第七十三話 暗躍の始まり
■天正九年(1581年)8月 摂津 丹後武田家の大坂屋敷、その庵 一条信龍
大広間で行なわれた評定にて悪友が動いたのは先程のこと。
御館様に発言を求められた石田治部。それを見て室内に集められていた者達は、それぞれに思いを表していた。
旧来から当家に連なってきた者達は、最近本家からの重用が目覚しい治部へ”若輩のくせに、新参のくせに、外様のくせに”と不当な嫉妬を滲ませる。彼等は己の立ち位置で佐吉を観てきた、”以前は先左中将様の寵愛を笠に着て、今度は本家に取り入ろうとする。奴こそ『虎の威を借る狐』だ”と。だから、隠居したはずの義信が現れ、本家が治部の口上を許されたことが許せなかったのだろう。
己の武にばかり自信を持つ者達は、兵糧の輸送と調達での働きが彼等と同等に認められる佐吉を”槍働きもせぬくせに、戦の機微も判らぬくせに、そもそも戦場で泥水を啜ったこともないくせに”と侮蔑の炎を纏いはじめる。彼等は己の経験のみで治部を計る、”今までは先左中将様が采配を振るわれてきたが、どうせ今に襤褸が出る。その時こそ哂ってやろうぞ”と。それ故、佐吉の『保護者』が健在なことで彼等が哂う日が遠のいたことが腹立たしかったのかもしれない。
だが、蓋を開けてみればすべての者の意に反するものとなった。治部の発言は『虎の威』に遮られ、保護者(?)に蹴られて日の目を見ることなく封印されたのだから。その場に居たすべての者をあの成り行きには驚き、困惑した。
そして、今、あの場を荒らした張本人はというと……俺を誘って茶室にいる。
「……相変わらず手前勝手なヤツだな」
「ん?ああ、これか。まあ甘味や風味が変わるわけじゃないから、……気にするな」
俺が、目の前で胡坐をかきながら茶を点てている太郎に話しかけると、馬鹿は少し上に目をやる素振りで見つけた答えを返してきた。
「いや、お前の茶道の所作のことじゃない。……でも、まあ、宗易(後の千利休)辺りには渋い顔をされるだろうな」
「ああ、アイツ等は昔っから俺の茶を”風流の欠片もない”とか言って蛇蝎のように見るんだよな。最近じゃあ今井宗久と津田宗及の三人で『天下三宗匠』なんて恥ずかしい名で呼ばれてるらしいが。そもそもアイツ等の点てる茶は肩が凝るんだよな、……そう思うだろ、竹松?」
「現役の俺に同意を求めんなッ、この馬鹿!」
何気に同意を求めてくる太郎に叱る俺。否定できない俺も……馬鹿だな、ここには俺と太郎と二人だけしか居ないのに。
そうこうしている内に二杯の茶が太郎と俺の前に用意される。これも宗易とその一派の推している茶道に反する。彼等は同一の茶碗を客が順に廻して飲むことを是としている。
太郎曰く”アレはアレで否定はしないよ、実際に同じ茶碗に口を付ければ客同士の親近感も生じるだろうし。たださ、自分の飲みたい頃合いで飲めないのは辛いよね”とのことだ。
確かに熱い茶を飲みたい者も居れば、猫舌だから冷ましてからにしたい者も居る。ましてや同席した中には”同じ茶碗では飲みたくない”ってヤツがこの世の中には居ることも往々に、ある。
おっと、そんな事を聴きたかったんじゃない。
「そもそもお前、隠居したんだろ?何で戻ってきたんだよ!」
「んん、別に好きで戻ったわけじゃないさ。実際、寝込みを襲われて連れてこられた訳だしな。ああ言い忘れてたが、隠居に際して名乗っている雅号を”雲の如く悠々と時を刻む様”との意を込めて『雲刻斎』としたんだよ、俺……風靡だろ?」
太郎が不貞腐れながら、しかし最後には悪戯小僧が姿を現した。
「テメエの号なんぞどうでも良いわッ!そもそも何で現役に復帰したんだって話だ」
「うん、……武家に産まれ、武士として生きてきたから、かな」
神妙な顔の太郎。今のお前を、隠居するときに”これからは若者の時代だよ、竹松くん。君はまだ隠居できないのかね、いゃあ非常に残念だね、グハハハッ”って満面の笑みで俺の肩をポンポンと叩いたヤツに見せてやりたい。
……なんか腹立ってきた。
「理由になってねえぞ、理由に!もちっと誰かと同じように頭の悪い俺でも判るように言えやッ!」
「だからさあ、お前も信玄に教わっただろ、昔。『武家とは公家から圧されていた庶民を護るために産まれた役目』って。まあ、言ってた本人は他家を攻めて、そこの民を隷属させたりしてたが」
確かに俺達が童だった頃、信玄や家の爺達から武家の生い立ちを聞かされてきた。また兄上が信濃の諸家を攻めた後に、その家の女房や娘を女郎に堕としたり、男達には金山の採掘を強いたり……。矛盾と不条理を感じた事は今でも忘れない。
だが、あの当時は武田家だけでなく他家でも同じ事をしていた。
――関東では離れた幕府の目を盗んで暴走を始めた鎌倉公方(後の古河公方)や堀越公方、関東管領上杉氏とその支族である扇谷上杉家、山内上杉家が戦と贅に彩られた生活を営んでいた。
――越後の長尾景虎(いまだに”上杉”とは言わない)が幾度となく関東へ攻め入って現地で何をやっていた!
――細川家と山名家が旗頭となって争った応仁の大乱で最も害を被り苦しめられたのは……。
――領民を蔑ろにした守護大名や国司、郡司、国人領主……。その土地の豪農ですら時には小作の者を苦しめた。その結果として加賀では一時、民が国を持った。
それも、ある刻から徐々に変わり始めた。きっかけは大名家は幕府に無断で独自の法度を用いるようになってから、かもしれない。
「で?実際に何があったんだ?お前を還俗させた程の何かってやつを……教えろよ」
「別に『隠居』であって『出家』したわけじゃないんだが……。まあ良いや、実はな……」
そして、太郎は俺の詰問に対して粛々と、しかし苦悩に満ちた表情で答えを語り始めた。
■天正九年(1581年)8月 筑前 博多にあるのとある商家の奥座敷 長谷川宗仁
「……困リマスタネ、タケダ家」
「アア……。ソレニ、隠棲シタハズノ義信ガ大坂ニ現レタトカ……。毎度ノ事ナガラ、耳ガ早イ男ダ」
この部屋にはいつもの顔触れが集まっている。そして事が事だけに普段の堺ではなく態々武田の目の届かないこの博多まで足を運ばねばならない、……不便なものだ。
顔触れといっても三人のみで、他の二人は南蛮人ときている。そして、今も円卓を囲むように座っている二人の南蛮人は苦い顔を隠そうともせずに愚痴をぼやいている。特に今回は大阪城に先左中将が現れたとの知らせが入ったのだから。
私、長谷川宗仁は今井宗久殿より特命を受けて、堺の会合衆を代表して参加している。
右手に座しているのは10年程前に遠く南蛮から来た壮年の伴天連(宣教師のこと)。名をグネッキ・ソルディ・オルガンティノといい、歳の近いルイス・フロイスと共に機内を中心にキリシタンの布教をしている。(※フロイスは1532年生まれのポルトガル人。オルガンティノは1533年生まれのイタリア人)
左手には南蛮商人たちを代表して此処に来ているエンリケという名の男。彼は葡という国の生まれだそうだ。
一見すれば不思議な光景だ。今のこの日ノ本の覇者である武田家とそれぞれが結びつきを有している。
堺の会合衆は、平時戦時を問わず大名家に大量の品を売っている。そして日ノ本一の大大名となった武田家はその筆頭といえる。今も九州遠征の準備のため会合衆を介して膨大な量の兵糧や武具を納めている。
20年近く前から日ノ本で布教していた伴天連たちも、武田家が数年前に荒れていた畿内を治めてからは、武田家からの活動の許可もあってか入教する信者が増えているそうだ。
そして南蛮商人。彼等も明で取り寄せた硝石や生糸を売り、代わりに刀や漆器、更には大量の銀を買い付けている。その許可を出し保護してきたのは朝廷ではなく武田家だった。
だが皆に不満がない訳ではない。武田家で長年に渡って畿内を任されていた先左中将が茶道に関心が深くなかった所為で、今井殿や千宗易が売り込もうとしていた茶道具の売れ行きは当初見込みを大幅に下回っている。そして彼等も……。
「義信ハ本当ニ馬鹿デス、神ノ教エヲ軽ンジテ一向ニ帰依シマセンカラ。彼ヤ武田家ノ人達ガ率先シテ帰依シテイタラ、今頃ハモット大勢ノ民ヲ導ケテイタノニ……」
「我等モ同感ダ。義信ガ都ノ監督ニツイテカラ”例エ異国ノ者デモ狼藉ヲ働ケバ処罰スル”ト問答無用デ死罪トナッタカラナ。何故ニ我等ガ黄色イ猿ドモト同列ニ扱ワレネバナランノダッ!……オット、宗仁、君達ハ別ダヨ、君達ハ友人ダ」
二人がそれぞれに抱えている悩みを溢す。
確かに先左中将は、切支丹となる事を拒み、懐疑的な姿勢を執ってきた。
――隣人を殺したらいけないとか言いつつ、大昔に十字軍とかで大勢の他国の民を殺したんだよね。切支丹じゃなきゃ人じゃねえとか……草生やして良いですか?
――他国に布教しに来る前に現在進行形で他国と争い続けている自国の王を諌めましょう。
――君の故郷の『ヴェネツィア共和国』だったっけ?確か信教の自由を認めてるんだよね、……ふーん、で?
――君等の国にだって法くらいがあるよね。聖書が絶対なら、君等の国法って要らなくね。
――一神教なのに複数の『法』を認めてるんなら、我が国の法度も認めてよ。
――結局は『郷に入っては郷に従え』ってことでヨロシコ。
それにしても我等を”黄色い猿”か、……長い付き合いゆえについ本音が出たということかね。まあ、我等から見ればコヤツ等は平時から顔を赤めた鬼にしか見えぬからお互い様だな。
「で、どうだ?」
「コチラノ準備ハ予定通リデスヨ。西国デ帰依シテイル領主ハ我等ヘノ助勢ヲ約束シテクレテイマス」
「……我等モ大差ナイ、宗麟モ同意シタカラナ」
なんと……、島津家の猛威から助かるべく――臣下になる事を条件に――武田家へ救援を求めた大友家。その当主である宗麟までもが裏でこちらと手を結んだか……。まあそうだろう。ヤツは早くから切支丹となり、日頃から南蛮商人へこの国の民を奴隷として売り、我等商人に借財があるのだから。
ここまで来ればやることは一つ、いつまでも博多なんぞに居ることもないだろう。
私が椅子から立ち上がると、私の思いを察したのかそれとも自身も同じ思いに達したのか、目の前の二人の南蛮人も席を立った。
「……では……」
「ええ……、ここでの事は……」
「屋敷を出たら……」
三人がそれぞれに語尾を濁しながら確認する。判っていることだ、この部屋を出たと同時に彼等とは赤の他人。万が一にも武田方にこの結託が露呈しても他の二人の事は他言無用。尤も……土壇場になって宗麟の側から漏れたとしても、詳しい事まではヤツに話していないから仕損じるはずがない。
それにしても、……もう後戻りは出来ぬな。
■天正九年(1581年)8月 摂津 某所(名も無き寺の奥の院) 武田義勝
父上が叔父上と共に屋敷に戻られて半刻。漸く庵から出てきた父上の今日の暴挙について問い質そうと思っていたが……。
「夜叉丸(義勝の幼名)、済まぬがこれから申す者を有無を言わさずに連れてきてくれ」
「それよりも、先程の仕儀について説明をお願いします。事と次第によっては……」
「まあそれは良いから良いから。兎に角、10日後にこの場所に集まるよう通達してくれよ」
「……分りました」
父上はそう言うと一枚の紙を私に手渡してきた。
詰問に対する回答がおざなりになってしまったが、父上の事だからいつもの事と渋々引き下がってしまう私。いつになったらこの父に面と向かって物申せる日が来るのだろう。
そういえば幼少の頃にの生前の爺(飯富虎昌のこと)から散々、”お父君を尻に敷ける程の男になりなされ。さすればどの様な女子を娶ることとなっても大概の事はなんとかできまするぞ”と言われてたな。……成る程、一理あるかもしれんな。
父上の要請された方々へ出席を求めるべく手配を始めた。文に認めて要請したり、出座の可否を直接聴きに伺ったり……。本来であれば九州遠征の下準備で多忙なのに、どういう訳か当家の準備を爺の息子の飯富昌時が手伝ってくれた。昌時だって石見への転封の始末で暇など無いはずなのに。そもそも爺が父上の傅役であったというだけで飯富家自体は武田家の直臣。なのにどういう訳か当家のいつの間にか――いつまでも――当家の筆頭家老の感が拭えない、困ったものだ。
そして10日後の今日。紙に記されていた末寺に父上と私、そして召集のかかった面々が揃った。
「それでは、これより……」
「暫時お待ちを。そもそも何故にそれがし達を呼ばれたのでしょう?」
「左様、お話を始められる前にその辺りの真意をお聞かせ願いたい」
召集の刻限となったのを見計らって父上が議題から述べようとしたのだろうが、その途中で出席者から質問が飛んだ。
まずは明知城(現 岐阜県恵那市明智町)の城主、遠山利景。鎌倉の御世から東美濃に根を張ってきた一族で、明知遠山家は惣領である岩村遠山家に匹するとまで謂われる。
次に若狭一国を預かる武田元明。一時は父上の庇護の下に有ったが、父上の隠居と私の丹波と丹後の二カ国の拝命に伴い、当家からの庇護を脱した。しかし同じく若狭湾を合有しているのでいまでも両家の交流は続いている。……というか下手に疎遠になって湾や領地の境界で揉めでもしたら目も当てられない事となる。
臨席は他に、武藤家の嫡男の源三郎(信幸の事)、四国は長宗我部家の臣である谷忠澄殿、北陸の浅井家から藤堂高虎。皆が一様に怪訝な思いを表している。
「ああ、そうだな。ここに集まってもらったのは……、ん?……なにやら外が騒がしいな」
父が皆の懸念を払拭するために説明しようと口を開いた矢先に、複数の足音がこの部屋に近づいてきた。……おや?何やら聞き覚えのある声達が口論しながら向かってきているようだ。
「なりませぬッ!この先はなりませぬ、これ以上立ち入られれば……」
「ええいッ、そこをどけい!」
「こちらも一大事ゆえ!奥の部屋におられる方に用があるのでな」
……声の調子から三人。先刻、我等をこの部屋に案内してくれた住職が、乱入者たちを引き止めようとしてくれているようだ。それにしても無粋な足音だな、もう少し静かに歩けぬのか。
「どうか、ご容赦を……平に、平にご容赦をッ!」
「できぬ!これは我が武藤家とひいては真田家の一大事ゆえ、例え先代の一徳斎様が許しても儂が許さぬッ!」
「左様、国家安寧を計る集まりを軽挙妄動に進められては甚だ迷惑。それがしの参加は欠かせぬッ!」
ん?何が真田家の一大事?何が軽挙妄動?それと最後にチラッと私欲が滲み出ているようだが……。
そして遂に足音達は部屋の前に到着し、勢いよく障子を開いて入ってきた。
「若、ご無事ですかッ!?」
「ご隠居、早まってはなりませぬぞッ!」
「ああ……、済みませぬ!ご容赦を、ご容赦を、ご容赦をッ!」
部屋に現われた三人は……、見覚えのあり過ぎる味の濃ゆい顔だった。
一人は先程から推察したとおり、当寺の住職。縁に手をついて平伏して一心不乱に謝っている。
一人は真田家の傍流にして今は亡き真田弾正忠幸隆の実弟、矢沢薩摩守頼綱。
最後の一人は先日の評定で意識を飛ばされた石田治部。……もう帰ってきたのか、速いな。
「チッ……、まあ良い。二人とも面倒だが……説明してやるから、とりあえず中に入れ。それから御坊は……済まぬが戸を閉めて部屋から離れてくれ」
三人の登場を認めた父が、不満を隠そうともせず命じられた。
「「「はっ」」」
命ぜられた者達は三者三様の行動に移った。許しを得たことで部屋にズカズカと入り、何食わぬ顔で父の横に着座する治部と、鬼の形相で源三郎を護ろうとする薩摩守。そしてソソソッと逃げていく住職。
「あーえーっとな。二人とも……何から聞きたい?」
父が来訪者達の真意を問い質すと、彼等は息の合った双子の如く身を乗り出して詰めてきた。
「何ゆえにウチの無垢な若を拉致し、このような悪の謀議で染めようとなさる!?当家に恨みでもござるのかッ!」
「そうでござるッ、何ゆえにそれがしを差し置いて未熟者どもを選ばれるのですかッ!?」
……アツい、やっと日が落ちて涼しくなってきたのに。
「分かった、分かった……だから落ち着けって。近づきすぎなんだよ、お前らッ」
父がシッシッと手を振って二人を離してから、普段は絶対にしない程に真摯な表情で説明を始めた。二人への説明は翻って冒頭に挙げた利景殿と元明殿への回答となろう、父は面倒事はまとめて片付ける性質ゆえ。
「まず、この部屋に集まった者たちを見ろ。ああ、お前ら二人は抜きに、だぞ」
父の言によって治部と薩摩守以外の面々は互いに確認し合う。
「ここに集まったのは武田家の親族衆、譜代家臣筋の源三郎、旧くからの名家の遠山家、そして外様の浅井家と長宗我部家。一見すれば今の武田家の縮図だが、……これから始める討議には欠かせぬ者達だ。まあ、武田家が一丸となって事に当たろうとする意志自体も大事なわけだが、な」
皆の困惑により静まり返る部屋。そして場の空気を掴んだとばかりに父はおもむろに謀議の開幕を宣言した。
「それでは改めて……。これより『第1回 東国仕置き検討委員会 緊急対策会議(仮)』を始める。急遽、傍聴者に治部と薩摩守の二名が加わったがあくまでも今回だけだから。……じゃ、夜叉丸くん、議事録よろしくね」
★武田義信関連のWiki 若狭湾
福井県から京都府にかけての日本海側では珍しい大規模なリアス式海岸。日本海側の有数な良港として知られている。それゆえ、古くから漁業権や水利権、港湾利権をめぐって近隣との対立が激しい地域でもある[1]。
観光名所としても有名で三方五湖とともに国定公園に指定されている。
■湾の名称
・湾内には敦賀湾や世久見湾、小浜湾、矢代湾、内浦湾、舞鶴湾、宮津湾など複数の支湾を擁しているためよく間違えられるが、古くから若狭湾の名称に変わりはない。
・若狭武田氏の第9代当主の武田元明が若かりし頃、当時後見人であった武田義信へ『丹若湾』と改名しようか迷っている旨を文にて明かしている。しかし、義信から『民に愛され続けてきた名を棄ててはいけない』と諭されて改名を取り止めた事がある[2]。
■機能
・現在は工業港としても全国に知られているが、湾内にある敦賀港は古くは北前船の寄港地として栄えてきた。
・商港としての面影は現在も残っており、北海道とのフェリー運行が継続されている[3]。
■水産物
・鯖、甘鯛、蟹がよく獲れることで有名[4]。
■補足
1.若狭武田氏の第13代当主で若狭敦賀藩5代藩主の武田元春(元明の玄孫)の時代に、若狭側の漁民が丹後側の漁場まで縄張りを主張したときは、流石に丹後宮津藩4代藩主の武田信秋から『調子に乗るな』と怒られたと伝えられている。ただし、左記の内容は信頼のおける史料からは発見されていない。
2.丹後宮津藩の武田家の文献では、義信はさほど名称自体にこだわりを持っていなかったという逸話が残っている。
3.北海道への出航港として運航されている舞鶴港と敦賀港は、利権絡みにより未だに統一できない。
4.甲斐、美濃、山城と、丹後並びに丹波を領する以前に海を見た事の無かった義信は『鯖の糠漬け』が大好物だった。ただ蟹や海老は好きではなかったようで、義信は甲殻類アレルギーであった可能性が近年取り沙汰されている。
【後書き】
主人公が述べているように『雲刻斎』という号は、”雲の如く悠々と時を刻む様”との意を込めています。
よって、間違っても後世の歴史ヲタを笑わそうという意図は決して含んでいない事をここに明記しておく。
異論は認める、……ただし私の死後440年後に。




