第五話 天文幕間
■天文14年(1545年)11月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田太郎
ゲームでは昨年天文13年に伊達左京大夫輝宗(政宗の父)と竹中半兵衛重治が、今年は浅井備前守長政と増田右衛門少尉長盛が登場(誕生)してるんだよな。出来れば竹中重治と浅井長政、そして増田長盛とは仲良くなりたいな。
竹中重治は戦国屈指(多分、二十位以内)に入る天才謀略家だし、浅井長政は織田包囲網の一翼として、増田長盛は俺が楽して生活できるように働いてくれれば……。いかんな、まだゲームの感覚が抜けてない。これじゃあこの戦国乱世を行きぬく事は出来ないと自覚しているはずなのにな。
でも竹中半兵衛は道三に心酔しているから道三が戦死するまでは此方に引き抜けないだろうし、浅井長政は信長からの『報・連・相』が滞らないと織田包囲網に参加しなさそうだし、増田長盛は近江出身だから先に秀吉に獲られちゃうだろう。ハア~、近年に誕生した有名な武将達は武田家にとっては不作って事ですね。
止め止めっ、こんな事ばかり考えてたら気分が滅入る、別の事を考えよう! 気分を切り替えようとしている俺の下に宗四郎(三枝勘解由左衛門尉昌貞、守友とも言う)が走って寄ってきた。
三枝氏は飯富源四郎昌景(後の山県昌景)を寄親としていたから顔見知りだ、って言うか宗四郎とは一歳しか歳が離れていないから結構仲が良い。
「どうした、宗四郎?」
「はい、実は……」
俺が問い掛けると、宗四郎は何か言い難そうに話し始めた。はて、宗四郎がここまで思い詰めた顔をするのは珍しい事だ。いつも竹松と一緒にニコニコして俺とつるんでいるコイツが……。
そんな事を考えていると、意を決したといった風で宗四郎が俺に話を持ち掛けてきた。
「ウチの父上(三枝土佐守虎吉の事)は武田家で足軽大将をしてるじゃないですか。で、足軽大将ともなると率いる兵の指揮なんかもする事になるのですが……」
「うん」
それがどうした? 足軽大将なんて凄いじゃないか。
「それで……最近、武田家中では囲碁と将棋が流行ってるんですよ」
「……そうだね」
ヤベッ、俺が流行らせたなんて事がもう気付かれたのか!? それが知れ渡ってしまうと武田家家中での俺を見る目が一変してしまう。
今の『素直で愛嬌があり、満面の笑顔が特徴の可愛い子』というイメージが崩れ、下手したら『家中を裏で操る底の知れぬヤツ』なんて思われてしまう。そうなってしまったら親父様に警戒されてしまい、フラグを折るどころではなくなってしまう。
「誠に言い難いんですけど……寄親の飯富様から『囲碁と将棋を習え』ってウチの父上に下命されたんだけど、どうも父上は囲碁と将棋が上手くならないんです」
「……それで?」
そこで宗四郎が土下座して俺に懇願してきた。
「お願いします! 山本殿に囲碁と将棋をご教授願えるように仲介して下さい」
「……」
同年代の人に土下座って結構勇気要るよね。でも、勘助も最近は結構忙しそうだしなあ。よし此処は別の人間を推薦してあげよう。
「宗四郎、顔を上げろよ。俺とお前の仲じゃないか、土下座なんてしなくても力になるよ」
「それじゃあ! 山本殿への仲介を……」
俺が力になってくれると聞いて勢いよく顔を上げる宗四郎、健気よのー。
「いや、勘助も最近は結構忙しそうだから無理だ。だから別の者で我慢してくれ」
「別の方って……誰です、一体?」
「馬場のオッサン(馬場美濃守信春の事)だよ。あの人も結構強いらしいからね」
「成程! ぜひお願いします」
こうして俺は馬場のオッサンに、宗四郎の父・虎吉宗を伴って囲碁と将棋の指南を依頼してあげた。それにしても囲碁と将棋がここまで広まるとは……原因が俺と気付かれない内に別の手を考えなければならいけないだろうな。でないと変に誤解された目で大人達が俺を見る事になる、正直ウザイ。
■天文15年(1546年)5月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田晴信
信濃諏訪郡・伊那郡を押さえた儂は信濃佐久郡への侵攻をを開始した。五月九日、内山城を攻撃したが、内山城は上野国甘楽郡に通じる要衝で小笠原氏の庶流にあたる大井貞清が守っていた。
貞清は我が母・大井の方の縁戚でもあるし、どうやら大井勢は堅固に防御する様子だった。ここは力攻めを断念して兵糧攻めに切り替えるとしよう……。そうこうしている内に、五月二十日、抗戦の不利を悟った貞清はが、遂に内山城を開城して儂に降伏してきおった。普段であれば、即刻打ち首と言いたい所だが母の顔を立てて許してやるか……。
そんな事よりも……やっと諏訪の姫との間に男子が産まれた。即刻、四郎(後の武田大膳大夫勝頼)と名付けたが、愛いヤツじゃ。武田家の臣下に迎とはいえ何れは諏訪氏の棟梁にすれば、何かと騒がしい諏訪郡は落ち着くだろう。
問題は太郎だな。そう思い、傅役の飯富虎昌と指南役の山本晴幸を呼ぶ事にした。
「兵部(虎昌の事)、太郎の養育はどうじゃ」
「はっ、馬術と槍術は一通りできまする。ただ騎馬での槍働きとなると、まだ身体が出来ておりませぬゆえ時間が掛かるものと存じます」
ふむ、将来は戦働きが出来るという事か。
「うむ……勘助、そちは太郎をどう見ておる」
「はっ、それがしが指南する前から貞観政要などの書物を読まれていましたゆえ政は問題ないかと。それがしの指南により戦の流れや読みについても問題無いと存じます。後は……今後、陣形のイロハと城取り(築城術)についてお教えしようと考えております」
「そうか……二人ともご苦労である、下がって良い」
「「ははっ」」
本人は素知らぬ顔で自身の行ないを誇っておらぬが、太郎が囲碁と将棋を当家で流行らした事で評定では前よりも建設的な議論がされるようになったのも事実ではある。家臣達も敵の動きを読み、それを踏まえて一手先を考えた意見を言えるようになった。それまでの一部の者だけがまともな意見を言い、儂がすべて決めてきた頃に比べれば大分楽にはなったわい。
一応、太郎は後々は一廉の武将にはなれそうだな。問題は儂の跡取りとなれるかどうか、それに尽きるだろう。問題は野心が有るかどうかだ、それまでは適当に利用すれば良かろう。だが野心が有るのであれば何に対してかだが……一度見極めねばなるまい。
■天文15年(1546年)6月 甲斐 躑躅ヶ崎館 山本晴幸
今、俺は若君に陣形のイロハを教えている、だが俺の頭の中にはそれど頃ではない。先日の御館様の問いが頭から離れないのだ。
『そちは太郎をどう見ておる』
あれは若君が次期当主としてやっていけるかという事だったのだろうか……。若君が次期当主となれば外様の俺も今以上に重用されるだろう。ただ、御館様にそのお気持ちがあるかどうかが疑問だ。今年お生まれになった四郎様をいたく可愛がっていると聞く。もしかして……。
「勘助、どうしたの?」
「いえ、何でも御座いませぬ」
いかんな、授業の最中に上の空とは。気を引き締めて授業を再開するとしよう。
「では、私が魚鱗の陣で若君に挑んだとします。若君はどのような陣を敷きますか?」
「うーん、鶴翼の陣……いや、衝軛の陣だな、この甲信は山が多いゆえ山岳戦ではこちらが有効だろう」
「成程」
ふむ、鶴翼の陣でも正解と言おうと思っていたが、地形まで考えて陣を敷かれるか……。
「では、鋒矢の場合はどうされます?」
「それならば鶴翼の陣だ! 鋒矢の陣形は包囲されると非常に脆いゆえな」
「正解に御座います」
「ならば、長蛇ならば?」
「えーと、偃月の陣で中央突破だ!」
「しかし大将が先頭となって敵に切り込むため士気も高くなければなりませぬぞ」
「うん、でも当家が騎馬戦で後手を取る事は無かろう。ならば馬回りの精鋭が開幕から戦うので攻撃力も高いこの陣ならば問題無かろう」
「分かりました。しかし大将の付近が常に戦闘中になるため両翼へ指示を出す余裕がなくなることも多いゆえ、その事はお忘れなく」
「うん」
今度は当家の兵の質をお考えになってどの陣を敷くかを導き出すか……成程。
「他にも横陣、方円、長蛇、雁行の各陣がございますが、万が一お味方が守勢となった場合にはぜひ御一考下さい」
「うん、分かった」
恐らく……いや間違いなく若君はは立派な武将となろう。だが、当主となれるかは……やはりこればかりは御館様の腹積もり次第だろうな。
■天文15年(1546年)6月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田太郎
河越城の戦いの経緯が聞こえてきた。
勘助などは『奇襲のお手本』と言って絶賛しているが、まだ九歳のお子ちゃまの俺には良く分からん。でも、世の中の流れを知っておかないと俺みたいなゲームで軽くかじった程度の歴史音痴には命取りになりかねないのでとても大事な事だと考えている。
河越夜戦の背景としては、武蔵には関東地方の覇権を巡って抗争を繰り広げていた古河公方と山内上杉家、更に扇谷上杉家が居るのだが、北条家の躍進で尻に火が付いた3家と武蔵・上野・下野・常陸・上総・下総の国人領主達が打倒北条で意見が一致した結果らしい。まあ、古今東西いつの時代も『出る杭は打たれる』ってヤツですね。
双方の兵数は、北条勢が一万一千人(城兵三千、後詰め八千)で関東連合軍の方は八万人が激突したらしい。だが、この時代に生まれてから知った事だが、戦の当事者(特に勝った方)は敵の戦力を多めに言い、逆に味方の戦力を過少にいう事が有る。
これは勝者が『少数の兵力で多数の敵を撃退したと喧伝したほうが、大将は名将と受け取られ、配下の兵は強兵と謳われる』からである。だから実際には『勝者は三割増、敗者は三割減』ぐらいの戦力で戦ったと考えておいたほうが良いだろう。そうなると、北条勢は城兵合わせて一万五千ぐらい、関東連合軍は五万三千程度だったのだろうと推測してみたりする。
戦の流れは、北条家当主氏康の義弟である北条綱成が約三千の兵力で守備していた河越城を包囲した所から始まる。その後、戦況は数ヵ月間膠着状態であったが氏康が奇襲の計画を籠城方に伝達した事で自体は動き出した。
まず、氏康は上杉軍に対して偽りの降伏を申し出たが連合軍側に却下された。そして連合軍が北条軍を攻撃したが後詰めの氏康は戦わずに兵を引かせた。これにより連合軍は北条軍の戦意は低いと判断し、自軍の兵士が多いということもあって楽勝気分が漂う。
そして天文十五年四月二十日の夜、子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせて上杉連合軍に突入すると、上杉軍は大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死、山内上杉方では上杉憲政はなんとか戦場を脱出したが重鎮の本間江州、倉賀野行政が退却戦で討死した。
氏康はなおも上杉勢を追い散らし敵陣深くに切り込むが、戦況を後方より見守っていた多目元忠は危険を察し、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。城内で待機していた『地黄八幡』こと綱成はこの機を捉えて打って出ると、足利晴氏の陣に“勝った、勝った”と叫びながら突入し、既に浮き足立っていた足利軍も散々に破られて敗走したという。
この一連の戦いを勘助が模型を用いながら、俺に顔を赤らめながら講義している。講義してくれるのは嬉しいのだが……。
「なあ、勘助」
「何でございますか、若君?」
「ちょっと興奮しすぎじゃないか、お前」
「……」
勘助の顔が更に赤くなった。今度は俺に見抜かれて羞恥心をくすぐられたからだろう。
「こ、これが落ち着いておられましょうか! 軍配者を志す者にとって少数で多数を打ち負かす戦は心躍るものなのです」
「ふーん、じゃあさ……実際に戦で活躍した武将の声を聞きたいとか思ったりなんかしてない?」
「そ、それは……」
「当家から離れたい?」
「……いえ、これからも武田家で頑張らせて頂きます」
俺の何気ない一言に口篭る勘助。多分、河越城の戦いの経緯が聞こえてきてから、一度は当家から離れる事も考えたのかもしれない。だが一瞬怯んだ勘助だったが、直後には目を座らせて当家に残るという。
俺もちょっと言い過ぎたかもしれない。
ここは勘助の気持ちを汲んで勇気付けてやろう。優しいね、俺。
「昨年の今川と北条の間で河東の乱で、当家は両家の間の和睦を仲裁して両家に大きな『貸し』を作ったから、北条は関東へ転戦できる状況を得た。だから今回の河越での戦に勝てたとも言えるだろ。なれば何時かは北条と同盟を結ぶかもしれないね。その時に北条の武将に聞く機会もあるかもしれないね」
「そ、そうでしょうか?」
「だって河越城を守っていた守将は北条上総介綱成や北条幻庵宗哲だったと聞いたぞ。お二方とも、特に幻庵翁などは自慢したいお歳頃だろうさ。勝ち戦なんだから尚更だよ」
「成程、言われてみれば左様ですな、ハハハッ」
やっと普段の勘助に戻ったか、全く当家には世話の焼ける大人が多いぜ。