昔
しおんはレイミの方を伺った。その時、彼女のトレードマークであるトレンチコートが夜風と共に舞い上がった。
「サンキュ」
レイミは微かに聞き取れるような声でしおんに礼を言うとポンとしおんの肩に手を置いた。
「レイミ…」
ヒトミは彼女の少し小さくなった背中に視線を送る。ヒトミはレイミに声をかけようとしたが言葉がみつからなかった。いや、正直いうとどうしてよいのかすら判らなかった。
ライトアップされた東京タワーの弾くオレンジ色の光がレイミの後ろ姿を映し出す。夜風がサッと通り過ぎると木々のざわめきと一緒に彼女のトレンチコートと髪が揺らめいた。
しかし、その風は四人の間にある空気を変えるまでには至らなかった。
ヒトミは今のこの雰囲気に耐え切れずレイミの元に近づこうと、一歩踏み出そうとした。しかし、その刹那。レイミがこちらに背を向けたまま言葉を発した。
「私が東方にハマったきっかけでも話そうか」
夜風と共に彼女の言葉が耳に入る。彼女はそう言うとその身をこちらへと向けた。
「座ろっか」
そうレイミは言うと備え付けのベンチに腰を落とした。
「悪いわね。まーちゃん」
しかし、ベンチは三人掛けでまーちゃんだけがあぶれてしまった。レイミは微笑みをたたえその事を謝る。
彼女はそれを受け取るとこれといった表情も浮かべず胸元まで手をあげて「いいよ」と無言の返答をした。
レイミの表情が僅かながらに困ったようにも見えたが、そこは彼女の好意に甘えた。
そしてレイミは夜空に一旦視線をさ迷わせるとそれを地面へと落とした。
一瞬だが唇を真一文字に締めたような気がヒトミには感じ取れた。
彼女が東方プロジェクトにハマるきっかけ。それはこの街。六本木と決別するきっかけでもある。
ヒトミも彼女がなぜ東方にハマりそして漫画を書き始めたのかを知らない。いや、どちらかといえば知ろうとしなかった。
いつも明るく、我儘ではあるが姉御肌の彼女の影を見るような気がしてヒトミ自身もその事に関してはあえて触れずにいた。
正直、気が引けたのだ。
そしてレイミもその事を語ろうとはしなかつた。
夜の世界の暗黙の了解。
その人物の過去に何があったのか?夜の世界ではそれを聞く事を良しとしない習わしがある。
いわゆる渇いた悟り。
「まず、わたしがなぜ東京に来たかね…」
レイミはゆっくり口を開く。
「私、実は漫画家を志して上京して来たの。勿論、漫画家のなり方なんて分らないからとりあえず専門学校に入ったわ。でもそれが間違いの始まり」
彼女は当時の自分を懐かしむような憂うような表情をした。
「でも、右も左もわからない街。どこに行っても人で溢れかえっている都会。そして周りの人と馴染もうと、交わろうとすればするほど自分の我儘な性格が邪魔をする。気付けば独りぼっち。当然、学校に居場所なんてなかったわ。そんな時だった。私のそんな心の中を見透かしたようにある男に話しかけられたのは…」
レイミは一旦夜空に視線を送る。
「当時、世間知らずだった私はそれがホストのキャッチだと分からず着いて行ってしまったの。でも、正直嬉しかった。商売だと分かっていても、その愛情が偽りだと知っていても、その時だけは私の我儘が許されているような気がして。陳腐ないい方だけどお姫様になれたの。ホストクラブにいる間だけは…」
そこにいる者は正直意外な気がした。自分達が知っているレイミとはまるで反対の彼女がそこにいた。
レイミといえば男勝りの豪快な性格。分け隔てない接し方。が故の一見我儘にみえる気性。しかし、それは相手の事を思えばこそである場合が多い。簡単にいえば先ほど述べた姉御肌、であり肝っ玉母さん。
しかし、漫画家を目指していた頃のレイミは違った。
我儘な性格に変わりはないがそれはただ単に堪え性がなく、楽の方に流されるだけの自堕落な人格。
学校にいけば夢が叶うと思う楽観的な人生観。
世間はそんな努力をしない人間に甘くはない。
そしてそれはレイミの思惑をあざ笑うかのように牙を剥く。
「オネーさん。今暇?」
学生時代のレイミ。新宿にある大型の画材店から画材を買った帰りに見知らぬ男性に話しかけられた。
彼女はこの時既に学校に居場所はなく、独り授業で使うための画材を買いに来ていた。




