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 ――空に落ちるの、と彼女は言った。

 黄昏の空に落ちてしまえば、きっとなにもかもらくになれるから、と。


 * * *


 夏休み。

 夕立のあと。

 ひぐらしの声。


 肌にまとわりつくような湿気としたたる汗にうんざりしながら図書室を出たぼくは、幽霊みたいな足取りで薄暗い学校の階段をゆっくりとのぼった。

 錆びた重たい鉄製の扉を、青白く細い両腕にめいっぱいの力を込めて押し開ける。

 濃い橙と藍色の空がゆうらりと雲を流して、ぼくを出迎えてくれた。

 ふらりと立ち寄った雨上がりの屋上には生あたたかい風が吹いていて、ぼくの頬を不躾に撫でていく。

 鼻から深く息を吸い込むと、雨に濡れたコンクリートの匂いがした。

 

 屋上の真ん中に立つ。

 そこからぼんやりと遠くを見つめた。

 この街の、もっと先の、遥か遠くにある「どこでもない場所」を。

 それから、こんなことを考える。

 どうやったらここから抜け出せるのだろうと。

 飽きもせずに毎日同じことばかりを繰り返す、終わりのないこの場所から。


 肺の中の空気をすべて吐き出すように、ゆっくりと息を吐く。

 静かにまぶたを閉じた、そのときだった。

 

 ――こつり。

 靴のかかとを鳴らす音が、ぼくの耳に届いた。


 はっとし、目を開く。

 そこには目をみはるような光景があった。


 白のブラウスには燃えるような夕焼けの赤を映し、夜の空を思わせる紺色のスカートをはためかせ、くちびるに薄い笑みを貼りつけた一人の少女が――錆びたフェンスの向こう側のコンクリートの淵に立ち、こちらをじっと見つめていた。


 ぼくは信じられない思いで彼女を見ていた。

 目に見えないものは信じない、目の前で起きていることだけが現実だと考えるぼくにとって、今見ているこの景色はどう説明すればいいのだろう。

 だって、風に揺れる長い黒髪や、透き通るような白い肌、それから今にも消えてしまいそうな儚げな雰囲気は――まるで“幽霊”そのものだったのだから。


「ねえ、そんなに驚かなくてもいいんじゃない? 今のあなた、とってもおかしな顔をしてる」


 まるで昔からの知り合いに気さくに話しかけるみたいに、少女はなんのためらいもなく、ついでに遠慮もなく、当たり前のようにぼくに声を掛けてきた。

 

 本来は大声を出して腰を抜かすところだ。

 けれど、あまりに普通に話しかけられたおかげで、なんだか拍子抜けして、ぼくは叫ぶタイミングを失った。

 ぽかんと開いた口をおとなしく閉じて、代わりにこくりと喉を鳴らして唾を飲み込む。


 まだよくわからないのだけど……。

 彼女は、人間か?

 それとも幽霊か?


 警戒しながらも、少しずつ少女に近づいていく。

 

 よく聞く話では、幽霊は足がないという。

 はっきりくっきり見えるうえに、普通に会話ができる時点でその線はないだろうけれど。

 念のため、少女に両足があるかどうかを確認することにした。

 錆びついたフェンスの向こう側を覗き込む。


 ……あった。

 その体躯にお似合いの、真白く細い足が長いスカートから二本しっかりと生えていた。

 

 ぼくは、ほっと息を吐く。


「……よかった。ちゃんと足がついてる」

「足がどうかしたの?」


 ぼくのひとりごとに、少女は自分の足を見降ろして首をかしげた。

 ますます人間らしい仕草だ。

 安心したぼくは、胸に手を置いたまま言う。


「あなたに足があるかどうかを確認したんです。もしかしたら……ないかもしれないと思ったから」

「足が? ふうん、変わった人ね。あるに決まっているでしょう、人間なんだから。……あ。もしかしてあなた、わたしのことを人魚だとでも思ったの? ふふ、嫌ね、恥ずかしいわ」


 照れたように体をくねらす少女。

「幽霊だと思った」なんて、口が裂けても言えない雰囲気だ。

 まあ、幽霊も人魚も怪異という括りでは同じようなものだから、そんなに違いはないのかもしれない。

 そういうことにしておこう。


 頬を撫でつける黒髪を指ですくいながら、少女はころころと笑う。

 明るい人だ。

 ……この場所には、てんで不釣り合いなほどに。

 

 ぼくは笑う彼女を訝しげに横目で見て、心の中で言っていいものか迷っていたことを口にする。


「……あの。そんなところでなにをしているんですか」

「さあ。こんなところでなにをしているんだと思う?」


 質問に質問で返された。

 意地の悪い人だ。

 ……こっちがなにも答えられないのを知っていて。

 

 ぼくは黙り込んだ。

 少女の質問には答えなかった。

 口をつぐむしかなかったのだ。

 

 だって、夏休み中の夕暮れ時の屋上で、わざわざ錆びたフェンスを乗り越えてその向こうに立つなんて……どうせやることはひとつに決まっている。

 今のぼくに言えることといえば、「タイミングが悪くてすみませんでした」くらいだ。

 

 なにも言わないぼくの内心を察したのか、少女は口もとに手を当て小さく笑った。

 それから「あなた、なんだかちょっと勘違いしてるみたい」と呟き、そっと空を仰ぐ。


「わたしはね、空を見ていたの」


 ぼくは思わず目をまたたいた。

 思っていた答えとまったく違う。

 

 空、だって?

 

 少女はぼくに背を向けて、すっと青白い腕を伸ばし上空を指差す。


「ほら、見て。西の空はあんなに燃えるような赤をしているのに、東の空は今にも吸い込まれそうなほどに深い藍色。とても不思議で、とても綺麗でしょう」


 同じように空を見上げる。

 彼女の言うとおり、一面に広がるそれはどこまでも赤く、どこまでも藍色だ。

 

 不思議だろうと言われれば、確かに不思議かもしれない。

 空はまるで、生き物のように表情を変える。

 生きているわけではないのに、泣くみたいに雨を降らせたり、笑うみたいに晴れたりする。

 

 ……でも、綺麗だとは思わなかった。

 今までぼくは、空をそんなふうに見たことはなかったから。


「空が、好きなんですか」


 ぼくの声に、少女はたっぷりと間を置いてからうなずいた。


「好きよ。大好き。……あなたは、嫌い?」

「さあ、わからない。考えたこともない」

「残念ね。それなら、あなたは空をどう思っているの?」

「……どうとも」


 思っていない、と言いかけて、小さくかぶりを振った。

 

 違う。

 たぶん、ぼくは空を好んでいない。

 むしろ、心の奥底で、きっと無意識に憎んでいる。

 

 だって、ぼくにとって空は。


「好きにはなれないもの、かもしれない。空はいつだってそこにいるのに、ぼくを見て見ぬふりをする。ただじっと見下ろすだけで、助けてはくれない。……そりゃあ、助けてくれるとも、思っていないけれど」

「そんなことはないわ」


 はっきりと少女が言う。


「そんなことはない。空は助けてくれる。わたしは、助けられたもの」


 それは、あなただからだ。

 空は、こんなぼくのことまで助けてくれるとは思わない。

 ぼくのことなんて、きっと誰でもどうでもいい。

 

 ぼくはひとつ息を吐いたあと、視線を少女に戻す。


「もうすぐ日が落ちます」

「そうね、落ちるわね」

「そんなところにいたら危ないですよ。……日が落ちる前にあなたが落ちそうだ」

「ふふ。おもしろい人ね。うん、わかってる。でもわたし、ここがとても好きなの。二色の空にいちばん近い、この場所が。危険だとしても、ずっとここにいたいと思うくらい」


 少女は、まだ空に手を伸ばしている。

 そんなことをしたって届くはずなんかないのに。

 

 黙ってその様子を見ていると、ふいに彼女はぼくを肩越しに振り返った。

 薄いくちびるにゆるやかな笑みを浮かべ、彼女は言う。


「あなたはどうしてここへ来たの?」


 ぼくの心を見透かすような瞳に、少しだけどきりとした。

 ぼくは目を合わせ続けることができずに、ふいと顔を背けて、


「……べつに」


 と小声でそっけなく答えた。

 少女はまた控えめに笑う。


「うそが下手ね」


 はっきりうそだと言われてしまった。

 否定はしない。

 そう思われたのなら、仕方がない。

 

 まるで天使が背中の羽根を伸ばすように、彼女は白い首を仰け反らせながら両手を大きく左右に広げた。


「わたし、知っているの。黄昏時に学校の屋上へ来るのはね、この世界に不自由している人ばかりなのよ」


 目を細めた。

 知ったような口を聞く。

 ぼくは鼻を鳴らすだけでなにも答えなかった。


「あなたも、そうでしょう?」


 ぼくはうなずかない。

 かぶりも振らない。

 ただじっと、あと数センチでも足をずらせば、椿の花が終わりを告げるときのようにそのまま地面へとその細い体を打ちつけるであろう少女のことを見つめた。

 

 互いになにも話さない時間があった。

 たった数十秒のあいだだったけれど、それはとても永く感じた。

 

 ぼくは彼女を見据えたまま、ゆっくりと口を開く。


「それなら、あなたもそうなんですか」

「わたし?」

「ここにいるということは、あなたも世界に不自由しているんでしょう」


 そんなつもりはなかったけれど、少し挑発的な言い方になってしまった。

 それでもぼくは言い直したりはしなかった。

 この世界に住む人たちにどう思われようが、もうかまわなかった。

 

 少女はそんなぼくを見ると、どこか懐かしげに目を細めて微笑む。


「そうね。していたわ。……昔はね」


 今度は体ごと振り返り、少女はフェンスに肘をつく。


「でも今はしていないの。しあわせなことばかりよ」


 しあわせなんていうのは、幻みたいなものだと思う。

 それでも、はっきりとそう口にできる彼女をうらやましく感じた。

 風に揺れる髪を耳にかける少女の後ろでゆっくりと流れている橙色の雲を、ぼくはぼんやりと見つめた。


「つらいことがあったんでしょう」


 細い棘が皮膚に刺さるみたいに、彼女の言葉はぼくの胸の奥のいちばん柔らかいところにちくりと小さな痛みをもたらした。


「自分じゃ気づいていないでしょうけれど、苦しげな顔をしてる」

「……そう、でしょうか」

「我慢しているのね。かわいそうに」


 苦しげ。

 我慢。

 かわいそう。

 

 耳をふさぎたくなるくらいに、すべてが今のぼくにお似合いの言葉だ。

 

 この少女には、きっとなにもかもを見透かされている。

 けれど認めたくなんてない。

 ぼくは下を向き、目を瞑り、くちびるを引き結んでじっと黙っていた。


 昔は世界に不自由していたと、少女は言った。

 だけど、今はしあわせなことばかりだとも。

 

 うらやましかった。

 そんなふうになりたかった。


「……どうしたら、あなたみたいになれるんでしょうか」


 ぼくはぼそりと呟いた。

 ひとりごとではない。

 問いかけたつもりだった。

 

 ……それでも彼女からの返事はなかった。

 

 ゆっくりとまぶたを開き、顔を上げる。

 そこには、夕暮れの赤が失われた濃藍の空がどこまでも遠くまで続いているだけの景色があって、少女の姿はどこにもなかった。

 

 慌ててフェンスに駆け寄り、下を覗き込む。

 しかし彼女はいなかった。

 落ちたわけでは、ないらしい。

 

 ぼくが目を瞑っているあいだに帰ってしまったのだろうか。

 いきなり。

 なにも言わずに。

 

 ……まあ、いいか。

 どうだって。

 

 どうせ誰も――ぼくになんて、興味はないのだから。

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