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01:// FOWICE UPON A TIME

> Welcome back, Observer. Did you intend to observe ringmoire RiNGS-RD-01? (Y/N)

> Y

> Now loading ringmoire RiNGS-RD-01...

> Loading complete. Please scroll to observe.

 <1>


 少年は自分の存在を拒絶するように眠り続けていた。右も左も、上も下もない、真っ暗な世界。暗闇の向こうから、一人の少女が音もなく現れた。少女は眠ったままの少年を見ると、何もないところから椅子を一脚取り出して、少年の隣に座った。


「――Terra autem erat inanis et vacua, et tenebrae erant super faciem abyssi, et spiritus dei ferebatur super aquas.」


 少女は子守唄でも歌うかのような優しい声で呼びかけた。少年は小さく体を震わせると、丸まったまま寝返りを打って、再び寝息を立て始めた。少女はしばらくそれを眺めていたが、やがて何かを思いついたようにクスリと悪戯っぽく笑うと、今度は少年の耳元で囁いた。


「Terra, autem, erat, inanis, et, vacua♪

 Et, tenebrae, erant, super, super, faciem, abyssi♪

 Et, spiritus, dei, ferebatur, super, aquas♪」


 温かくて柔らかい吐息が少年の横顔をくすぐる。少年は薄く目を開けて、暗闇をぼんやりと見つめながら眠そうに呟いた。


「……Fiat lux」


 その瞬間、世界はまばゆい光に包まれて――


 <2>


 少年が再び目を開けると、真っ暗だった世界は宝石を散りばめたような星空に変わっていて、少女の姿は影も形もなかった。少年はそんな星の海をあてもなく泳ぎ続けていたが、不思議と空腹も疲労も感じなかった。

 ふと正面を向くと、オーロラでできた巨大なカーテンがかかっていた。少年はその光に引き寄せられるように近づいていき、オーロラをくぐり抜けようと手を伸ばした。するとオーロラがゆらりと歪み、門のような裂け目が少年の体を飲み込んだ。

 オーロラの反対側から少年が出てくることはなかった。


 <3>


 オーロラの先にあったのは星空ではなく、気がつくと少年は石の床に仰向けに寝転がっていた。天井があるべき場所には、蛇のような木の根と、その隙間から星の瞬く夜空が見えた。

 少年がぼんやりと夜空を眺めていると、突然頭の中に声が響いてきた。


「――たまにはここにおいで。」


 声に従って、長い渡り廊下のような道を歩いていくと、これまでとは雰囲気の違う、神殿のような部屋にたどり着いた。部屋の中に声の主はいなかったが、中央の祭壇にはもぎ取られたばかりのように新鮮な林檎が三つ置かれている。


 <4>


 少年が祭壇に近づくと、正面の壁から黒いインクが滲み出た。インクは瞬く間に壁一面に広がり、一つの絵を描き始めた。

 仮面を被った大人たちが、円陣を組んで一人の子供を取り囲んでいる。そのうちの一人、神官のような風貌をした者が槍を掲げ、躊躇うことなく子供に向かって投げつけた。槍は絵を飛び出すと、林檎を一つ刺し貫いて床に落ち、そのまま砕けて青白く光る砂になった。

 子供の身体からインクが流れ出て、取り囲んでいた大人たちを飲み込みながら次の絵を描き始めた。

 流氷の上で、一人の魔法使いが倒れ伏す男の前に座り、魔法を唱え始めた。魔法使いが途中で一旦手を止めて、何かを探すようにあたりを見回すと、少年と目が合った。魔法使いは絵を抜け出して林檎を一つ取っていくと、男の胸を切り開いてその中に林檎を埋めた。男は起き上がり、魔法使いとともに海の底に沈んでいった。

 大きな波しぶきが上がり、飛び散ったインクがまた別の絵を描き始めた。

 地上に降り立った異形の怪物が人間を捕食し始めた。マントを羽織った兵士たちが宙を舞い、手に持った剣で怪物たちと戦っている。怪物の群れは少年を見つめ、自分たちが絵であることなど気にも留めずに少年に向かって走り出した。一匹の怪物が林檎を一つ鷲掴みにして口の中に放り込んだが、少年に触れることはなくすり抜けていった。兵士たちも怪物を追って絵を飛び出し、両者は揃って反対側の壁に吸い込まれるように消えていった。

 怪物たちの足跡がさらさらと動き始め、元の壁に戻って新たな絵を描き始めた。

 王冠を戴いた者たちが一人の職人に跪いた。職人の手には、神々しく光る石板が掲げられている。少年は、はじめからそうするつもりだったかのように静かに祭壇に歩み寄り、先程まで林檎が積まれていた場所にそっと手を置いた。パキリという音とともに石板の表面に亀裂が入り、オレンジ色の光が溢れ出す。亀裂は石板をはみ出して壁全体に広がり、王と職人は光の彼方に消え、ついに壁画は神殿もろとも崩れ去った。


 <5>


 少女は廃駅の椅子に腰掛け、四角く組んだ指を天に掲げて星空を覗き見た。天球に貼り付けられた宝石たちをその枠の中に収めながら、少女は呟いた。


「あれがアルゴ号座だから、あそこにあるのが樅木座、あっちが観覧車座」


 少女の目が星をなぞっていくと、大樹とつながっているオーロラの一つがゆらりと揺れた。少女はそれを見ると静かに立ち上がり、すでに凹凸のなくなった点字ブロックを一歩越える。次の瞬間、駅のホームには真っ白な車体の列車が停まっていた。少女の手が車体に触れると、その側面に一本の朱色のラインが浮かび上がる。


「さてと。それじゃ、そろそろ迎えに行きますか」


 少女が列車に乗り込むと、列車は音もなく砂の雪原を滑り出した。


 <6>


 少年は青みがかった灰色の絨毯の上に立っていた。アーチ状の天井からは柔らかなオレンジ色の光が降り注いでいる。車窓の外は青白い光を放つ砂漠が広がっていて、その上には隙間なく星で飾られた夜空があった。ただ不思議なことに、この列車には座席が一つもなかった。

 少年は窓に沿って車内をぐるりと一周した。左右対称の空間にはいくつもの扉があったが、どれもまるで飾り物のように固く、開く気配は全くなかった。少年は展望室に戻って、夜の砂漠にぼんやりと目を向ける。淡く光る砂は、列車が通り過ぎたことに気がついていないかのように身動き一つしなかった。強烈な睡魔が少年に襲い掛かったその瞬間、背後の天井から一本のはしごが伸びてきて、軽快な足音とともに少女が姿を現した。


「たそかれ線をご利用いただきありがとうございます。次は終点、あかつき駅でございます。

 ――ねえ、終点まで少し話をしよう?」


 <7>


 少年が返事をする間もなく、少女はいそいそとお茶会の準備を始めた。ほんの一瞬前まで何も置かれていなかった展望室には、いつの間にかテーブルと二脚のソファが置かれていた。テーブルもソファも、まるで最初からそこにあったかのように列車の空気に溶け込んでいた。


「そこに座って待ってて。今お茶を淹れてくるから。」


 少女はソファを指してそう言うと、扉をすり抜けて車両を出ていった。少年は少女と同じように扉に向かって歩いてみたが、扉に頭をぶつけただけだった。少年はソファに腰掛け、おとなしく少女の帰りを待つことにした。しばらくすると、少女が手ぶらのまま帰ってきた。少女の一歩後ろを銀色のティーワゴンがカラカラとついてきている。


「お待たせしました、お客さま。それじゃあ、お茶にしよっか。」


 少女が少年の向かいのソファに腰掛けると、ティーセットはひとりでに動き出し、二人の前には湯気が立ち昇る紅茶と艶やかなチーズケーキが並べられた。


 <8>


 列車は速度を落とすことなく走り続けていたが、ティーカップの水面は少しも傾いていなかった。窓の外に目をやると、砂の中にちらほらと廃ビルのような建物が見えるようになっていた。中で亡霊たちがまだ暮らしているのか、どのビルも明かりが点いたままだった。


「せっかくのティータイムなんだからさ~、もっとお話をしようよ~」

「あ、えっと……」

「じゃあこうしよう。今からコインを投げて、表だったらボクがキミの質問に答えてあげる。裏だったらキミが答えてね。」


 何を話せばいいものかと少年が悩んでいると、少女は一枚の金貨を取り出してはじき上げた。コインが宙を舞い、チャリンと音を立ててテーブルの真ん中に落ちる。飛び跳ねようとするコインをティーポットの蓋が押さえつけ、少女は大仰な仕草で蓋を取った。


「……表、だね。さあキミ、ボクに何か質問は?」


 少年はしばらく考えるふりをして、今までずっと気になっていた質問を投げかけた。

 ここはどこなのか。目の前の少女は誰なのか。少年はどうしてここにいるのか。


 <9>


 少女は紅茶を置いて、呆れ顔でため息をついた。


「……まったく、三つも質問するなんてキミは欲張りだなあ。ボクだってここのことを全部知っているわけじゃないんだよ? キミのほうが詳しいことだってあるんじゃない?」


 少女は意味ありげにクスリと笑うと、残っていた紅茶を飲み干して、窓のほうを指さした。窓の外で、天球から剥がれ落ちた星屑が地平線の底に沈んでいく。砂漠の真ん中には、天を貫くほどに大きな樹が一本だけ生えていた。夜空に広がるオーロラは全て、その樹を中心に広がっているように見えた。


「たとえば、この星空。ボクにはこれが何かってことまでしか分からないけど、キミならその意味まで分かるんじゃない?」

「……えっと、ごめん。どういうこと?」


 少年はきょとんとした表情で少女のほうに向き直り、質問の答えを探るように少女の顔を見つめた。少女はポットに紅茶を注がせていた。


「……キミってば本当にしょうがないなあ。でも約束だしね。キミには特別に教えてあげる。」


 少女はカップに口をつけ、何かを思い出すように目を閉じて深呼吸した。少女は飲み終わったカップとケーキ皿を指の一振りで片付け、静かに、歌うように語り始めた。


 <10>


 少年のカップにはまだ少し紅茶が残っていたが、少女の話を聞くうちにすっかり冷めてしまっていた。少女の口から語られたのは、どれも陰鬱な物語ばかり。少女は淡々とした、けれど実感のこもった口調で少年に問いかける。


「キミはさ、本当はもうとっくに気づいてるんじゃないの? キミが何者で、どうしてここに来たのかってこと。」

「――え?」


 少女は一瞬だけ、この先を口にするのを躊躇うように遠くの星空に目を向けたが、すぐに少年に向き直って最後の言葉を紡いだ。


「――キミの魂はね、あの世界でもうとっくに死んじゃってるんだよ。」


 少年は糸の切れた人形のように動かなくなった。少女はパチンと指を鳴らし、これまでよりもひときわ濃い紅茶を淹れると、半ばむりやりに少年の口に流し込んだ。少年は特に抵抗することもなく飲み干すと、少しずつ呼吸を取り戻した。


「どう? 落ち着いた?」

「……うん」

「それじゃあここからが本題。さっきキミの魂は死んじゃってるって言ったけど、実はその魂の欠片、今ボクが持ってるんだよね。」

「……それって……」

「――そう、キミの魂はあの世界にはもういない。だから生きてるわけじゃない。でもね、まだ完全に死後の世界に行っちゃったわけでもないんだ。」


 <11>


 少年は両手でティーカップを持ったまま少女の話を聞いていた。カップの中の紅茶が小刻みに揺らいでいる。少女は古い友人と雑談でもするかのような軽い口調で話を続けた。


「今のボクならキミをあの世界に戻してあげられる。まあ完全に元通りとはいかないから、生き返れるってわけじゃないんだけどね。」

「……でもさっき私の魂はあなたが持ってるって――」

「欠片って言ったでしょ? 全部持ってたら生き返してあげることもできたんだけど。」

「そっか……」


 少年は手の中のカップに視線を落とした。カップにはまだ微かに温かさが残っていたが、ほとんど少年の体温と溶け合っていた。


「ここでボクから最後の質問――あの世界に戻ってもう一回生きるか、死後の世界に行って生まれ変わるのを待つか、この列車でずっとお茶会を続けるか。キミが選んでいいよ。ボクはどれでもいいから。」


 少女は今度ばかりはコインで決めるわけにもいかないね、と笑うと喋るのをやめて、ティーワゴンが新しく持ってきたケーキに夢中になった。少年は星空を見て、少女を見て、少女から聞いた話を思い出して、やがて一つの結論を出した。


「私は――」


 <12>


「……そっか。本当にキミはそれでいいんだね?」

「うん。たぶんこれが私の運命だと思うから。」

「キミがそう思うならそれが運命ってことだよ。」


 少女は静かに微笑むと、ゆっくりと立ち上がって窓のほうに向かい、少年に手を差し伸べた。少年が少し戸惑いながら少女の手を取って、その隣に立つ。少女はどこからか取り出した懐中時計に目をやり、少年の未来を祝福するように言った。


「そろそろ時間みたいだね。」


 突然、列車がトンネルに入ったかのように窓の外が闇に包まれた。それに呼応して、車内を照らすオレンジ色の光も弱くなっていく。


「え? 何が起きたの?」

「見ればわかるよ。おいで。」


 少女は少年の手を引き、車体側面の扉の前に立った。少年が扉に手をかざすと、今まで開く気配すらなかった扉はいとも簡単に、滑るように開いた。

 扉の外に広がっていたのは青白く光る砂漠ではなく、燃え盛る炎の池だった。息をすると硫黄の臭いが鼻をつく。少年は思わず一歩後退った。


「……これは?」

「え~、終点、あかつき駅の手前、あかつき駅の手前でございます。お降りの際は足元に気を付けて、お手元の夢と希望をお忘れなきように。」


 少女が少年の背中をぽんと押した。少年は揺らめく炎に手を引かれて池の底に落ちていく。少女は少年が完全に炎に飲み込まれるのを見届けて、ぽつりと呟いた。


「……これで少しは返せたかな。」


 <13>


 少年は炎の中をゆっくりと歩いていた。炎が少年の全身を撫で回していたが、不思議と熱さは感じなかった。

 しばらく歩き続けていると、炎の中で小さく、けれど力強く光るものが見えた。少年はそっと手を伸ばして、それを優しく掴みとる。その瞬間、少年を包み込んでいた炎が次第に小さくなり、暗闇の向こうから一筋の光が差した。少年の手から光がこぼれている。少年が指を開くと、そこには光り輝く一つの指輪が握られていた。少年はそれを右手の人差し指にはめ、遠い昔に交わした約束を果たすように、光のほうへ歩き出した。

 砂時計のひとかけらが落ちていく。

 少年が光の先に目指すのは、人か、それとも神なのか。あるいは――

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