Cafe Shelly 催眠術に騙されないで!
「もうすぐ結婚かぁ」
あと三ヶ月で結婚式。私と貴一、昨日正式に婚約を交わした。二年前に出会って、今までいろんなことがあったなぁ。一時期は別れる寸前までいったこともあった。派手にケンカをして、もういいって思った。
けれど、貴一の方から謝ってくれて、このとき「この人なら大丈夫」って思っちゃった。そこからトントン拍子に結婚話になり、お互いの家に挨拶をしに行って、そしてようやく昨日という日を迎えた。
すでに結婚式場は予約してある。あとは細かいところを打ち合わせして、その日を迎える準備をするだけ。まるで夢の中にいるような感じがする。
「貴一ったら、こんなに頑張っちゃってさ」
私の左手の薬指には、ダイヤの指輪が輝いている。私が好きなデザイナーズジュエリーのもの。これ、かなりの額になるはず。貴一ってそんなに給料をもらえるような身分じゃないし。趣味のバイクにかかる費用を抑えて、これを買ったみたい。
そもそも貴一とは友達の紹介で出会った。友達の会社の同僚で、そこが主催するバーベキューに呼ばれたのがきっかけだった。このとき、貴一は他の男性よりもテキパキと動いてくれていたのが印象的だった。そこに惹かれてしまった。
貴一と付き合うようになって、私の中の価値観が変わっていった。今までは自分は自分、他人は他人と割り切っていたところがあった。けれど、貴一は他人のことを自分のことのように思い、そして常に他人のために尽くしてくれる。いわゆる「いい人」である。
そんな貴一を見ていると、私もそうしなければいけないって気持ちが高まってきた。そのおかげで、貴一と一緒にボランティア活動に参加したり、イベントの実行委員といったこともやり始めるようになった。そんな楽しみを教えてくれた貴一だからこそ、安心して一緒に暮らすことができると思えてきた。
「いよいよ結婚するんだってね。おめでとう」
周りのみんなからそう言われて、祝福される日がしばらく続いた。そう言われると恥ずかしい反面、ちょっと優越感にも浸ることができる。
私は二十六歳。ちょうどいい年齢で結婚できる。でも心配事が一つだけある。それは仕事を続けるかどうか、というところだ。これについてはまだ貴一と話をしていない。
私としては今の仕事を続けたい。収入の面での不安があるのも理由の一つだ。貴一、いい人なんだけど収入は高い方ではない。大手メーカーの孫請け的な会社に勤めているからだ。
「贅沢な暮らしはできないけれど、そこは一緒に節約を頑張っていかないと」
私はずっと節約型で生きてきた。小さい頃から、欲しいものがあったら貯金をして買うという習慣がついていた。もともと我が家がそんな家庭だったから、それが当たり前だと思っていた。
けれど、貴一はちょっと違う。欲し時が買い時だと言っている。スマホなんて常に最新のものを持っている。毎年買い換えているみたい。バイクのパーツも、しょっちゅう買い換えている。どこが変わったのか私にはよくわからないんだけど、そういうのがいいらしい。
でも、結婚して家庭を持って、さらに子育てまでするとなると、貴一のその考え方は変えてもらわないといけない。
「そもそも、結婚式をするだけの貯金って、貴一は持っているんだろうか?」
ふと疑問が湧いてきた。そのことを今まで話をしてこなかったから。今度会った時に、お金の話はしっかりとしておかないと。
私は女性のわりには無駄遣いをしないタイプなので、貯金はそこそこ持っている。が、これを全部結婚式に使うつもりはない。万が一のための資産としてある程度は取っておくつもりだ。もし離婚した場合、結婚前の資産は私自身のものになるから。
結婚となると、様々な思いが湧き出てくる。楽しみも多いけれど、不安もある。
「ねぇ恵、ちょっと聞いてくれる?」
大学時代の友人で、私の一番の親友である恵にこの思いを話してみた。すると、恵はこんな答えを返してきた。
「それって幸せなことじゃない。相手がいるからこそ湧いてくる悩みでしょ。いいなぁ、うらやましいよ。恋人もいない私から見れば、贅沢な悩みじゃない」
以前の恵なら、私の悩みに対して共感し、一緒になって考えてくれたのに。結婚のこととなると、まったく参考にならない。それどころか、ちょっと嫌な顔をされてしまうくらいだ。余計にモヤモヤが募ってきた。
じゃぁ、結婚している人に話をしてみるか。といっても、私の勤めている会社は小さすぎて、話せる女性社員は少ない。唯一話せるとしたら、四十代の樹下さんくらいだ。樹下さん、結婚していて子どもも二人いる。最初はパートで入ってきたけれど、フルタイムで働けるのと周りからも仕事ができると言われるので、今では正社員として総務の仕事をこなしている。私もいろんなことで頼りにしている人だ。
けれど、プライベートのことで話をしたことがない。そこまで仲がいいという訳ではないから。
「あの…樹下さん、ちょっとお時間いいですか?」
「はい、どうしたの?」
気のいい樹下さん、快く返事をしてくれる。
「実は結婚についての悩みがあって…」
「そういえば婚約をしたんだよね。おめでとうございます」
「ありがとうございます。でも、今になって結婚に対して不安が募っちゃいまして」
「うふふ、マリッジブルーってやつかしら。どんな不安なの?」
「彼、性格はとてもいい人なんです。私のためを思って、いろんなことをしてくれるし。でも、お金に対しての考え方が私と違っていて。それが大丈夫かなって、そう思っちゃいまして」
「お金についての考え方かぁ。私の時もそうだったな」
「樹下さんのところも?」
「うん、ウチのダンナって、すごーくケチなのよ。今すぐ必要なものでもとことん安いものを探して買っちゃうの。その時間と労力、そして移動するための費用を考えたら、多少高くても近所で買ったほうがいいのにって思うことがよくあるのよね」
「樹下さんはお金についてはどう考えているんですか?」
「もちろん、ある程度の節約は大切だと思ってる。でも、使うときには使う。メリハリが大事だって、そう思うの」
「じゃぁ、そのことで旦那さんとケンカとかは?」
「ケンカなんてしょっちゅうよ。でもね、ある人のアドバイスのおかげで、ケンカをケンカだって捉えることなく生活できているかな」
「ある人のアドバイス?」
「そうだ、私よりもその人に相談するといいよ。喫茶店のマスターなんだけど、ちょっと不思議なコーヒーもあるし。そこを紹介するね」
そう言って樹下さん、地図を書き始めた。
「ここ、カフェ・シェリーっていうの。そこには魔法のコーヒーがあってね、それを飲んでマスターや店員さんとお話をすると、悩みが解決できちゃうのよ」
「そうなんですか。ありがとうございます」
魔法のコーヒーって言葉が気になった。これは両方の意味でだ。一つは期待感、そしてもう一つは胡散臭さ。今、悩みを抱えていなければ胡散臭さの方が強かっただろう。けれど、今の悩みをなんとかしたいと思う気持ちの方が強くて。だから行ってみたいという気持ちが勝っている。
もう一度自分の悩みを考え直してみた。私が貴一に対して気になっているのは、お金の使い方。それ以外では特に問題はない。問題ないどころか、とてもいい人、いい旦那さんになってくれると思っている。そういえば「その人のいい面を見なさい」って話を聞いたことがあるな。
ともかく、週末にこの喫茶店に行ってみよう。私の悩み、解決できるかもしれないし。
そう思った矢先、貴一からLINEに連絡が入った。
「今週の土曜日、時間ある?」
まだ仕事中なので既読スルー。さすがに周りの目があるから、スマホをいじるわけにはいかない。けれど、これがいけなかった。
仕事が終わって、貴一からの連絡のことをすっかり忘れていた。そのまま帰宅し、家族と普通に過ごしていた。そして寝る前に貴一から再びLINEが送られてきた。
「土曜日、時間あるの?」
あちゃっ、しまった。返事をするのうっかり忘れてた。
「ごめん、ごめん」
という形のスタンプを送る。そして土曜日は用事があることを送ろうとした矢先、貴一がこんな文を送ってきた。
「きみはいつもそうだ」
「ボクのことを軽く見すぎているんじゃないの?」
「どうして早く返事を送ってくれないの?」
「返事がなかったから、何かあったのかと不安になるじゃないか!」
そして怒りを表すスタンプ。これ、貴一を怒らせてしまったのかな。でも、これに対して何て返事を返せばいいのか、迷ってしまう。この迷いの間も悪かった。悩んでいると、さらに貴一からのコメントが。
「既読スルーなの?」
「ごめん、違うよ」「ちょっと考え事をしていただけ」
慌てて二つの文を送りなおす。そしてさらに急いでこれも送る。
「土曜日は用事があるから」
すると貴一、間髪入れずにこの返事。
「何の用事?」
そこまで言わなきゃいけないの?そう思ったけれど、ちゃんと伝えておかないと、さらに下手に勘ぐってくるからなぁ。
「知り合いに紹介された喫茶店に行くの」
「じゃぁ、ボクも行く」
それはまずい。貴一のことで相談に行くのに。
「ごめん、一人で行かせて。理由は明日話すから」
「なんで一人?ボクが一緒じゃまずいの?」
貴一ってこんなに寂しがり屋だったっけ?なんか可愛いところあるじゃない。ちょっと微笑ましくなってしまった。だから、こんな返事を送ってあげた。
「じゃぁ、ボクちゃんが寂しくないように、午後からは時間とってあげるよ」
ちょっとおふざけのつもりで送ったコメント。けれど、それが貴一の機嫌をさらに損ねてしまった。
「じゃぁ、もういいっ!」
あっちゃー、怒らせちゃったかな。まぁいいや、これで一人で喫茶店に行くことができそうだ。結局貴一のとのやりとりはこれでお終い。ともかく土曜は、喫茶店に行って貴一のことを相談しなきゃ。もう寝よっと。
そして土曜日。私は樹下さんに教えてもらった喫茶店、カフェ・シェリーへと足を運んだ。お店がある通りは、私も街に買い物に出たときによく通るところだ。けれど、こんなお店があったなんて今まで気づかなかった。というのも、お店はビルの二階にあるから。どおりで気づかないわけだ。
「あ、ここだ。こんな看板、あったんだな」
ビルの入り口付近に、黒板に手書きで描かれてあるお店の看板を発見。そこにこんな言葉が書かれてあった。
「真実の世界、それはあなたが創っているのです」
真実の世界って、どういうことなんだろう?なんだか意味深だな。そう思いつつ、階段を上る。そしてお店の扉を開く。
カラン・コロン・カラン
心地よいカウベルの音。同時に聞こえてくるいらっしゃいませの声。さらに、コーヒーの香りが私を包み込む。一瞬にして、異空間に来た感じを受けた。まるで魔法にかかったような、そんな気分だ。
「お一人様ですか?」
「はい」
「そうですね…ではカウンター席へどうぞ」
お店の中を見ると、窓側に半円型のテーブル席がある。そしてお店の真ん中には丸テーブルの3人がけの席。どちらも空いているのに、すでに一人座っているカウンター席へ案内された。
「いらっしゃいませ。そちらへどうぞ」
このお店のマスターかな。すでに座っているお客さんと、席を一つ飛ばしたところに案内してくれた。
「あの…ここに魔法のコーヒーがあるって聞いてきたんですけど。それを飲むと悩みが解決するって、知り合いから教えてもらって」
「シェリー・ブレンドのことですね」
あ、やっぱり魔法のコーヒーってあるんだ。
「あなたもシェリー・ブレンドのことを聞いてやってきたんだ。私もそうなんです」
すでに座っていたお客さん。女性の方で私よりも少し年上かな。とても話しやすそうな人だ。軽く会釈をすると、彼女は私に向かって話を始めた。
「今ね、マスターと話をして、おかげで気持ちがスッキリしたの。これで彼と結婚に踏み切ることができるわ」
「えっ、結婚?」
「そう。私ね、結婚したい彼がいるんだけど、最後の最後が踏み切れなくて。というのも、彼って内と外で性格が変わるのよ。いわゆる外面がいいってタイプなの。だから、周りの人は彼をいい人だって思っているんだけど。でも、二人でいるときは違うのよ。ズボラで無神経、そしてわがまま。そこに気づくのが遅かったんだけど、そんな彼でも大好きだから」
私の悩みと少し似てるな。
「催眠術にかかっていたんですよね」
マスターがボソリと言った。
「催眠術?」
「そうなのよ。このお店でそのことに気づいたの。結婚前って、みんな催眠術にかかっているんだって事がわかったから。だから現実をしっかりと見つめる事ができて、早めの対応ができたんですよ。おかげで結婚に踏み切れたの」
まだよく理解できていない。催眠術ってどういう事なんだろう。私はそんなのにかかっているつもりはないんだけど。現実を見ているからこそ、貴一のお金の使い方に悩んでいるんだから。
「あ、ごめんね。私ばかり喋っちゃって。あなたの悩みってどういう事なのかな?」
「はい、実は私も結婚に対しての悩みなんです。私の彼はお金の使い方が私と違っていて。私は節約型なんですけど、彼は浪費型で。それでこれから先、家庭を持ってもうまくいくのかなって、不安になっちゃって」
「あ、なんだか私の時と同じだね。マスター、これは早速シェリー・ブレンドを飲んでもらわないと」
「まぁまぁ、焦らせないでくださいよ」
マスターはにこやかに笑いながら、彼女の言葉をやんわりと受け止めた。
「ではご注文はシェリー・ブレンドでよろしいですね?」
「はい、それでお願いします」
マスターがコーヒーを準備している間、隣の女性が話をしたそうにウズウズしているのがわかった。仕方ない、彼女の話に付き合ってあげるか。
「ここのコーヒーを飲むことで、どんなことが起きたんですか?」
「それよそれ、ここのシェリー・ブレンドって本当に魔法がかかってるの。私が何を望んでいるのか、その本心がわかっちゃうのよ。そのおかげで、私が彼に対して結婚した時にどうして欲しいのか、それがはっきりわかったの」
何を望んでいるのか、コーヒーを飲んだらわかるってどういうことだろう?意味がよくわからないままではあるが、彼女の話は止まらなかった。
「そこで私、催眠術にかかっていたことに気づいたの」
「さっきも出てきましたけど、催眠術ってどういうことなんですか?」
「一言で言うと、恋していると何も見えなくなるってこと」
「何も見えなくなる?」
「うん。だから彼に対して、このくらいまぁいいかって感じで見過ごしていたことがたくさんあることに気づいたの。その催眠術が結婚前に解けて、現実をきちんと見つめることができたってこと」
まだ意味がよくわからない。それとコーヒーを飲んだことがどうつながるのだろうか?彼女の話は止まらない。
「私ね、危うく彼の言動に妥協してしまうところだったの。好きだったから、あばたもえくぼに見えちゃうのね。ズボラで無神経でわがまま。これって私にだけ見せてくれる面だって思ったら、可愛く見えちゃってて。たまにケンカはしちゃうけど、でもすぐに彼の言葉に従ってしまう私がいたの」
あ、それわかる。私も同じところあるから。確かに貴一はお金の使い方が私とは違う。けれど、その他の面については「これって私にだけ見せてくれる面だよね」って思うこともある。それが可愛いって思えちゃうから、お金のこともつい許しちゃうんだよね。
「でも、本当にそのままでいいのかなって、ふと思っちゃって。というか、シェリー・ブレンドを飲んでからそこに気づいたのよ」
「気づいたって、そこが私にはまだよく理解できないんですけど」
「そうよね。私、知り合いの勧めでこのお店に来たの。私の理想とする結婚生活が見えなくて悩んだ時があったの。マリッジブルーってやつかな。そこでここのシェリー・ブレンドを飲んだら、見えてきたのよ。私の理想とする結婚生活が」
「どんな結婚生活だったんですか?」
「最初に感じたのは、笑顔あふれる生活だった。けれどそれだけじゃない」
彼女、一拍おいて私の方を向き直して、真剣な眼差しでこう言ってきた。
「お互いに本音を出し合える。そんな家庭が私の理想だってことに気づいたの」
「お互いに本音を出し合える…」
そう言われて、私はどうなんだろうって考えた。貴一は私に本音でぶつかってきているのだろうか。そして私はどうなんだろう。私、貴一に対してガマンしている事がいくつかある。でも、それは貴一の事が好きだから、だから私がガマンすればいいんだって、そう思っていた。
「結婚前は、その本音が出せないという催眠術にかかっている方が多いようです。お待たせしました、シェリー・ブレンドです」
ここでマスターが口を挟んできた。待望のシェリー・ブレンドが私の目の前に運ばれてきた。
「ちょうどいいタイミングみたいね。ぜひこのシェリー・ブレンドを飲んでみるといいわよ。きっとあなたも、自分が望んでいる結婚生活が見えてくるから」
見えてくるって、どういう事なんだろう。とにかくこのコーヒーを飲んでみよう。
「じゃぁ、いただきます」
カップを手に取り顔に近づける。すると、コーヒーのいい香りが私の鼻を刺激する。これは味の方も期待できそうだ。そしてコーヒーカップを口につける。
コーヒーを口に流し込むと、なんとも言えない世界が広がった。なに、これ。
熱いはずの液体なのに、そんなことは感じられない。それどころか爽やかさすら感じる。すごく気持ちいい。すると、私の頭の中に笑顔の貴一が出てきた。この貴一、どこかで見たことある。あ、そうだ、最初に出会った頃の、あの時の貴一だ。
貴一は私たちのために、テキパキと動いてくれていた。あの時、すごく爽やかな人だなって、そう感じたんだった。それで私は貴一の事が好きになり、交際を始めたんだった。その事をすっかり忘れていた。
結婚しても、あんな風に動いてくれるのかな?ひょっとしたら、釣った魚には餌をやらないって感じになってしまわないだろうか。いや、すでにそうなっている気がする。
貴一と付き合い始めた頃は、私に対してとても気を遣ってくれていた。けれど、最近はそんな事がなくなった気がする。でも、貴一の事が好きだから、そんな変化に今まで気づいていなかった。お金の使い方は気になっていたけれど、それ以外の事が見えていなかったな。
「お味はいかがでしたか?」
マスターの言葉で、ふと我に返った。そうだ、今は喫茶店にいるんだった。その事を忘れるところだった。
「あ、はい、ちょっと昔のことを思い出しました。私の彼と出会った時のことを」
「ってことは、昔の彼が理想的だってことかな?」
隣の彼女が口を挟む。
「まぁ、そうかもしれませんね。思えば付き合い始めた頃と比べて、今はだいぶ変わった気がします。まぁ、それだけ私に気を許してくれたってことだと思うのですが」
「そうそう、それそれ、それが催眠術なのよ!」
彼女、急にそう叫び出した。そういえば彼女、あばたもえくぼに見えるって言ってたな。催眠術の意味がなんとなくわかりかけてきた。今の貴一の嫌な面、我慢できなくはない。けれど、結婚をしたらどうなるんだろう。貴一の嫌な面ばかりが見えてきてしまい、急に嫌いになるかもしれない。そんな不安が襲ってきた。それを考えると、急に結婚が恐ろしくなってきた。
「私、このまま結婚していいのかしら…」
ふとそんな言葉が口から出てきた。
「うふふ、私の時と同じだわ。私もシェリー・ブレンドを飲んだ直後に、今のあなたと同じような不安に襲われたの。このまま結婚したら、催眠術が解けて彼の嫌な面ばかりが見えてきちゃうんじゃないかって。そうしたら彼のことを嫌いになってしまうかもしれない。そう思ったの」
催眠術が解けて、彼のことを嫌いになってしまうかもしれない。その言葉が私の不安をさらに掻き立てた。
「そういえば、こんな話聞いたことがある。新婚旅行で旦那さんになった人の言動が思いもよらないものだったから、そこに呆れてしまって成田離婚しちゃったって。この話聞いた時、そんなことあるわけないと思っていたけれど。そもそも、新婚旅行に行く前に相手の本性を知らないなんてこと、無いとばかり思っていた。でも、それってあり得るのかも」
私、貴一の何を見てきただろう。まだ貴一の本当の姿を見ていないんじゃないか。お金の使い方以外にも、思ってもみなかった本性が隠れているんじゃないだろうか。
「そういう話、たくさんあるわよね。私も同じことを思ったの。だから不安で不安で仕方なくなってきちゃった。でも、マスターのおかげでそれが克服できたの」
「えっ、マスターのおかげ?」
ここでマスターの顔を見る。にこやかに笑うその姿が、なんとも頼もしく感じてきた。
「マスター、何をされたのですか?」
「私が彼女に何かしたわけではありませんよ。あの時、どうすればいいのかを考えてもらいながら、もう一度シェリー・ブレンドを飲んでいただいただけです」
もう一度、このコーヒーを飲めばいい。そうか、このコーヒーは今望んでいるものの味がする。それがイメージとして頭に思い浮かぶ。さっきそれを体験したばかりだった。私も隣の彼女と同じように、何か答えが思いつくかもしれない。
そう思って、まず目を閉じて心の中で念じてみた。私の今の、結婚に対しての不安を解消するにはどうすればいいの?
そしておもむろにカップを手に取り、口に運ぶ。
「一緒に住めばいいじゃない」
どこからか、そんな声が聞こえてきた。
「えっ!?」
慌てて周りを見回す。が、その声はマスターのものでも隣の彼女のものでもない。ましてや遠くにいる店員さんのものでもない。明らかに自分の頭の中だけに聞こえてきたものだ。
「どうしたの?」
私が慌てた態度をとったものだから、彼女が心配そうに私に尋ねてくる。
「今、声が聞こえたんです。一緒に住めばいいじゃないって」
「一緒に住むかぁ。それもアリじゃないかな。つまり結婚前に同棲してみるってことよね。そうすれば、普段見せない彼氏の行動が見えてくるから、催眠術も早く解けちゃうかもしれないね」
そういうことか。まぁ、婚約までしているんだから同棲をしても問題ないとは思うけど。
すると、マスターが話を始めた。
「私の知り合いに、同棲をやってよかったという人がいましたよ。結婚を決めてからの同棲だったので、両親とも特に反対はしなかったようです」
「どんなことがよかったんですか?」
興味津々で尋ねる。
「まずはなんといっても、お互いの生活習慣の違いを認識できたことですね。朝起きてから夜寝るまで、こんなにも違うものなのかと思ったそうです」
「例えば?」
「知り合いは男性の方なのですが、自分は朝起きてすぐに歯を磨く。けれど、相手は朝食後に磨く。自分は朝食はガッツリ食べるけれど、相手はサラダとコーヒー、それにフルーツだけ。お風呂も自分は体の汚れを落とすのがメインなので、さっとあがる。けれど相手は少なくとも一時間は湯船につかっている。他にもあげればたくさんあります」
「わぁ、それだけでもかなり違うなって思いますね。じゃぁ、その違いをどうしたのですか?」
「最初は相手の行動が非常識に思えたそうです。だから、相手の行動を自分に合わせようと思った。けれど、相手も同じことをやろうとしていたので、お互いに窮屈な生活になってしまったのです。だから…」
「だから?」
どうしたのだろう?ここからが肝心だ。
「だから、相手のやることをお互いに全て受け止めあおうということにしたんです。夫婦だからって、朝食を揃える必要はない。生活習慣を無理やり相手に合わせる必要はない。大事なのは、お互いの価値観を尊重し合うことだって、そこに気づいたんです」
「わぁ、なんだかステキ。私もそんな夫婦になってみたいわぁ」
隣の彼女、マスターの話に感激している。けれど、私の中には一つだけ違和感がある。そのことを口にしてみた。
「確かにお互いの価値観を尊重し合うのは大切だと思います。けれど、お金の使い方に関してはそうはいかないのでは?」
「確かにその通りですね。片方が浪費家で、片方が節約型だと、どうしても論争が起きてしまいますね」
マスターも私の思っていることは理解してくれたようだ。じゃぁ、どうすればいいのだろう?
「だから一緒に住むといいんじゃない?」
その答えは隣の彼女が口にしてくれた。
「どういうことですか?」
「今まで一人だったから、お互いに自分の考え方でしかお金を使ってこなかったわけでしょう。浪費家の方は一緒の生活だと、どんなところを節約しなきゃいけないのか、それが実感できるんじゃない。それに節約型の方だって同じよ」
「同じって、どうしてですか?浪費家の方が節約型を意識するのはわかるけれど、節約型の方が良いと思うんですけど」
「そうは限らないじゃない。そもそもどうして節約するのか。それは使うべき時に備えるからじゃないの?いつまでも節約ばかり意識していたら、ストレスが溜まっちゃいそう」
そもそもどうして節約するのか。私は今までそんなこと考えもしなかった。お金を使うべき時に使う。それをやってこなかった気がする。確かに、お金に対してはストレスを溜めていたのは確かだ。
「だから、お互いの考え方ややり方から新しい価値観を学ぶことは大切だと私も思うんです。そのために同棲をすることをお勧めしますよ」
マスターの言葉は私に響いた。結婚生活を始めてからだと、相手との価値観の違いに対して不満の思いばかり募りそうだ。けれど、まだ今からなら相手のことを思い、自分の価値観を相手に合わせるところは合わせるってことができそう。
じゃぁ、早速貴一にこのことを知らせなきゃ。というか、貴一もこのカフェ・シェリーに連れてきた方が良さそうだ。今の話を貴一にも聞かせてあげたい。
「マスター、今の話を私の彼にもしてもらっていいですか?今から連絡します」
「もちろん、いいですよ」
マスターの許可はもらった。急いで貴一に電話をする。
「なんだよ、一人で楽しんでんじゃねーのか?」
「ごめんなさい。でも聞いて。私と貴一のこれからについて、ぜひ一緒に聞いてもらいたいことがあるの。私が今いる喫茶店に来て欲しいの」
「なんで喫茶店?」
「私、気づいたの。今まできちんと貴一とのことを向き合っていなかったって。そのことをここで気づかされたの。だからお願い、私とここでこれからのことを一緒に考えて」
「えーっ、どうしてそんなところまで行かなきゃいけないの?そんな話だったらウチでやればいいじゃない」
「ここのコーヒーを飲んで、マスターと話をしないと意味ないのよ」
「コーヒーを飲む?どういうこと?」
「それは来てくれないとうまく説明できない」
魔法のコーヒーのことを言葉で説明しても、貴一は信じてはくれないだろう。だから、体験してもらうのが一番だと思った。
「まぁ暇だから行ってもいいけど。で、場所はどこ?」
ちょっとぶっきらぼうに答える貴一。でも、来てくれる意思はあるみたいだ。私は場所を告げ、近くに来たら連絡をしてもらうようにお願いをした。
「じゃぁ、三十分くらい待ってろ。すぐ行く」
隣の彼女は今から来る貴一のことに興味津々。待っている間、貴一のことを根掘り葉掘り聞いてくる。どういった仕事をして、どんな容姿で、どんな性格なのか。さらに、どんなプロポーズをされて、結婚式はどうしたいのか、などなど。それらの質問に対して、馬鹿正直に答える私も私なのだが。
質問に答えながら思った。こういう話って、案外自慢話になっちゃうものなんだな。自分から言い出すと、周りの人に対しては嫌味に聞こえるかもしれない。でも、話したい自分がいる。だから、隣の彼女から質問されることに対しては、それほど面倒とは思わなかった。
そうしているうちに貴一から電話が。どうやら通りには来たようだ。
「マスター、ちょっと迎えに行ってきます」
「かしこまりました」
そう言って私は一度店を出る。そういえば私ってお金払ってないよね。このまま逃げちゃうと食い逃げになるのに。マスターって人を信じるタイプなんだな。だからこそマスターを裏切ることなんてできない。
階段を降りると、貴一はお店の前にいた。電話ではぶっきらぼうな口調だったけれど、目の前の貴一はそんな態度は取らない。むしろ爽やかな笑顔で私を受け入れてくれる。
「待たせたな」
なんだかんだ言っても、貴一は優しい。けれど、これが催眠術なんだな。そこだけを見てしまうと、結婚してから「こんなはずじゃなかった」と思うことが色々と出てくるのだろう。今日はそのことを学んだ。
「ここの二階なの」
「わかった」
一緒に階段を上がり、扉を開く。すると、またここに戻ってきたんだという気持ちが高まる。
「へぇ、なんかいい感じのお店だね」
「でしょ。こっちに来て」
すると、隣に座っていた彼女は別の席に移動していた。彼女は私に目配せをして、頑張ってという気持ちをアピール。私は小さくうなずく。カウンターには私と貴一、二人が座る。
「いらしゃいませ」
マスターが丁寧な挨拶をしてくれる。
「で、ここのコーヒーを飲まないといけないんだっけ?その理由を教えてくれるかな?」
「うん、信じてもらえるかどうかわからないけど。ここのコーヒーには魔法がかかっているの」
「魔法?なに、それ?」
「これは飲んでもらわないとわからないんだけど。それで、私と貴一のこれからの結婚生活について考えていきたいのよ」
「まだよく意味が理解できないんだけど。とにかくコーヒーを飲めばいいんだな」
「うん。マスター、お願いします」
「かしこまりました」
コーヒーができるまでの間、私がここでどのような体験をしたのかを貴一に話した。この時に、隣に座っていた彼女のことはあえて話はしなかった。あくまでも私が結婚に対してどう感じ、どう思ったのか、ここを中心に話をした。マスターからの話については、あえてマスターから話してもらうようにお願いもした。同棲するという提案についてもまだ話はしていない。
「君の言いたいことはわかった。実はボクも結婚生活についてはちょっと考えていることがあるんだ。ちょうどいい機会だから、ここで話したいと思う」
なんと、貴一も何か言いたいことがあるとは。このタイミングでマスターがコーヒーを差し出してきた。
「お待たせしました。シェリー・ブレンドです」
「じゃあ早速、その魔法とやらにかかってみるとするか」
そう言って貴一はコーヒーを口にする。すると、みるみるうちに顔つきが変わった。最初は驚き、そして次は真剣な目つき。最後はなんと笑顔になっているじゃないか。
「なるほど、これは魔法のコーヒーだ。ちょっと驚いたね」
「どんな味がしたの?」
「まるでボクの心を映し出しているような味だった。味というよりは気づきといった方がいいかな。なるほどなぁ」
貴一は一人で納得したみたいだけれど、どんな味だったのかをなかなか教えてくれない。そういえば貴一って、そういうところあるよね。自分一人だけで満足をすると、それを人に教えないってとこ。もうちょっとその満足を分けてくれてもいいと思うんだけどな。
あ、そうか、そういうことか。今まで貴一のそういった性格って、あまり不満に思ったことはなかった。けれど、結婚生活を考えていくと、こういった小さな不満が徐々に溜まっていくんだ。それがいつしか爆発をしてしまい、下手をすると離婚なんてことになりかねない。このことが今理解できた。
「どんなお味だったのですか?」
マスターが貴一に尋ねてくれた。
「いやぁ、最初飲んだ時には、これ、コーヒーなのって思っちゃいました。確かに味はコーヒーだったのですが、ちょっと乱暴な言い方をするとごちゃ混ぜ感があったんです。けれど、それがすぐに一つにまとまっていく。それが気持ちよくて。そこで思い出したんです。このコーヒーがボクの願望を表しているってことに」
「どんな願望だったのですか?」
「せっかくだから今日は本音を言わせてもらうね。君って、片付け下手だよね」
「あっ、えっと、まぁそうだけど…」
そこを突いてきたかぁ。私の片付け下手は遺伝性だと思う。何しろウチの母親がモノをなかなか捨てない人で。これは何かに使えるということで、いろんなものをとっている。それが家中に溢れていて、実家は雑然としている。
そんな中で育ってきたものだから、私もモノを捨てるというのが苦手。また、片付けをつい後回しにしてしまう。
「ボクは使ったらすぐに元の位置に戻して欲しいんだ。そして要らないものは捨てる。出来るだけシンプルな生活を送りたいんだ。そのことがこのコーヒーを飲んですぐに気づいた。これがボクの願望だ」
貴一にズバッと言われて、ちょっと落ち込んでしまった。けれど、さすが貴一は優しいところがある。
「君はこのコーヒーを飲んで、どんな願望に気づいたんだい?」
今度は私に話す番を譲ってくれた。
「うん、私がこのコーヒーを飲んで感じたのは、貴一は最近私にあまり気をつかってくれてないなってこと。出会った頃は色々と気をつかってくれていたけれど、このところなんだかぞんざいに扱われている感じがしちゃって。それに、これはコーヒーを飲む前から気になっていたんだけど、お金の使い方が気になって。欲しいもの、すぐに買っちゃうでしょ」
私が話している間、貴一は真剣な眼差しで聴いてくれているのがわかった。
「そうか、そんな風に感じていたんだ。確かに君が言った通りかもしれないなぁ」
驚いたことに、貴一は自分の非を素直に認めた。さらに貴一の言葉は続く。
「別に、ぞんざいに扱っていたわけじゃないんだけど。逆に最初の頃は気合いを入れすぎていた、と言った方がいいかもしれないなぁ。それについては君も同じじゃないかな?」
「えっ、私も?」
「うん、ボクのことを徐々に軽く扱い始めたって感じがするから。まぁ、それだけお互い一緒にいるのが当たり前になってきたって証拠なんだろうけど。ここはもっとお互いに気をつけるようにしようよ。そしてお金の使い方だけど…」
そう、これ。肝心なところ。
「ここはどうすればいいのか、考えていくしかないよなぁ。確かに言われた通り、ボクは欲しいものがあるとすぐに買っちゃうから。けれど、貯金はそれなりにしているんだよ。ちゃんと考えて使っているんだ。逆にボクは君のなんでも節約って考え方の方が気になるな。ストレスが溜まりそうだし」
「そうかなぁ。このあたりの金銭感覚のズレはどうにかしないとね。それでね、ぜひマスターの話を聞いて欲しいの」
私はマスターに話を振った。貴一も興味が湧いてきたみたいだ。突然話を振られたマスター、ちょっと困った顔はしたけれど、気を取り直して話を始めてくれた。
「実は、私の知り合いに結婚前に同棲を始めたカップルがいまして…」
さっき聞いた話と同じことを繰り返して話してくれる。同じ話だけれど、二回も聞くとより深く理解できる。ここで大事なのは、お互いの価値観を認め合う生活を送ること。これが今の私と貴一に必要なことだと改めて感じた。
「なるほど、そういう理由でマスターは結婚前の同棲をオススメする、ということなのですね」
「はい。結婚前に抱いていた相手への幻想。これを崩して別の目線で相手を見つめないと、私たちは『騙された!』なんて思ってしまいます。これが結婚前の催眠術なんですよ」
「つまり、ボクも彼女もまだ催眠術にかかっている、ということですかね?」
「恐らくは」
貴一、ここで腕組みをして考え始めた。さて、どんな答を出すのだろう?私はその様子をジッと黙って見つめる。
「よし、わかった。じゃぁこうしよう」
何か閃いたようだ。
「もともと結婚をしたらしばらくはボクのマンションに住むことにはしてた。そして式までは二ヶ月ほどある」
そう、結婚式まであと二ヶ月。その日の朝に二人で入籍をしに行こうと決めている。
「それまでの間、お互いのことをもっと知り合い、どんな生活をしていくのかを話し合うことも大切だ。わかった、同棲してみよう。早速お互いの親にこのことを話して、行動に移そう」
そう言うと貴一は電話を取り出してどこかにかけ始めた。今の話からすると、貴一の両親なのだろう。貴一ってこんなにせっかちだったっけ。新たな一面を知ってちょっと驚いた。
何はともあれ、この先の二人の生活に対して今から準備できるのはありがたい。
ふと見ると、あの彼女がにこやかに微笑んでいる。私たちが話をしている間、このお店の店員さんとおしゃべりをしていたようだ。彼女、私の視線に気づくと手招きをしてきた。何だろう?彼女に近づいてみる。
「さっき聞いたんだけど、あの同棲の話ってマスター自身のことらしいよ。私もさっき知ったんだけど、あの店員さんとマスターってご夫婦なんだって。驚いたなぁ」
それは驚きだ。だって、どう見てもかなりの年の差だし。だからこそお互いのことを事前に知っておくことが大切だったんだな。
これから始まる貴一との生活、現実をしっかり見つめていかなきゃ。
<催眠術に騙されないで! 完>