堕ちゆく始まり
レイミは見知らぬ男性から話しかけられその身を一瞬固くした。
その拍子に画材が入ったビニール製の袋を思わず両手で抱きかかえた。
バリバリとその袋は音をあげるが、それはまるでレイミの心の奥底にある何かを目覚めさせるきっかけのようでもあった。
「オネーさん画家かなにか?」
彼は目ざとくそのビニール袋に書いてある店名からレイミの琴線に触れそうな言葉を選んだ。
「あれ?ひょっとして漫画家か何かかなー?」
しかし無視を決め込んでいたレイミだが「漫画家」という言葉を聞いた途端にその男に対する警戒の糸はゆるみ始めた。
「なんでそんな事がわかるんですか?」
レイミは思わず足を止め彼に話しかける。
「わかるよー!そういう人って普通の人とは雰囲気が違うから」
「普通の人と…ち…がう?」
自尊心の強いレイミの心が彼の一言で強烈に揺さぶられる。
込み上げてくるくる昂揚感。まるで全身の血がたぎるような感覚。彼女の頭の中にその一言がこだまする。
「私ってそうなの?」
レイミは思わずつぶやいた。
「ひょっとしてオネーさん、学校とかで浮いちゃう人?」
レイミはドキリとした。思わず目を見開く。この男がなぜそのような事まで判ってしまったのか?と。
「だよねー」
男がニコリと微笑んだ。こうなるとレイミの心は意のままだ。
レイミはまんまとホストの手中にハマってしまったのだ。
夢につまづき、周りから見放された彼女がホスト通いの悦に染まるのに月日はそうかからなかった。
しかし、学生である彼女がそう頻繁にホストクラブに通えるはずがない。
大体がフリーで初回特典狙いの格安コース。
しかしそれでもよかった。学校での鬱憤を吐き出すだけでもレイミの心は一時的に満たされた。
ホストクラブにいる間だけはお姫様のように自分を扱ってくれるホストに彼女の心は徐々に侵されていく。
しかし、それも長くは続かない。いつの間にかレイミの財布の中身がホストクラブのメンバーズカードで溢れかえってしまった。
ここまでくるともう新宿の店で初回特典で行ける店がほぼ無い。
「はぁー」
レイミは思わず大きなため息を吐く。心の寄り所を失いかけていたからだ。酷く憂鬱な気分。
自宅のアパートの天井を見上げる。昭和然としたその作りは彼女の憂鬱な気分を更に加速させた。
しかし、それはしょうがない事だった。親の仕送りでやりくりするからには必然的に安アパートになる。
畳の床に寝転びゆっくりまぶたを閉じていく。
そんな天井とは違う、豪華なシャンデリアが彼女の脳裏に蘇る。
煌びやかな世界。この世から隔絶された世界。自分の存在が特別になる時間。
「!」
レイミは何かを思いついたかのようにガバと起き上がる。
「ホストクラブは新宿だけじゃないわ!」
そして六本木へと足を踏み入れた。だがそれが彼女の運命を狂わせる第一歩になる事だとは露ほどにも思ってなかった。
レイミに忍び寄る魔の手はジワリと彼女に近づきつつある。それは牙を磨き、爪を尖らせて彼女をジッと待っていた。
人間、堕ちる事を始めるとそれは止めどがなくなる。
正にレイミはいま奈落の底の淵に立っていたのだ。
しかし、その事に彼女は気づいていなかった。
くしくもその日のは満月。六本木の街はレイミに待ち受ける運命の扉をゆっくりと開いた。




