第八十二話 遅刻と早退
■天正九年(1581年)9月中旬 相模 小田原城(現 神奈川県小田原市城内)
◆ 大広間 武田義勝
小田原城に着き、早々に話し合いの席を設けて貰えることとなった。これは事前に氏房殿に会っていた事が大きい。本来であれば北条家の家臣一同が小田原に到着するのを待たねばならぬところであるが、我等が韮山城から小田原に向かうのと並行して行われた。それ故に我等は正装へ着替えるとすぐに二ノ丸にある大広間へ通された。否が応にも己の内が引き締められる。
私の前に父が座り、横には谷殿がいる。その左右を主だった北条家家臣が列している。そして、父と対面に座す北条家の先代と当代当主が上段にて覇気を発している。ちなみに、間違っても公式な場に女子や童を同席させる訳にもいかないとの理由で、一緒に旅をした叔母達と喜八は別室にて待機させている。父曰く『女子は何を言い出すか判らん、お子ちゃまに至っては保護者同伴でお願いします』との事だった。
それにしても、この小田原城とは何なんだろうと思う。城の周りを『総構え』という堀(堀切)や土豪で囲み、更にその中に外郭や曲輪で二重三重に守っている。この二ノ丸に着くまでおんぐりと口を広げていた私を見て笑った父が申すには、『我が父・信玄と対局にある城だな』とのことだった。それを受けて童の頃、駿府に居た際に叔父・勝頼様に聞かされた祖父の格言を思い出した。”人は城、人は石垣、人は堀”、その言を表しているのが躑躅ヶ崎館。そこにはまともな城郭が無い。在るのは主郭の周りに幾つかの曲輪と水堀、更に家臣達が使う屋敷や詰宿が取り囲んでいるだけだ。
いかぬ、これから始まる交渉に集中せねばならぬ。そう気合いと共に背筋を正すのと同時に上座の主が口を開く。
「北条家四代当主の氏政である。遠路はるばる、よう来なさった」
「武田家家臣、武田雲刻斎でござる。本日はこのような席を設けて頂き恐縮至極」
氏政殿と父がそれぞれ代表して因襲を踏まえた挨拶を交わす。これで主に発言できる名代が広間中に知れ渡る。
「それにしても事前の文では早ければ先月下旬には小田原に着くと記されていたが。おまけに不用心ではないかな? 貴殿の妹御達を連れてこられたのは」
「ああ、その事か。当初は共に参るつもりはなかったのだが……、不慮の事故が偶発して重なってしまった故。埒も無い事であれば、 気遣いは無用に願おう」
事故? ……拉致です、父上。もっとも流石に大の大人が旅先で実の妹達に捕まったなどと正したところで、この場に影響は無いと思い返し、口を噤んだ。
「義信殿、氏房から北条家並びに武田家にとり大事な話があると聞き及んだが、それも可及的にと。なればこそ我等はこうして集まったが、外交に息子だけでなく女子や童を帯同してくるとは前代未聞だな」
確かに氏政殿の御懸念はごもっとも。盟約の延長締結にしても、降伏の勧告にしても有史以来、古今東西の外交においては単身での会談が基本とされてきた。従者を連れてきていたとしても精々二人から三人までであったあろう。
「なあに、話し合いの結末に関わらず使者に害することなく城外へ帰するのは古来よりの武家の習いなれば、左程も心配はしておらぬがね」
「ふん、左様か」
「もっとも万が一にも、まさか天下に名の知れた北条家が、亡き姉妹の墓参りに訪れた女子供を捕るはずもなく。おまけに後ろに控えている倅は遠縁とはいえど北条家の血を引いておる故、無体には扱われぬと算しているだけが」
「……捕らぬ狸のなんとやら、とならねば良いがな」
「ああ、そう願うよ」
初めからの腹の探り合いに、これが外交なのだと思い知らされた。
そして初戦を引き分けとしたのか両名共に何事も無い態で話を変える。今度は此方の番だとばかりに父が駆け引きを進める。
「それにしても男ばかりで暑いな、残暑との相まって尚更だ。悪いが襖を開けてくれんかね?」
「……」
「別に逃げも隠れもしないよ。逆に襖の陰に隠れている者達も堂々と聞けばよい」
そう宣言すると、父は胸紐を解いて直垂を脱ぎ始めた。後には純白の内襦袢のみが残る。
喉のひり付きを覚えて唾を飲むが、妙に粘っこい。左右の列からもざわつきが起こる。
「……襖を開けよ」
一度躊躇したが、氏政殿が広間に命じる。すると左右の ―― 廊下と奥書院 ―― 襖が開かれた。やはり襖の陰に数名配置されていたか……。予想はしていたが改めて此処が敵地なのだと実感する。
目の前の背中を見る。そして改めて私は父を含めた先達に守られてきたのだと気付いた。
「さて ――」
「?」
「もう、行くよ」
え、何処に? まだ本題にすら入っていないのですが……。父上、駿河でのんびりし過ぎて痴呆となられたか?
だが、私の淡い希望は残暑の湿った風によって消し飛ばされた。いつの日か追いつき逆に守る側になろうとした先程の決意には、どうやら猶予は与えられないらしい。
「何処へ行くというのだ、まだ会談は始まったばかりぞッ!」
「へ? だから、此処に着いた時点で此度俺が受けた役目はほぼほぼ終わった。だから、別室で休ませてもらおうかと」
「……へ?」
北条家臣の列から挙がった疑念に父が答えたが、その返答は誰にも理解されなかったようだ。現に周りに首を回せば、怪訝な顔がちらほら見える。
「俺も既に隠居の身だしなァ。それに此処に来るまでに嫌というほど予行演習もしてきており、此方は何が譲れず、何を互いに擦り合わせ、何の為の会合かを話し合ってきてある故に心配は無いよ」
言いながら爽快に父が腰を上げ始めた。その所作は広間にある総ての目を白黒させる。
それにしてもと思わずにいられない。父は家督を譲りはしたが隠居も出家もしていない。ただ雅号に替えただけだ。そう喉まで出かかった言葉を飲み込む。それを発するとまた後で父から親離れできないのかと揶揄われるのがオチだ。
早速、コレかッ!? そう、思い返せば父は常に『この人』であった。
此度の交渉で決めるべき事案。第一に当家と北条家の人的交流、まずは互いの家臣を長期に亘って迎え入れ修学に務めさせる。それによって得られるのは北条家が培ってきた人材育成の術、それと脳理で当家と戦をされた際の勝敗を揺らがせること。
父は言っていた。
『恐らくこの後に毛利家と比する者が現れよう。そして何故に我等が毛利を攻め、北条に攻めなんだかを問われる。答えは簡単だ、俺ならその問いにはこう答えよう。”毛利家は元就公が一代で大家にまで築かれた。では次代はどうであったろうか。確かに元春、隆景の兄弟は英傑だ。だが当主ではない。そう、毛利家はその大家に見合った当主を未だに育てられる術を持ち合わせていない。北条家は違う、早雲公から五代、北条の名跡を継いでから四代に及び明主揃いだ』
確かにとも思う、だが……。私のわだかまりも父は想定の内であった。
『勿論、武田家も鎌倉の御代より続く古い家だ。それなりに次の主を育てる術は心得ている。だが今の武田家の置かれている立場はどうであろう。もう以前の甲斐一国の領主ではいられないのだぞ、その一挙手一投足は日ノ本に住まう民の総てに及ぶ。なればこそ、大家となっても明主を輩出してきた北条家を潰すは天に唾吐く所業。更に学ぶべきモノがあり、学ばせてもらうのであるから敬意を示さねばならない』
気付けば、今度は氏政殿まで連れ出そうと気さくな提案を上座に投げた。
「まだケツの蒼い倅に任せるなど、なんとも武田の特使は無責任なことよ」
何処か芝居掛かった口調が上座から飛んできた。だが、父は顔をその発言者には向けず、先程から変わらずに上座に返事をする。
「氏政殿、……いや、新九郎。其方も席を外されよ」
「何を申すかと思えば ――」
「新九郎、其方も氏直殿に家督を譲ったのだろう」
「あ、ああ」
「であれば、横で無責任な苦言を呈さずに此処から外したらどうだ? そうだ、折角だから暇な俺に茶でも点ててくれよ ――」
姿勢も態度も同じはずだが、何時の間にか気配が異なっている。恐らくその表情には笑みが残っているが、視線は鋭いに違いない。それにしてもこれは……。殺気? 怒気? 志気? 私が物心ついてより今に至るまで、一度も感じたことのない強さだ。
「そもそも、何故に家督を譲りて責任を果たすべき任におらぬ者がこの部屋に数多居るのだ。この席にて決せられた諸事により不利益が生じた際に、誰がその責めを負う? 民か、家臣か、当主か? 答えよ、新九郎 ――」
「……」
「年長者の威厳を見せたいのであろうが、無責任にああでもないこうでもないと横で申していても、その言を受けた者は考えるであろうな。”なんの咎も受けることの無い気楽な立場から何を申すか”と」
父の言を受け、氏政殿はチラリと横を見る。その視線に気づいているはずの氏直殿は苦虫を噛みしめていた。
「しかし……。成り行きを見届けなくても良いのか?」
「俺達が居らぬ方が部屋の風通しも好くなるだろうさ。それに、城外に出る訳ではないのだから、話の顛末はすぐに報せてもらえる。それに ――」
「ん?」
「それに、これから行われる倅達の交渉、芳しくなければ総ての責を俺達が担えば良い。大きく育ったとはいえ倅に今更親がしてやれることなどその程度しかないさ、……とどのつまりはそういう事だろ?」
そう軽々と言い放つや、父は己の首に手刀を当てた。それを見て、知った。今、我が肩に途方もないモノが覆い被さっている。これは吐気? 眩暈? 急に息が速まり、喉に乾きを覚える。恐らく座していなければ立ち眩みを起こしていたやもしれない。
「では後は任すぞ、義勝」
「……ハッ」
父はそう告げると私の肩を軽く叩いた。ふと見れば目の前が開け、視線の先には北条家当主の氏直殿だけが居た。
「ま、外交巧者の忠澄が居るから心配はしておらぬがな。忠澄、愚息を頼む」
「承知」
父の言葉を受けた谷殿が頭を下げた気配を感じたが、私は横を向くことが出来なかった。実際、それ処ではない。私の言葉一つで甲信以西の武田領民の生活が左右される。
外交 ―― ここには鎧を纏った武者は居ない。刀槍は勿論のこと弓も鉄砲も向けられてはいない。だが、間違いなく此処は戦だ。おまけに先年の山陰戦では先兵となって進んだ家臣や兵たちが目の前に居ない。いつの間にか今、私が北条家に対する先頭に座っていた。
そんな中で、谷殿へ労いの言葉を掛け、氏政殿と共に部屋を後にしようとした父がふと立ち止まり、集まる諸将に一言添える。
「もしウチの妹達と小坊主(恐らく喜八のこと)が五月蠅いようなら、茶菓子でも出してやってくれ。口の中が忙しい間は静かにしておるはずだ」
そう助言を述べると、今度こそ出ていった。それにしても、私は何時かあの背中に追いつくことができるのであろうか……。
◆ 離れの茶室 北条氏政
「太郎、良いのか? アレで……」
「良いさ。倅達も親離れには遅いくらいだ」
「そうか」
「そうさ」
広間で行われているであろう事を何時までも引きずるとは……、無粋が過ぎるな。
二人して二ノ丸の脇にある茶室へ入り、儂が主人として太郎に茶を点てる。それを受けた太郎が椀に口を付けたのを見計らい、儂は取り留めの無い話題を投げた。
「太郎、お主は号を名乗り始めたと聞いたが ――」
「ん、それがどうした?」
軽く茶で口を湿らせた太郎から先を促される。
「儂も号を名乗ろうかなと思っておる。儂も倅に家督を譲っておるしな」
「ほう、で、どのような号だ? 新九郎よ、もう決めたのか?」
「それが……、まだ決めかねておる」
「なんじゃ、そりゃ」
太郎が嗤う。そしてまた椀へ口を戻す。
「そう言ってくれるな。これといった”号”が決めきれぬのだ」
「ふぅん、俺がクソ真面目な其方なら ――」
「ふむふむ」
「この相模を表した号とするだろうな。幾ら其方が武蔵だけでなく関東一円にまで勢力を広げたとはいえ、この相模こそ北条家の中核。その意味を込めれば相模の民も北条家が常に自分たちを忘れていないと思ってくれるであろうさ」
さらりと太郎の口から発せられた言説に目から鱗が落ちた。
「成程のう」
「例えばだ、新九郎。相模の特産は何だ?」
「特産? そうだなァ、三浦沖で捕れる魚介、野菜も旨いぞ」
「食い物ばかりではないか」
太郎が苦笑を溢す。実際、我が父・氏康にも”飯にかける汁の量も量れんのか”と汁を二度掛けした我を見てぼやかれた事があった。確かあの折、”お互い出来る親を持つと気苦労が絶えぬ”と太郎に文で励まされた。
文か……。
最初は妹御可愛さに文を送っているのだと考え、その未練がましさに同じ男として嫌悪した。だが、この男は違った。我が妻が身罷っても文は届き続いた。双方の景色や風土、祭事や習わし、果てはその日の朝餉の献立まで気が付けば書いていた。
それからだ、会ったことも無い同い年の義兄弟に少しずつ親しみを覚え、流石に家中の機密を漏らすことはお互いに避けたが、何かと文で愚痴を言い合う間柄となれた。それは北条家当主となっても変わることが無く、周囲に心を開けぬ日々を送ろうとも、気心の知れた”友”がこの日ノ本の何処かに居ると思えるだけで平静を保つ続けられた。
「では太郎、其方が儂の立場であればどのような号とする」
「そうだなァ」
そう漏らすと、太郎はおもむろに椀へ視線を落した。
「近年、相模はこの椀に限らず工芸に力を入れていると聞く」
「おお、好く知っているな」
自然と感嘆の声が出ていた。儂は、前々から漆を用いた彫り物を庇護してきた。それを太郎が知っていてくれたことが何故か嬉しい。
「漆は良い。割れた椀の修繕にも使われるだけでなく、工芸品に塗れば艶美になる」
「うむ」
「黒という色に汚れや悪事の印象を持つ者もおるが、漆の黒には暖かみがある」
そう言うと、”何処か其方に似ているな。そう……、雲行雨施。”と太郎が呟いた。
雲行雨施 ―― 雲が流れて雨が降り、総てを潤し恩恵を施す。
たしか主君の仁政が民の暮らしに広く行き渡ること、そして天下が太平であることの例えであった。儂も同感だ。儂の当主としての日々は清濁を飲み込み、その上で家臣領民のことを考えねばならなかった。
「漆黒……。新九郎、漆黒斎という号はどうだ?」
あまり黒を好まない者が聞けば”否”と即決していただろう、だが……。
「おお、漆黒斎か。太郎、好い号を思い付いてくれて感謝するぞ」
「よしッ! 本日から其方は北条漆黒斎だッ! 息子達の結果に限らず広間に戻ったら宴としよう」
「そうだな、太郎……、否、雲刻斎よッ! 今日はとことん相模の幸を堪能してくれ」
広間に戻り、我が新しい号を家臣達に披露した際、皆が慶んでくれれば良い。
そして今日、初めて顔を見た旧友と新しい名を共に決め、酒を呑める歓び。
それらを想うだけで、何故か顔が緩くなっていることに気付いた。




