傲慢と偏見と天狗
「おいおい。とうとう頭がイカれたのか」
そう言って「ゲハハ」と下品に笑い、煙の出ない電子タバコを満足げに吸ったのは、大学生以来の友人である三池崇俊という男である。ごぼうみたいな細い身体に似合わない分厚い眼鏡をかけ、無精ひげを口周りに生やすその姿は、紛うこと無き軽犯罪者であるが、その実、新進気鋭の映画監督とタッグを組むカメラマンという意外にもほどがある一面を備えている。
天狗女と奇妙な出会いを果たしたその翌日、午前十時。おれ達は学生時代から懇意にしている喫茶店『アンリ』で互いに向かい合って座り、アイスティーをすすっていた。
デリカシーの無い三池の言葉に思わず手が出そうになったのを寸前のところで堪え、握り拳を膝の上に納めたおれは、「イカれたわけじゃない」と出来る限り冷静に答える。
「イカれたんじゃないんならより重症だ。なんだ、女子高生の格好の天狗に映画の脚本を書いてくれなんて依頼されたってよ。ニート生活が長すぎて、ヤバい幻覚見るようになったんじゃねーか?」
「ニートじゃない。フリーターだ。現に今日だってこれからバイトだ」
「まあ、なんだっていいけどよ。定職に就かずにぶらぶらしてることは間違いないんじゃねーの?」
なにも言い返せず、とりあえず「ぐう」と唸ってうなだれたおれに、三池はさらに続けた。
「そんな半ニートに朗報だ。うちのボスが、お前に次の映画の脚本を頼めないかってよ。もちろんカネだって出る。どうだ? 興味ないか?」
「……お断りだ」
「なんでだよ。知っての通り、ウチのボスはお前が会ったような女子高生天狗じゃないぜ。ま、天狗なんかよりもっと厄介な奴だとは思うけど、少なくとも怪しい奴じゃないってところは間違いない」
「怪しかろうと怪しくなかろうとどっちだっていい。とにかくごめんだね」
呆れたように後頭部を掻いた三池は、ストローに口をつけてアイスティーに空気を送り込んでぶくぶくさせた。この仕草が許されるのはせいぜい小学生までだ。三十路間近の男があんなことをやったところで、可愛げなんて欠片もない。
「……変な意地張ってないでよ。紙とペンで食ってくつもりなら、なんでもやる気概、ってのが大事じゃねぇの」
「なんでもやる所存だ。でも、映画の脚本〝だけ〟はまっぴらごめんだ」
「……強情だな、オイ。あれから何年経ったと思ってんだよ」
「何年経とうが忘れるもんか。一生涯引きずるぞ、あの件は」
「そうかい」と軽い調子で返した三池は、会計票を手に取りながら席を立つ。ムダ金を払うことは嫌いだが、友人から奢られるのはもっと嫌いだ。対等な関係でいられなくなる気がする。
おれは「待てよ」と三池を止めたが、「待つかよ」と返した奴はこちらを見ずに手を振った。
「奢られるのがいやだったら、せいぜいまともに稼げるようになりな。もう三十手前だろ。友人としての忠告だ」
離れていく三池の背中が、なんだかいやに小さくなっていった。
〇
三池が「ボス」と呼ぶ映画監督、小津杏とおれとの出会いは、もう八年前のことになる。別に運命的な出会いなどではない。ただ、三池の手引きで会わされただけの話だ。
この小津という女がまた憎らしいほどの才能に溢れており、高校在学中にアマチュア映画監督のための賞レースで準グランプリを受賞。大学一年生時には「十年後には間違いなく売れている監督」として映画雑誌に名前が載り、在学中には順当に数々の賞レースを制覇。大学を卒業してからはミニシアター系の映画を三本撮っており、まさに成功街道を最短距離で突っ走っている。ふざけろ。世の中の才能を独り占めしやがって。恥を知れ。そして死ね。
喫茶店『アンリ』にて。はじめましての挨拶もそこそこに、小津は長い髪をかきあげながらこう言った。
「早速だが、新山田くん。君の書いた小説を読ませてもらった。あれは素晴らしい。目をつぶれば映像が浮かぶ文章に、日常と非日常にある薄氷のごとき儚い境界を歩くような繊細な物語。素晴らしい。そこでだ、私達の映画の脚本を書いてもらえないだろうか。もちろん報酬は出す。アマチュアゆえ微々たる金額になるとは思うが、どうかな?」
当時のおれはふたつ返事でこの依頼を了承した。誰かに頼まれて物を書くのがはじめてでテンションが上がったというのもあるが、何よりカネを貰って何かを書くというのがプロになれた気がして嬉しかった。
数度のリテイクを経て、脚本が完成したのはそれからふた月後のことだった。タイトルは『ライリーにささぐ』。当時のおれにとって、あれは自信作だった。脚本を読んだ小津も満足したようだった。
……それからしばらく時は経ち、アマチュア映画監督の登竜門である《ゆうゆう国際ファンタスティック映画祭》にて、『ライリーにささぐ』は監督賞と映画賞にて最優秀賞を取り、見事二冠を達成した。
……そう、二冠だ。脚本賞は掠りもせずにサヨウナラ。おれの名前が表舞台で光を浴びることはなかった。
それだけならばまだいい。いや、よくはないがまだ我慢できる。問題は、二冠を達成した小津がスピーチの際、おれの書いた脚本について言及しなかったことだ。「みんなの力があってこそ」などと雑な感じで纏められていたが、「とくに脚本を書いてくれた新山田くんには」などという感じで、念入りに感謝の意を述べてくれてもバチは当たらなかったのではなかろうか。その一言があれば、おれもクリエイターとして既に日の目を浴びていたのではなかろうか。
……あれ以来、おれは映画の脚本は書かないことに決めた。勝利の栄光も敗北の苦渋も独り占めできないのなら、クリエイターでいる意味がない。
〇
その日の夜。バイトを終えて心身ともに疲れ果てた状態で安アパートの六畳間に帰ったのが午後十一時半。店長には内緒でこっそり持ち帰った賞味期限切れのマグロとサーモンを使った海鮮丼で腹を満たし、軽くシャワーを浴び終えたのが午前零時十一分。ここからおれは冴えないバイトマンから小説家へと転身する。
背の低いテーブルの前であぐらをかき、無印良品製のペンとノートを構え、麦茶を飲みつつ次作のためのネタを書く。次回作は一般ウケを狙ったキャラもののミステリーの予定。ホームレス高校生と冴えない塾講師のタッグなんて、なかなか斬新じゃなかろうか。
設定を書き散らしたノートを眺め、ひとりブレーンストーミング。なんとなく見えてきたストーリーラインを走り書きする。
筆がノリにノってきたまさにその時、窓にカツンと何かがぶつかるような音がした。カナブンか何かが部屋の光に誘われてやって来ただけだろうと思い無視していたが、何度も何度も同じ音が聞こえてきて集中力を削がれて仕方ない。こうなればもう殺すしかない。
読み古した雑誌を右手に取って軽く丸め、「殺すぞ」と決意を口にしつつ窓を開いたその瞬間――視界に飛び込んできたのは見知った顔。否、二度と目にしたくなかった顔。
「こんばんはでーす、新山田さん。いま大丈夫ですか?」
ふわふわと宙に浮かんでにこやかに手を振る鈴木天音の姿だった。
◯
天狗女・鈴木天音は後ろに手を組みながら、値踏みするようにおれの部屋をジロジロと見てまわっている。おれはさながら介錯を待つ罪人の如く、六畳間の中心で座して何もないところを眺めていた。脂汗でじっとりと湿った背中が、エアコンの風で冷やされる。
チクショウ。この女、何しに来やがった。やはりおれを殺しに来たのか? 地獄の底のそのまた底に叩き落としにきやがったのか?
警戒するおれの正面に回った鈴木は、「よいしょ」とその場に正座で腰掛け、いつの間にか右手に持っていたラムネ瓶に口をつけて傾ける。
「いやぁ、意外と整理された部屋ですよねぇ。男の人の一人暮らしって、もっと荒れたものかとばかり」
「そんなことより、なんの用ですか」とおれが返す刀で答えたのは、舐められて堪るかと思ったため。それでも敬語がやめられなかったのは、相手の機嫌を損ねて万が一のことが起きるのを避けるためである。
「なにしにって、決まってるじゃないですか。この前の件のお返事を聞きにきたんですよ」
鈴木はずいとおれに顔を寄せる。ラムネの甘い匂いが鼻についた。
「で、どうです。脚本、書いてくれる気になりました?」
「……もし、ですよ。もしおれがその頼みを断ったらどうなるんですか?」
「どうにもなりませんよ。そもそもわたしは、別にあなたに危害を加えるつもりはないんです」
「だったら――」
「まあ強いていえば、わたしが毎日のようにここに来て、あなたをこの家から出られなくするくらいですね」
危害加えるつもりアリアリじゃねえか。わかっていたことだがこの女、やはり信用ならん。
おれが精神的に大きく距離を取ったことに気が付いたのか、鈴木は「もちろん、報酬だってありますよ」と付け加える。
「金銀財宝? 年代物の美術品? おっきな家? なんだってお出しできますけど。なんたって、天狗ですので」
「馬鹿にしないでください。おれはそんな即物的な男じゃありません。おれが欲しいのは、カネじゃ買えないもんです」
「お金じゃ買えないもの、っていうのは?」
「地位、名誉、名声……。そういうもんですよ」
「お金を出せば全部手に入るじゃないですか。むしろ、そっちの方が手っ取り早くありません?」
「そりゃ手段を選ばなけりゃ手に入るかもしれませんがね。そういうんじゃないんですよ」
「なるほど」と鈴木はしたり顔で頷く。
「わかりました。要するに新山田さんは、己の力を他者に誇示したうえで有名になりたい、と」
「……まあ、品のない言い方をすればそうなりますかね」
「だとしたらこうしましょう。あなたは脚本家としてわたしの映画制作に参加する。撮影と上映が済み次第、わたしはあなたをプロの小説家にします。それでどうです?」
本来ならば「たかが高校生がなにを馬鹿なことを言いやがる」と鼻で笑うところであるが、目の前にいる女は人間離れした不可解な力を行使する天狗である。プロの小説家というスタートラインに立てるチャンスが目の前にあるのならば、信じてみる価値はある。というよりも、信じるべきだ。信じるしかない。それ以外にあり得ない。
おれは「やります」と答えて膝を叩いた。
途端に目を光らせた鈴木はおれの両手を取って握る。
「お! マジですか! 今さら嫌だって言っても聞きませんからね?!」
「男に二言はありませんよ。やると言ったからにはやります」
「よーっし! じゃ、お願いしますよ! 早速、明日の午後三時半からわたしの高校で制作会議やりますんでよろしくでーす! あ、神海高校って知ってます? そこです」
「いや、神海高校は知ってますけどちょっと待ってください。明日のその時間はちょっと用事が――」
「用事って、バイトですよね? その点ならこっちに任せてください。なんとかするんで」
せっかく〝用事〟で濁したのに、天狗様はバイトのシフトの時間までお見通しらしい。プライバシーのプの字すら無いなと内心で辟易するおれを余所に、「じゃ、また明日」と残した鈴木は窓から外へ飛び出した。
丸い月の浮かぶ空に楽しそうな天狗の笑い声が響いた。