第七十四話 選ばれし者達
『武田家の当時の首脳陣が隠居していた義信を再び招聘したのは正に僥倖であったことは疑いようもない。
ただ折角、呼び寄せたのに何故に九州遠征で義信を使わなかったのか、理解できない。
実際に任された東国自体は、九州ほどに緊迫していたわけでもなかったのだから。
もしも義信が九州遠征で綺羅星のごとき武田方諸将を采配していたら、史実ほどに無駄な血は流れなかったと推察する』
~義信の死後400余年後。西暦205X年、とある歴史ヲタの自説より~
■天正九年(1581年)8月 摂津 四天王寺の奥院 武田義勝
「では、皆を集めた理由だったな」
討議の始まりを告げたあと、さも忘れ物に気付いたかのように父上が理由を述べ始めた。
「あーっと、今回の任は東国諸大名への対処、その最もたる大名は……北条家、だ。ここまでは良いか?まあ他にも武家が数多いるし疎かにもできないんだが」
父上からの確認に皆が首肯する。関東に大領を有する北条家は今でこそ武田家と盟約により戦は避けられているが、長年に渡って武田家と矛を交えてきた相手である事は武田家で碌を食む者ならば赤子でも知っている事。
「じゃあ……、まずは源三郎から」
そう言って父上がビッと源三郎を指差す。……昔、”人を指差したら失礼だ、やめなさい”と私を怒った人が目の前に居るんですけど。
「源三郎の武藤家、それから本家の真田家は古くは本流である海野家の頃より、小県や佐久といった東信から上野の吾妻辺りまでに根を張ってきた一族だ。ここまでで間違いは無えよな」
「はい、ご隠居の申された通りですじゃ」
父の言に対して矢沢薩摩が”さも当然”と誇らしげに肯定した。
「そこまで土地に根付いてきたのであれば、主の違いがあっても上野に縁のある北条方の家臣や国人、地侍達との繋がりもあるだろう。更に申せば土地の民達にもまだまだ顔が利くよな」
「お忘れなきように、ご隠居。当家はいまだ上野におり申す。我が兄一徳斎の長子である信綱様が沼田城におり、その次弟の兵部少輔昌輝殿が名胡桃城を守っておりまするぞ」
薩摩守が今度は”失礼な!”と言いた気な顔をした。
こういった表情をコロコロと変える人は見ていて飽きない、……もっとも遠くから見る限りには。
「って事で源三郎には上野にて北条方の者達を揺さぶって貰いたい。出来れば北条本家へ”武田家と歩調を合わせるべき”と諫言する者が出てきてくれると嬉しいが、まあそこまでは求めすぎだな」
「しかし……、武田家が上野のほぼ全域を抑えるようになって昨今、北条家はさほど影響を有しているとは申せませぬ。果たして現当主である氏政殿が当家寄りに舵を取られるでしょうか?」
源三郎への要請内容に対して、石田治部が懐疑を示した。ああ治部、父上がそれで終わってくれる訳ないだろ!治部も父上と付き合いが長いはずなのに……。
そういえば昔、父上に”、佐吉、待つ”ってよく言われてたな、”はうす”って何のことだったんだろう。
「分かってるって、そこで利景の出番だ。北条家には明知遠山家から別れた者、確か現当主は遠山直景って名だったと覚えているが、その者がおる。彼の家は宗瑞公(早雲の事)の世より北条家に仕えてきた古株ゆえ、こちらからも揺さぶりを掛ける。そこから連鎖して北条方の古臣たちが揺れてくれればしめたものだ」
「雲刻斎様、承知しました。ぜひ、それがしにお任せあれ」
利景殿が”我が意を得たり”と拝命を告げられた。
利景殿は三十路を越えられたいぶし銀を思わせる風貌をされている。……私もいつか利景殿のような落ち着きのある男になりたい。
「そして期が熟したら俺自身が勅使として北条家の居城である江戸に乗り込むって流れを考えている」
父上が胸を張って北条家への外交の一連の流れを述べた。父は若い頃から朝晩の鍛錬をよく無期限延期きたから体躯が貧弱に見える、……私はこんな身体にはなりたくない。
だが、父の話の壮大さに驚愕しているためか皆は父の貧相な胸に気付いていないようだ。……息子として何故か安堵してしまった、なぜだろう。
しかし、ここで長宗我部家から参加している谷殿が口を開いた。
「ご隠居様、暫時お待ちを。ご隠居は北条家を味方に引き入れようとのお考えのようですが、その事には異論はござらぬ。ただそれがしは西国の田舎ものゆえ詳しくは存ぜぬが、北条家がこちら側に付けばそれまで北条と敵対してきた大名が今後は武田家に弓引く事になってしまわれるのではござらぬか?」
あっ、言われてみれば確かに……。
当家とは永禄十年(1567年)の小田原での一戦依頼争っていない北条家。しかし佐竹、宇都宮、里見といった諸大名とは戦場で睨み合ってきていることは当家も知る処。
どうしても大家ゆえに北条にばかり目が行きがちだが、今回の対処では関東だけでなく陸奥や出羽までの采配が求められている。
当然、谷殿の申された大名家だけでなく蠣崎、南部、伊達、最上、相馬、安東などの東北の諸大名についても考慮せねばならない。
「ああ、その辺については次回以降の召集で考えていこうと思っている。うん、皆も気付いたことは遠慮せずに述べてくれ。懸案事項が多岐に渡るゆえ、いつの間にか忘れてしまうかもれない事も無いとは言えないからな」
「はっ」
父上が笑みを携えながら谷殿に、そして集まった全員へ応え、皆が了承を告げる。
「さて忠澄に来てもらった理由だが、源三郎も利景も、俺も含めて外交は素人も同然が実情、……それゆえ呼んだ」
「……は?であれば……、谷殿の手前で口憚ることながら、外交ということでしたら毛利家の恵瓊殿の方が適任では?」
父が述べられた谷殿の推挙理由に対して、流石に私も口を挟んでしまう。
恵瓊殿は長年に渡って毛利家の外交を担ってきただけに実績が豊富だ。実際、当家へ臣従する際の交渉でもその辣腕を振るった。もし恵瓊殿が居なければ毛利家は更に領地を削られていただろうとは武田家全体の隠すことなき思いだ。
「ああ恵瓊ね、……恵瓊かあ。アイツは駄目だよ、だってさ、アイツは出自が俺達と同じ武田ってことで今、調子に乗ってるもん」
「は……はあ?」
調子に乗ってるって……。確かに恵瓊殿は安芸武田家の出だと言われている。
安芸武田家、鎌倉の御世より安芸の佐東銀山城(現 広島市安佐南区祇園町)を中心に栄え、安芸守護に任じられたこともある名家。今は亡き毛利元就公に滅ぼされたが、その力は恵瓊殿により取り戻されたとも評されている。
「アイツさあ、ホンットに頭の天辺からつま先まで自分本位なんだよ。このまま武田家で使うとさ、毛利家のことは二の次にしかねん。それじゃあ毛利家が必要以上に弱っちまう、だから駄目だよ」
……はあ、思わず納得させられてしまう。
「だからさ、毛利家の力はそのままにしつつも毛利家に対抗する家、つまり長宗我部を助勢する。本当は元親の弟の親泰も外交は上手いんだろうけど、流石に親泰が抜けてしまうと九州遠征で長宗我部家の力が半減してしまうからな」
そう言って父上は谷殿の選定理由を述べ終えた。うーん、本当によく考えられているように聞こえるから不思議だ。
だが述べ終えたと思った、その口の根も乾かぬうちに父上は真面目な仮面を剥ぎ取り、その下にあるいつもの悪戯小僧の笑みを見せた。
「ってのは公に発する理由だが、……本音はそんな事じゃねえんだ」




