第八十三話 銭
■天正九年(1581年)9月中旬 相模 小田原城 大広間
◆ 武田義勝
此度の交渉、まず人の交流についてはは大筋で合意を得られた。
一、双方が任意に出向する者を選べること。他方の要望が有っても、それを拒否できること。
一、出向者には、他方への取り込みを防ぐため従者を就けることができること。
一、交流は何時でも中止とできること。これは他方の合意は無用とするが、必ず双方の出向者の無事を保証すること。
兎にも角にも、今後に向けて他所のしている様を己の目で見て知れれば十分だ。”一番いけないのは憶測で相手を判断してしまうこと、それを儂は甲斐から駿河に居を移して思い知らされた”と、昔、勝頼叔父も申されていた。
私も此度の交渉を通じて少なからず実感した。日ノ本を一つにする過程で概ねを等しくする為に武田家がこう取り決めたからといって、他家も習う必要は必ずしも無い。そこに住む者達の風土も風習も気質も千差万別であるのだから。大坂に戻ったなら、北条を始めとする関東の事は勿論の事、西国の良し悪しも見直して、改めて方策を進言したい。
そして財について、……これは揉めた。
平安の世より長らく『永楽通宝』と呼ばれる明銭を使ってきたが、畿内では宋銭が流通し始めていることが起因する。これによって地方では畿内からあぶれた明銭が他方の主流となり、更には貨幣を私に鋳造している。当家とて甲州碁石金と呼ばれるものまで発行してきた経緯もあれば尚更だ。今では日ノ本で貨幣が乱立している有様と言えよう。大陸から入ってきた明銭と宋銭だが、明銭よりも宋銭の方が古くより使われている。だが、畿内など商いの盛んな地で使われれば摩耗や破損も早い。
当初の交渉ではどちらか一方に統べようと話を切り出したのだが、上述の通りの理由から混乱と怒号が広間に飛び交った。だからと言って何時までも貨幣が入り乱れていては不味いと、この場では下記の三つだけを好しとし、細部については後日に改めて話し合う事となった。これには氏直殿から、”今すぐ全てを決めねばならぬ訳でもあるまい。此処で決めてしまわず、他に手柄を立てたい者に任せてはどうか”との助言による処が大きい。
以前、新兵衛(増田長盛の事)が申しておった。
『これからも東国と商いをするために明銭が必要で、西国とは宋銭となれば、常に両方の銭を一定数保有していなければならないのでは懐が重うて敵いませぬな』
……確かに新兵衛の言は正しいと思うが、若いくせにいつも上からの物言いをするあ奴が苦手だ。私と歳も近い故に常々近くに居るが、これからも遜りの心をあ奴に身に付けさせるべく指導せねばと思う。
兎に角、今後の日ノ本を一つとするためには貨幣の統一は必須であれば、初動として今日までに北条家と以下の合意を交わせた。細部については、北条家の使者が大坂に着いてから関東から九州までの諸家を交えて話し合われる事となろう。
一、早々に両家領内にて流通させている銭を一つとすること。向後五年以内にて交換比率を設けて現行の貨幣と順次交換していく。
一、両家で財務の得手を出し合い、交換比率を逐次決めていくこと。その際に各地の物価を注視すること。
一、鋳造される枚数は広く公開し、私鋳は固く禁ずること。
とりあえず二つの議案については、一応の収穫を得られた。あとは大坂の佐吉や利兵衛辺りが汗を掻けば良い、……などと父の薫陶を受けた私は思う。
◆ 北条氏政
あれから十日が経った。その間に、儂は友を連れて城を離れ、小田原近郊を馬で観た。昨日などは、”これが酒匂川かァ、小田原城をこの川の脇にと定めた早雲公はやはり大虎(酒好きの事)であったのだな。うん、我が父も『武田の虎』などと大層な通り名を有しておったが、北条にも『虎』が居ったわ”と太郎は大いに笑っていた。
我等が戻る頃には、概ね両家の会談も決着していた。
その後に当家の主催で宴となり、両家共に胸襟を開いて酒を酌み交わしている。そして今、儂は氏照などの弟達と今後の当家を肴に呑み、太郎の方は我が倅達の取り囲まれて談笑に興じている。
「雲刻斎様にとって、我が母はどのような妹御でありましたか」
「そうだなァ、『妻』や『女』であった妹は知らぬが、幼少の頃の『妹』は他のどの妹達よりも可愛かったな。それと弟や妹を始め、己の家族を大事にする強い心を持っておった」
直定の問いにそう返しつつ、倅達に優しい眼差しで応えている。ただ、その後に見性院殿達の輪を見やりながら手を口元に添えて、”あ奴等には内緒じゃぞ”と小声で言い含めて集まった全員から笑いを誘っているが、……聞こえておるぞ。
「それにしても」
「ん? 如何された氏房殿」
「武田では、『北条家を討つ』との声は出なかったのですか? そう、例えば奥羽の諸家に対して旗幟を明らかにさせる等の大義名分を掲げて ――」
「俺の知る限りでは出てないな、……今のところは」
「? 今のところ、とは?」
太郎が上目がちに話し始める。
「今、当家は九州に兵を出しているが ――」
「そのことは風魔からの報せで存じておる」
「九州を平定した際であれば、『次は関東に』と進言してくる者は出てきたやも知れぬなと思ってな」
「……」
決して有り得ぬ話ではない。そう思った矢先に一瞬で寒気が身を包んだ。
「……ちなみに、此度の交渉を言い始めたのは ――」
「ん? 俺だけど。……何? 不味かったか?」
儂から一拍遅れで倅達の顔から色が失せていた。改めて此度当家に太郎が現れた事が僥倖であったと伺い知れた。
太郎も宴の場を白けさせてバツが悪いと感じたのか、別の話題を座の中に投じた。
「なァ漆黒斎よ」
「なんだ雲刻斎」
太郎から貰ったばかりの号で呼ばれたので、此方も号で返す。
「其方、北条家は氏直殿に譲ったのであれば、少しばかり目線を変えて動いてみぬか?」
「どういう事だ」
もしや儂自らに武田家が居を構えている大坂に出向けと申しているのかと少し気に障った。だが、太郎からの提案は別のものであった。
「早雲公から氏康殿までの三代でこの小田原を拓いた。確かに偉大だ。だが、其方が先代達に引け目を覚えているのならば、一代で未開の地……江戸などを富ませることが出来れば、死ぬ間際に笑って目を瞑れるのではなかろうか」
「そうは言うが、儂ももう不惑を超えておるのだぞ」
「早雲公は耳順(六十歳の事)を過ぎてから伊豆を治めたのだろ。彼の御仁がこの場に居られたら何と申されるかな?」
「六十引く四十は……、弱冠か?」
「否、『志学(十五歳の事)の小僧』だろうな」
男児、十有五にして学に志す顛 ――。
「確かに……。あの老中公であれば、鼻で笑いながら言いそうだ。しかし、儂一人でというのは ――」
「俺も手伝おうか? 此度の取り決めで武田家から人を北条に出すとなっておるし」
「何ッ!」
「なァに、ウチは倅が継いだし、どうせ大坂に帰っても佐吉にこき使われるのは目に見えておるからな。それに駿河の家に帰っても妻は己の趣が忙しいらしい。新婚でもないのだ、もう俺になど構ってはくれぬよ」
不意に太郎が当家に残ると言い出した。だが……。
「しかし無償でとは往かぬぞ、太郎」
「別に要ら ――」
「それでは当家の顔が立たぬのだ」
「そういうものか?」
「そういうものだ、潔く了見せよ」
何故、儂が同い歳の男を諭さねばならぬ。どうすればこのような男に育つのだ。誰ぞ、この男の傅役を呼んでこいッ! 儂自らが説教してやるわ。
あの宴から三日、この広間では連日連夜に亘って江戸をどのように拡げていくのか話し合われている。今に床が皆の唾で溢れかえるに違いない。
「まずは水源を押さえることが肝要かと」
「左様、我等が飲むにしても田畑に蒔くにも毎日大量に使われようぞ」
「我等だけではござらぬ。田畑を耕す馬や牛に与える水も考慮して頂かねばッ」
太田重正と、江戸城代を努めている遠山政景とその息子の直景が初めに取り掛かるべき案件を提起する。
水か、……西から多摩川と荒川と、江戸に向かって流れておる。両川の東の利根川まで利用できればとも思うが、流石に常に当家に難癖をつけてきた佐竹家との国境なれば、すぐに使うには難しいか……。
「大量に消費されるのは水に限りませぬ。朝晩の膳に使われる米や青物(野菜)も同じにござれば ――」
「まずはどの地で作付けするか、またどれだけの広さとすれば良いのか……」
「武田家が攻めてこなくなったと仮定すれば、相模と上野、それから西武蔵であろう」
更に同じく江戸城代の氏秀と、その父親で玉縄衆を取り纏めている道感(綱成の事)、そして小田原衆で当家宿老の松田盛秀も話を添える。この言に氏照を筆頭とする滝山衆、氏邦の鉢形衆が試案を始めだした。
「いやいや、まずはそこに住まわせる民を如何ほどに想定するかが大事であろう。その数に比して飲まれる水も食材の量も変ろう」
「幻庵様の申す通り。水しても米にしても住まう民が居ればこそ。やはり一番に決めるは町割り(都市の広さ)でございます」
だが、すかさず古狸の幻庵翁が課題自体の見直しを求めた。それに便乗して板部岡江雪斎が話の本筋を換える。両名共に恐らく己が討議の主導権を握りたいのであろう。
「また細事に心が向いておるぞ。其方等が臨終の折に瞼の裏に写したい江戸の地を考えよ」
「ははッ」
話が煮詰まってきたのを見計い、儂から苦言を受けた者が恐縮しながら討議を再開し始める。皆が言っておる事自体は間違ってはいない。まずは当面はどの程度の街の規模とするのか。そして人の数と土地の広さを決めたら、そこに住む民が使うモノの数だ、今のままで足りているのか、不足があれば他所から確保するのか新たに創るのか。今はまだ十年後の姿を共有すべき時であれば、しなければならない事をあれこれ申しても栓無き事。故に儂は頃をみて話題の修正を促す。またこれから大事を成そう志すならば、今は大風呂敷を拡げて広さを図るべきだ。
口を挟み話を戻しておきながら儂は今後十年を考えるに、”それにしても”と思わずにはいられない。
ただ単に住まわせる民を増やせば良いという訳にもいかぬだろう。事によっては海を土地の埋め立てて宅地を増やし、河川の流れを変えて水道網を整備せねばならぬだろう。果たしてその際の人工は何処から連れてくれば良いのやら。あと、水道網といえば運河として活用することも考慮に入れねばなるまい。
一体、どれだけの銭を要することやら……。そう溜息が出そうになる己を隠しつつ、昨夜太郎と交わした話を思い出す。その場には他に義勝殿と氏直しか同席させていない。
『太郎よ、当家一家だけで銭は賄いきれぬぞ』
『借財すれば良いだろ?』
『借財と簡単に言うが、一体全体、どこの阿呆が当家に銭を貸すというのだ?』
『えっ、ウチが貸すにきまってるだろ? その際に、古き銭を市中より引きずり出し ――』
『新しき銭と交換するわけか』
『その通り、流石は四代目ッ! おまけに交換は五年以内とすれば死蔵される旧銭も減るだろうさ』
そこで太郎が話をまとめた。
『そう、東国では町おこしの奨励だな。西国においては毛利攻めから此度の九州遠征で潰した田畑や街道の復旧で、と本家は考えておるようだ』
『成程。……しかし、その新しき貨幣だが、この日ノ本の隅々まで広めるためには『信』が不可欠。果たしてその『信』は容易く得られるモノか?』
一度は肯定しながらも、疑念を漏らていた。確かに、江戸の地を拡げるにおいても、新しい貨幣を創るにしても、当家だけでは『信』は得られぬ。膨大な額の銭が必要となると判っているだけに溜息が出そうだ。
『ああ、その事か。武田家が『信』を担っていくしかあるまい。今ではこの日ノ本一の大家となっておる故に早晩潰れぬ。もし当家が倒れるようなら、その時はまた動乱の世となっており銭の価値も変わっておろう』
『……』
(昨今、武田は毛利家を削り九州を攻めておるが、この北条には兵を出さずに戦をしおる)
昨夜の儂は戦慄に包まれた。これは大家を率いてきた故に覚えたのやも知れぬ。左を見れば倅も顔を引きつらせていた。今、隣に座っている隠居殿を此処に集まっている者達は何と見ておろうか。
太郎の言の行方、その行きつく処は……。江戸の拡張に多額の銭が費やそうとするならば、その銭は武田家を信じ、彼の家からの借財となるという事。この後、武田に背を向ければ拡張は行き詰まり、拡張を進めようとするならば武田が倒れぬよう当家は支えねばならない。昨日は武田家は当家を臣従させようとなどせぬと言っておったが、……何とも腹黒い男がこの御時世に居たものよ。
論戦の最中ではあるが、小憎たらしい横にある脇腹を軽く小突く。すると、横槍を受けたの主は腰を浮かしながら言い訳を漏らしてきた。
「お、起きておるって。ただ、瞼を閉じてただけだ」




