第四十五話 興奮の坩堝(るつぼ)
■永禄13年・元亀元年(1570年)3月 伊勢 亀山城 丹羽長秀
「おっ、御館様、お静まり下さい」
「ええい、五月蝿い!」
今、御館様に甲斐、そして美濃での人質受け渡しに失敗した事を報告しているのだが、聞いた途端に御館様が周りに当たり散らし始めたのだ。かれこれ半刻以上続けられている。それ程に此度の人質拒否が頭にきているという事だろう。
それにしても折角、先年から堺より取り寄せた茶器を見境無く刀の鞘で打ち壊している。あの茶器一つで一体鉄砲を何百挺買える事やら……。
「ええい、信玄めっ! 図に乗りおってからに。目に物見せてやるわ」
「……し、しかし……」
「黙れっ! 評定じゃ! すぐに家臣共を集めよ」
一日後、伊勢の各地にて奮戦していた諸将が評定の間に集まった。
ダンっ!ダンっ!ダンっ!ダンっ!……ドカッ
御館様が現れ、上座にドカっと座るとおもむろに言葉を発した。
「表を上げよ」
「「はっ」」
「甲斐の虎が牙をむき出しおった」
「……」
相変わらず短絡的な発言だ。広間に集められた家臣達も一瞬、何の事を言っているのか分からずにポカンとしている。
しかし、機転の早い秀吉がすぐさま言葉を返した。こういった時、秀吉の存在には助かるわい。全員が御館様のお考えに着いていけずにいれば、余計に御館様の逆鱗に触れる事になっていたであろう。
「武田家から宣戦布告でもされたのですか」
「そうじゃ」
秀吉の言葉に対して、肯定しつつも苦虫を噛み締めた口調で御館様が返事を返した。
昔からそうじゃ。秀吉は何かにつけて機転が利くと同時に御館様の機嫌を気にも留めない、いや御館様の逆鱗に触れない所がある。
現に今も、恐縮しながらも平然と発言を続けようとしている。
「そうなりますと、伊勢の平定は中断……、美濃、三河方面に兵を集中させるという事ですか」
「いや、伊勢の平定は継続する」
そうこうしていると、やっと思考が追いつき始めた者達が発言をし始める。まずは柴田権六殿、そして佐々内蔵助(成政の事)から発言してきた。
「伊勢の平定を継続するとなりますと、対武田に備えて尾張に常駐できる兵は今より一千多い四千がやっとでございまするぞ」
「左様。一千の兵が伊勢から外れますれば、平定に掛かる時間が長引く事にもなりかねませぬ」
「分かっておる。誰が尾張に兵を常駐させると言った!? まずは全力で伊勢を平定するのじゃ。そして後顧の憂いを無くした上で武田に対する」
「なっ……、し、しかし、それでは……」
御館様からの下知によって、家臣一同が絶句させられた。それはそうであろう。舌の根も乾かぬ内に美濃方面に配置していた兵を引き抜くというのだから……。
それでは、一旦、尾張に兵を置かないという事か……。それでは、武田に丸裸の背中を向けるようなもの……。思わず、私は声を出していた。
「おっ、お待ち下さい。それでは武田に尾張を乗っ取られまするぞ!」
「そうはならぬ為に、半年の内に伊勢を平定するのじゃ」
何と……。伊勢の平定には後二年は掛かると思われていた戦を半年でとは……。伊勢の国主である北畠家もそうだが、長島の一向一揆にも梃子摺っている当家というに……。
これは気を引き締めるだけでは事足りぬ。命を賭して掛からねばなるまい。
■永禄13年・元亀元年(1570年)5月 美濃 稲葉山城城下の屋敷 武田義信
俺は今、平和を満喫している。うん、これが嵐の前の静けさだって事は重々承知している。当家が織田家に、信長から喧嘩を買ったのだから織田家との戦はもう秒読み段階に入っていると言って良いだろう。
ただ、当家はまだ兵農分離が浸透している訳ではないので、農繁期には大勢の兵を出せません。よって、真田透破からの報せで尾張がガラ空きだって知っても手を出せない。
親父の事だから、美濃と三河からの二方面同時侵攻を目論んでいるのだろうって道鬼斎先生が言っていた。
(俺が言えたら偉いもんだが、そうでもない)
だが、暇だからといって怠けている訳でもない。俺には遊ぶ自由なんて無いからね。だって、監視が四六時中居るんだもん。口煩い虎昌とか道鬼斎とか一徳斎とか……、兎に角、五月蝿いヤツ等が俺を働かせる。
そう言えば最近、竹中半兵衛重治が『拙者の影が薄くなってませんか?』ってぼやいていたっけ。まあ、半兵衛は酒があまり呑めないからなあ。爺共とはあまり付き合いが取れないのだろう。
どうすっかなあ。源五郎の下に行かせるか……。元々、半兵衛は源五郎の家臣として当家に迎え入れた訳だし……。いや、冬の寒い甲信で肺炎とか肺結核になって貰っても困る。
よって、半兵衛には美濃での兵農分離を完成させる事をお願いしているのだよ。
「なあ、半兵衛」
「何ですか? 右京兆様」
「美濃での兵農分離が一段落ついたら、飛騨でも同じ事やってくれると嬉しいな」
「分かりました、ゴホッ」
えっ、今、『ゴホッ』って言った? おい、大丈夫か!?
最近はあまり思い出さなくなった某ゲームでは、半兵衛が1580年前後に死亡するんだけど……。
今って西暦何年? 年号とか閏年、閏月とか……この時代の時間感覚は正直もう分からん!
■永禄13年・元亀元年(1570年)7月 越中 富山城(現 富山県富山市本丸) 上杉輝虎
戦がしたい! 戦がしたい! 戦がしたい! 戦がしたいぞおおおおおぉぉぉぉぉ!
ここ数年戦をしていなかった所為で、儂の怒りが頂点に達した。
関東はおろか上野に兵を出せない。信濃にも覚慶殿が居られる今、無論出せない。となれば北東の出羽か西の越中という事になる。
家中で評定を行なった結果、渋々ながら『五千の兵ならば』という事で満場一致で越中攻めが可決された。
クソッ、農繁期に兵を多く出せぬとは弱弱しい者共じゃ。全く、一々評定を開かねば戦も出来ぬのも忌々しい事じゃ。
だが今、儂の目の前には悠々とそびえる富山城がある。
長かった……。本当に長かった。
永禄十一年(1568年)に越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中を制圧するために一向一揆との戦いを始めて三年。昨年には宿敵であった伊勢家(北条家とは認めたくないようです、面倒臭ぇ)と盟約を結びんだ。
漸く……、漸く椎名康胤が立て籠もる富山城を始め、数年に渡り儂を苦しめた松倉城(現 富山県魚津市鹿倉)や新庄城(現 富山県富山市新庄町)、守山城(現 富山県高岡市東海老坂)などを攻撃できる。
全く、越後を発ってから心が躍って眠れぬ日々を送っている。困ったものじゃ。
そうこうしていると、およそ一万の一向一揆どもが目前にて横陣を敷いてきおった。これを合図に法螺貝にて前進の合図が鳴り響いた。
プオオオォォォォォォ、プオオオォォォォォォ、プオオオォォォォォォ
儂には鉄砲玉など利かぬ! 当たらぬ! すり抜ける!
目指すは椎名康胤の首、ただ一つじゃぁぁぁぁ!
■永禄13年・元亀元年(1570年)10月 三河 岡崎城 一条信龍
「頃は良し! 御旗、楯無も御照覧あれ。出陣じゃ」
「「ははっ」」
御館様(四郎の事ね)が下知を飛ばした。その横で兄上(信玄の事)が甲冑を鳴り響かせながら、下座に居並ぶ家臣達に向かって采配を振った。
「第一陣の大将は信廉、兵七千五百を率いよ。先鋒に原隼人佐(昌胤の事)、右翼に秋山伯耆守(虎繁の事)、左翼に高坂弾正」
「「ははっ」」
「第二陣の大将は信繁、兵八千を率いよ。一の備え小幡昌盛、二の備え三枝昌貞、三の備え一条信龍」
「「ははっ」」
「それから本隊には儂と勝頼で兵一万二千を率いる。曽根下野守(昌世の事)、真田安房守(昌幸の事)、そなた等は儂の目じゃ! 軍監として兵を見よ」
「「はっ」」
俺は第二陣の三の備えかあ……。まあ、信繁兄者が居るから大丈夫だよな。死なないよな。怪我しないよな……俺。
今頃、美濃方面でも太郎が出陣の下知を降している事だろう。
良いよなあ、誰かに下知を飛ばすって……。俺も一度は……。いやいや、無い無い。俺は三河でヌルい生活を送れれば良いのだ。下手な欲を持つと……只でさえ三河一国でも四苦八苦しているんだ、これ以上の面倒事はゴメンだ。
そんな思いでいると、兄上が戦略目的を述べていた。
「我等の敵は織田家! 尾張は勿論の事、伊勢、志摩まで進む。左様に心得よ!」
「「おおおぉぉぉぉぉぉ」」
やっ、やべっ……、鳥肌が立ってきた。もう、秋も終わって寒さが身に染みてきたからなあ。うん、鳥肌はきっと冷たい風の所為だろう、きっと。
■永禄13年・元亀元年(1570年)11月 尾張 小牧山城城下 武田義信
「敵も去る者……ですね」
「ああ」
俺の横に座る半兵衛が言葉を掛けてきた。
「小山田越前守殿(信茂の事)と木曾伊予守殿(義昌の事)が奮戦しておられるようです。……そろそろこの城も落ちますね」
「うむ」
やっぱり道鬼斎先生の事前調査によって城の攻め口を事前に知る事が出来ているのは嬉しい。それを元に半兵衛と一徳斎が攻め方を諸将に教えてしまえば、この戦は九割方終わったも同じ事。いやー楽だねえ。そう思っていた矢先に使い番が急報を携えてきた。
「申し上げます。小山田越前守殿、敵の矢に討たれました」
「……小山田勢には引けと伝えよ。それから小山田勢の抜けた穴には山県三郎兵衛尉昌景を入れよ」
「ははっ」
今、美濃勢は半兵衛の指示の下(俺は座っているだけです、楽チンだねえ)、小牧山城を攻めているというのに、半兵衛は至って平然としている。
……コイツには興奮とか、血がたぎるとか、血沸き肉踊るって言葉は辞書に載っていないのだろうか。載ってないっていうか、辞書すら持ってないんだろうな、きっと。
そんな事を考えていると、不思議な物でも見るかの様に半兵衛が俺の顔を覗き込んできた。俺の顔に何か付いているのかい、半兵衛?
「悠然となされてますね、右京兆様」
「そんな事は無い。今にも小便をチビリそうだよ」
「フフフッ、ご謙遜を……」
謙遜じゃないんだけどね。それにしても俺を見て笑うとは……。何時かコイツを驚かせて笑ってやる。俺は人に笑われるより、人を笑わせる方が好きなんだ。
―――― その後、落日の小牧山城で目前に飛んできたコオロギをゴキカブリ(現代のゴキ○リ)と勘違いして驚く天才軍師と、それを見て腹を抱える大将の姿があった ――――




