第七十二話 怒りのシャイニング・ウィザード
■天正九年(1581年)8月 摂津 大坂城の大広間 一条信龍
もう間もなく武田家の今後の方針を決める評定が開かれる。そのため、当家の主だった者たちが武田の版図からこの部屋へ集結するよう御館様から通達があったのは半月前のこと。俺は広間に着くなり小姓に指定された上座から見て左側1列目1番目の席に座っている。一昔であれば次兄の典厩信繁が座り、御館様であった長兄の信玄公を補佐していた席。
(まったく、俺も偉くなったもんだな。これも全部、あの腐れ外道の所為だッ!)
広間を見渡せばすでに大勢の者が着座しており、あれこれと己の持論を隣人へぶちまけている。
畿内以西に所領を持つ者は差し迫っている九州遠征について激論を交わしている。新たに山陽に転封された者たちは以前から毛利家や長宗我部家といった新参の者たちに九州の情勢や地形や気候など、具体的な軍略の議論が盛んなようだ。
そして九州遠征への参陣から外れた者たち。彼らは九州遠征に必要となる兵糧や玉薬の準備に携わる事が内定している。
労多くして報われることの少ない兵站。そう思ってか遠征自体に乗り気でなく、今も不平不満を垂れている者たちが多い。更に申せば――すべてではないにしても――旧来から当家に臣従してきた領主たちが多数見受けられる。
ただ、領内のモノが売れることで見入りが増えるのも事実。現に多少なりとも数理や商賈の才のある者はここには加わらず、じっと目を瞑り評定が始まるのを待っている。不平不満を垂れている者たちを宥めることもなく一線を設けていることからも、恐らく彼らを内心で侮蔑しほくそ笑んでいるのだろう。
そして、三河一国を預かる一条信龍。俺は……正直、どこにも属さずにいる。
九州遠征には参陣しないため、九州各地の情勢や地形や気候などを聞く利点が少ない。功名を挙げることのない俺が九州に転封されるはずもなく、武田本家は九州に住まう諸大名や豪族の敵味方を諸将へおおまかにだが報知済みであるし、戦後の仕置きも毛利攻めや四国攻めと大差は無い。
そして不平不満。これも俺の趣味じゃない。こういった輩は自分に力が無いことを気付かずに、逆に力が有ると信じている事が往々にある。俺も庶流とはいえ武田家に産まれて甲斐の名門一条家を継いだ頃までは彼らの思考に近かったが、飛騨を、そして三河を納めるようになってから自分には思っているほどの力が無いことを知った。そして力を持たぬ故に他人に利用される事もまた……多い。
武田の血は甲斐に有ればこそ敬われるが他国の民には”古い”血脈であることしか知られていない、……一条家などは更に認知される事も無い。その地の領民に対して力として使えなければ……邪魔となることも往々にあった。
最後に九州遠征で財を成そうしている者たち、コイツ等と一緒には……なりたくない。俺は自領の民の生活を第一に考えたいのだ。だから己が力を試し、財を成し、増やし、城の蔵を満杯にする事に感けて領地運営を舐めてるヤツ等と同じ目線に降りるつもりはない。
俺は不恰好かもしれぬが、一応は一国の領主だ。
多少の才や財といった”力”は必要かもしれんが、それらに狂うほど馬鹿でもない。俺が欲するのはただただ領民たちや家臣たちと本気で笑い、泣き、助け合い、……そして俺が死ぬ間際に親友と昔話がしたい、それだけだ。
おっと、何時の間にか評定に参加する者達がすべて集まったようだ。俺の右隣には越中を領する徳川家康。三河守は何故か席に着くとすぐに瞑目してたな、コイツが何を企んでいるとの噂も耳にするが、一応は太郎の娘が徳川に輿入れされているのだから無碍にもできぬ。
そして三河守の後ろには河内に九万石――見入り自体は15万石とも噂されている――を領している羽柴筑前が、せわしなく扇子をパタパタと仰いでいる。
(はて、本来であればこの左には武田家一門や親族集が列を成していたはず。まあ、家康も親族衆と言えなくも無いがそれでも……。そもそも俺の後ろは誰が座るんだ?)
「御館様、先代様の入室でございます」
俺が後ろの席について訝しんでた処に御館様の近習からの声が聞こえてきた。その声に合わせて一斉に平伏する。俺が床に顔を近づけていると、御館様の入室された足音、その後ろから二人ほどの音が続く。そしてその内の一人が俺の後ろに空いていた席に座ったようだ。
「皆、登城大儀である。面を上げよ」
御館様の瑞々しく、そして威勢を込められた言が上座から聞こえてきた。
身体を起こし何気に後ろを伺うと……満面の笑みの――でも目は笑ってない――太郎が居た。
……また、一波乱ありそうだ。絶対だ、全財産を賭けてもいいッ!
■天正九年(1581年)8月 摂津 大坂城の大広間 徳川家康
評定が始まって半刻。集まった武田家家臣たちが自論を声高々にまき散らしている。今、こうして日頃の抱えていた本家に対する不満を目の前の愚者どもに言わせ、旧来からの武田家に不和を生じさせるため、色々と手を尽くしたことが実っているといえる。
おかげで普段以上に暑さが増している、……のだが。儂の背中は常に凍えるような寒さに晒されているッ!
「筑前、先日は奥方から風流な反物が我が妻に届いた事、改めて礼を申すぞ」
「いやあ、ただ単に派手な切れ端を縫い合わせただけですだぎゃ。いっそ雑巾にでもして頂きたあだぎゃ」
儂の後ろでは評定など無視して、先左中将様と羽柴筑前が話している。
「全く、そなたの奥方はよく物の道理を弁えておる。一見、ただの布生地の寄せ集めのようでそうではなく。職を辞する前であれば賄賂ゆえ決して受け取らなんだが、隠居して何の権もない者に送るなら誰憚ることなき真心。嬉しき限りだ。それに引きかえ、我が子たちときたら……」
「ほえ?ご隠居さまの御子様はどうかなされただか?」
筑前、止めろ。その話は……。また儂の背中を一筋の汗が流れる。
「愚息は”多忙”の二文字のみ。越中に嫁いだ娘に至っては音沙汰無しときたモンだ、昔は事あるたびに孫の似顔絵を寄越してくれたというに……」
「世知辛いですにゃあ」
「全くだ。恐らく舅か夫か、はたまた嫁いだ家自体が吝嗇な家風なのであろうな。たかだか紙と墨と飛脚への駄賃、それすらケチるのだからな」
……武田家中に不和を産ませるために散財したこと、後ろの権を失くした隠居を軽んじた事が仇となったわッ!
そして、そんな儂の思いを無視して後ろでは話が続いている。
「ふええ、親の心子知らずで。おらあのウチにゃあ子がおらんですが、子が居たら居たで大変ですにゃあ」
「まあ、『子供らが大きくなったと慶べ』とウチの女房がいうので諦めたがのう」
針の筵とは正にこの事。横の一条野州殿が先程からチラチラち憐憫の眼差しで儂を観る。
ぐぐっ、落ち着け。嘲りと蔑みの目など、幼き日に今川家中で散々味わってきたではないか。
■天正八年(1581年)8月 摂津 大坂城の大広間 石田三成
評定が始まってから、木曾予州(義昌の事)や小山田越州(信茂の事)を旗頭とする古くから本家の庇護に甘えてきた者達が自分達の都合ばかりをまき散らし、他の同調していない連中も我関せずで傍観している。
上座に居られる御館様と先代様も、すでに彼等がこの評定でどのように動かれるかを事前に武藤殿から知らされていたため丁寧に対応なされている。
そして肝心の先左中将様は、隣席の羽柴様と何やら密談をされている。全く、何のためにこの場に呼んだのか判っておられるのだろうか。
それにしても己の事のみで、この日ノ本を憂いている家臣は居らぬのかッ!
「佐吉、その方も何か申せ」
俺がこの広間に対して心の中で憤慨していると、上座から声を掛けられた。
そして、今まで手前勝手な自論を繰り返していた古臣たちから鋭い視線が飛んできた。
「はっ、それがしが考えますに、ま……」
「……氏ねやッ!」
それがしが話を始めようとしたところで、……駿河から来た右足が我が側頭部を襲い、……俺の意識は……飛んだ。
微かに”本家が許しても俺が許さぬ”と聴こえたような……、聴こえなかったような……。
■天正八年(1581年)8月 摂津 大坂城の大広間 羽柴筑前守秀吉
「はっ、それがしが考えますに、ま……」
「氏ねやッ!本家が許しても俺が許さぬ。貴様の能書きなんぞ聞く耳持たぬわッ!」
なっ、なんと……。
先程までおりゃあと談笑していた御隠居様が、石田治部が口を開こうとするや否や飛びかかっただぎゃ。正に治部のこめかみに御隠居の脚が突き刺さっておる。
部屋に居る全員が――おりゃあを含めて、あっ、治部が意識を無くしたようだぎゃあから1名除外だ――何が起こったのか理解できない。それ程の速さだ。
「何をするのだ、兄者ッ」
やっとの思いで先代様が御隠居を問い詰めた。その内に皆もやっと自我を取り戻し始めたようだぎゃ。
「恐れながら先代、……否、信勝殿。貴殿がきちんと今後の武田家、そして日ノ本に対する展望を語らぬから要らぬ刻を費やしておるのだぞッ!まあ良いや、早く帰りてえし面倒臭えから俺が言ってやるよ。」
「「なっ」」
御隠居が先代様からの詰問を無視して、御館様に視線を移すと逆に本家の不断だと一蹴された。そして、今度は他の家臣連中を凄んだ。
遂に、遂に……御隠居様が動いただぎゃ!
「おい予州と……それからお前、誰だっけ。ああ、越州か」
「ななな、何でござろう。隠居された、かかか、方が口を、ははは、挟まないで頂きたひ」
木曾殿が震えながらも御隠居に反論された。他の小山田殿や、先程まで木曽殿に同調されていた面々も同じく怯えながらも反意を表しているようだぎゃ。
まあ、急に現れたと思っているところに間髪入れずに名指しされれば戸惑うのも無理は無あか。
「予州、テメエは信州木曽を離れて美濃に加増転封されてから何年になるんだい、ん?」
「え?……、えええっと、永禄十年、ででで、でしたから、じじじゅ、十五年となりまひゅ」
「その間、お前、……否、お前達は何したよ、ん?……特に何もしてねえよな、槍働きも、政も」
「……そそそ、そのような、こここ、ことはッ」
御隠居様が……荒ぶられておられる。
「してたら褒められてっだろ、普通。飯富、馬場、内藤、高坂、原に横田に小幡、それから真田。皆、この十数年の間で働きに応じて加増や褒美があったわけだが」
「……」
「で、お前らに無えってことはそういう事だ、官位もいまだに通称のままだし」
「……」
「と言うことで、君達には領主の器量が無いと言わざるを得ない。だから領地没収です、これからは大人しく古くから続く名家としての誇りを次代に引き継いどけ、なッ!」
トドメを刺された予州殿たち。彼等に許されたのは家名の存続のみとは……。
そして今度は評定の間、ずっと静観していた者たちに御隠居様が牙を向けた。
「ええと、長束と山内と、金森、不破、増田。お前らを筆頭とした馬鹿が堺の商人と相場を操作して荒稼ぎしてんのは判ってんだからな」
「「ぐっ……」」
「今までは取り締まれなかった方の落ち度として今回までは見逃すが、……次は無え、判ったな」
「「……はっ」」
御隠居様に名指しされた面々が悔しそうに首を垂れる。
そして、最後に上座を背にして一同に……吼えた。
「良いか、テメエ等ッ!これからの領主には日ノ本の安寧、つまり民の営みを考える者が重きを置かれることだろう。つまり、戦働きだけの『武将』に所領はやれんし、民を護れねえヤツからは没収する。政とは名ばかりに私服を肥やして領地運営しねえ、出来ねえヤツも同様だ。幾らお前等の働きが秀逸だったとしても、子や孫が暗愚なら……判るよな」
なッ、それでは……。
「逆に働きが著しい者は褒美も名誉も与える。力量によっては大名に取り立てる。恐らく真面目に働けば、孫の代くらいまでは食いっぱぐれねえ程度の財は成せるだろうさ」
「……」
「だから、子や孫、……居ねえヤツは家臣でも構わねえ。領地運営だけじゃなく、後継者の育成にもこれからは力を注げよ。そうすれば血脈が途絶えてもお前等の名は受け継がれることだろう」
「「ははッ」」
こりゃあ、えりゃあ事になっただぎゃ。
おりゃあを含めて皆が度肝を抜かれていると、不意に御隠居様が今まで尻を向けていた上座に顔を向けて不敵な笑みを浮かべた。
「勿論、諸君たちも同じだから、……判った?」
■天正八年(1581年)8月 摂津 大坂城の大広間 武田雲刻斎
俺は生涯で決してこの日を忘れないだろう。
何故なら、ここに集まって呑気に評定で愚痴を吐いている連中に現実の厳しさを教えてやったから。
何故なら、ここで静観して己の私利私欲にしか興味のない連中の夢を打ち砕いたから。
そして武田家に劇薬を投与するために駿河から俺を拉致した奴等の思惑をブチ壊したから、……ザマぁ見ろってんだ。
不遜?知るか、んなモンッ!
佐吉たちが俺一人に押し付けた事に比べたら、楽なもんだろ。
★武田義信関連のWiki 武田家のお年玉
京都府丹後地方の風習の一つ。丹後宮津藩の武田家が発祥と云われているが、どの年代から始まったのかは不明。
■内容
・前年の行ないを総て述べさせてから、その内容に応じてお年玉の額が決まる。また悪事に限らず、善行が無い場合は逆にお年玉を徴収される。
■その他
・近年では野心的な会社の経営者が、その会社の賞与考課に取り入れる場合がある。
・丹後地方の地銀『雲刻銀行』では上記の考えを取り入れて、前年の実績に応じて企業への融資金額は勿論、融資の打ち切りを行なっている[1][2]。
■補足
1.雲刻銀行は、日本に何度となく起こった金融危機においても常に黒字を誇っていたが、他行からは『融資の条件が厳しい。地元の身贔屓が無いため、丹後一嫌われている』と陰口を叩かれることが多い。
2.雲刻銀行の前身である『近江屋』の初代頭取は、石田三成の子孫(傍系)にあたる。




