第七話 不安と困惑
■天文18年(1549年)1月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田太郎
今年は出稼ぎ……ゴホンっ、信濃への侵攻を親父様はしないようだ。なんでもまずは昨年の損害を埋め、家中の充実を図るのだそうだ。まあ、その方が良い、平和が一番だよ。
そして今、俺は虎昌の送別をしている。虎昌は早速、上原城に向かうようだ。
「若君、それがしが居らずとも馬術、弓術、槍術の稽古を怠ってはなりませぬぞ」
「分かってるって、耳にタコだよ」
全く、何時まで経っても子供扱いしおって……って俺、まだ子供か。
「あと、御母上の仰る事も聞いて差し上げるのですぞ。和歌や短歌、能や狂言を学ばれる事もこれからの時代には大切になって参ります」
「……考えとくよ」
正直、和歌や短歌には興味が無い。精々、時世の句さえ作れれば良いとさえ思っている。実際、これからの時代に和歌や短歌が必要になるのかねえ。まあ、能や狂言については信長が好んでいたって話を聞いた事があるし、大名同士の宴の席に出席した際に恥をかかない程度にはしておけば良いとは思ってはいるけどね。
「それから……」
「まだ何かあるの? いい加減、そなたの家臣達も待ちくたびれておるぞ」
まだ何か言い足らなそうな虎昌に、正直ウンザリしてつい悪態をついてしまった。やっぱり、この辺がまだ子供だね、俺も。大人ならちゃんと聞いてあげるべきかな。
「若に対してではございません!」
「……」
むっ、無礼な! そう思っていると、虎昌が勘助と幸隆の方を向いて話し掛けた。
「勘助、弾正(真田幸隆の事)、くれぐれも若君の事、頼むぞ」
「「はっ、お任せ下され」」
勘助と幸隆が虎昌の依頼に対して頭を下げて返事をする。勘助は今まで通り俺の指南役だが、新たに幸隆も俺の師範役になったのだ、まあ今更傅役って歳でもないからね。
幸隆が俺の師範役になってくれたのは僥倖だ。前から謀略について誰かに教えて貰おうと思っていたからな、丁度良い機会だからみっちり、じっくり、どっぷりと教えて貰おう。何と言っても俺にとっての最重要課題は『如何にして謙信との戦いを有利にするか』だからね。
親父様を始め、家中がまだ越後に関心が無いようだし、勘助も忙しそうだからそれどころではないのが現状のようだ。やっぱり俺が動かなければ、そして動くのであれば早い方が良い。覚悟しろ、謙信……。
そんな事を考えていると、やっと上原城に向かう気になってくれたようだ。
「では若君、若君が上原城の城代になられるまでしっかりと城をお守りする所存ゆえ、若君もお達者で」
「うん、そなたも道中気をつけてな」
評定だの軍議だのでちょくちょくと甲斐府中に来るとは知っているが、流石にほぼ毎日顔を見ていた虎昌との別れとなるとしんみりとしてしまう。感傷的だな、俺って。
でも上原城って山城なんだよなー。山城って防御力には優れているから安心なんだけど、交通の便が悪いし水の便も悪い。おまけに出兵の際の登城にも一苦労するのだ。嫌だなー、上原城……。
■天文18年(1549年)3月 信濃 上原城 飯富虎昌
心配だ、非常に心配だ。
俺が甲斐に居た時とは異なる心配をしている。甲斐に居た時は、若君が何かしでかすのではないかとヤキモキしていたが、離れてみるとちゃんと俺の言いつけを守って下されているか心配になる。
月に数度、俺が躑躅ヶ崎館に赴いた際に、最初は真面目にやっている様で安心したのだが今では俺が赴いた時にしかしっかりと鍛錬を積まれていないのではないのかと考えてしまう。全く困った若君だ。
上原城に赴任してから若君に近況報告や状況確認を書いた文で遣り取りをしているのだが、最近では若君からの文が滞り気味になってきている。そうなると余計に心配になり、勘助や弾正だけでなく甲斐に在住の者に若君の近況を文で聞いてしまう。
甲斐に居る者からは『若君は毎日、馬術、弓術、槍術の鍛錬を続けている。安心なされよ』と文が返ってくる。そういった文を読むたびに安心して頬を緩めてしまうのだが、では和歌や短歌、能や狂言はどうなっているのかと更に心配してしまう。
流石に三条の方様やその周りに居る女中に文を出す訳にもいかない。奥に文を出しでもしたら、不義密通の疑いを御館様に持たれてしまう。やはり、和歌や短歌を教える者が決められてから上原城に赴任すれば良かった。いや、今から御館様に和歌や短歌を教える者を若君に就けるべきだと進言しようか……。
そんな事を悶々と考えていると家臣が声を掛けてきた。
「……城代様」
「なんじゃ! 儂は今忙しいのじゃ、後にせよ」
無意識に怒声をあげていたが、言った後に反省した。いかんな、家臣は何も悪くない、儂の八つ当たりだ。
「すまぬ。で、何の用じゃ」
「はっ、甲斐の若君から文が届きましてございます」
家臣が申し訳なさ気にそうっと俺の前に書状を差し出してきた。そういった最重要物件は早よう出せ、早よう!
「それを早く言え、馬鹿モン!」
「す、すいません」
いかんな、また怒声を発してしまった。これも若君がちゃんと儂に文を返してくれぬのが悪いんじゃ!
「悪い、早よう文を寄越せ」
「ははっ」
全く、若君も気を持たせて下さる。かの御仁は人を不安にさせる名人じゃ。どれどれ、此度は何と文に書いてあるのだろうか……。
■天文18年(1549年)9月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田晴信
そろそろ太郎について、考えを纏めねばなるまい。武田家に害を成すか否か、当主の座を欲するか否か、そして儂にとって邪魔となるのか……。
「誰ぞ居る?」
「はっ」
儂が尋ねると直ぐに近習が部屋に入ってきた。ふむ、随分来るのが早いが、誠に気の利いた近習じゃ。今度、閨で……おっと、それでは源五郎(後の高坂昌信)が嫉妬してしまうわい。全く、おちおち近習に手を出せぬとは窮屈な話じゃ。
だが、今はそれどころではない。確かめねばらならぬ事がある、源五郎の事はまた今度だ。
「太郎を此処に呼べ」
「ははっ」
暫くすると太郎が部屋に入り平伏した、幾分、困惑気味だ。まあそうだろう、儂が太郎を呼ぶ事などそう無い故な。
「父上、お呼びと伺いましたが……」
「うむ、そなた幾つになった?」
太郎の顔が更に困惑の色を増した。確かにこれまで余り太郎に構ってこなかったゆえ困惑もするだろう。
「十二となりました」
「左様か、武芸の方はどうじゃ。それから和歌や短歌は?」
「はっ、武芸につきましては傅役でございました兵部(虎昌の事)に教わってきた事を日々反復しております。和歌や短歌については一通り母上から教わっているのですが……どうやらそれがしにはその方面の才が無い様で……」
ふむ、まあ及第点といった所か……。
「学問はどうじゃ。何やらいまだに儂の書斎や厠(お便所の事)から無断で書物を借用しているようだが」
「あっ、誠に申し訳ございませぬ。何時かはお許しを得ようと思っていたのですが……」
俺に叱責されるとでも思ったのだろう、平伏しながら誤ってきおった。だが今はそんな事は問題ではない。
「その様な事はどうでも良い。学問はどうじゃと聞いておる」
「はあ、一応、学問書である四書や五経、軍学書の七書は一通りは……」
ふっ、武家の棟梁としての素養は学んできたという事か。
「城取(築城術)や戦法(戦略や戦術)はどうじゃ、勘助から色々と学んでおろう?」
「はい、しかし所詮は座学でございます。城割や実戦を実際に行なった事はございませぬゆえ」
今度は謙遜か……ふんっ、だが既に勘助から裏は取っているのだ、後は実践させれば良かろう。
「最後に……武田家の当主の座が欲しいか?」
「要りませぬ(キッパリ)」
何っ、コヤツは今何と言った。当主の座を要らぬだと! では儂の跡を継がぬ、敵対する意思は無いという事か……。こやつは一体、何を考えておるのじゃ!?
■天文18年(1549年)11月 駿河 今川館 山本晴幸
俺は今、駿河の今川家に居る。理由は御館様から『今川治部大輔殿(義元の事)が話が有ると言ってきた故、そなた行って参れ』と命令されたからだ。なんだって一度は仕官を断られた家に行かねばならぬのだ!
そして、目の前に座っているのは治部大輔殿ではなく太原雪斎。今川家の家宰の職に付いている糞坊主だ。そして。その糞坊主が俺に猫撫で声で話し掛けてきた。
「のお、山本殿」
「何でございましょう」
油断するな勘助! 俺の目の前に居る坊主は今川家の家宰として軍事に政に辣腕を振るってきた戦国の曲者ぞ!
「そう硬くなるでない。それに以前の事はお互い水に流そうではないか」
「は、はあ」
何を水に流すというのだ。俺を仕官させなかった事か、それとも先代様(信玄の父・信虎の事)の代に武田家が駿河へ侵攻した事か……。俺が困惑しているのを他所に雪斎坊主が話を切り出した。
「大膳大夫殿(信玄の事)の嫡男の太郎殿は今年幾つになられたかな?」
「……十二にございます」
何が言いたい、雪斎!
「ふむ、既に嫁御はお決まりかな?」
「いえ……まだ元服も済ませされておりませぬゆえ」
もしや……嫌な予感がしてきた。
「では、当家の春姫様(後の嶺松院)は如何かな」
「し、しかし……それがしの一存では……」
「ふむ、大膳大夫殿のお考え次第と言う訳か。しかし春姫様の母は先代の無人斎殿(信虎の事)が娘、太郎殿とは従兄妹同士となるゆえ良縁と思うのじゃが」
「……」
予感が的中した、全く嫌な予感ほど良く当たる。それにしても何を考えている、雪斎!
「儂はのう、山本殿。これを機に甲駿の同盟を更に強化するに及ばず、北条とも仲良うしたいと考えておるのじゃ」
「な、なんと!」
俺の度肝を心胆たらしめるに及ばず、更に雪斎が新たな提案をしてきた。
「先年の河東での戦いでも当家と北条の調停をしてださった武田家との誼を大切にしたいのじゃ。それに当家は西に、武田家は北に、北条家は関東に目が向いておる。なればこそ、何時までもいがみ合っているのはお互いにとって損というものぞ」
「……左様ですな」
全く途方も無い事を考える坊主だ、こちらの思考が着いていかない。
「のお山本殿、三家で婚姻を深める事を大膳大夫殿に進言してくれぬか?」
「……承知しました。ただ、確約は出来ませぬぞ」
「勿論じゃ、今は話を通してくれればそれで良い、ヒャッヒャヒャ」
全く、余計な土産を持たされたものよ。それにしても雪斎……厄介な御仁だ、当家の為にも早く冥府に旅立ってくれぬものか……。