第九話 振り返れば……
■天文19年(1550年)2月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田義信
元服してから一ヶ月、俺はもっぱら甲斐の内政に励んでいる。
内政と言っても難しい事は無い。新田開発、治水工事の進捗状況の確認、親父様の祐筆(書記)見習い、騎馬の繁殖とその管理、牧場の増設計画の取り纏め、等々。やってる事はこれまで他の家臣が従事していた業務のため教わりながらやっている。
勿論、初仕事だから真面目にやってます、嘘じゃないよ。だって今までタダ飯喰らいだったんだから、それ位はやらなきゃ……ねえ。
もっとも、俺の提案で取り入れられた事もある、それは蹄鉄の改良だ。やっぱり馬といったらまずは蹄鉄だろう。蹄鉄によって蹄の損耗を防ぎ、余り平坦でない地面を高速で走行出来る様にした。勿論、詳しい事は企業秘密だ。
まずは鉄の加工を始める事からはじめようと思った結果だ。将来的には鉄砲の自主製造を始めたいからね。次は馬鎧にでも着手しようと考えている。それから、鉄製品とは関係ないけど今後の鉄砲合戦に向けて、耳覆いなんかも取り入れて生きたい。やっぱり鉄砲の轟音でお馬さんが驚いて統制が取れなくなったら不味いもんね。
表の顔はそんな感じだ。そして裏の顔は……。
真田弾正忠幸隆が近づいてきて、俺に耳打ちしてきた。
「若君、越後の件ですが首尾良くいきました」
「有難う、担当してくれた透破に『感謝している、成功を信じてた』って伝えておいてよ。ああ、それとこれ」
そう言うと俺は幸隆に一房の巾着を与えた。
今回の褒美は越後に対する妨害工作によるものだ。まだ気が早いと思わなくも無いけど、虎昌が謀反を企てるのを阻止するだけじゃこの時代に生きる者としては心許ない。フラグに対しては早々に対処しておいた方が良いはずだ。
武田家が北進すれば、いずれは謙信と激突する事になるだろう。相手はあの謙信だ。油断も駄目だし、慢心なんて論外だ。
だから昨年、幸隆に『越後を混乱させたい。出来れば海路と陸路を封鎖、もっと言えば家中に煙を立たせたい』って依頼した。その依頼に対して幸隆は透破を用いて十二分に働いてくれた。まさか守護職の暗殺まで出来るとは思わなかったけどね。
「こ、こんなにも沢山の金子を……」
「一応、これもれっきとした仕事だからね。今回頑張ってくれた透破の皆への感謝の気持ちだよ」
巾着袋に入っていた金子に驚く幸隆、でもねこれは大切な事だと思うよ。
「し、しかし……」
「良いの良いの、ちゃんと給金が出る様な身分にもなったしさ、俺」
まだ困惑している幸隆に、俺は軽く手を振って応える。そう、一応俺も公的に給金を貰える身分になったのだ、エッヘン。もう今までのようにお小遣い制じゃないもんね。
実際、この時代で生きてきて思った事は、兎に角、忠誠って言葉が軽いんだよ。だから、ちゃんと仕事をしたら恩賞を与えないと、何時離反されるか分かったもんじゃない。それに人間は評価されている、信頼されているって事を目に見える形で表されると嬉しいものだ。それにただ、感状一枚をペロッと渡されたからって明日からの腹の足しにもなりゃしない。
「あ、有難うございまする」
「うん、これからも助けて貰うと思うけど、まあ宜しく頼むよ」
「ははっ」
因みに話は変わるが俺は元服の際に名前を変えた。この時代は諱(名前)で呼ぶ事は失礼な事とされ幼名や愛称、通名や官位で呼んだ。なんでも中国から伝わった事らしい、詳しい事は知らん! だから、元服する際に官位を決めようって事になったので、適当に『飛騨守』にした。勿論、朝廷から叙位された訳じゃない、勝手に言ってるだけの『通称』ってヤツだ。
誰か、早く俺を飛騨守って呼んでくれないかな?
■天文19年(1550年)3月 甲斐 躑躅ヶ崎館 工藤昌豊
「修理亮(後の内藤昌豊)、馬場美濃守が呼んでいたぞ」
家臣との打ち合わせ中に声を掛けられ、振り返ると若君が居た。
「美濃殿が、ですか?」
「うむ、火急の用事と言っておったぞ」
美濃殿からの火急の用事とは一体? 次の戦の事であろうか……。
「一体何でござろうか? 若君、何か聞いておりますか?」
「いや、俺も言伝を頼まれただけだからなあ……」
それにしても……。
「それにしても若君を伝書鳩にするとは、馬場殿も偉くなったものですな」
「ハハハッ、俺が買って出ただけだよ」
「しかし……」
「年寄りは大事にしないとね」
若君が笑いながら肩をすくめて馬場殿の顔を立てた発言をする。年寄り……普段、『年寄り扱いするでない、儂はまだ現役じゃ』が口癖の馬場殿が聞いたらなんと申すかな。
そんな事を俺が考えていると、今度はクスクスと笑い声を発しながら俺に催促してきた。
「さあ、急いで行った方が良いぞ。年寄りは気が短いゆえな」
「はっ、それではこの場はこれにて……」
急いで美濃殿の所に言ってみると、早速怒鳴られた。
「これっ、修理亮! 遅いぞ」
「……して、若君を伝書鳩にしてまでそれがしを呼んだ理由はなんですか?」
「決まっておろう! 練兵の相手をせよ。最近の若いヤツ等は軟弱でいかん! 儂が連戦連勝じゃ、ファハッハッ」
「その程度の事で若君を……ハア」
それにしても若君自ら言伝をしなくても使いの者を寄越してくれれば良いものを……。若君は腰が軽いのか、それとも我等との垣根を取り除こうとしているのか……。もう少し見定めねばならぬ、武田家の次代を担えるかを……。
■天文19年(1550年)4月 甲斐 躑躅ヶ崎館 春日虎綱
「おい、尻小姓」
「……」
振り向かなくても分かっている、この春日弾正忠虎綱を呼ぶ声で。
「おい、聞こえないのか? 尻小姓」
「……それがしにはれっきとした名がございます」
振り向きつつ反論すると、そこには若君と竹松殿(後の一条信龍)が居た。正直、この二人には関わり合いたくない。
「そんな事はどうでも良い。これから馬で熊野神社(現 山梨県甲州市塩山熊野)まで行く。共に参れ」
「それがしは忙しいのです。とても若君と遊んでいる時間はございませぬ」
うん、ここは断固拒否だ。
「そうか、忙しいのか……。では竹松、二人で行こうか?」
「そうだね太郎、きっと尻小姓は兄上との逢瀬で忙しいんだよ」
「成程な、恐らく昨日も尻を貸していて馬に乗れないのだな」
「間違いないね、他の小姓も『翌日はヒリヒリして痛い』って言ってたから」
言わせておけば……!
「若君、言って良い事と悪い事がございますぞ。それがしは既に一軍の将、何時までも御館様の小姓ではございませぬ。それに若君は既に元服されたのですぞ、いつまでも童のように口遊びをしていては家臣達に示しがつきませぬぞ」
「でも、お前だってもう近習じゃないのに今でもたまに父上と密談してるじゃないか? 小姓達が言っていたぞ」
「……ぐっ、それは」
落ち着け、虎綱。それがしと御館様との間には確かな絆があるじゃないか! それよりも今は確かめねばならぬ事がある。
「若君、そう申していた小姓を教えて頂きたいのです?」
「そんな猫撫で声で言っても駄目だよ、だってお前はきっと嫉妬してその小姓達を苛めるだろ」
「そっ、その様な事は……」
思わず絶句してしまう。いつもこれだ! 人の考えの先を読む、それも当たって欲しくない事を……。
「太郎、尻小姓と居ても詰まらないから、もう二人で行こうよ」
「そうだな、竹松」
風のように去っていく若君と竹松殿。……後で再度問い詰めねば! 御館様は誰にも渡さぬ!
■天文19年(1550年)閏5月 甲斐 躑躅ヶ崎館郊外 飯富昌景
今年も良い駿馬が産まれた。
毎年思う事だが、この幼馬のうち何頭を無事に帰らせられるか、それは兵をどれだけ生きて家族の下に帰らせられるかに帰する事になる。一人でも多く、一頭でも多く帰らせる事を考えて戦をせねば……。
そんな事を考えていると後ろから俺を呼ぶ声が聞こえた。
「三郎兵衛、こんな所で何やってるんだ?」
「これは若君。いえ、今年の産まれた駿馬を見ていたのです」
振り返ると若君が笑みを浮べながら話し掛けてきた。元服されてもう半年が経とうとしている、早いものだ。
「そうだろう、そうだろう。俺がこれはと思った牡馬を種付けに用いたゆえな」
「左様ですか、成程」
元服されてから騎馬の繁殖とその管理を手伝っていると聞く。きっと自らの仕事に自信があるのだろう。
そんな事を考えていると、若君が話を変えてきた。
「そうだ三郎兵衛、暇なら将棋の相手をしてくれ」
「それがしが、ですか?」
「うむ、兵部が上原城に赴任してから相手がおらぬ。馬場美濃ではまだ敵わぬゆえ、そなた位が丁度良かろう」
「むむっ、下手の横好きな兄者と同程度と思われるのは心外。喜んでお相手させて頂きましょう」
パチッ。
将棋を指しながら、最近思っている事を話してみる事にした。
「若君、宜しいでしょうか?」
「何じゃ」
「最近、兄者から若君の近況をよく文で聞かれるのですが……」
「……」
俺が兄者からの書状について話を持ち出すと、目に見えて若君の顔色が変わった。どうしたのだ、一体?
「若君?」
「……しまった、兵部への文が滞っておった。まったく少し間が開くとすぐ心配するのだからなあ、兵部は。何時までも傅役癖が抜けぬようじゃ」
そういった裏の背景があったのか……。
「ハハハッ、左様でしたか」
「そなたからも言っておいてくれ。『太郎はいつまでも子供ではないゆえ、心配致すな』と」
全く、若君と言い、兄者と言い、いつまで経っても変わらぬものじゃ。さて、兄者への文には『達者でやっている』とだけ書き留めておくとしよう……。