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 黄昏時、ぼくたちは毎日のように会って会話をした。

 夕陽が落ち始めて空の赤みが消えるほんの少しの時間だけだったけれど、それでもぼくはとても楽しかった。

 

 初めて出逢った頃は、行く当てがないから学校の図書室へと足を運んでいた。

 けれど今は、彼女に会えることが楽しみで学校へ行く。

 

 ぼくの住む世界は相変わらず息苦しくて、切なくて、どうしようもなく汚れていて、……だから一刻も早くこんな場所から抜け出したいと思っていた。

 それでも彼女と二人で過ごす時間だけは、ぼくの唯一の宝物だった。

 彼女と一緒にいられるから、ぼくは呼吸することをやめずにいられた。

 

 こんな時間がいつまでも続けばいいと、心の中でひっそりと思っていた。

 ずっとずっと続いてくれさえすれば、それだけでぼくは他になにもいらなかった。

 

 ……それでも。

 そんなささやかな願いさえも、この冷たい世界は許してはくれなかった。


 少女が消えた。

 いなくなったのだ、こつ然と。


 昨日も、おとといも、その前も。

 ずっと少女と会えていない。

 夕暮れの時間帯でも、少女はぼくの前に現れない。

 どんなに待っていても、あの涼しげな笑みを見られない。

 白い肌も、流れる黒髪も、白魚のような指さえも、なにもかもを失った。

 ――ぼくの世界から、唯一の光が消えた。

 

 どうせ会えない、会えるわけなどない。

 ……そう何度も自分に言い聞かせて、頭ではわかっているつもりでも、ぼくは今日も諦めきれずに心のどこかで期待して、鉄製の重い扉を押し開ける。

 

 八月の最終日。

 夕立がやんですぐの屋上には、水たまりに映る二色の空がいくつもあった。

 ぼくの虚ろなふたつの瞳に映るのはその景色ばかりで、一人の少女の姿はとらえることができない。

 

 鉛のように重い足を上げ、前へゆっくり進める。

 ズボンの裾が屋上の地面の雨を吸い上げ、色濃く変わる。


 塗装が剥げてところどころ鉄がむき出しになっている錆びたフェンスに手をかけた。

 ぼくと彼女を隔てていたこの境界線を乗り越えて、いつも少女が立っていたコンクリートの淵にそっと足をかけてみる。

 

 雨が通り過ぎたあとの、埃くさい風が頬を撫でる。

 遠くの地面を覗き込むと、海のように大きな水たまりが校庭いっぱいに広がっていた。


 少女が好きだった空。

 ぼくも、好きになりかけていた空。

 そんな二色の空が、スクリーンのように遠くの地面にはっきりと映し出されている。

 まるで()()()()()()()みたいだった。


 ああ、あの子はいつも、ここからこんな景色を見ていたのか。

 黄昏の空に挟まれながら、ぼくは彼女のことを想った。

 

『さようなら』は言わない。

 別れの挨拶はいつだって悲しいものだから。

 少女はそう言っていた。

 だから、いなくなったのだろう。

 ぼくに、なんの言葉もなしに。

 

 どうしようもなく空っぽになった胸はこんなにも切ないのに、不思議と涙は出てこない。

 きっとぼくは、最初からわかっていた。

 知っていたのだ、この物語がどんな結末を迎えるのかを。


 少女は言った。

 ここは「不自由な世界」だと。

 ぼくはまた、その不自由な世界に戻ってきてしまったのだ。

 彼女のいない、不自由なこの世界に。

 

 つらい。

 苦しい。

 悲しい思いをするのはもう嫌だ。

 抜け出してしまいたい。

 

 こんな世界なら――もう、いらない。


『――だから、空に落ちるのよ』


 ふと、少女の声が聞こえた気がした。


『言ったでしょう。この黄昏の空に、まっさかさまに落ちていく。そうすれば、この不自由な世界とはさよならできる。つらいなら、苦しいなら、飛んでしまえばいいの。だって、わたしはそうしたわ』


 ……そうか。

 そうだったんだな。

 空に落ちる意味が、ようやくわかった。

 ぼくはやっと納得できたのだ。

 

 だったら、ぼくも空に落ちたい。

 あなたと同じように、空に落ちてしまいたい。

 ……そうすればぼくは、


「また、あなたに会えますか」


 風にさえ掻き消されそうな、掠れた声で呟いたひとりごと。

 締めつけるような胸の中で、少女がいつものあの微笑みを見せながら「もちろん」と返事をしてくれたような気がした。

 

 それならば、今すぐに行きたい。

 会って、もう一度話がしたい。

 それを叶えてくれるのが空ならば、ぼくはきっと空を綺麗だと思えるようになる。

 空も、あなたも、好きになる。


 さあ、空に落ちて、会いに行こう。

 しあわせになるために。

 自由を手に入れるために。

 追うんだ、彼女を。

 会いたい。

 会いたい会いたい会いたい。


『わたしもよ。早く来て。大丈夫、体がぐちゃぐちゃになっても、わたしが強く抱きしめてあげる。

 だから――この黄昏の空を越えて、おいで』


 耳の奥で、はっきりと聞こえた彼女の声。

 脳裏に浮かぶ、ぼくを手招きする細い腕。

 

 ああ、これで、やっと解放される。

 そう確信したぼくは、一人うっすらと笑い小さくうなずいて――下に広がる赤と藍色の深い空を遠い目で見つめながら、コンクリートの淵を軽く蹴った。



(終)

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