第六話 最悪の予感
■天文17年(1548年)1月 甲斐 躑躅ヶ崎館 甘利虎泰
『どうも最近、若い者たちの態度や行動がおかしい』
先日、同僚の板垣駿河守信方や横田備中守高松、原美濃守虎胤と酒を呑んだとき、彼等も同じような思いを漏らしていた。
やはり昨年の志賀城(現 長野県佐久市志賀字城)で笠原清繁を自刃させて佐久郡が平定され、それと前後して行なわれた小田井原の戦いで金井秀景を敗走させて関東管領山内上杉憲政を押さえた事が起因しているのだろう。武田家はここ数年、勝ち続けている。そういった場の空気の所為で若手だけでなく中堅の者達に風紀の乱れのようなものが蔓延しているようでならない。
そんな事を考えながら評定の間に向かって歩いていると、背後から儂を呼ぶ声がした。
「備前守(虎泰の事)、如何なされた? 俯いて歩いてなど貴殿らしくも無い」
「ああ、これは典厩様(武田信繁の事)」
典厩様はまだ二十歳を幾つか過ぎたばかりではあるが、沈着冷静でよく御館様を支えている。他の中堅や若手とは異なり今の所浮ついているようには見受けられない、流石と言うべきだな。
「どうやら村上義清は既に葛尾城(現 長野県埴科郡坂城町)を七千余の兵出陣し、千曲川の支流にあたる産川の下流西方に位置する天白山を背に布陣する構えを見せているらしいぞ」
「……」
「……どうした、備前守?」
俺が黙ってしまったため、典厩様は困惑した顔になった。いかんな、感情が直ぐに顔に出るのが俺の欠点だというのに。しかし、杞憂を感じているのも事実だ。よし、典厩様にご相談してみよう。
「どうも最近、周りに『勝って当たり前』のような空気が流れているように感じましてな、それでつい……」
「成程、まあ皆も自分達の成長が戦場で目に見えて表れている事で自信を持ち始めたのやもしれぬな」
俺は正直に今抱えている不安を打ち明けた。最初は軽い気持ちで話したのだが、徐々に典厩様の顔から笑みが消えていく。
「それなら宜しいのですが、逆に裏目に出なければ良いのですが……」
「ふむ、確かに自信が慢心となるやも知れぬな」
典厩様が思案顔で歩みを止めた。そして儂も立ち止まると典厩様がおもむろに切り出した。
「備前守、此度の村上義清に対する合戦だが……うん、御館様に諫言せねばならぬな。早速、評定で申し上げるとしよう」
「御館様にですか? それも今から……」
正直、驚いた。中堅や若手の者共ならいざ知らず、御館様への諫言……。受け入れられれば問題ない。だが万が一勘気に触れでもしたら、最悪、典厩様が処断されかねない。
「こう言った事は事が起きてからでは襲い。それに此度の相手は村上義清、一筋縄では行かぬ相手でもある」
「それは……そうですが」
「そうと決まれば、善は急げじゃ」
そう言うと典厩様が颯爽と評定の間に向かって歩き出した。
■天文17年(1548年)2月 信濃 上田原 武田晴信
やられた!
俺は二月一日に周囲には五千余の出兵と振れ回りながら七千余の兵を率いて出陣した。諏訪から北上して小県郡に入り葛尾城の背後を衝こうとしたのだ。そしてこの時、村上勢が葛尾城から打って出たとの報に接した俺は産川東方の倉升山に本陣をおいたのだが、村上勢が五千余で陣を敷いたと聞いて『兵力で上回る事が出来た』と内心ほくそ笑んだのだが、それが甘かった。
二月十四日、千曲川の支流である産川と浦野川の川原に広がる上田原で、いざ両軍が対陣してみれば相手の村上勢も七千余だった。つまり同程度の兵力で村上勢が待ち構えていたのだ。
そして先陣を務めた板垣信方が村上勢に猛攻を加えたものの討ち取られてしまい、更に武田勢は甘利虎泰や初鹿野伝右衛門らが討ち死にしたうえ、俺自身も重傷を負うほどの大敗を喫した。恐らく村上勢の動きを見ながらにはなるが、俺は傷の手当てをしながら二十日間ほど現地に留まり、村上勢の退陣を見てから信方の居城であった諏訪の上原城に入ってから甲斐に帰陣する事になるだろう。
多くの重臣が討ち取られて無為に大切な家臣を失くしてしまった。総て俺の責任だ、今更ながらに信繁の諫言にもっと耳を傾けるべきだったと……。
■天文17年(1548年)7月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田晴信
上田原での戦いで武田家が村上義清に敗れたことを好機ととらえた林城(現 長野県松本市大字里山辺字日向山)の小笠原長時は義清や安曇郡の仁科盛明と結ぶと、武田領となっていた諏訪に侵攻して諏訪下大社を占拠しおった。これに呼応して七月十日には諏訪郡宮川以西を勢力下におく西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族である矢島氏や花岡氏が武田方の勢力を諏訪から逐う勢いをみせた。
まずはゆっくりと行軍して、十八日、武田方の諏訪支配の拠点であった信濃上原城に入ってやった、しかしこれは擬態だ。物見からの報せでは、諏訪盆地と松本平の境に位置する塩尻峠に小笠原勢は滞陣しているらしい。
「敵は油断しておる、出陣じゃ!」
「「おおっ」」
翌十九日の早晩、我等は小笠原勢を急襲したのである。
寝込みを襲われた小笠原勢は総崩れとなり、小笠原長時は林城に敗走した。このとき討ち取った小笠原勢は一千余に及んだようだ。この戦いにより諏訪領を回復すると同時に、小笠原氏や村上氏に同調する反武田氏勢力の動きを抑える事ができただろう。後は、小笠原長時の居城である林城までおよそニ里の地点に位置する村井城を攻略すると、此処を拠点に小笠原氏への攻勢を強めていけば良いだろう。
前回の上田原での戦いが良い教訓となった。油断すれば敵につけ込まれ、慢心すれば戦に負ける。家臣達も今までと異なり、此度の戦では敵の動向を読む事の大切さと、何より様々な状況を想定しての軍略を申し出てくるようになった。上田原での戦いは無駄ではなかった、いや、これからも無駄にせぬ為に精進せねばならぬ!
■天文17年(1548年)12月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田太郎
ヤバイ、ヤバイよ、これ!
武田家配下の透破が入手した情報で、つい先日越後の謙信が長尾家の家督を相続した、との報せが入った。ああ、まだヤツは景虎って名前だったな、ってそんな事はどうでも良い、兎に角ヤバイんだよ! とうとう謙信が動き出すってことだよ、これ!
事の重大さが分かっているのかな、皆?少なくとも親父様は判ってないようだ。報せを聞いたときに『……そうか』と一言口にしただけだったと虎昌が言っていた。武田家にとって、いや親父様にとって終生の好敵手が動き始めたのだが、この頃はまだ遠い国のお話とでも思っているのだろう。今の親父様が羨ましいよ。ハア~、俺の焦燥感を分けてあげたいよ、全く。
越後から遠い地でぬくぬくと生活している分には問題無い。『名前をコロコロと変える事で名前を覚え辛くする他人には迷惑な男』というだけだが、俺のというより武田家にとって今後雌雄を決する好敵手として、数々の邪魔をする男なんだよ、アイツは!
その後、すぐに続報というかこの家督相続の顛末の報せが入ってきた。なんでも、謙信の兄・晴景に不満をもっていた越後の国人の一部が謙信を擁立して晴景に退陣を迫るようになったとかで、晴景と謙信との関係は険悪なものとなったらしい。
どうも、黒滝城(現 新潟県西蒲原郡弥彦村大字麓字)の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こしたんだけど、晴景に代わって謙信が総大将として討伐を指揮して秀忠を降伏、二度目の謀反では黒田氏を滅亡させた事が起因しているようだ。
やっぱり、『勝てる主君』ってのがこの時代の主従関係の基本にあるのだろう。その後、長尾家の家臣団が晴景派と謙信派に分裂した結果、越後守護の上杉定実の調停のもと、晴景は謙信を養子とした上で家督を譲って隠退して、謙信は春日山城(現 新潟県上越市中屋敷字春日山)に入り十九歳で家督を相続して守護代となった訳だ。
どうやら武田家家中でもこの『謙信の家督相続』を重要視しているのは俺だけのようだから、俺が今の内から対策を考えておかなければ……。
「越後を混乱させる手は何か無いものか……」
「……今は越後の事より信濃をまず平定するを考えるのが先決かと。それに越後は今でも十分に混乱しておりまする」
駄目だ! 我が心の師父の勘助に助言を貰おうとしてもこの有様だ。
「そんな事は分かっている! でも……」
「何をそんなに苛立っているのですか、若君」
ああ、っもう! 俺の危惧が言えればどんなに楽か。だが、それを言えばキチガイと思われてしまう。所詮は未来人の記憶だからなあ……。某ゲームで謙信に『車懸りの陣からの三連コンボ』にどれだけ泣かされた事か……、車懸りの陣……そうだよ、俺はまだ勘助から車懸りの陣について教えて貰ってないぞ。
「勘助! 長尾家では車懸りなる陣形を用いると聞く」
「車懸り……ですか? その様な陣は聞いた事がございませぬが」
「兎に角だ! 大至急、いや今から車懸りの陣についてその特徴と長所、特に短所を調べるのじゃ」
「しかし……」
俺からの依頼というか要請に対して勘助が口篭った、一体何がある?
「どうした、何かあるのか」
「はい、先の上田原での戦いで板垣様が亡くなられて後の上原城の城代が空席となりました。御館様からは『ゆくゆくは太郎を据えようと考えている』との仰せで……」
「何ぃ、俺が城代だと! だが、俺はまだ元服すらしていないぞ」
「はい、ですからその間の城代を誰にするか検討せよと仰せつかっております。私も近年、当家に仕官されてからメキメキと頭角を現してきている真田弾正殿(幸隆の事)と相談しつつ、誰を城代にすべきか考えておるのです」
目眩がしてきた。俺が上原城の城代? 何かの間違いじゃないのか、俺は甲斐でぬくぬくと暮らしていきたいんだ。城代……城代? そうだ、ヤツに任せよう!
「勘助、上原城の城代に適任な者がおる」
「そ、それは誰にございますか?」
「我が傅役の飯富兵部少輔虎昌だ、何時までも俺の傅役ではヤツも働き甲斐が無かろう。この前の戦でも活躍したようだし、うん、そうしよう。直ちに父上へ虎昌を上原城の城代に推挙せよ」
「兵部少輔殿ですか……分かりました。かの御仁も最近は軍略を学ばれておりますな……そうしましょう、直ちに真田弾正殿と相談の上、御館様に推挙して参ります」
「うん、善は急げじゃ」
「ははっ」
勘助が急いで退出していった。多分、行き先は真田の屋敷だろう。これで虎昌に対して恩も売れるし、一石二鳥だな。
って、車懸りの陣はどうなった!? 全く、今年は上田原での敗戦と言い、謙信の家督相続と言い良い事が一つも無い一年だ!
■天文18年(1549年)1月 甲斐 躑躅ヶ崎館 真田幸隆
「飯富兵部少輔虎昌、そなたを太郎の傅役の任を解き、新たに上原城の城代に任ずる」
「ははっ」
今、武田家家臣一同が評定の間に勢揃いしている。そして俺の目の前で兵部(虎昌の事)殿が御館様に上原城城代に任じられた。兵部殿も嬉しそうだ。先日には、俺と山本殿が上原城城代に事前に推薦した事を聞きつけた兵部殿が駆けつけ、余程嬉しかったのだろう、俺の屋敷に酒樽を三斗も与えて下さった。恐らく山本殿にも同様に喜びを表したことだろう。
就任の儀が終わると、次は新賀の饗宴となった。
武田家には他家に無い法度がある。それは『日頃仲の悪い相手の酌でも何杯でも呑む。一度断った場合は意地でも呑まない。酒を勧める方は意地でも呑ませる』と言うものだ。
要は酒を勧められた際、一度でも飲むといえば嫌な相手からの酌でも何杯でも飲まなければならない。逆に一度断ったなら意地でも飲んでは駄目だ。酒を勧めた方であれば、相手が如何に断っても意地でも飲ませなければならない。
当然、折り合いがつくはずはないので命の遣り取りに発展する場合が多々ある。
今日はどうなる事やらと思っていたが、どうやら根回しがされており、家中の上下だけでなく、酒の飲める者、飲めない者、親しい者、そうでない者に対して離れた席を用意しているようだ。ふう、恐らく御館様の計らいで間違いないだろうが……当主というのも気苦労が絶えず大変なことだ。
そんな事はどうでも良い。俺もまだ新参とはいえ武田家に腰を据えたからには家中での栄達を考えなければならない。八年前の海野平での合戦で離散した海野一族を呼び戻せるまでに出世するのが当面の目標だな。
ふう、いかんな、夢とか目標とか先の事を考えるとは。今日は少し酔ったようだ。出来れば新年早々から血の雨が降らない事を祈りながら、肴を食するとしよう。