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 次の日。

 雨の降る中、ぼくはまた学校へと足を運んだ。

 なんとなく気になって、図書室へ向かう前に一度、屋上を訪れてみた。

 しかし、あの少女はいなかった。

 

 仕方ない。

 べつにいい。

 会えるとも思っていなかったのだ。

 会えたところで、話すことはなにもない。


 夏休みでも図書室が開放されている理由は、生徒に読書をさせるためらしい。

 少しでも本に興味を持ってくれたらと校長が提案したそうだ。

 とはいえ、節電の観点から冷房はつけないでいようとのこと。

 こんな灼熱の夏休みにわざわざ冷房の効かない学校に出向いてまで本を読もうとする変わり者の生徒はいない。

 ……そう、ぼく以外は。

 

 ぼくはいいんだ。

 どうせ居場所なんてどこにもない。

 家にも居づらい。

 どこかへ行きたくたってお金もない。

 だから誰もいない夏休み中の学校は、ぼくにとって実におあつらえ向きの場所だった。


 熱気と湿気でじりじりと蒸されるような図書室で本を読んでいたら、あっというまに日が暮れた。

 時計を見ると、昨日初めてあの少女と出逢ったときと同じ時間だった。

 ぼくは帰りにもう一度だけ、学校の屋上へと向かうことにした。


 ただでさえ重い鉄の扉が錆びついて余計に開きづらくなっている扉を押し開ける。

 その瞬間、雨上がりの空に浮かぶ赤と藍のコントラストが視界に飛び込んできた。

 空なんて今まで気にしていなかったけれど、こうして改めて見てみると彼女が気に入る気持ちもなんとなくだけどわかる気がした。

 

 じっと二色の空を眺めていると、


「いらっしゃい」


 と鈴を転がすような声が聞こえた。

 

 視線を向けると、そこにいたのはあの少女だった。

 相変わらずフェンスの向こう側にいて、コンクリートの淵に足をかけている。

 ぼくなら、そんな場所にいたら腰が抜けて立っていられない。

 

 少女は真っ白い肌の中にある薄赤いくちびるに笑みを浮かべて、こちらを涼しげな表情で見据えている。

 ぼくはほんの少し呆れた。


「聞いてもいいですか」

「なにを?」

「昨日はどうしていきなり帰ったんですか」

「どうしてって?」

「別れの挨拶もなしに、突然いなくなるなんて」


 ひどいと思う。

 そっけないふうに見えていたとしても、ぼくはそれなりに会話を楽しんでいたつもりだった。

 それなのに、いきなり帰ってしまうことはないと思う。

 

 むっとしながらそう言うと、少女はゆるりと首をかたむけた。


「あら。別れの挨拶? 変なことを言うのね。そんなの必要あるかしら」


 ある、というか、普通はするものだと思う。

 挨拶とまでは言わなくても、せめて「もうそろそろ帰るね」の一言くらいはほしかった。

 夜の屋上に一人残されたぼくの虚しさといったらない。

 

 しかし少女は、悪びれるそぶりも見せずに言う。


「わたしね、『さようなら』って言葉、嫌いなの」

「嫌いって」

「そんなもの聞いたら悲しくなるだけよ。お互いにね。だからわたしは言わないの。家族にも、友だちにも、あなたにも」


 細い指でぼくを指す。

 胸がどきりとした。

 

 聞いたら悲しくなるだけ。

 彼女の言葉を噛みしめてみると、そうかもしれないと思った。

 確かに、別れの挨拶は悲しいものだ。

 そんなものを言うから、なおさら別れが悲しくなる。

 それならぼくも今日から「さようなら」を言わないようにしよう。

 とくに、この少女との別れ際のときは。

 そうすれば、お互いに悲しむこともない。

 

 そう決めたところで、ぼくは少女に言う。


「昨日の話の続きをしてもいいですか」


 まばたきを二回ほどしてから、彼女は意地悪な笑みを浮かべて、錆びたフェンスの上に肘を掛けて寄りかかった。

 少し触れただけで軋むフェンスも、羽根のように軽いであろう少女の体重ではびくともしない。


「おもしろい話なら」


 そんな話は持っていない。

 するつもりも毛頭ない。

 それでも気にせず話し出す。


「あなたは今、しあわせなんですよね」

「そうね」

「でも昔はつらい思いをしていた。この世界に不自由していた」

「ええ。そのとおりよ」

「それなら、教えてください」


 彼女の瞳をまっすぐに見つめて、


「どうしたら、あなたみたいになれますか」


 純粋で単純な質問だった。

 少女は長い黒髪を風になびかせながら首をかしげる。


「あなたはしあわせになりたいの?」

「しあわせじゃなくてもいい。世界に不自由な思いをしなくてもいいようになりたい」


 だから、教えてほしい。


「どうやったら、あなたはこの息がつまるような世界から抜け出せたんですか」


 体の横でこぶしを作る。

 手のひらに爪が食い込むほどに、ぐっと強く握り締めた。


 心にゆとりのないこんなぼくとは反対に、少女は余裕げな微笑みをくちびるに滲ませ、すっと目を細める。

 そしてどこか恍惚な表情を浮かべて、彼女は言った。


「空に落ちるの」


 たった一言。

 それが、この世界から逃れられる方法。

 

 ばかにしているとは思わない。

 しかし、ぼくにはそれが正しいアドバイスだとは思えなかった。

 目をすがめて少女を見る。


「空に落ちる……だって?」

「そう。空に落ちる。この黄昏の空に、まっさかさまに落ちていく。そうすれば不自由な世界とはさよならできる」


 それから囁くような声で、


「それでわたしは、自由になれたわ」


 ぼくは硬く握ったこぶしを解いた。

 真剣に聞いたのに、そんな抽象的な答えだとは思わなかった。

 

 ゆるゆると小さくかぶりを振る。


「……そんなの無理だ。空に落ちることなんてできるわけがない」

「わたしはできたわ」

「うそだ」

「うそじゃないわ」

「ふざけてるのか」

「あなたが教えてほしいって言うからそのまま答えただけよ」


 少女はまっすぐにぼくを見つめる。

 うそっぽい。

 それでも彼女は本気で言っているように見えた。

 

 ぼくは少し間を置いてから聞く。


「……じゃあ、どうやって」

「それはあなたが考えなくちゃ」


 即答だった。

 答えは教えても、過程までは教えてくれないらしい。

 意地悪な人だ。

 

 ぼくは小さく溜め息をついた。

 それからもう一度聞く。


「あなたは、空に落ちることができたんですね。この黄昏の空に」


 聞けば、こくりとうなずく少女。

 これ以上はなにも問うつもりはなかった。

 しあわせになれた彼女が言うのなら、そうなのだろう、きっと。


「……それなら、ぼくも考えます。空に落ちる方法」


 呟くと、少女は「うん」とうなずき、にっこり笑った。

 そのてらいのない笑顔にぼくはなんだか照れくさくなり、髪をくしゃくしゃと掻きながら下を向く。

 

 人とこんなふうに会話をしたのは、久しぶりだった。

 友だちとも、両親とさえも、……ぼくは話をしないから。

 

 わざとらしい咳払いをひとつ。

 少女と目を合わせないまま、ぼくはだらしなく視線をさまよわせた。


「ええと、あの、もしよかったら……名前を教えてくれませんか。あなたともっと話がしたい」


 情けないことに声が震えてしまった。

 自分からこんなことを言ったのは生まれてはじめてだった。

 

 名前を知って、もっと話をして、それから……わがままかもしれないけれど、仲よくなりたかった。

 親密な仲になりたいとは言わない。

 それでも、話のできる友だちにはなりたいと思った。

 誰かとこんなふうに話せるようになったのは、もう何年間もなかったから。


 ……しかし、いくら待っても返事は返ってこなかった。

 訝しく思い顔を上げ、ぼくは小さく苦笑した。

 

 たった今まで話していた少女はまたその姿を消していて、夜に飲まれた空だけがぼくをじっと見降ろしていた。



 * * *



 翌日、ぼくは再び学校へと足を運んだ。

 しかし、昼間には屋上へ行かなかった。

 行ったとしても、どうせ会えない。

 行くなら放課後。

 夕暮れ迫る時間帯。

 そのときでなければ、あの少女には会えないだろうと思ったのだ。


 屋上へと続く重たい鉄の扉を開けると、黄昏の空をバックに少女がコンクリートの淵に立っていた。

 まるでぼくがここへ来ることをわかっていたみたいに、最初からぼくをじっと見つめていた。


「いらっしゃい」

「……こんばんは」


 彼女が今日もちゃんとここにいてくれたことに、心の中で安堵する。

 ぼくは小さく笑いながら少女に近づいた。


「昨日も別れの挨拶はなしでしたね」

「そうね。言ったら悲しくなるもの」

「はい。ぼくもそう思います」


 錆びたフェンス越しに、ぼくたちは今日も話をする。


「昨日の話の続きをしてもいいですか」

「おもしろい話じゃないのなら、嫌よ」


 そんな少女の言葉にぼくは苦笑しながら、昨日聞きはぐったことをもう一度口にした。


「名前、教えてください」


 すると、突然少女の顔から笑みが消えた。

 聞かれたくないことだったのだろうか。

 少し焦ったけれど、それでもぼくは彼女の名前が知りたいと思った。

 

 少女はぼくを見て目を細めると、ふいとそっぽ向く。


「おもしろくない話なら嫌だと言ったわ」

「すみません。でも、名前が知りたいんです。それから……学年とクラスも」

「おもしろくないったら」

「お願いします」


 食い下がると、少女は怒ったような、困ったような、複雑そうな顔をしてぼくを横目で見た。

 それから少し語気を強めて、


「わたしのことは、内緒よ」

「……それなら、学年だけでも」

「あなたよりは上ね。それ以外は秘密」


 それはそうだろう。

 ぼくは一学年なのだから。

 

 夏休みが明けても会えたらなんて思ったけれど、なんだか自分のことは言いたくないみたいだった。

 もしかしたら、ぼくみたいな奴に校内で話しかけられたら迷惑だとでも思っているのかもしれない。

 ……そうなら、仕方がない。

 

 諦めて、小声で「わかりました」と呟く。

 すると少女は安心したようにほっと息をついてから、先ほどとは打って変わりぱっと表情を明るくする。


「それで、どうかしら。空に落ちる方法は思いついた?」


 ぼくはゆっくりとかぶりを振った。


「いいえ、ちっとも」

「そう。ゆっくり考えるといいわ。それまでは付き合ってあげる」


 口もとに笑みを浮かべる。

 ぼくの答えが出るまでこうして話をしてくれるのであれば、このままでも悪くはないかもしれない。

 ……そんなふうに思った。

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