ったんだから、帰ったら感想教えてね。」
確かに本来の面影は残っているが、襟は肩まで覆うケープになっていて、袖はどこかの伝統衣装のように広く、丈は膝くらいまではありそうだった。レイには病人が着るガウンのように見えた。
「ごちそうさま。じゃあ着替えてくる。」
「母さんが着せてあげようか?」
「いやたぶん一人で着れるから大丈夫。」
レイは自分のことを着せ替え人形のように扱う母親から逃げるように自室に戻った。着替え終わった後でふと鏡を見たら、そこにはレイと同じ顔をした少女が立っていた。
<4>
学園に行く支度を終えて家を出ると、計ったようなタイミングでバスが到着した。レイは制服の袖と裾を整えて、できるだけ優雅に乗り込んだ。
バスは清潔と無機質を足したようなデザインで、壁も床も、一つの汚れさえなかった。教会の中のような内装に似合わないからか吊り革はなく、その代わり座席の背もたれには、教会の理念や標語を記したプレートが埋め込まれていた。
「安定性、ねぇ」
レイがそう呟いた瞬間、窓の外がピンク一色に染まった。いつの間にか桜並木のある大通りに差し掛かっていたようだ。道路の両脇から舞い散る花びらが風に吹かれて、アスファルトの上にも、静かにピンクが積もっていく。レイはふと、故郷の桜並木を思い出した。
(――ああ、そういえばあの町にも、こんな通りがあったっけ。今もまだあるのかなぁ。)
レイが頬杖をついてぼんやりと窓の外を眺めていると、スピーカーから、車内と同じように優しくも無機質な声が流れ出した。
『――まもなく第三学区、教室棟前――』
レイはバスをふわりと降りた。この学園で過ごす最後の一年の、最初の一日が始まる。
<5>
学園都市の中心部、ひときわ神聖さを放つ大聖堂。天窓から差し込む神々しい光の中、この学園を統括する理事たちの前に、一人の少女が現れてこう言った。
「はじめまして、理事の皆さん。今日付けで教会本部から派遣されました。さっそくですが、今すぐに私の転校手続きをお願いします。もちろん、彼のクラスに、です。」
<6>
レイが教室に入ると、すでに席の大半は埋まっていた。指定された席に着くと、クラスメイトたちの制服に自然と目がいった。当たり前のことだがどれも同じ色、同じ形で、自分のと同じようなデザインのものを着ている生徒は一人もいない。何人かの生徒が話しかけてきたが、会話するのが面倒くさかったレイは聞こえないふりをすることにした。
しばらくするとチャイムが鳴って、同時に先生が教室に入ってきた。ロングスカートをはいた先生で、スカートの裾を揺らしながら歩く姿がほんの少しだけ、今の自分の服装と重なった。
「はーいみんな~。ちゃんと席についてますね~。それじゃあホームルームを始めます。」
なんだか適当そうな先生だな、とレイは思ったが特に表には出さなかった。周りの生徒たちに合わせて立ち上がって、頭を下げて、座る。
「じゃあまずは自己紹介から~。私は北村シエル、担当科目は倫理です。あとでみんなにも自己紹介してもらいますからね~」
それから先生は連絡事項をつらつらと話し続けたが、よほど生真面目な生徒以外は誰も最後まで聞いてはいないようだった。当然レイも聞いていない側の一人だった。
「――それと、今日はあとで転校生の子を一人紹介します。今日この町に来た子なので、優しくしてあげてくださいね~」
先生が去り際にそう一言つけ足すと、教室は少しだけざわめいた。
レイはここに来たころを思い出しながら、何気なく窓の外を見た。窓の外では今も桜が舞っている。自分が転校生を迎える側になるなんて、思ってもみなかった。
<7>
授業中、レイはなるべく気配を消して教室を見まわしていた。隣の席に座っている女子がぐっすりと眠っている。レイ自身、これまで一度も真剣に授業に向き合ったことはなかったが、この少女はそもそも聞いてすらいない。流石に起こしたほうがいいかとも思ったが、下手に難癖をつけられても困るので放っておくことにした。
「あー、それじゃあこの問題は……なんだ、寝てるのか? じゃあそうだな、隣の席の……榊原、お前が答えろ。」
あまりの理不尽さに一瞬抗議しかけたが、ここで教師に喧嘩を売るのはよろしくない。レイは一番無難な正解を答えてすぐにまた気配を消した。結局少女は授業が終わる直前まで寝たままだった。次の授業中もこの少女が寝ていたらボールペンを突き刺してでも起こしてやろうと、レイは心に誓った。
<8>
昼休みも終わりに近づいたころ、ノックもなく教室の扉が開かれた。シエル先生が入ってきて、その後ろを見慣れない生徒がついてきている。教室が一瞬ざわついたが、先生がぱんと手を叩くとすぐに静かになった。
「はーいみんな~。ちょっと注目~」
先生がそう言うと、クラスの視線が一斉に教壇のほうを向いた。先生の後ろにいた少女が一歩前に出る。少女の身長はレイよりも少し高いくらいで、腰まで届く鮮やかな紫色の髪が特に目立っていた。制服は普通の生徒と同じものだったが、その立ち姿はどこか普通ではない何かを感じさせた。
「今朝言った転校生の子です。みんな仲良くしてあげてくださいね~」
少女は先生からチョークを受け取ると、丸っこくもきれいな字で「川澄・ユウナ・ペトロヴィチ」と書いた。名前からして外国人というやつだろうか。少女は名前を書き終わるともう一度教室を見渡して、満面の笑みでこう言った。
「はじめまして! 川澄ユウナです! 榊原レイさんがいるって聞いてここに転校してきました!」
教室が完全に沈黙した。
<9>
ユウナは先生に堂々と「レイくんの隣の席でもいいですか?」と訊いた。先生はそのあまりの常識のなさに驚いてか何も言わなくて、ユウナはそれを肯定と解釈したらしく、レイの隣の席の生徒に席を変わってもらっていた。
「今年一年よろしくね、レイ!」
「……ぜんぜんよろしくない」
レイは思わずため息をついたが、ユウナには聞こえていなかったのか、それとも聞く気がないのか、お構いなしに身を乗り出して話しかけてきた。結局、次の授業が始まるまで、レイは質問攻めにあった。
<10>
午後の授業は男女別で、女子たちは体育館で護身術、レイを含む男子たちは教室で倫理の授業だった。教会の統計上、歴史的に犯罪者のほとんどが男性であったため、男子にはより多くの教育が必要とのことだ。いくら教会の第一理念である安全のためとはいえ、不公平感は否めない。ただ、そこまで体力があるわけでもないレイにはむしろ好都合だった。去年までは。
「ユウナさん、だっけ? 君も女子なら体育館に行かないと……」
「うん。でも私護身術とかもう勉強しなくてもいいし。それよりもレイがどんな授業受けてるのか見てみたいかな。」
ユウナは訳の分からないことを言って教室に居座っている。レイは先生のほうをちらりと見た。先生は一瞬戸惑ったような顔をしたが、やはり何も言わずにそのまま授業を続けた。レイの救難信号は届かなかった。
「――ねえ、レイはこの世界についてどう思う?」
「……いちいち話しかけてくるな。」
「じゃあレイはこの世界のこと好き?」
「知らない」
ユウナは授業中もことあるごとに話しかけてきた。紫色の髪をした陽キャ、というだけでもレイの第一印象としては苦手なタイプだったが、このしつこさは苦手を通り越して嫌悪に値すると、レイは評価を見直した。
「私はこの世界好きだよ。レイもそうだといいんだけど。」
「なんて?」
「いや別に。何も言ってないよ。」
ユウナの言葉はその一つ一つが命令であるかのように聞こえた。
<11>
レイは帰りのホームルームが終わると同時に素早く鞄を取って、教室のドアへと向かった。
「レイ、つかまえたー!」
背後から聞き慣れ始めた声が聞こえた。ユウナに捕まった。ユウナはそれが当たり前であるかのようにレイの後ろをついて歩く。悪霊にでも取り憑かれたような気分だった。
「あのさ、今から帰るとこだから、離してくんない?」
「じゃあ一緒に帰ろう!」
「断る」
校門を抜けたところで、レイは足を止めた。背中にユウナがぶつかってきた。
「急に立ち止まってどうしたの?」
「――この際だからはっきり言おう。私はこの一年間を平穏無事に過ごしてさっさと故郷に帰りたいんだ。だから邪魔しないでくれ。」
「……ふーん。レイ、あんたってこの世界が嫌いなの?」
ユウナの顔から笑顔が消えた。目が死んでいる。しかしこれはいい機会だろうとも思った。ここで嫌われておけば、明日からはまた平穏な生活に戻れるかもしれない。
「ああそうだな。少なくとも、今日お前と会って以降のこの世界は嫌いだよ。」
ちょうどバスがやってきた。レイは逃げるようにバスに乗り込んだ。
<12>
なんとかしてユウナから逃げ切ったレイが家の玄関を開けると、すでに夕食の匂いが漂っていた。レイは靴を脱ぎながら少しだけ肩の力を抜く。
「おかえり、レイ。ちょっと遅かったわね。制服の感想はどうだった?」
母親がキッチンから夕食の皿を持ってきながら訊いてきた。学校の感想より先に制服の感想なんて、やっぱりこの母親もどこかおかしいんじゃないかとレイは思った。食卓に並べられたのはご飯、味噌汁、焼き魚、野菜の煮物といういかにもな和食。少なくともここだけは普通の家庭だ。
「まあ普通かな。それよりもさ、今日うちのクラスに転校生が来て……」
「転校生? どんな子なの? 可愛い子?」
「可愛いかどうかはおいといて、とにかく距離感が変っていうか。あ、あと私に会うために来たみたいなこと言ってた。」
母親の箸が止まった。母親はしばらく考え込んでいたが、やがて何かの結論に至ったらしく、こう言った。
「とりあえず、その子とはあんまり関わらないほうがいいかもしれないわね。」
「……なんで?」
「ただの勘よ。でも嫌な予感がするの。もし何かあったらすぐ言ってね。レイは少し特別なんだから。」
特別。誰も口には出さないけど、皆どこかで意識しているんだろう。母親も、担任も、そしてあの転校生も。
「お風呂は沸かしてあるから、今日のところはゆっくり寝なさい。」
<13>
その夜、レイはあまりよく眠れなかった。時計は午前二時を示していて、窓の外は明かり一つない暗闇だった。レイは水を飲もうとベッドを抜け出して、忍び足で階段を下りた。
「――はい。はい、おそらく。こちらも対策しておくべきかもしれません――」
母親の声が聞こえた。誰と話しているのかは聞こえなかったが、明らかに怪しい会話だった。レイはのどの渇きなどすっかり忘れ、やはり忍び足で自分の部屋に戻り、そのまま眠れない夜を過ごした。
世界が魔女を拒むとき、魔女は静かにその種を芽吹かせる。
誰も気づかないような、小さな小さな芽を。