青い風船は飛んで行かなかった
楽しいよね。
そう同意されるように風船を渡される子供たちは、みんな屈託のない、それでいて世界がとても素晴らしいと確信している信頼と笑顔を向けて、色とりどりのそれらを受け取る。そうして母親らしき大人も、父親らしき男も、その光景に包まれてほんのり微笑むのだ。
ただ一人、十二歳になったばかりの彼を除いて。
風船渡しを「楽しい気分にさせられているだけ」と彼が感じるのは、その年頃にしては可愛げのないことではあったかもしれない。けれど来年には、中学生という節目を同年代の誰よりも強く早々と実感していたから、その年の夏、彼はそうして、どこか大人びた風情をむっつりと作りだして佇んでいた。
いつの間にか出来上がっていた遊園地は、子供たちの楽園といった様子で、色とりどりの賑わいに満ちていた。
すっかり愛称で呼ばれ親しまれているその遊園地を、彼はここ最近まで全く知らなかった。というのも、よく耳に入って来るそのキーワードにさえ関心がなかったからだ。
夏休みに入る前日、学校で配られたパンフレットを疑うように睨み据え、ようやく町中のテレビに流れている宣伝用ビデオに気付いた。強い愛情と想いを遠慮がちにしか伝えることの出来ない彼の父親が、何日もかけてそれとなく説得し続けた甲斐あって、彼は本日、ようやく重たい腰を上げたのである。
彼が用もなく外に出るのは、ずいぶんと久しぶりであった。思わず目を細めてしまうほどの眩い日差しは、うだるほどの暑さでジリジリと身体に突き刺さる。
噴き出す汗、熱い吐息。苦しげに脈打つ身体に生きている身体を覚えて、彼はひどい嫌悪を覚えた。
彼は入場して数分も経たずに、カタカナで書かれた遊園地名さえ忘れてしまっていた。しかし、ふん、どうってことはない。そうふんぞり返る彼には決して優越はなく、むしろ苛立たしさを抱えてそこを見渡す。明らかに遊園地といった賑わいに、不機嫌な面を強めた。
彼が以前住んでいた場所は、ある有名ななんとやらランドもあった。当時のことを思い返してみても、確かに素晴らしく楽しい時間や想いで溢れていた。
だが、今の彼は、ちっとも明るい気分ではなかった。
楽しさや喜びとは無縁だ。一時間もあったら回り切ってしまえるような敷地面積をしたこの遊園地で、一体何を見ろっていうんだ?
愛情深い両親は、以前、よく彼をたくさんの夢や喜びを得られる場所へと連れて行ってくれた。こんな田舎の遊園地――彼はもう名前を忘れたし、入場券の控えとパンフレットはとっくに捨ててしまっていて、もう一度確認する気もさらさらなかった――なんて来たくもなかった。
父の話を聞いていた昨日の自分を思い返す。ああ、ちょっとした気晴らしにでもなるかもしれないなんて、一体ぼくはどうしてそんな馬鹿なことなんて思っちまったんだろうか?
彼は、遊園地の入場口から数メートルの距離で、青い風船を持ったまま佇んでいた。
顰め面で深く後悔し、そして自己嫌悪もしていた。後ろにある騒がしい入場者の尽きることのない入場口で、カラフルなピエロが子供たちに風船を配っている様子が聞こえてくる。
「楽しい気分になれるよ」
入場早々にして睨見付けた時も、ピエロは彼にそう言ってニッコリと笑い掛け、慣れたように風船を握らせたのだ。作り物じみた厚い化粧は間抜けなようでいて、しかし感情がすっぽりと欠けてしまったような不気味さがあった。
こんなので、楽しい気分になんてなれるはず、あるもんか。
彼は心の中で舌打ちした。だが握った風船を離すのは、なかなか容易ではない。以前、よく風船をもらっていた時期があったが、どの過去でもそれを手放した経験がなかったからだった。
あの時、最後はどうしたのだろう? 窓を開けたら飛んで行っちゃうからね。そう母が車の助手席から振り返って笑っていたところまでは覚えているのだが、その時も風船の紐は、確かに彼の手にしっかりと握られていたのだ。
ベッドにぼくを運ぶのは父さん。
靴を脱がせるのは、いつも母さんだったと思う。
あの時の風船や、おもちゃや、ゲームのおまけで貰ったピンポン玉は、それからどうなってしまったのだろうか。気付いた時には、風船以外の物は、彼の部屋のあるべき所にしっかりと当然のように収められていたのだ。
人の流れの中でじっと立ち続けているというのも、思いの他体力や気力を奪われるものだ。そう自覚した彼は、ひとまず歩き出しながら、しばしぼんやりと思い耽った。
小さな遊園地は、どこもかしこも子供だらけだった。親子連れも多いけれど、敷地の半分に造られた大きな緑化公園では、同じ世代の子供たちが自由に走り回っている。散歩している大人たちや、我が子を見守っている母親の集まりもある。
結局、彼はこうして風船を握ったまま、駐車場へと抜ける裏のゲートまで歩き続けてしまっていた。
天気はこの日、一番の青空を見せていた。
そこに漂う雲には、運動会で追いかけっこをする数匹の子羊を思わせる爽快さもあった。風は微々たるものだが、比較的涼しく吹き抜けており、時折、南風が心地よく大地を駆けた。
だから彼の掌から、まるで生きているかのように風船が逃れてしまった時も、それはごく自然な、それでいてあっという間の出来事だった。
彼は、数秒ほど呆けた顔で、青い風船の行方を顔で追っていた。それから、もうずいぶん届かないところまで風船がふわふわと漂っているのを認めたところで、ようやく「あっ」という呟きを口にした。
半円を描くように造られた遊歩道の両サイドには、彼の知らない木が並んでいた。手を離れてしまった青い風船は、その中で一番背の高い、青々と葉を茂らせた立派な枝に頭を押し付ける形で動きをとめた。割れる様子はなく、木の葉の囁きに応じて、ふよふよと頭を波立たせて細い紐を下に垂らす。
パタパタと駆け寄って、それを見上げてみた。
風船の紐の先で揺れる紙吹雪の一部のような白は、ずいぶんと遠くに感じられた。目測からしても明らかで、実際にはそうであったし、大人が手を伸ばしても到底届かないどころか、見上げなければ通行人さえ気付く可能性も少ないように十二歳の彼には思われた。
彼はその風船に対して、同年代が持つような未練や惜しみはなかった。その場所で安定して落ち着いてしまった風船を、ただしばらく見上げて佇み、何も決められないままぼんやりと無関心に考える。
あの風船は、いつかやってくる風に飛ばされてしまうかもしれない。それとも割れてしまうかで、結局はどこかへ消えてしまうのだろう。
こうなると余計な手荷物を押し付けられたような気もしてくるし、彼は脳裏に浮かんだピエロの間抜け面を払うようにして頭を振った。どうせ誰も見ていないのだから、そのまま帰ってしまおう。
「どうしたの? 風船、飛んで行ってしまったの?」
そう考えて早々、ふっと声を掛けてくる者があった。振り返ってみると、フリルのワンピースを着た女性と目が合って、彼は急速に戸惑いを露わにした。まだ二十歳そこそという見掛けをした彼女は、木に頭を押し付ける風船を見上げると、木漏れ日を眩しげにして「う~む」と思案する。
彼女は、おもむろに手を伸ばすと、白いパンプスで地面を蹴って何度か無謀なチャレンジを試みた。ようやく紐先が遥か高みであることを実感すると、「ふう」と息をついて長い髪を背中に払う。
「駄目みたい。届きそうにないわ」
彼が言葉を掛けるよりも早く、女性は振り返りざまに男の名を呼んだ。
すると、白いチャツとズボンという清潔な身なりをした青年が、向こうから害もない顔で「どうしたの」と答えながらやってきた。すぐそばのお手洗いに寄っていたらしい。男は皺のないハンカチで、手に残った水を丁寧に拭っていた。
「風船がね、引っかかってしまったみたいなの」
彼女が白く細い腕でそれを指し示すと、青年は一瞬、ぽかんとした表情でそれを目で追い、「ああ、なるほどね」と優しい響きのする声で言って頷いた。
風船の持ち主である彼が戸惑っている数秒の間に、青年は先程の女性と同じようにジャンプして風船の紐を手に取ろうとした。あきらかに飛距離が足りないのは、子供の彼にも分かることのはずなのに、その青年は額から汗が落ち始めるまで、何度も何度もジャンプした。
「う~ん、駄目みたいだ」
青年は白い肌に浮かぶ汗を、細い腕で拭った。ふと、思いついたように手を打つと、木の向こうにある真っ直ぐ伸びたアスファルトの歩道に向かい、大きく手を振って「お~い!」と声を掛ける。
すると、アトラクションのある方へと道を進み歩いていた大柄な男が、いかつい肩越しに太い首を回してこちらを見た。顔を顰めて「あ?」と威嚇するように呟く。袖のないぴったりとフィットしたシャツが、鍛えられた上半身を一層際立たせていた。
「なんだよ」
二十代の中盤らしいその男が、野太い礼儀のない声で、年下に対する雑な尋ね方をした。面倒だと言わんばかりの表情を浮かべつつも、ゆとりのあるズボンを、ベルトで細いウエストにしっかりと固定したそこに手をあてがって、どしどしとやってくる。
青年は、自分よりも頭一個分背丈のあるその男に、気圧される様子もなく例の場所を指差してこう言った。
「この子共の風船が、あそこに引っかかってしまったみたいなんだ」
「ふうん。そういうことか」
屈強そうなその男は、心地よさそうに高みの見物をする風船を、ジロリと睨みやった。
三人目のその男もまた、当の本人である子供の彼の意見すら尋ねないまま、勢いよくジャンプして手を伸ばし風船の紐を取ろうと頑張り始めた。
スポーツでもやっているのか、男の跳躍は素晴らしいもので、引き締まった肉体は一切の無駄な動きを排除しているかのようにも見えるほどに見事だった。まるでダンクシュートを決めるようなそのフォームに、彼も、女性も、青年も「ほぉ」と口を開けて言ってしまう。
しかし、いくら跳躍が素晴らしくても、人間のジャンプ力では到底及ばない距離であることは、小学六年生の彼の目にも明らかだった。
「あの――」
子供の彼が、今度こそ断りを入れようと口を開き掛ける。だがそれは、戸惑いのあった数秒でタイミングを失ってしまった。
「チッ、駄目だな。これじゃあ到底届かねぇよ」
男は彼の発言を遮るタイミングでそう言うと、先輩の風格で腕を組み、怖い顔で考え込んだ。虎の威嚇のような声に、子供は開いていた口を思わず閉じてしまう。
「ねえ、どうしようか?」
女が、恋人らしき青年に向けて、小首を傾げて見せた。青年は彼女の視線を頬で受けとめたまま、宙に視線を漂わせている。
「う~ん、どうだろう……君には、何かいいアイディアはないかな?」
困った様子だった青年は、けれどすぐに笑顔を取り戻して、その新たな仲間に助けを求めた。例のいかつい男は「俺はお前の先輩でもねえぞ」と睨み返したが、「そうだな」と真剣な目で考え込む。
「こういう時は、アイディアマンが役に立つよな」
男は、そう言ったかと思うと辺りを見やった。不意に、ピンときた様子で太い腕を振るって「お~いっ!」と怒声のような声を通りの向こうへ投げた。
そうしたら、休日を過ごす家族と付き合っているといったような、休日のサラリーマン風の四十代ほどの男が、それに気付いて足を止めた。
その中年男は、小柄でひどく細身だった。ピンと背筋を伸ばしたまま、汗でずれ落ちる眼鏡をかけ直して花柄のハンカチを額に何度かあてがう。特徴のない貧相な肉付きの顔に、彼は少しの訝しさを浮かべたものの、見た目の雰囲気に対して堂々とした足取りでやって来た。
「どうかしたのかい?」
中年男が、年配の威厳もない高い声色でそう言った。丸い眼鏡の奥の小さな瞳は、気真面目で、どこか気の抜けたような雰囲気もまとっている。
「この坊主の風船が、木に引っかかっちまったみたいでさ」
大柄な男が一同を代表して、野太い声を若干和らげてそう言った。
小柄な中年男は、まず小学六年生の彼を見て、いつの間にか手を繋ぎ合っている若いカップルに目を移し、それから自分に声を掛けてきたスポーツマンのようなその男へ目を戻す。それからハンカチをズボンのポケットに押し込むと、右手の指でくいっと眼鏡を押し上げた。
「なるほど。事情は分かった」
体力のなさそうな細身の中年男は、慣れたようなきちんとした応答でいって、片手で皺のあるシャツの中に風を送りつつ頭上の風船へと目を向けた。
「とはいえ、ふむ。結構遠いなぁ」
「どうしたらいいか考えていたんだけどな。俺はもともと、そういう――なんだ、その、考えることは得意じゃねえし……」
いかつい男が、もごもごと言う。
すると同じようにして上を見ていた女性が、小首を傾げた。
「そうねえ。磁石で引き寄せられてくれるのなら、楽なんだけど」
「君、いつも磁石を持ち歩いているの?」
青年が、きょとんとした顔で恋人を見つめる。彼女も真っ直ぐ彼を見つめると、「今日は鞄に入っているのよ」と、いかにも、何故そんなことを訊くのと不思議そうな顔をして尋ね返した。
その様子を見たスポーツマンらしい風格の無愛想男が、途端に呆れたように大きな手をひらひらと振る仕草をした。
「お前らについては、なんとなく分かってきたから、もういい」
そう告げると、自分の父親よりも若くて小さい中年男へと向き直った。
「で、あんたに何かいい案はあるかい?」
「素晴らしい案が閃いたよ」
この場の最年長としての勇ましさで、そう断言した中年男の眼鏡がキラリと光った――ように、小学生の彼には見えた。
「すごいわ、おじさん! それで、私は何をしたらいいのかしら?」
女性が早速といった様子で尋ねる。すると中年男は、生真面目な顔をくるりと彼女へ向けて、もう一度眼鏡を押し上げた。
「スカートの君には、いささか危ないと思うから、応援に回ってもらおうと思う」
「うん、分かったわ」
女性は楽しげに笑い、あっさりとその案を受け入れた。
四人の大人が、お互いの名前も知らないまま作戦会議を始めた。
おかげで風船の持ち主である子供は、とうとう止める台詞も出てこないまま、隣の木陰の下に腰を降ろしてしまっていた。
お昼を過ぎた空は、夏を謳歌するように青々と眩しく、弱々しく吹きぬける風は、午睡の眠りさえ誘わないほどカラカラとしていた。だから彼は、ただただ隣の木陰に腰を下ろして、風船と、三つの年齢層からなる四人の大人たちを眺めているしかなかった。
この中で一番年上である中年男が、一番目に考え出したことは、体格のいい頼りがいのあるいかつい二十代の男が、平均的背丈をクリアしている身軽そうな青年を肩車する、というものだった。
「なんだか面白そうだ」
青年の方は笑顔でそう言ったが、一方で数歳年上のスポーツ体躯の男の方は、なんだか嫌な後輩を見るような目を向けて苦々しい顔をしていた。
「さて、作戦開始と行こうじゃないか」
中年男が、会議を進めるみたいに手を叩くと、渋々といった様子で、逞しい男が肩車をするべく体勢を整えた。
男同士、いや、まるで大学の先輩と後輩といった青年と二十代男の肩車は、子供である彼が見ていてもハラハラするほど不安定だった。お互いの相性が悪いというよりは、持ち合せている性格が根本的に違うことによるズレがそうさせているかのようだった。
土台となった男は、「重い」だの「勝手に動くんじゃねえよ!」だの、苦戦と苦労によって顔を歪めていた。しかし、それに対して青年の方は、身体がぐらぐら揺れれば楽しそうに笑うばかりだ。彼は勝手気ままといった様子で、風船の紐へ向けて手を伸ばす。
「肩車なんて何年ぶりだろう」
「オイぶちのめすぞ真面目にやれよ……っ」
「地を這うような声だね。あはは、なんだか面白くなってきたなあ」
「テメェがそこそこ重いせいだろうがよ、ああもうだから勝手に重心動かすんじゃねぇよ!」
「もうちょっと後ろだよ。あれ、違った、斜め前かな?」
そんなやりとりがされている間も、青年の恋人である女性が、二人の回りをちょろちょろと動き回っていた。彼女から羨望の眼差しと言葉を掛け続けているせいか、何故かすっかり二人のお兄さん的存在になったかのように、そのいかつい男は怒気のない声で「ちょろちょろするんじゃねえよッ」と叱ったりしていた。
作戦は、見るからに失敗だった。騒ぐ三人を、中年男が冷静に見守っていたのだが、彼はわずかに眉根を寄せ、しばらく経ったあとでようやく一つ頷いてそれを認めた。
「うん、全く届きそうにもないな」
「もっと早くそれを言えよ!」
十分以上も激しく体力を浪費された男が、素早く指摘した。肩に背負われた青年の手は、第三者から見ると明らかに風船の紐から距離があったので、木陰からそれを見守り続けていた子供は、なんとも感想出来ず「はぁ」と呆けたような感心のような吐息をもらしたのだった。
それからも、大人たちは様々と風船の奪還を試みた。
青年は、落ちていた木の枝を伸ばして無愛想男に叱られ、木に登ろうとした中年男は、ものの数秒で無理であることをさくさくと計算して利口にも諦めていた。女性が真面目な顔で磁石を掲げたのを見て、いかつい男が遠慮がちな様子で無理であることを伝えた。
「あのな、それ、絶対に無理だから……」
「そうなの?」
「勉強出来ねぇ俺でも分かるが、――風船は絶対にそれに吸い寄せられない」
「科学が進んで風船が進化すれば、いつかその方法を使うときが来るかもしれないな」
中年男の方が、気真面目な顔でそう妙なフォローを入れた。
しばらく時間が経っても、青い風船は相変わらず高い木の枝に頭を押し付けていた。時折、垂らした紐先を微々とした風になびかせて、四人の大人たちの頭上に君臨し続けている。けれど彼らの中の誰一人と嫌な顔はしていなくて、ひたすら「風船奪還」を真剣になって考えているようだった。
木陰から見物していた子供は、とくに愛着もない自分の青い風船を、取り戻そうとやっきになっている大人たちを眺めていた。彼らはどこか楽しそうでもあるし、ずいぶん昔から付き合いがあるようにも見える賑やかがあるみたいでもあった。
こうして見守っていると、まるで彼らの方が子供のように思えてもきた。馬鹿みたいに、たった一つの、いくつだって替えのきくその風船を救出しようとしているのだ。
「…………ほんとうに、子供みたいだ」
そう呟いても、向こうで集まっている四人に聞こえないことだって分かっていた。四人の大人たちはずっと風船を見上げていて、思いつきや試行錯誤で次々に奪還作戦を実行に移していっていた。
十二歳の彼にだって、空気がたくさん詰められている風船が、繊細で割れやすいことを知っていた。勿論、磁石にも反応するはずがないし、中に入っている軽い空気がすぐに抜け始めてふよふよと落ちてくるはずもない。それには、結構な時間を要するのだ。
バカじゃないの、――と彼は唇を真一文字に引き結び、膝を抱き寄せた。新しい風船をもらうという選択肢の方が遥かに効率のいいことに、彼はずいぶん前から気付いてもいた。
「……風船は、もういいんだ。ぼくは、欲しくなかったんだよ」
彼の思い出の中で、確かに風船は、夢や希望を象徴したかのような楽しい気分と笑顔と共にあった。けれど、それはもう彼の心に、そういった光りを差してはくれないのだ。
あんなに外で走り回るのが、楽しみだった頃の自分が嘘のようだ――十二歳の彼は、本当はずっと、そうやってて途方に暮れていた。
彼は同年代の誰よりも早急に、前触れもなく訪れた出来事によって冷静沈着で利口にならざるを得なかった。けれどそれは、あると気ふっと誰にでも同じく訪れるもので、それでいて心と身体が一致して考える時間が必要であるのも、至極当然で当たり前のことだった。
とても難しくて、もどかしい問題でもある。だから彼の父親も、苦しみ悩みながら息子に踏み出す一歩のきっかけが訪れるようにと祈り、今日、玄関先で彼を見送ったのだ。
四人の大人たちは、思い付いた作戦がようやく全て失敗に終わったようだった。四人の輪に訪れた気だるい沈黙を合図に、子供はそろそろもういいよと止めようとしたのだが――。
その時、一つのハッキリとした力強い声が上がった。
「よし、どうやら最終形態をとる時が来たようだ」
中年男が、気真面目な顔で眼鏡をかけ直して言った。運動能力の高そうないかつい男が、強い日差しと熱気にうんざりした顔で、太い首の後ろを手で拭って答える。
「おいおい、アイディアマン。それ、本当に名案なのか?」
「この高さを目で計るに、今までで一番可能性があると思う。――まぁとりあえずは、君が一番下で踏ん張れば大成功間違いなしだ」
「――それを聞いて、俺は一気に不吉な予感が増した」
彼が、げんなりとして表情を引き攣らせて言う。若いカップルは既に内容を聞く前から「賛成」と声を上げていて、一番年上の中年男はグッと親指を立てていた。
それからしばらくもしないうちに、三人の大人の男による組体操と、一人の女性による応援が始まった。一番下で踏ん張ることになった例の逞しい男は、額と首筋に様々な感情が見え隠れする血管を浮き立たせて怖い顔をしている。
「上手じょうず、うまいもんだ」
下から二番目の位置で、いかつい男にまたしても肩車してもらっている青年が、苦しげながらも汗を滴らせつつ笑顔でそう言った。重心に注意を置くものの、三人分の体重がぐらぐらと揺れて、右へ左へ、後ろへ前へと危うい具合にふらついてしまっている状態だ。
ただ一人冷静なのは、三人の組体操の一番上、――地上から最も遠い位置で肩車をされている、小柄で運動神経もなさそうなあの中年男だった。彼は支えがぐらつくことにも気を向けず、作戦通りのポジションになった時から、目の前の風船の紐を目にして関心していた。
「うむ、まさに考えた通りだ。――なっ、うまくいっただろう?」
「俺はテメェの方を見る余裕はねぇんだが、ぐらつきと声の調子で色々と想像させられて苛々する――悠長にそうやってる暇があるんだったら、さっさとブツをとらんかい!」
一番下の男が、苛立ちと疲労と訛りを剥き出しに最後は怒鳴り付ける。
中間に位置する青年が、「まあまあ」とやや下を見て宥めた。すると中年男は、眉を小さく寄せたまま、考えるように右手でゆっくりと眼鏡を押し上げた。
たっぷり数十秒、中年男が吟味する。
「――君には、大阪の血が流れているのか」
「そんなこと今はどうでもいいだろうが! あんた、この状況で何ふざけたことを真面目に考えてんだよッ、ぶっとばすぞマジで!」
「いや、祖父のことを思い出してね。元気でツッコミばかりしている人だったよ」
「あらっ、私も生まれは大阪なのよ!」
「そうだったよね。君と僕は、関東と関西にもかかわらず、遠い南の島の大学で出会い結ばれた愛の――」
「テメェら自由過ぎるだろ! んなことどうでもいいんだよッ! お前ら、いい加減にしないとマジで張っ倒すぞ!?」
それぞれが騒ぎ立てるたび、三人の男によって出来た縦一列が不安定に揺れる。
バカじゃないの、こんなことで必死になって――けれど距離を置いて見守る子供は、自分を落ち着かせようとしても耳と胸の奥がドクドクと波打っていた。人崩れが起きるのではないかと不安で、心配してとうとう立ち上がって近くまで来てしまっていた。
中年の男の白くて細い指が、難なく風船の紐を掴んだ。
「あ、取れた」
手にした彼の声を聞いて、すぐ下から青年が「本当に?」と嬉しそうな声を上げた。更にその下から、状況を全く見ることのできない男が「マジか」と太い声に嬉しさを滲ませる。
どうやら、そのせいで気が抜けてしまったらしい。途端に不安定になってぐらつき、三人の男たちが「あ」「え」「まさか」と声を残して、あっという間に崩れ落ちた。
一番下が「ぐぇっ」とうつ伏せで潰され、二番目がその上に「いたっ」と仰向けにべしゃりと倒れた。そして一番上にいた中年男が、二人をクツションにして尻を付いて着地した。
「うむ。これが風船だ」
それでも紐を手から離さなかった中年男が、鼻先までずれてしまった眼鏡を掛け直して、そう言いながら女性に風船を手渡した。
大人たちが崩れ落ちる刹那に息を呑んでいた子供は、瞬きも忘れて四人を見つめていた。バカみたいだと思うのに、様々な感情が小さな彼の喉元まで溢れてくる。
後悔した時の痛み、喜びに溢れた驚きや鼓動――彼は少し前まで、自分の日常にもあったはずの、そういった懐かしい全ての感情の起伏に、身の内が震えるのを感じた。
「どうしたの?」
風船を手渡そうとした女性が、俯いた彼の顔を覗き込んだ途端、「えっ」と驚きの声をもらした。何故なら、十二歳の彼は、唇を噛みしめながら声を押し殺して泣いていたのだ。
ありがとう。そう、たった一言でも言いたかったのに言葉が出て来ない。一体どうしたんだと気付いた男たちも、立ち上がって続々と彼の許へやってくる。
一昨年の夏まで、逃げ出した彼の風船を捕まえるのは父で、手渡してくれたのは母だった。病気が母の身体を蝕み出してから、風船も凧揚げも紙飛行機も彼は追うのを諦めた。
どうにもならないことだって、ある。
どうにもならないことというのは、あるものなのだから、しようがない。
けれど彼はまだ十二歳になったばかりで、どんなに大人ぶっていたとしても整理付けられない想いは沢山あった。誰かに聞いて欲しくて「どうしたの」と頭を撫でてくれている女性に、そして駆け寄ってきた三人の男たちに、彼は張っていた緊張も意地も全て投げ出して、泣きながら幼心の本当の想いをぶつけた。
この世からいなくなってしまった母に、本当はもう一度「どうしたの」と頭を撫でて欲しかった。入院していた病室で母に「平気だ」と何度も言ったけれど、本当はもっとずっと一緒にいたくて帰りたくなかった。我が儘を言って、困らせたくなかったから言えなくて――。
彼は、それ以上もう言葉には出来なかった。ただただ普通の子供と同じようにして、ボロボロ涙をこぼしながら声を上げて泣いた。
母が死んで、寂しくて悲しくて父と抱き合って何度も泣いた夜があった。どこへ行っても、目に留める全てが、彼に幸せな頃の思い出を起こさせて胸を締め付けた。
訪れた現実から目をそらしてはいけない。けれど現実と向き合うからといって、幸せだった日々を忘れてはいけないことも、彼は父のおかげで気付き始めてもいた。この小さな身体と心に積み重ねられた時間が、糧となって彼を助け、生きる道を前へ前へと進めさせてくれる。
「泣くなよ、坊主。風船、戻ってきたぜ」
いかつい男が膝を折って、彼に風船を握らせながら神妙な声で言った。
「なぁ、一緒にアイスクリームでも食いにいこうか。風船の奪還祝いによ」
「それはいいね、君の奢り? 僕、三段アイスが好きなんだよね」
「ぶっとばすぞ」
「ははっ、冗談だよ。うん、僕もその提案には大歓迎――君は?」
「うふふっ、私も大歓迎よ!」
「妻と娘ももう少しかかるだろうし、私が奢ってあげよう」
中年男が、「さぁ、みんな立って立って」と家族の最年長のようにして言った。
子供は、涙が次第に収まるのを感じながら、青い風船の紐をしっかりと手で握った。四人に頭や肩を触れられ、促されて立ち上がり、残っていた片手を誰かに引かれて――そうして、彼らはゆっくりと歩き出したのだった。