悪役令嬢(男)と王子は婚約破棄したい ~天の女神さまの言う通り!~
この世界を創った女神は、夜の闇に潜む魔がこの世界に住む子供たちを脅かさないように見張るため、両の眼をくりぬいて双子の月にしました。
昼の世界を見ることができなくなった女神のために、大地の神は三つの猫目石をはめ込んだ美しいサークレットを女神へ送ったのです。
その時より女神はそのつらなった三つの猫目石を眼の代わりとして、過去、現在、未来を見守っているのだと言われています。
○●○
「アレックス、お前の婚約が決まった」
王家が主催するパーティーに参加した数日後、侯爵家当主であるブライアン・アーヴィングは、執務室に呼び出した我が子にそう告げた。
アレックス、と呼ばれた今年で八歳になるその子は、母親によく似た整った顔立ちと父親から受け継いだ美しい深い青色の瞳を持ち、やや目元のきつさはあるものの、年頃になればきっと多くの異性を惹きつけてやまないであろう未来が今から容易に想像できる可愛らしい子供だ。
「分かりました父上。それで、婚約者となるのはどなたですか」
「うむ。お前の婚約相手はレオナルド殿下だ」
「……?」
サラサラと音をたてそうな艶やかな黒い髪を揺らし、アレックスは首を傾げる。
「父上、質問したいことがあります」
「どうした、アレックス」
「殿下も僕も男ですよね?」
「そうだな」
「婚約者、なのですか?」
「うむ、そうなった」
「男同士なのに?」
「男同士なのに、だ」
問答を終え、しばしの沈黙が執務室を満たす。
右に左にと首を傾けながら考え込む幼子は、不可解な現実を理解しようとうんうん頭を捻るが、彼が今まで侯爵家の跡継ぎとして学んできた多くの知識は答えを出すどころか、これが理解不能な出来事であることをことさらに浮き彫りにしていくだけだった。
疑問符を大量に頭上に浮かべた我が子に、見かねた父親はそっと助け舟を出す。
「理解できなくとも無理はない。実のところ、私も何故このようなことになったのかさっぱり分からんのだ」
ただし、その舟は残念ながら泥舟なのであった。
●○○
アレックス少年は習い事の時間が来たために、答えが出ないまま執務室を後にした。
腕組みをしながらそれを見送ったブライアンは、そっとため息をつく。
事が起こったのは先日の王城だった。ブライアンはこの国の宰相として、国王陛下と一対一で話し合いをしていた。
隣国の事、国内のこと、貴族たちのこと、国民たちのこと。この国をより良いものとするために、様々な話をしていたのだ。
その最中に何故かふと、口をついて言葉が飛び出た。
『陛下、レオナルド殿下の婚約者ですが、私の息子はどうでしょう』
意味不明な発言だった。そして、返ってきたのも意味不明な返事であった。
『そうさな、お前とベアトリスの子であれば問題なかろう』
問題大ありだ。
だが何故か、二人そろって婚約の話をトントン拍子で進めていく。
必要な書類や手続きも、滞りなく進んでいく。王族の婚約となれば、当然その手続きにも多くの部署や人が関わってくる。しかし、そのうちの誰一人として疑問を呈することなく、必要な人員がたまたまそろっていたこともあり、たった数日で非の打ち所がないほど完璧に婚約は果たされてしまった。
そうして、最後にサインが終わった書類に国王が判を押し、それがしかるべき場所にしまわれたところでようやく僅かに常識が戻ってきた。
『なあブライアンよ。お前の息子は男であったと記憶しておるのだが』
『ええ、まあ息子ですので』
『余の息子も、男であるな?』
『はい』
『……いや、待て。一度落ち着いて、冷静に考える必要がある』
『はい』
手にしたペンを指揮棒のように落ち着きなく振るのは、国王が学生だった頃からの変わらない癖だということを級友であったブライアンは知っていた。
そしてその癖が出るのは決まって、何かしらの難題に当たった時であることも。
『レオの婚約者に求められる条件は、まず地位だ。レオは王太子であるからな、後ろ盾を得る意味でもこれは必須だ。お前の息子は……問題ないな』
『さようでございますね』
当主が宰相を務める、押しも押されもせぬ侯爵家の一人息子である。地位的、権力的には何の不足もない。
『次だ。頭の出来はどうだ。王族の伴侶となるならばふさわしい教養がなければならん』
『基礎的な勉強はすでに終えております。今は学園の二年生が学ぶ内容を覚えているところです』
『問題ないではないか!』
バン! と憤慨のあまり机をたたく国王に、冷めてしまった紅茶を淹れなおしていた年若い従者が体を跳ねさせ、そそくさと部屋の隅の定位置に戻っていった。
ちなみに、この国の貴族が通う学園は十五歳から入学するものとなっている。アレックス少年は十分に優秀だ。
『すまぬ、少々取り乱した。だが何か、何か問題があるはずなのだ……』
『陛下……』
苦悩の表情を浮かべる国王を、気遣わしげに見る宰相。学生時代からの親友である、この国を背負う目の前の男の助けになりたいと、ブライアンはやり手の宰相として隣国に恐れられるその頭脳をフル回転させる。
そして、光明を掴んだ。
『はっ! そうです、お世継ぎです、陛下!』
『そうか、それだ! レオの婚約者が男では世継ぎが望めぬ!』
二人は目の前を包む霧が晴れたような心地であった。湧き上がる興奮のままに立ち上がってがっしりと互いの手を握り合い、ようやく見えた道に希望を見ていた。
『僭越ながら、発言をお許しいただいてもよろしいでしょうか』
『許す。何か気付いたことでもあったか』
国王が信を置く老執事が、丁寧に一礼してからゆっくりと口を開く。
『国王並びに王太子の地位にあられる方は、側妃を迎えられることが慣習となっております。これは正妃にお世継ぎが生まれぬ場合に備えてのこと。つまり、正妃が子に恵まれぬことは、王家の歴史において特段珍しいことではございません』
『ふむ、言われてみれば確かにそうだ。事実、余の母も第二妃であったしな。ということは、世継ぎに関しても……』
二人はそっと手を解き、静かに腰を下ろした。
『問題ないではないか!』
バン! と二度目の机をたたく音が、空しく部屋に響きわたった。
○●○
アレックスことアレキサンダー・アーヴィングと第一王子レオナルドの婚約はキッチリとなされたまま、月日が過ぎていく。
アレキサンダーはレオナルドの婚約者であるのと同時に側近でもあるため、行動を共にしていることが多い。
互いに能力を認め合っており、二人は仲が悪いわけではないのだが、社交界においては、アレキサンダーとレオナルド殿下の婚約関係は上手くいっていない、といううわさが流れていた。
それというのも訳がある。学園へ通う年齢よりも前となると、二人がそろって行動している様子を他人が目にするのは主にパーティーなどの場に限られてしまう。
レオナルドは王太子、アレキサンダーは侯爵家の子息であるため、二人が参加するパーティーとなると必然、王家や高位の貴族が開くようなものが多くなり、その規模もそれに従って大きくなってくる。
そうすると、かなりの確率でパーティー内においてダンスが行われることになるのだ。
そして、ダンスを踊るとなると二人の内どちらかが男性パートを踊り、どちらかが女性パートを踊ることになってしまう。
男子のプライドに掛けて、二人はパーティーでダンスを踊る必要があるたびにどちらが男性パートを踊るかで激しく対立することとなり、女性パートを踊ることになった方は自然と悔しさと恥ずかしさから不機嫌になった。
もちろん、二人とも王族、貴族としてふさわしい教育を受けているため、露骨にその不機嫌を顔に出したりはしていない。しかし海千山千の貴族たちからすれば、まだまだ年若い彼らからその感情を読み取ることは、決して不可能なことではなかった。
そういった事情から、二人の不仲説は社交界に広く流布されてしまったのだ。
そうして、そんな不穏な噂は消えることのないまま、彼らは学園へと通う年齢へと成長していった。
○●○
学園への入学式はつつがなく進行し、新入生を歓迎するパーティーが始まる。
飾りつけされた広いホールの中心でダンスを踊るのはこの国の王太子と婚約者。レオナルドとアレクサンダーである。
今回の勝負、ジャンケンの勝者であるアレクサンダーは余裕の表情で王太子をリードし、敗者であるレオナルドは顔に完璧なほほえみを張り付けたまま、自身の手を引き優雅にターンさせた目の前の婚約者へ怒気を送っていた。
優越感に浸り笑みを浮かべる婚約者と、顔だけは取り繕いながらも内心では正面の相手へ不快の感情を向ける王太子。
その光景はただ言葉にすれば、とても忠実にあるべき流れに沿っていた。
そして、それを見て小さく呟く少女がここに一人。
「え、うそ、あれってメインヒーローの第一王子よね? なんで男と踊ってるの? 悪役令嬢は?」
男爵家の娘であるローザ。彼女は前世の記憶を持つ転生者であり、同時に彼女が前世の知識として知るこの世界と酷似した恋愛シミュレーションゲームにおける主役、つまりヒロインであった。
とはいえ、彼女はヒロインとして攻略対象と恋愛する気はさらさらない。二次元は二次元だからいいのだ、というのが彼女の持論であり、三次は惨事、が座右の銘というある種の突き抜けたタイプのオタクだったからだ。
多くの人が不幸になるようなイベントや、人死にが出るようなイベントには介入してなるべく助けたいとは考えていたが、それ以上の関りは面倒だし厄介だからパスしたい。イケメンは画面越しに愛でるもの。そう思いながらゲームの始まりのシーンとなる入学式に臨んだ彼女は、早々に混乱に陥ることとなった。
「ねえエミリー、王太子殿下と踊っていた方がどなたか知ってる?」
一曲目のダンスが終わったところで、ローザは友人である子爵家の令嬢のエミリーに尋ねた。
単純に王太子が男と、しかも女性パートでダンスを踊っていることも疑問であったし、自分が何も介入していないのにゲームとここまで大きな違いがあるということは、他にゲームの記憶を持つ誰かがいて、何かしているのかもしれない、とローザは考えたのだ。
自分と同じく前世の記憶を持つ誰かがいるなら、会ってみたい。そのためには誰が前世の記憶持ちなのか探さなくては、と彼女は手近なところからヒントとなりそうな情報を集めることにした。
そんな彼女の内心など露知らぬエミリーは、おっとりとした口調で爆弾を投下する。
「あの方はね、王太子殿下の婚約者のアレクサンダー・アーヴィング様よ」
「えぇっ!?」
思わず大声を出してしまい、少女は慌てて口を手で押さえる。
「こ、婚約者って……男同士よね?」
ダンスを終えた後、人に囲まれて談笑している二人の方へとローザはちらりと視線を向ける。
王太子は言わずもがな、婚約者だという隣に立つ人物は、端正な顔立ちではあるが体つきもしっかりしていてどう見ても女性ではない。
この世界は女性が主人公の恋愛ゲームだと思っていたのに、唐突にジャンルが異なる可能性が浮上したローザは驚愕のあまり声を震わせる。
「私も初めて聞いた時にはとっても驚いたわ。でも、陛下と宰相閣下がお決めになられたことなのですって。お父様がおっしゃるには、神算鬼謀と名高い宰相閣下と、学園時代に宰相閣下と常に首席を争われていた智謀の持ち主である陛下のことだから、きっと私たちには思いもよらないような深い理由がおありなのでしょう、とのことよ。すごいわねぇ」
余りにも意味不明でとんでもない事態と、それをすごいわねぇの一言で済ましてしまう友人の両方にローザは眩暈を覚える。
今はとにかく混乱を落ち着け頭を整理する時間を得るべく、彼女はいったん逃げを打った。
「わたし、ちょっと疲れちゃったみたいだから、少し隅の方で休んでくるわ」
そう言ってそそくさと歩き出してから、ふと既視感を覚えた気がしてヒロインはぱちりと瞬きをしたが、歩みを進めるとその感覚はすぐに消えてしまった。
○●○
「まってまってホントにどういうことなのよ。っていうかこれからどうなっちゃうの? 悪役令嬢がいないとか、ゲームのシナリオなんて既に崩壊してるようなものじゃない」
飾りつけによってうまい具合に人目から隠れることのできるようになっている休憩用のスペースの一つで、ローザは頭を抱えていた。
この休憩場所を使っているのが自分一人なのをいいことに、誰にはばかることもなく独り言をぶつぶつとつぶやき続ける。
「そもそもアレクサンダーって誰よ。悪役令嬢はアレキサンドラでしょ? 名前は似てるし、チラッと見た感じ髪の色とか一緒っぽいけど、根本的なところがおかし過ぎるわ! 男じゃん!」
彼女が知るゲームに出てくるアレキサンドラという悪役令嬢は、豊かな黒髪を見事な縦ロールにした、こてこてのテンプレ悪役令嬢だった。
容姿は見事な美女なのだが、我儘でプライドが高くて自分が一番でないと気にくわず、チヤホヤされるのが大好きという、ある意味とても分かりやすい性格だ。
そんな性格を隠しもしないため、婚約相手である王太子に嫌われている、という設定だった。
アレキサンドラは男爵家の生まれであるヒロインを見下し、基本的にどの攻略キャラクターのルートでも妨害してくる。わざわざヒロインを格別に目の敵にするのには、アレキサンドラが抱えるとあるコンプレックスが関わっているのだが、攻略に全く関わらない情報でありゲーム内でもほぼ触れられていない。
ローザの前世であった少女もそんな細かい内容に関しては記憶していなかったため、彼女はアレキサンドラを、何かよく分からないがヒロインにひたすら突っかかってくる要注意キャラクターだ、と考えていた。
入学後に絡んでくるであろうアレキサンドラにどう対応するか、平穏な学園生活のために、時に徹夜までして対策を考えていたというのに、いざ蓋を開ければアレキサンドラが存在すらしていないという想定外の事態。混乱するのも無理はない。
「あーもー! 分からん! 他に転生した人がいるのかと思ったけど、いたとしても何をどうやったら王太子の婚約者を男に出来るってのよ。そもそもそんなことする目的が意味分かんなさすぎるわ」
仮にもし、この状況が自分以外の転生者の手によるものだったとしても、到底理解しあえる相手ではなさそうだ、とローザはがっくりと肩を落として大きなため息をつく。
もはや状況が違いすぎて、自身が持つ前世のゲームの知識は役立ちそうになかった。
「こうなると気になってくるのはイベントの変化よね。女子寮とかでアレキサンドラがヒロインに嫌がらせするシーンなんて不可能だろうし……。あ、そーいえば殿下とアレキサンドラの婚約破棄イベントってこの状況だとどうなっちゃうんだろ? あれって確かヒロインがどのルートに進んでも起こってた気が」
「おい、君」
「ひゃい!?」
思考に没頭していたローザに、唐突に声が掛けられる。
「今聞こえた話……詳しく聞かせてもらおうか」
何ということか。彼女の前に立ち、決して逃がすまいと猟犬のように鋭い視線を向けるのは、ゲームのメインヒーローにしてこの国の王太子であるレオナルドだった。
○●○
忌々しい女性パートを踊る羽目になったダンスを終え、少しばかり気疲れした王太子レオナルドはちょっとした意趣返しとして、婚約者であるアレクサンダーに自身と話をしたがる人々や二曲目のダンスのパートナーになりたい令嬢たちの対応を押し付け、人気の少ない休憩場所へと向かっていた。
別に彼はアレクサンダーのことが嫌いなわけではない。側近としての彼の優秀さには日ごろから助けられているし感謝もしている。だがそれとこれとは話が別。
単純に男なのに女性パートを踊る、というのもしゃくだし、王太子が女性パートを踊っている、と面白いものを見る目で見られるのも不快だった。
適当に休憩したらフォローしに戻ってやろう、と考えつつ、飾りつけの花瓶などで視線を遮るように工夫されている休憩場所の一つを覗く。
残念ながら人影があったためすぐさま踵を返そうとしたが、どうにも様子がおかしいことにレオナルドは気付いた。
そこにいた少女は一人で、頭を抱えてうつむき小さく何かを呟いている。
具合でも悪いのだろうか、と声を掛けようと近づいたところで、少女の声がレオナルドの耳に届いた。
「こうなると……変化……アレキサンド……だし……殿下と……婚約破棄…………」
とぎれとぎれの単語しか聞き取ることはできなかったが、しかしそれらをパズルのように組み合わせた瞬間、彼はまるで雷にでも打たれたかのような衝撃を受けた。
『アレクサンダーと殿下の婚約破棄』
繰り返しになるが、アレックスのことは嫌いではない。嫌いではないが、なぜ婚約者なのだ、と彼が思ったことは一度や二度ではなかった。
ただの側近であれば何も問題ないのにと二人そろってため息を漏らした数は、もはや数えきれないほどだ。
しかし、男同士での婚約という不可解な事態によって生じた数々の不満に対して文句を言うことはあれど、婚約そのものをどうにかしよう、という発想は今まで何故か彼の頭には浮かんでこなかった。
そうだ。問題があるのならば、それを解決すれば済む話だったのだ。
今まさに、レオナルドは目からうろこが落ちた気持ちだった。
天啓とすらいえる素晴らしいアイデアをもたらした目の前の少女に詳しい話を訊くべく、彼はさっそく声をかける。
「おい、君」
「ひゃい!?」
肩を跳ねさせた少女は奇妙な音を口から出したが、テンションの上がった王太子はそんな些末事など気にも留めない。
「今聞こえた話……詳しく聞かせてもらおうか」
ぜひとも詳細を教えて欲しいと真剣な面持ちで乞うレオナルドに対し、この時ローザの脳裏に走ったのは『逆ざまあ』という単語だった。
悪役令嬢が何らかの事情でいい子になり、対称的にゲームの中だからと調子をぶっこきまくったヒロインなどが悪人となって断罪される、といったような出来事を端的に表す言葉である。
悪役がヒロインやヒーローに断罪されるのが『ざまあ』であり、その立場が本来の役割と逆転することから『逆ざまあ』という訳だ。
そういった物語では、悪役令嬢と婚約者の男性の仲が良好であったり、良好を通り越して男性側が令嬢を溺愛しているパターンも数多くあった。そしてその場合、悪役令嬢と婚約者の男の仲を引き裂こうとしたヒロインの末路は、もはや語るまでもない。
悪役令嬢が物語通りの悪役令嬢として機能していない、という点と、悪役令嬢の婚約者が婚約破棄の話を聞いて真剣な表情でこちらにすごんできている、という点。そして調子に乗った覚えこそないものの、自分がゲームの知識を持ち、ヒロインのポジションにいる、というこれら三つの点は彼女の前世の知識によって結び付けられ、最初の混乱から未だ立ち直っていなかったローザの脳みそはこう誤判断した。
やばい、王太子に『逆ざまあ』される、と。
「すっ、すすすみません何でもないですごめんなさいぃっ!」
少女が選んだのは速やかな撤退だった。
淑女として間違いなく叱られるであろう競歩じみた迅速な早歩きでこの場を立ち去ろうとする。
謝罪の言葉をマシンガンのごとく並べながら脇をすり抜けるローザにあっけに取られたレオナルドは、ぽかんとした表情でそのまま休憩場所を出る少女を見送りかけていた。
そのままであればローザは無事に逃走できたのだろう。
しかし彼女にとって運の悪いことに、丁度そのタイミングでローザとレオナルドがいる休憩場所に入ってきた人物がいた。
飾りつけで外部から見えづらく、中から外の様子もまた見難くなっていることがあだとなり、焦っていたローザも入ってきた人物もお互いの存在に気づいたのはぶつかる直前だった。
「殿下、探しましたよ。こんなところに隠れ、うわっ」
「ひょわっ!?」
どん、と目の前に現れた人影に正面衝突してしまったローザは、走れない原因でもあった高いヒールの靴のせいで踏ん張りがきかず、そのまま後ろにひっくり返る……かと思われたが、寸前で駆け寄ったレオナルドに背後から抱きとめられ、事なきを得た。
「大丈夫か? おいアレックス、急に出てきたら危ないだろう」
「殿下が僕を囮にしなければ急ぐ必要もなかったんですがね。っと、すみません。怪我はありませんか?」
ローザを抱きとめたまま、現れた人物、アレクサンダーへとレオナルドは苦言を呈した。それに対してアレクサンダーはひょいと肩をすくめてみせ、それから茫然とした様子の少女へ謝罪と心配の声をかける。
しかしローザの内心は、さらなる混乱でそれどころではなかった。
(これってもしかして王太子とヒロインの出会いのシーンじゃない? 入学式のパーティーでちょっと疲れたからって隅っこで休んでたヒロインのところに、たまたま休憩に王太子が来て、それを見つけて嫉妬したアレキサンドラに突き飛ばされたヒロインを王太子がキャッチするやつ。ヒロイン抱っこした王子の一枚絵がめっちゃカッコよかったの覚えてるわ。いや嫉妬はされてないし突き飛ばされてもないけど。でも状況的には似てるし……ってことは悪役令嬢が男なのにシナリオそのまんま進んじゃうの? えぇ? うそでしょ?)
彼女が考えた通り、アレクサンダーはヒロインに嫉妬などしておらず、ぶつかったのもただの事故だ。
ただ、ヒロインが悪役令嬢のせいで体勢を崩し、王太子に受け止められ、そして王太子は悪役令嬢に注意し、悪役令嬢はそれを聞き流した。ちぐはぐだが、大雑把に見れば着実にゲームのイベント通りに進んでいた。
○●○
休憩スペースに戻った三人はひとまず互いに自己紹介をし、侍従から受け取った飲み物で一息ついた。
心ここにあらずといった様子だったローザが多少落ち着いたのを見計らい、レオナルドは口を開く。
「それで、さっきの話なんだが……」
「は、ははははいっ!?」
「そんなに緊張しなくとも、殿下は貴女をとって食べたりしませんよ。安心してください。殿下、彼女と話があるのでしたら、僕は席を外した方がよろしいですか?」
見本として使えそうなほど見事なキョドりっぷりを見せつけるローザに、思わず苦笑を漏らしたアレクサンダーは優しく声をかける。そしてさりげなく、そっと彼女のガタガタ震える手から時化のような荒波を描くグラスを回収してこぼす前に安全を確保した。
そんな出来る男アレクサンダーは今まで休憩スペースで二人きりで話をしていたことから気をまわしたが、レオナルドは首を横に振る。
「いや、むしろお前もいたほうがいい。俺はさっき、ローザ嬢が俺とアレックスの婚約破棄うんぬんと呟いているのを聞いてしまってな。盗み聞きのようになってしまったのは申し訳なく思うが、どうしても話を聞きたかったんだ。」
「僕と殿下の婚約の破棄、ですか? それは……」
目を丸くするアレクサンダー。ローザは続く発言を一言一句聞き逃さぬようにと、強敵に挑む戦士のような心持ちで耳を澄まして集中した。
あらためて見てみれば王太子は友好的な雰囲気でローザに接していて、逆ざまあされる可能性は低そうだった。アレクサンダーも同様で、ゲームのアレキサンドラと違うのはローザから見ても一目瞭然だ。
ローザは二人の身分と顔面偏差値の高さにこれでもかとおののきつつも、平穏な学園生活のために、ゲーム通りなんだか全然違うんだかこんがらがりそうな状況を把握しなくては、と気合を入れる。
ゲームの主要キャラクターである二人は貴族的にも学園内のヒエラルキー的にも最上位。ヒロインとして動くのであればまだしも、ただの男爵令嬢として過ごそうとするローザが直接接することのできる機会はほぼ皆無に等しい。これは二人の関係性の実態を知る貴重で重要なチャンスだった。
ローザがそんなことを考えている間に、アレクサンダーは長いまつ毛に縁どられた紺色の瞳を何度かまたたかせる。驚きに満ちていた表情は少しして――――歓喜に彩られた大輪の花を咲かせた。
「素晴らしい考えです! なぜ今までそれを思いつかなかったんでしょう?」
「そうだろう!? やはりお前もそう思うよな!」
「えっ二人して超乗り気?」
思わず今世で培った令嬢口調が崩れたローザの呟きは幸い彼らの耳には届かなかったらしく、ただただものすごく晴れやかな満面の笑顔で頷きあう王太子と婚約者。
しばしの間喜び合ってから、ローザのぽかんとした表情に気づいたアレクサンダーが少々恥ずかしそうに咳払いし、いったん仕切りなおしてからローザに話しかける。
「それでローザ嬢。貴女が言っていたという僕と殿下の婚約破棄について、詳しく教えてくれませんか?」
詳しく、といわれても、まさかゲームや前世の話をするわけにもいかない。イケメンの真剣な表情は破壊力ヤバい、などと浮かんでくる余計な思考を振り払い、ローザはごまかす言葉を紡ぐ。
「その、男同士での婚約というのは初めて耳にしましたので、何かしらの事情があって婚約してはいますが、そのうち解消なさったりするのかな、と思っただけなのですわ。そうでないと、将来的に王妃が男性、ということになってしまいますし……」
そういう世界観やジャンルの作品の世界であるならば王妃が男性ということもあるのかもしれないが、この世界でもよく似たゲームの世界でも、今のところは結婚は男女間で行われるのが一般的とされていた。
ローザの答えに、レオナルドは顎に手を当てて考えるそぶりを見せる。
「ふむ、なるほどな。確かに、王妃が男というのは色々と問題が出そうだ。父上たちは夫人同士の社交や次代についてどうするつもりだったんだ?」
「そういったことは側妃に任せる予定だったのでは?」
「それならそもそも側妃予定の者を正妃として迎えればいいだろう。わざわざお前を正妃に据える理由がわからん」
「王家派と貴族派のバランスという線は……」
「であるなら、むしろ……」
侃々諤々と言い合う二人。徐々に議論は白熱していき、ああでもないこうでもないと話し合いを続けていく。
そんな二人を、ローザは何とも言えない気持ちで見ていた。ゲームでは悪役令嬢であるアレキサンドラの我儘を父親である侯爵がかなえた結果の婚約だった。しかし、今の二人の様子を見る限りにおいては、アレキサンドラ、もといアレクサンダーが婚約を望んだわけではなさそうだ。
少女は先ほど王子に抱きとめられた感触を思い返す。根本が間違っているのに、まるでゲームの流れの表層だけを無理やりなぞるように起こった一連の出来事。
もし、この世界にゲームと同じように物語を紡ごうとする強制力があるのだとすれば、彼らの婚約は悪役令嬢と王太子である彼らを筋書き通りに婚約破棄させるためだけに結ばれたものであり、それはつまり、婚約そのものには……
「理由なんてない、ってことじゃ……」
ローザの口からうっかり洩れた言葉に、ピタリと議論の声が止んだ。イケメン二人に同時に見つめられ、慌てて両手で口を押えるローザを尻目に、二人は顔を見合わせる。
「そもそも理由などない、か。その発想はなかったな。どう思う? アレックス」
「斬新な仮説ですね。しかしあの父上と陛下が決めた婚約ですよ? いくらなんでもそれはないのでは」
「いや、ああ見えて父上は意外と大雑把な性格だぞ? 絶対にないとも……っと、いかんな。もうこんな時間か」
ホール内に響いていた曲が止み、別の曲に切り替わった。一通りのダンスが終わり、歓談がメインとなる合図だ。
王太子であるレオナルドやその婚約者であり侯爵令息のアレクサンダーと関りを持ちたい人は多く、社交の面からいって彼らがそろってずっと休憩スペースに籠っているわけにはいかない。
婚約に関する考察をまだまだしたりない、といった様子のレオナルドとアレクサンダーに対し、何かと緊張を強いられたローザはようやく落ち着けるとこっそりと息を吐く。
しかしレオナルドはそんな彼女にさらりと追い打ちをかけた。
「ローザ嬢、君も婚約破棄に協力して欲しい。放課後、用事のない日を教えてくれ。共に作戦を考えよう」
「えぇっ? わ、私もですか?」
普通の男爵令嬢として平穏無難に生きていくつもりだったのに、王太子と婚約者の婚約破棄になど関わりたくないローザはどうにか断れないかと頭をフル回転させる。
彼女が攻略キャラクターと一定以上の関りを持つことを拒否しようとするのは、ただ二次元オタク気質に由来する理由だけではなく、それなりにキチンとした訳もあった。
貴族社会は序列や身分を非常に重要視する。男爵は貴族の中でもほぼ一番下、王族や侯爵はトップクラスだ。普通にしていれば話をすることすらなく一生が終わってもおかしくなかったりするのである。
ゲームのヒロインは王子その他の攻略キャラクター(彼らのほとんどが高い身分を持つ男性だ)と割と気軽に話をしていたが、よくぞこの格差社会でそんな真似ができたものだ、と今世で貴族社会のルールや令嬢としてのマナーを学んだローザは戦慄を禁じえなかった。
憧れの的たる最上位に対して親し気な最下位。そんなものがいれば妬み、僻み、嫉みと三拍子そろって周囲から反感を買うのは間違いなく、そして周り中から敵対されてやっていけるほど貴族社会はおおらかではない。
下手をすれば家ごと潰されかねないのだ。色恋のために家族を危険にさらす道は、ローザには選べなかった。
「私はしがない男爵家の平凡な娘ですので、お役には立てないと思いますし、それにお二人と一緒にというのは恐れ多すぎると言いますか、色々と問題とかあるでしょうから、その、できれば辞退させていただきたく……」
攻略キャラクターと関わり合いになりそうな流れ。強制力の存在をより確信させるような、思った以上にまずい状況にヒロインの少女は心の中で舌打ちをする。人形のように物語に踊らされるなど、冗談ではなかった。
しかし王子は真摯に言葉を重ねてくる。
「君の柔軟な発想は俺たちに足りないものだ。事実、君の言葉を聞くまで俺たちは婚約の破棄など思いつきもしなかったし、婚約に理由がない、という可能性も二人では絶対に気づけなかっただろう。婚約を破棄するために、君のその頭脳をどうか貸してくれないだろうか」
残念なことに、彼女が断る理由が身分なら、彼女が断れない理由もまた身分である。
下位の者が上位の者の『お願い』を断るのは、非常に難しい。実質的に命令と言っても過言ではないのが実情だ。
ゲーム通りの性格ならば、断ったからと言って問題にされたりはしないはずではあった。だが、混乱して前世の気質が漏れ出ている間はともかく、時間がたって冷静になってくれば貴族として今世で受けた教育と常識が『王太子直々の“お願い”を断るなんてありえないよ!』と一度傾ききっていた天秤をぐいぐい逆方向に押し下げていく。
そして優秀な王太子であるレオナルドは、彼女が首肯するのをためらう理由をキチンと察してその憂いを取り除いた。
「大丈夫だ、君のことは責任をもって俺が守る。だから君は俺の隣で、俺に足りないものを補ってほしい」
(ぎゃわー! それ王太子ルート告白イベントのセリフー! 色々と微妙におかしいけどー!)
ゲームであればこんなオープニングに位置する場面ではなく、もっと佳境で出てくるはずのセリフの出現に、ローザは心の中で叫んだ。
世界がゲームのシナリオをなぞるのだとして、バグっている場合はどうすればいいというのか。リセットボタンもサポートセンターもないのに、正しい対処法なんかわかるかー! と脳内でムンクの叫びのポーズをとった少女は乾いた笑みを浮かべる。
王子とヒロインが協力して悪役令嬢と婚約破棄するのも、シナリオ通りだ。どうやら逃げられそうにないらしいと、ローザは半ばやけくそな気持ちで彼らの婚約破棄作戦への協力を約束するのであった。
かくして悪役令嬢(男)と王子は婚約破棄を目指し、転生者のヒロインを巻き込んで、様々な騒動を引き起こしていくこととなるのである。
「侯爵家の子が悪役令嬢よ」
「悪役令嬢は、親の力でこの国の王子さまと婚約したの」
「でも王子さまは悪役令嬢との婚約が嫌なのよ。みんな知ってるわ」
「ヒロインは一目見た時から王子さまのことが気になっちゃうの」
「もちろんヒロインは優しい子だから、悪役令嬢のことも考えてあげるのよ」
「王子さまは、ヒロインの言葉を聞いて特別な気持ちになるの。悪役令嬢はヒロインの邪魔をするけど、もう遅いわ」
「王子さまとヒロインは、協力して悪役令嬢との婚約破棄を目指すの!」
○○○「これでテンプレ満載の最強の物語になるはずだわ!」