第七十八話 軍争者は完城には行かず
【軍争者は完城には行かず】
意味:敵に勝とうとする者は完全堅固な城を攻めない
出展:管子 制分篇より
■天正九年(1581年)9月上旬 武田左馬頭信豊
◆ 筑後川西域(現 大川市の辺り)、肥前との国境
我等は今、肥前・村中城(現 佐賀城跡)を攻めるべく行軍している。此度の九州攻めでは、当主・信勝様が率いられる本隊七万の軍勢は門司から豊前、豊後、日向へと進み、丹後武田家が主将を務める別動隊四万は筑前、筑後、肥前、肥後と南下する手筈となっている。
この別動隊は、主に山陰に所領を持つ将で編成されている。
筑前博多から上陸した我等別動隊は、当初、”筑後十五城”の筆頭と称される柳川城主で十七代目の座にある蒲池鎮漣を攻めた。当初、先代の蒲池鑑盛は大友家の重臣であり義に篤い御仁との由来もあり、此度の九州遠征の目的の一つにも合致したために迷うことなく筑後へ入った。
だが、筑後に入っても一向に蒲池家は兵を出してこなかった。更に申せば、筑後の国人は自儘であった。生葉郡に城を持つ問註所氏と星野氏は当家に攻めてきたが、御原郡の高橋氏と三原氏は日和見を貫き、山本郡の草野氏と御井郡の丹波氏は早々に降伏を申し出てきた。
どうやら筑後も東寄りの国人は未だに大友家に与しているが、西に寄るほどにその影響は薄まるらしい。もっとも高橋家は、筑前岩屋城での攻防の際に城主・高橋紹運とその連枝を捕縛しているため、その次男で筑後高橋家の名跡を継いでいる主膳正統増に成す術が無かったのやもしれない。
話を戻そう、蒲池家だ。先代当主・蒲池鑑盛は一時、現龍造寺家当主である山城守隆信を庇護していたため、柳川城攻め前の軍議では龍造寺の援軍が寄越されることも考慮されていた。が、当の龍造寺隆信はついに筑後に現れなかった。
そして、龍造寺家からの救援が望めないと悟った蒲池家は、半月の籠城の末に開城し当家に降ってきた。その立花家や高橋家、蒲池家といった当家に降ったばかりの部隊も先頭を進んでいる第一陣に含められている。
「どう思われます、名代殿」
「その”名代”というの……辞めませんか、典厩殿」
私が斜め前で馬に跨っている甥っ子に声を掛けると、彼が辟易した態で顔を向けてきた。
今川弾正尹勝元 ―― 我が義兄の次男にして、丹後武田家の名代のみならず、此度は別動隊四万の主将を務める男。またその家名からも察することができるように、衰退していた今川家の名跡を継いでもいる。
本来であれば彼は丹後武田家の親族衆筆頭である。だが、先代と当代の当主が不在のため当主名代の座にいる。そして、幸か不幸か異例の人事により此度の別動隊の大将代理を担っている。先代か当代のどちらか一人でも残っていれば不安に思われることも無いのだろうが、本家に最も近しい家臣筋として御鉢が廻ってきた。この名代殿自身もここに来るまでにブツクサと愚痴を零している、”父か兄者が座れば良いものを、何故に戦経験の浅い私が……”と。
武田左馬頭信豊 ―― 今の私の名。実父、左馬助信繁と同じ官位・馬寮の位に就いているため”典厩”で通っている。その所為もあって我が家は”典厩家”と早くから呼称された。もっとも、父が通名であったのに対して私は朝廷からの拝命なのだが、父の名には数多の武勇に裏付けられた畏怖が込められていた。
只今の典厩家を継いだ私は丹後武田家の筆頭家老にある。私も本来であればこの席に座ることは無かった、私には義兄と実兄が居たためだ。だが、義兄はそもそも典厩家を継ぐ気は無かったようで、若い頃から他国を飛び回っていた。そして実兄は元々病弱であったため、二十歳を迎える前に黄泉路へと旅立った。
「で、どう思われる、御大将」
「……恐らく龍造寺家で饗応の支度をしている……などということは無いと思いますよ、叔父上」
そんな彼の苦情を軽く受け流し、再度同じ問い掛けをすると、御大将からどうとでも採れる返事がきた。この辺りは彼の実父の若い頃によく似ている。
「龍造寺は何故に助けに参らなんだか……」
「こればかりは某にも分かりかねます。龍造寺方に尋ねてみてはどうです?」
無理な話だ。そう思い苦笑を浮かべて応えると、御大将が堪えきれなくなり声を上げて笑いだした。……大人を揶揄うものではない。
男二人が馬上から秋晴れの空を眺めていると、そこに真夏を感じさせる男二人が馬を寄せて参戦してきた。
「俺が思うに肥前の熊は弱気になったのだ、きっと。お前もそう思うだろ、虎之助」
「阿呆か、市松。龍造寺家は先年まで肥前統一で戦続きであった。蔵に米粒すら残っておらぬ故に兵を集められぬのよ」
福島正則と加藤清正 ―― 二人とも何時の間にか義兄がひょっこり連れてきた者達だ。そして今ではそれぞれ当家の槍大将と馬廻り次席の職に就くまでになった。
「ぐぬぬッ、虎之助に阿呆と言われるのは腹が立つ。あ、阿呆と言う方が阿呆なのだッ!」
「何おう、やるかアホ松ッ!」
「やらいでか、このアホ之助ッ!」
若い二人がまるでじゃれ合う子猫のように身体をぶつけ合う。……幾つになっても血の気の多い小僧たちだ、全く。
「止さぬ ――」
「止めぬか、二人とも。進軍の妨げになるゆえ、やるなら向こうでやれ、向こうでッ!」
私が止めようとすると同時に御大将の叱責が飛んだ。そして、御大将に掌でシッシッと振って暑さを遠ざける仕草をされた二人は肩を落として我等の後に馬を移した。
多少の暑さが和らいだ処で、少しこれから向かう城の主について考える。
確かに天正五年(1577年)までに大村純忠を、その翌年(1578年)には有馬義純の松岡城を降している。大村家、有馬家ともに今の武田家に比べれば小粒と言わざるを得ない。
そして連戦に継ぐ連戦で兵の疲弊は無くても兵糧の心配はあるやも知れぬか……。あながち二人の言も間違いでも無い。
私が馬の鬣に視線を移しながら思案に耽っていると、御大将が確認を求めてきた。私事であれば遜った口調だが、周りに他人が居れば大将としての言となる、この辺りの公私の使い分けは義兄よりも上手い。
「……叔父上、肥前の熊は臆病者だと思うか」
「否、その生い立ち故に疑心暗鬼の相はあるかもしれぬが、腑抜けに肥前統一は出来ぬな。おまけに十年程前の永禄十二年(1569年)と十三年の二回に渡ってには大友家と戦っている。十二年の戦では六万余に攻められたため敗れはしたが、その翌年には三万余の大友勢に村中城を囲まれながらも勝ちを拾っている」
「そうか……。では、兵糧の不足は?」
「それも低いだろう。今なれば早めに稲を刈れば済むだけの事」
気付けば、先程の思案とは真逆の事を口走っていた。何故、口から出てきたのかも分からない。
「先に降した蒲池家を先鋒として当ててみるか」
「……」
「山城守は切支丹に左程感心が無いとも聞くが、……助命のみ認めるか」
「……」
いつの間にか、今度は御大将が自慢の馬に目を奪われていた。いつしか、そんな彼の邪魔をしないよう口を噤んでいた。
まあ、あの義兄の子であれば村中城攻めの評定の前までには結論を下しているだろう。そう思い、自然、東の空を見上げていた。この向こうには不満を溢しながらも相州に入った義兄が前を歩んでいることだろう。
此度の戦において私の役目は、味方が窮地に陥った際に義兄から預かった二つの秘事を解き放つ事。何事も無ければ良いが、こればかりは明日の天候を占うよりも難しいだろう。
◆ 村中城から北西二里の境内
「それにしても川というか沼というか、よくもまあ水に囲まれた城であることよ」
「それを言うならば、先の柳川城も同じでしたな」
「ああ」
ここは村中城を南に眺める臨済宗の寺、我等はそこを借りて陣場を築いている。当初は敵である武田勢であるため住職をはじめ好い顔はしなかったが、本家の菩提寺が臨済宗南禅寺派と知るや不承不承で僧堂を貸してくれた。
僧堂とは寺内で生活する者たちが普段座禅や食事を行なわれる場である。境内に入った際も坊主が苦虫を噛みしめていたが、流石に本殿や拝殿まで足を踏み入れる程、我等も罰当たりではない。
ここに陣を敷く前、龍造寺とは既に一戦交えている。
こちらが筑後川を渡河している最中に敵勢三千が鉄砲を放ってきたのだ。だが、予め上流にて渡り終えていた吉川勢千五百の味方が敵の横腹を襲ったことで、相手は混乱しすぐに城へ戻っていった。
渡河の際には竹束を連ねた車仕掛を担がせていたため、当方に負傷はあったが死者は出さずに済んだ。相手も吉川勢の来襲に気付くとあっさりと引いたため、然したる被害を出していない。
「周辺の絵図を見る限り、城の周りには丘陵がほとんど無く、兵を伏せることも出来ぬ」
「三河守殿、なれば正攻法で力攻めしか無かろう」
「ただな、飛騨守。筑後に援軍を送らなかったことからも、城内には矢玉が山積みであると視て間違いなかろう」
総大将の勝元のぼやきに始まり、毛利攻めの功により山城一万石から出雲一国に転封された蒲生氏郷、そして越中国主の徳川殿が口々に村中城の堅牢さを褒めている。
そう、城の東には多布施川、北には小さいながら佐賀江川、南と西には八田江川と網の目の如き水田や水路が走っている。そのため、戦の前に評定を開いたが、城攻めでの多くの犠牲が予想されるため諸将もなかなか攻め手を見つけられずにいた。
ただ、この軍議の席で”青田刈り”だの”乱取り”を口にする者は出てきていない。それらは義兄による武田家の躍進と共に厳しく取り締まるようになった。流石の虎之助と市松でさえそのような提案は……しないと願おう。
「周州、何か良い案は無いか? 」
「典厩殿、そう言われてもな……。堀が無いとはいえ東側は水捌けが悪く足を捕られる、それゆえ敵も手ぐすねを引いて待ち受けておろう。攻めるとすれば北か西からであろうな」
何とはなしに私の目の前に座っている曽根周防守昌清に話を振ってみたが、”信玄公の片目”と評された曽根昌世殿の息子殿から色好い返事は貰えなかった。
だが、ここで彼の父親と同等を期待するのは酷というものであろう。昌世殿は智に長け、昌清は武に秀でており、それぞれに求められているものが異なるのだから。
「御大将、柳川と同じく城を囲むことは考えておられぬのですね」
飯富虎昌の嫡男である但馬守昌時が確認の意を込めて上座に尋ねた。
確かに、城の周りに”水”を敷き詰めた村中城は先の柳川城と地理が似ている。……佐賀の沈み城とは好く言ったものだ。
「……ああ、柳川は城兵の数も知れており、我等の筑前上陸から日も無かったため兵糧の蓄えも少なかった。だから先の戦では攻城戦となった」
「成程、今度の敵城には未だ大勢の兵で埋め尽くされておりましょうな」
その但馬守の言に誘われたか、評定の諸将の視線が旗印やら指物がひしめき合う村中城に注がれた。
「今この時、留意せねばならぬのは龍造寺方の増援の有無。我等はいまだ龍造寺の支城を落していない。支城の兵すべてをかき集めれば三千から四千は居ろう」
「駿州殿の仰る通り。前面の敵本隊と支城からの増援、それらに前後から挟み討ちにされては、如何に我等が大軍であってもいささか難儀となりましょうな」
先の中国攻めで戦った毛利家の一翼である吉川駿河守元春殿と、当軍の采配を任されている黒田官兵衛が諫言を述べてきた。
これは関東で覇を唱えている北条家が得意とする戦法だ。一昔前まで戦ってきた武田家の者ならば骨の髄まで存じている。
「如何なされる、御大将」
若年ゆえに難しい局面ではあるが、そろそろ大将であるから何かしらの決断せねばならない。そう思い下知を上座に求めたのだが、上座からは官兵衛への質疑が飛んだ。
「官兵衛、この城の囲みは如何ほどの兵で抑えられる」
「……西と南は湿地ゆえ、仮に城から出てきても直ぐに追えまする、よってそれぞれに一千。北と東に三千ずつ見積もりますと計八千の兵をここに残せば間違いは無いかと」
「では、荷駄隊を割いても二万五千程度の遊軍があるか……」
「はい」
”ここで時を費やすのは惜しいか……”などと半ば自問気味に独り言ちた後、甥が顔を上げた。
「よし、隊を三つほど創り支城を落していこう。徳川殿、貴殿は蒲生家と共に兵一万にて西へ進軍し、鹿島城ならびに藤津郡一帯を押えてくだされ」
「御意」
御大将から徳川と蒲生の両名へ下知が飛んだ。両名共に戦慣れしているようで、粛々と頭を垂れて了承の意を告げてきた。
あの一帯は此度の龍造寺家の窮地をよい事に大村氏や有馬氏の残党が跋扈していると聞いた。
「曽根昌清ッ! そなたに立花、高橋、蒲池の三家を含む七千の兵を預ける。松浦家当主・肥前守隆信は中々の御仁と聞き及ぶ。よって、唐津へ赴きこちらの味方となるよう松浦家を調略せよ」
「ハッ」
周州が武辺の片鱗を滲ませた声で応えた、もしや部隊長となった歓びも含まれているのかもしれん。翻って、筑前・筑後から降ったばかりの三家は何やら期するものがあるのか、この心の内を押し殺した表情を滲ませた。
これにより周州達は北西に位置する唐津灘まで足を運ぶこととなる。となると、まだ指名されていないのは吉川と飯富……。
此処までの軍議の流れから、本城を押さえつつ敵の支城と領土を奪う策は既に伊勢攻めで経験済みの一手だと気付いた。あの折は、信玄公が信長の本城を囲んで相手の自由を奪いつつ、義兄が片っ端から支城を灰塵に帰していった。信長の死と同時に尾張と伊勢に敵対する勢力が消えたため、その後の統治を早急に行うことに繋がったと覚えている。
「最後に北東の養父と基肄の二郡(現 鳥栖市の辺り)には、私と吉川殿の八千の兵で当たるとしましょう」
……は?
他の諸将に委任するかと考えていた矢先の異例の人事に皆が口をあんぐりと開いた。
「なっ、弾正殿、それは……。此処に留まられぬのかッ!?」
「いや、徳川殿。私がここで楽をすると、後々に渡って家族一同から罵詈雑言を浴びせられるのが目に見えてしまうのですよ。であれば、ここは私に免じて勝手を許して下さらぬか」
「む、ま、まあ、それがしも家臣たちに範を示す意味も込めて、この歳になっても常に戦場に立っております故、強くは申せませぬが……」
諸将の中で一番先に我に返った徳川殿が諫めたが、総大将の苦笑い混じりの懇願が勝った。
流石に丹後武田家の女子衆の強さは他家にまで轟いているようで、当家との関わりの深さに比して諌言を躊躇わせる圧力が高いことがこの場の空気を物語った。さらに申せば、まだ武田に降って日の浅い者が口を挟むことが出来る訳も無い。
「この地には典厩と飯富の二家の隊を残す。典厩と但馬守、頼むぞ」
「……承知仕りました」
長年義兄に仕えておられた飯富家と、筆頭家老職の我が典厩家。その返事には忸怩たる想いが滲む。
「二人とも安心せよ。私は毛利家当主の輝元殿や家宰の小早川殿はいまだよく存じておらぬが、先年山陰にて吉川殿と戦いどのような御仁か知っている。吉川殿、これから向かう二郡は出雲に似て山城が多いと聞きます。是非、その戦技の妙を御指南願いたい」
「承りました」
御大将に担がれた駿州殿は謹厚な面持ちで諒承した。駿州殿が実直な御仁なのは私も存じているが、何やら甥っ子に上手く丸め込まれてしまった感が拭い切れない。
……もしかしたら、実父も昔、我が義兄に対してこのような心持ちを抱かされたのではなかろうか……。
「若輩の某に言われるまでもなく皆重々承知していると思うが、使番や透破衆を用いて各隊との戦況の遣り取りは密に行おう。また物見も多用して敵の伏兵や地理の把握も心に留めるように。多勢でも気を緩めず、我等は不慣れな土地に居る事をわすれないよう用心してくれ……以上」
私の胸騒ぎを他所に、御大将の申し送りは続けられた。正しい下知のはずが素直に耳に入ってこないのは気のせいであろうか……。




