第七十六話 鏡花風月
■天正九年(1581年)8月下旬 山城 二条御所の脇の堀川通り 武田勝頼
「御先代様、お疲れではございませぬか? 何でしたら何処ぞで休息を得られては如何でしょう」
「いや、大事無い。本日の内にに大坂へ戻らねばならぬ故、このまま行軍を続けよ
「……はっ」
今回の供回りを務めている近習が気を利かせて休止を進言してきおった。儂が不承の意を示したのだが、それでも気遣うような眼差しを向けてくる。
確かに事が事だけに思案に耽っておったので、いつの間にか眉間に皺が寄っておったようだ。それを見た近習には儂が疲れていると勘違いさせてしまったのだろう。
……フフフッ、儂もまだまだ修練が足らぬな。どこぞの御仁からは、
『上に立つ者が無闇に不安を表したら駄目だよ。唯でさえそなたの仏頂面は霜枯れておる。それを戦場で見せてみよ、家臣や兵卒達の士気は瞬く間に下がるであろうよ。そのような者共を率いたら戦になぞ勝てず、兵卒達だけでなくお前の寿命も縮めるぞ。兄ちゃんはお前の葬儀になぞ絶対に出たくないからなッ!』
と、遠き昔に、儂がまだ甲斐の鼻垂れであった時分より言われ続けててきたというに。霜枯れとは、酷い言われ様じゃ……。
我が兄である雲刻斎が復帰されてからもう二月。畿内以西の武田方の兵馬を集結させて九州を鎮めている間、その間の東国を静めて後顧の憂いを無くす役目を彼の御仁に一任した訳だが……。
相変わらずあの人が何を為さろうとされているのか……、解せぬ。あちらの状況を聴こうと兄上が珍しく大坂城へ現れた際に問い質してみれば、
『こっちはこっちでお兄ちゃんが上手くやっておくから、そちらはそちらに専念しなさい』
と慇懃に返され、詳細な近況や方針は聞けず仕舞い。
ならばと真田安房守や石田治部へそれとなく聞いてみても、彼等自身も締め出されているようで細部までは掴めておらぬようだ。実際、彼等も元主君から、
『ここからは酸いも甘いも知り尽くした大人の宴だから、童は元気に西国に行っておいで。まあ……、母御の乳を吸う癖が抜けたら遊んでやっても良いけどさ』
と、けんもほろろに追い返されたらしい。この日ノ本随一の大大名にまで膨張した武田家、その脳髄と称される二人を童扱いとは……。
儂は今、朝廷での参内を終えて大坂への帰路にある。
此度の九州遠征の大義名分を得るために帝へ拝謁して詔を承けたわけだが、……相変わらず朝廷との折衝は骨が折れる。帝からは勅旨とは別に、
『この大八島から戦が無くなる日を一日千秋の思いで待つ。……また、先左中将にも参内するように伝えよ』
と懇願された。あの御仁が畿内で睨みを利かせてから都の悪漢が減り、帝の御胸中も静められた。その為に隠居に伴い官位を返上された際には帝自らが袖を掴んで再三再四、翻意を促されたとか……。誰の袖かは推して知るべし。
それにしても……。
藤原摂関家の内訌、源平合戦、平治保元の乱……。古来より時の実力者たちの欲を利用して争わせ、その存在を高めて護ってこられた皇家。どのようなカラクリを用いればその皇家からの信頼を得られるのやら……、一度ご教授願いたいものだ。
逆に公家どもからは、
『既に前任の京都所司代殿は畿内に居らぬで相違あるまいなッ!万が一にも身共を謀り、あ奴が畿内に居ようものなら、信勝殿の右府(右大臣の唐名)職就任は遠退きまするぞ。……それはそれとして、も少し荘園を……<以下、長いので省略>』
と、此度の参内とは無縁の話題に終始させられた。これは当家初の京都所司代が畿内を掌握していた時期に、その者が行なった執政に起因する。
遠き昔に手放したはずの荘園の利権を取り戻そうとした公家に対して、
『今日の土地は、今、治めている者が監督するが一番。下手に掻き乱せば領地の境に端を発して新たな諍いを招くは赤子でも解かること』
と退けた。これには治安の悪さに悩まされてきた公家どもも閉口せざるを得ず、なればと次には荒廃していた屋敷や家屋の新調及び修繕している最中に不平を並べてきたらしい。だが、これも当時の普請奉行を兼務していた者が一顧だにせずに言い放った。
『貴殿の屋敷を建てている大工の多くは甲斐から連れてきた者。畿内で募集をかければ屋敷の間取りを間者や盗賊に筒抜けとなり易いゆえな。そかし、その所為で風靡が欠けると言われるのもまた一理、当家の善意も他者から見れば要らぬ世話。……宜しい、貴殿が身銭を切り己の責で職人を雇うというのであれば、当家は何も申すまい』
そう言って、即日の内に働いていた大工達を別の現場へ移してしまった。
ちなみにその公家は、給金の支払いが悪いとの噂が広まったことで大工はおろか人夫すら集まらず、屋敷は未だ出来上がらずに縁戚の別邸(郊外のあばら屋)を間借りしているそうな。
トドメは、それまでの借財を帳消しにするよう徳政令を出すように公家どもから命じられた京都所司代が、
『借りる際には腰を前に折っておきながら、いざ返せぬと開き直って腰を後ろへ反るような者がこの国で政を担ってきたとは誠に嘆かわしい限り。一度だけなら徳政令を出しても良いが、その際には畿内の金貸しは貴家五代に渡って銭を融通することは無いと断言できるが、……さて』
と、その厚顔な公家を見ずに申し渡したとか、……そこまで優しく申していなかったとか。
少なくとも、その京都所司代と親しく付き合う事のできた公家は、すべからく四年以内に屋敷も修繕されて、借財も真面目に返済し終わったという事実が一つ残っている。逆に厚顔を見ても貰えなかった公家は、畿内一円の商屋から”出入り御免”を受け、……その後は一家離散の憂き目にあったとか、嫁と娘で気性の良い女子は割烹料亭で奉公をしているとか。
今では畿内で生業を営んでいる大工や人夫、商家や金貸したちからの絶大な支持を当家が得ているという事実もあり、先の執政を覆しきれぬ世情が熟してしまった。……、困ったものだ。
『我が兄』、『東国采配の旗頭』、『先左中将』、『先代の京都所司代』……。どれか一つでも別の者であれば、どれだけ我が頭痛の種が蒔かれずに済むことやら。
「御先代様、……やはり休息を摂りましょう」
「そなた……、儂が疲れているように見えるか?」
「……恐れながら」
再度、先程の近習が儂に馬の脚を止めるべく進言してきた。どうやら儂が感じているよりも疲れているのやも知れぬ。
「この近くで憩えらるのは……」
「はい、武田家が篤く庇護せし臨済宗、その本山の一つである建仁寺と南禅寺、更に大徳寺がここから最寄りかと。折角の都参りでございますれば、足を運ばれるに相応しいかと。ただ建仁寺と大徳寺は北に、南禅寺は東に向かいますれば大坂から遠のきます」
臨済宗、か。
儂も大家の一柱を自覚せねばならぬゆえ宗派には気を遣ってまいったが、我が異母兄の二郎信親 ――今は竜芳と号するあの男―― が一向宗(浄土真宗のこと)で帰依されたときは、当家領内の臨済宗僧侶が一斉に決起されそうになり、若干の恐怖と多大な殺意を覚えたものだ。
武田家の菩提を長年に渡って勤めてきた恵林寺、そしてあの寺にて当家を護ってこられた快川和尚。竜芳の一件を仲裁してくれた彼の御仁も、……もうこの乱世から旅立たれてもう居ない。あの高僧は日頃は常に世俗と一線を科してくれた。そのため、何の隔意も持つことなく今も恵林寺の者達と接する事ができる。
だが今、都の臨済宗で頭角を現している西笑承兌、三要元佶、安国寺恵瓊は自らの弁により俗物と化している。更に若いながらも以心崇伝、沢庵宗彭なる者たちも台頭してきている。
「なれば、ここより南にある東福寺へ参ろう。彼の寺の住職(月渓聖澄のこと)は正親町帝の実弟であられるゆえ、今後とも公武の架け橋となって頂かねばならぬからな」
「はっ、なればこれより先行して参詣の旨をお伝えしてまいります」
「うむ、頼む」
「ははっ」
儂が東福寺参りを宣なうと、近習が嬉々として行軍を東福寺へ向けるべく伝令を発し、更に東福寺へ参詣の意向を告げに走っていった。
住職は何故か我が長兄とは義兄弟の契りを交わすほどの呑み仲間らしいゆえ、東国で行なおうとしている悪巧みの一端を聴けるやもしれぬ。はてさて、鬼が出るか蛇が出るか……。
■天正九年(1581年)8月下旬 美濃 大垣の城下町 武田義勝
「お主、何故にここにッ!」
「グフフッ、御隠居様とそれがし、何年の付き合いになるとお思いか?」
私の横で実父が腰を抜かしている。そして、目の前にはすがすがしい笑みを顔に纏いし石田治部。
本来であれば、我らは難波津から舟で紀伊水道を南進した後、鳥羽城(現 三重県鳥羽市鳥羽(城山児童公園))で一泊、更に三河・岡崎城を守る大叔父(一条信龍のこと)と大浜湊にて合流する手はずなのだ。それを、
『折角、大坂に来たんだから堺で遊びたい、遊びたいったら遊びたい。それに旅の前に堺で東国諸家の動向を聞いてからでも遅くない、ないったらないッ!』
と、何処ぞの田舎者が出発間近に駄々をこね、当初の我らの旅路の準備を担当されていた真田安房守を困らせた。更に更に、田舎者とその息子一同が東国へ向かう故に大将不在となる丹州二ヶ国の九州遠征の準備を押し付けられた石田治部が激怒したのは四日前。
そして、いざ大坂の屋敷を夜も明けぬ頃に発すると、我ら供の者達を急かして何故か東へ東へと小走りに伏見、竹田を経て都入りして都入り。何をもって安心したのか東福寺にて二泊。そこの住職から薦められた秘蔵の般若湯が空となる頃、その田舎者は寺を辞して近江の大津まで蝸牛の歩み、……恐らく二日酔いが祟ってのことだろう。
私自身は東海道を使わなんだ事に訝しんでいたが、どうやら私の横で尻をついている酒臭い御仁の調略は石田治部に看破されていたようだ。
「佐吉、儂はそなたに『当家の兵站の総てを任せ候』と命じたはずだぞ」
「ですので、総てつつがなく履行されました」
驚きつつも睨み上げる実父と、その叱責にさも当然とばかりに見下す石田治部。
「た、戯けた事を申すなッ!当家とはここにおる義勝の家の事ではなく……」
「ええ、『武田家の総て』、でございまするな。はい、滞りなく済みました」
「こ、こ、この数日で、で、で、出来るものかッ!」
「ですから、何年の付き合いになるとお思いか?御隠居様が大坂に来られる前から先手を打っていたまでの事。はい、問題ありません」
「き、き、貴様は、か、神か魔かッ!」
口角を吊り上げる石田治部と、泡を吹いて意識を飛ばす実父。
この時、人にはそれぞれに”格”と云うものがある事を、ここに集う総ての同行者(若干一名を除く)が悟った。
■天正九年(1581年)8月下旬 志摩 鳥羽城下の湊 九鬼嘉隆
「父上、遅いですね」
「うむ、ここ数日は凪も穏やかなのだが……」
儂の横で孫次郎(後の九鬼守隆)がポツリと海に向かってつぶやいた。我らが待つ舟は姿を見せない。何かあったのではと不安になるが、息子に要らぬ心配を与えるのは大人として恥ずべき事と思い、儂も息子ではなく海に向かって答えた。
田城城(現 三重県鳥羽市岩倉町(九鬼岩倉神社))では、九鬼本家の現当主である甥、澄隆殿も首を長くして待っておる。それにしても澄隆殿は、客の安否を心配しているのか、はたまた接待に出される魚の鮮度を気にされているのか……。
■天正九年(1581年)8月下旬 丹後 弓木城内の練兵場 加藤清正
「これより、我らは九州へ向かうッ!皆の働きに期待する、……行くぞぉぉぉッ!」
「「おおおぉぉぉッ!」」
当家当主の次弟にして、此度は陣代を務める今川勝元様が練兵場に集まった将兵に向けて九州攻め出陣の檄を発せられた。
当初は当主の義勝様が大将として率いるはずであったが、急遽、元服したばかりの勝元様が赴くこととなった。まあ、その過程には紆余曲折が合った訳だが、と一言で語れれば良いのだが。
先日、隠居されて駿河に居られるはずの先代様から文が何故か大坂から届き、
『大坂本家の無理強いにより美濃守義勝に別件の大事が任された。よって、九州へは駿濃丸を元服させて連れて行け。ああ、元服の見届けには因幡を治めている五郎(仁科盛信の事)に頼んどいたから。なんなら九州へも一緒に向かえば良いだろう。最後に、かねてより今川家再興を見届けたいとウチの御内儀様が切望していたから、また別途催しを開く事になると思うので良しなに頼む』
と、要約するとそのような事が書かれていた、……らしい。”らしい”と云うのは、先年に義勝様の正室として織田家より嫁がれた冬姫様がその文を読み終わった後に誰かの首を絞めるが如く握っておられ、誰も文の中身を読ませて貰えなかったからだ。
ふと空に目を向ければ茜色の羽が乱舞していた。そろそろ今年も蜻蛉が田畑を賑わす時節となったか。
俺が遠縁の羽柴様に見出されたのが十歳になるかならぬかの頃。それからいつの間にかあの御隠居に可愛がられ、羽柴様が武田本家の直臣となっても今の当家で働き続けて十年余り。尾張も丹後もこの十年で見てきた蜻蛉に違いはさほど無かった。
十年。
紙に書けば二文字だが、俺にとっては濃すぎる程に中身のある年月であった。
折角、武士として生きる道を羽柴様に与えて下され、その矢先に武田家に信長様が討たれて俺が途方に暮れたのが元亀二年(1571年)。それからは当時の右京兆様が前田様や羽柴一党を丸ごと召し抱えられた事で、俺は近江や畿内を駆けずり回った。
……ああ、天正へと暦が移った頃には浅井家の援軍として越前まで足を運んだなあ。そういえば、あの頃だな。気づいた時には佐吉や紀之介(大谷吉継の事)、孫平次(中村一氏の事)が加わっておった。
―― 海で獲れるはずの蜆が獲れると聞きつけて潜ってみれば、大鯰に迫られた紀之介を見てゲラゲラと皆で笑い転げた琵琶湖。
―― 血飛沫の舞う戦地にも関わらず、誰が始めたのか陣中にて雪玉をぶつけ合い、身体中を霜焼けで紅く染めた越前一乗谷。
―― 己の私財を投じらて勝ちを得た近江平定。その論功行賞の後で哀愁に包まれた右京兆様の後姿と、それを見て勝ち誇る佐吉の太太しい面。
―― ある日、己の進むべき道を見失っていた俺に『浅井家に藤堂ナニガシって奴が居るんだけど。そいつは、城取り(築城術)に槍働きに政に、おまけに他家との折衝にとなんでも出来る奴らしいんだ。……お前、奴さんと競い合ってみろ』と背中を押してくれた師父の掌のぬくもり。
―― 公家娘を篭絡しようと、時の京都所司代に習ったとおりに書いた文を出したら、槍を振り回す娘の親(公家のくせにッ!)に市中を追われた佐吉。あの時、佐吉が発した奇声は横を流れる加茂川の水を怯えさせた。”後白河法皇にも出来なんだ事を……”と月渓聖澄様と所司代様は酒を呑んで笑いあっておられた。
―― 武田本家が大坂に居を移された際に直臣へと取り立てられた羽柴一党。その羽柴様と共に河内へ向かう市松(福島正則の事)たちを見送り、その後も丹波武田家に引き取られた俺と紀之介。
―― 山積みされた書状を抱えて何度となく追い払っても夏場のやぶ蚊の如く纏わりつく佐吉に辟易した当時の左中将様が発した、『寝かせてくれッ!』の名言。
―― 山陰攻めからの帰路、『俺、隠居するから。跡を継ぐ愚息に不満があれば、ゴボッ』と、言明の最中に実子から鳩尾に一発カマされて悶絶された御仁の涙。
―― 先日届いた俺宛の文に記されていた『九州で嫁を娶るも良し、帰ってきてから儂が選んでやっても良し。兎に角、無事に帰って来い』と暖かい言葉をくれる親父様。
―― そのすぐ後、漸くに九州攻めの準備が整うと、俺と紀之介に向けて地に額を擦りつけて『親父様と仕事がしたい。やっと、やっと……』と涙ながらに嘆願した佐吉。
石田三成。従五位下治部少輔。……佐吉。
昔から規律やら軌範に拘り、融通の利かない憎々しいヤツだと思っていた。重箱の隅ばかりつつき、杓子定規にしか物事を量れぬ縄墨の如き詰まらぬヤツだと……。実際、あの規矩と無縁で雲の如き親父様に仕えてから暫くはその傾向が強く出た。その度に俺や市松は苦々しく思ったものだ。
だが、最近は”そうでもない”と思えるようになった、……少しだけだが。
相変わらず此度の兵站の膳立てでは幾通りもの状況を踏まえて事にあたっておった。今日の出陣が間に合ったのも佐吉の手柄と言えなくもない。長陣の末に飢えることがどれだけ恐ろしいかを俺が知るようになったのもヤツを見る俺の目が変わり始めた要因かも知れぬ。
そう……。
本来であれば出陣の直前に隊を離れるなど死罪を言い渡されても弁明できぬことをあヤツは……やりおったのだ。
「ふふッ」
気付かぬうちに顔が綻び、俺は軽く息を吹いていた。此度の九州攻めと東国の采配が終わった暁には、俺と佐吉がお互いにどのように変わっているのかを確かめ合うのが楽しみだ。
目の前の蜻蛉たちは明後日には出雲に、七日後には長門の赤間関(今の下関)に舞い降りる。
前にしか進めぬ蜻蛉たち。
願わくば、この者たちの進む先が丹後まで続いておれば良い。否、……俺が一人でも多くの者を丹後で待つ家族の許へ連れ帰してやらねば……。
■天正九年(1581年)8月下旬 信濃 木曾谷のとある館 武田雲刻斎
俺の前には妹たちが鎮座している。
まず中央には、最近、亡き実母・円光院(生前の三条の方)に激似な、穴山信君に嫁いで久しい次妹の佐保姫(後の見性院)。ちなみに山内一豊の奥さんと同じ院号だが、全くの別人。ってか、こっちの方が俺には強い。
その右隣で俺を蛇蝎の如く睨みつけているのは木曾義昌の御内儀で、俺の三の妹の真理姫(後の真竜院)。多分、木曾だけに今のコイツには巴御前が憑いているに違いない。一回お祓いして貰ってきなさい、お兄ちゃんが旅費を出してやるからさ。
更にその右隣には、いつの間にか三十郎(矢沢頼康の事。つまり、真田一徳斎の甥っ子で、源五郎の従兄にあたる)の押しかけ女房に落ち着いた五の妹の菊姫。……俺の斜め後ろに控えている薩摩守頼綱(菊姫にとって義父)が――今だけは真田忍の如く気配を消して―― 空気と化している。
そして、佐保姫の左隣に六の妹の松姫。この娘は屋代秀正に嫁いだのだが、今も夫婦仲は良さそうだ。だって、秀正と子作りに励んでいるのかお肌がツルッツルに綺麗なんだもん。屋代家は長年に渡って北信濃で睨みを利かせていた村上氏の庶流にあたるが、……。嫁いだ当時には既に美濃にいた俺は、”へえ、結婚したんだ……、へえ”と感慨に耽ったものだ。
さて今の現状に行き着く半日前、俺たちは美濃の茶屋で一服していた。
途中でくっ付いてきた駄犬に何度となく翻意させようと試みていたのだが、当の飼い犬は一向に言うことを聞いてくれない。そして渇れた喉を潤すために寄った茶屋で待ち構えていたのが木曾家の家宰である千村掃部助家政であった。
『ん?そなたは……、おお、掃部ではないかッ!息災であったか?』
『はい、御隠居様』
確か艾年(50歳)から幾つか歳を重ねていたはずだが、家政の背筋は依然として伸びており正しく質朴剛健を想わせる男が目の前に現れた。
『ここで会えるとは思わなんだぞ。……伊予(木曾義昌)の事は済まぬことをした』
『いえ、……過ぎたことです。それに当家先代も己の器を知ったことでしょう』
『そう言って貰えると助かる』
俺は一罰百戒とはいえ実妹の亭主に落第の印を先日押した。そして先日に悲観して隠居した義昌の木曾家に長年に渡って誠実に仕えてきた家政。言いたい事もあるだろうが口にしないでくれた家政に俺としては謝意を示した。
『ところで、御隠居様はこれからどちらに?』
『んん?ああ、このまま三河で竹松と合流しつつ歩を進め、まあ、武蔵の江戸まで、な』
『……左様でござるか』
何気ない家政からの問いに素直に旅路の道筋を俺は述べた。既に俺たちが東国へ向かうことは武田家中では周知とも言って良いだろう。今更他家の間者に知られても護衛には真田忍衆が周りを固めているはずだから困ることも無かろう。だから、”ごまかす必要も無い”と安易に教えたのがいけなかった。と、今の俺は知っているが、半日前の俺は気付けなかった。
俺の答えを聴いた家政はその刹那、目を細めると……。
『御免ッ!』
と、述べて俺の腹に一発打ち込んできた。
そして、目を覚ました俺を待ち構えていたのが、先に述べた妹たち。
俺の前には、何時の頃からか『新・武田四天王』と称されだした女傑。後ろには息子の義勝と、源三郎と矢沢薩摩の主従のみ。
って、オイゴラッ!谷と遠山と駄犬、お前等は俺を置いて何を勝手に三河へ行ってんのじゃ! ……ぜってえ許さんからな。
■天正九年(1581年)8月下旬 三河 岡崎城から四里(大体、15、6km)南西にある大浜湊 一条信龍
「……遅いッ!」




