第四十四話 神輿と布告
■永禄13年・元亀元年(1570年)1月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田信玄
「ま、麻呂を助けてたもれ」
「……」
家臣一同が居並ぶ評定の間において今、儂の目の前に前征夷大将軍であった足利義輝様の御弟君であられる覚慶殿が居る。そして儂に京に西上して三次家を、そして松永弾正を討てと懇願してくる。後ろに控えておる覚慶殿の家臣は平伏したままじゃ。
正直、即決は出来ぬ。
コヤツを上手く使えば西上を名目にして領地を広げる事も、目の上の瘤である越後の龍を押さえる事も出来るだろう。
しかし……。上洛した後、果たして目の前の男が役に立つのか疑問の余地がある。
「し、信濃守殿、お頼み申す」
「……評定にて家中の者共と話し合いとう存じます。まずは、風呂にでも入って温まり、ゆるるりとお過ごし下さい」
「おお、そ、そうか。良しなに、何卒、良しなに!」
覚慶殿が席を立ってから、儂は皆に向かって話を始めた。
「さて、如何したものか……」
「兄上、此処は覚慶殿を神輿に上洛致しましょうぞ」
「慌てるな、信廉。まずはその先を見越してからの話じゃ」
「その先とは何です、信繁兄い」
「決まっておろう、誰が征夷大将軍になるか、じゃ」
「それは……」
信繁と信廉が話を始めたが、すぐに儂の顔色を見た。ふむ、確かに誰が征夷大将軍になるかは大事じゃのお。しかし……一々儂の顔色を窺いながら話を進められるのも良い気はしない。もっとも、儂を、武田家棟梁を無視して勝手に話されるのも論外だが……。
「御館様に決まっておろう! 覚慶殿では役不足! 覇気が足りぬわ」
「しかし、相手は前大樹の御弟君ぞ!」
「だから何じゃ! かの今川治部大輔が何の為に上洛しようとしたか忘れたか!」
「それは……」
馬場美濃守(信春の事)と原隼人佐(昌胤の事)が当家が将軍職を継げと暗に言ってくる。
今川治部大輔か……。しかし……、かの御仁は足利宗家の継承権を有しておったな。確か斯波家や畠山家を始めとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあったはずじゃ。
そうこうしていると、内藤修理亮(昌豊の事)と春日弾正忠(虎綱の事)が話を変えた。
「別段、将軍職など要らぬであろう。当家は覚慶殿を神輿に領地を拡大すれば良いでしょう」
「左様! 将軍好きの越後の長尾家などは虎が猫に化けましょう」
成程、確かに長尾家が大人しくなれば、西上するに後方を気にせずに済むのう。
さて、どうしたものか……。年長の馬場(55歳)の言を聞き入れるか、それとも他の者達(40歳前後)の言を入れるか……。
そう思っていると、小幡豊後守(昌盛の事)と三枝昌貞の三十路を超えた者達が檄を飛ばした。
「皆々様、お忘れか! 武田家は鎌倉幕府から続く河内源氏系甲斐源氏の本流でございます。鎌倉幕府においては御家人衆! 何を臆する事がありましょうか」
「そうです! 今更、足利などに尻尾を振るなど御免こうむる」
若いのう。そうは言っても相手は源義康の御世(大治2年(1127年)頃)から続く家柄じゃ。全国の諸大名がすぐに当家の将軍職に納得するとは思えぬ。
となれば、内藤修理亮の言を入れるとするか……。だが、何処から覚慶殿の耳に入るとも限らぬ。事は慎重に運ばねばなるまい。
「皆の意見、よう分かった。覚慶殿は神輿とする! 良いな」
「「……ははっ」」
皆が自分の意見が通ったと思い、平伏する。さて、覚慶殿の耳にはどの様に聞こえるであろうか。
それにしても覚慶殿の後ろに控えておった男は何者だったのじゃ……。
■永禄13年・元亀元年(1570年)2月 伊勢 亀山城 織田信長
おのれっ、信玄め! やってくれるわ。
まさか玉が自ら武田家に転がりこんで来ようとは……。もし足利家の威光をチラつかせられたら当家としても首を縦に振るしかない。
万が一、当家に矛先を伸ばしてきたなら儂は勝てるであろうか……。
ええい、今川家を返り討ちにしてから十年。やっと伊勢、志摩の平定が見えてきたというに、これでは儂の大望を遂げる事が出来ぬ。
こうしては居れぬ! 先手を打たねば……。
「誰ぞ、丹羽五郎左(長秀の事)を呼べ」
「はっ」
近習が退室して暫く経ってから五郎左が現れた。
「御館様、何用でございましょう」
「今すぐ甲斐に行け」
五郎左が一瞬、思案顔になるがすぐに返事を返してきた。
「して、手土産は?」
「仕方が無い。御坊丸を連れて行け!」
今度は目をパチクリして五郎左が驚いた。フンッ、貴様の言いたい事は分かっておるわ。
「お、お待ち下され。御坊丸様は御年五歳ですぞ」
「分かっておる。しかし、背に腹は変えられぬ」
「……分かりました」
フンッ、信玄めっ! 俺が下手に出るのも今だけだ。今だけは夢を見させてやるわっ!
■永禄13年・元亀元年(1570年)2月 越後 春日山城 上杉輝虎
ええい、忌々しい!
何故、儂が晴信(信玄とは呼びたくないようです)なんぞの下知を聞かねばならぬのじゃ!
これでは武田に奪われた北上野と北信濃を取り戻す事が出来ぬではないか!(注:北信濃は上杉家の所領ではありません、あしからず)
思えば先代の大樹(足利義輝の事)はお強い方であった。
それなのに……。
それもこれも、総ては松永弾正が大樹を討ったからじゃ!
おのれっ、松永弾正め! この怒りは何時か必ず貴様に償わせてやるぞ!
クソッ、酒でも呑まねばこの怒りは収まらぬ。
「誰ぞ、酒を持てっ」
■永禄13年・元亀元年(1570年)2月 美濃 稲葉山城城下の屋敷 武田義信
なんで俺が面倒見ないといけないんだ? どう考えたっておかしいだろ。
俺の目の前には丹羽長秀と五歳児が座っている……。かれこれ半刻程、お互い無言で対峙している。
はっきり言います。邪魔です、帰って下さい。
事の顛末は総てウチの親父が悪い。織田家から駿河経由で人質(御坊ちゃん)が連れて来られたのだが、その人質を断ったのだ。
表面上は『勝頼の嫁を織田家から娶ったから、これ以上両家の絆を深める必要は無い。よって人質は不要』って温厚な一面に見えるけど、本音は違うんじゃないかと思っている。あっ、因みに織田家から来た四郎の嫁さん、……確かお犬の方だったっけ、その嫁さんは武王丸を産んですぐにお亡くなりになってます。
本音は『人質を貰っても意味無ぇよ? だって、もうすぐお前ん所に喧嘩売るから、テヘッ(注:意訳)』だろう。
そんな親父の本音に気付いているんだろう。長秀は当家の有力な家臣に手当たり次第に人質引渡しを必死に迫り、ことごとく断られている。
可哀想なのは連れ回されている五歳児(御坊ちゃん)だ。見れば足袋が赤錆色になっている。きっと歩き回っている間にマメが潰れたんだろう。
「……」
「……」
「……お引取り下さい」
「そ、そこを何とか……」
「そうは言われても、本家の意向には……」
「ほ、他に条件がごされば、何なりとお申しつけ下され。多少の事なれば……」
必死な形相で俺に迫る丹羽五郎左長秀。お前の事はどうでも良いけど、連れ回されてきた人質候補(御坊ちゃん)は可哀想だよなあ。
うーん、条件ねえ……。
「どうする? 御大」
俺は同席している道鬼斎と一徳斎に丸投げする事にした。こういった事は年長者の方が角が立たないものだ。
「そうですなあ……。どう思う? 道鬼斎」
「一徳斎、既に答えは見えておろう」
「左様じゃな。この際、現実を突きつけてやるのも優しさというモノかもしれんの」
二人が話し合い、最後にアイコンタクトで会話をする。……だからさあ、俺にも分かるように言葉で言って! 男同士で二人の世界に入らないでよ。もっ、もしかしてその御歳で『そっちの住人』に目覚めたか? だったら即刻隠居! 美濃から出て行ってもらうからね。俺の傍に『そっちの住人』は要らない。『そっちの住人』は春日虎綱を始めとする親父の小姓だけで十分だ。
それにしても俺、親父の家臣の家に産まれなくて良かったよ。だって俺、そこそこイケメン(自称、でもここ大事)だからさ。もし親父に見初められでもしたら貞操の危機だよ。
おっと話が逸れた。今は人質の話だったよね。そう思っていると道鬼斎が丹羽長秀に話し掛けた。
「此方の条件は一つ。早々に織田殿の下に戻り、降伏して当家に臣従する事を進言するなり、徹底抗戦に備えて軍勢を揃えるなり、好きになされよ」
「なっ……」
驚く丹羽長秀。まあ武田家の本音をぶっちゃけられたら絶句するわな、そりゃあ。年長者の方が角が立たないなんて嘘だったね、ゴメン。
「当家は源氏。覚慶様に歯向かう平氏を討つは道理。違いますかな?」
「……し、しかし……」
尚も食い下がろうとする長秀に憐憫の気持ちが湧いてきた。上から目線でゴメンなさい。
そう思っていると、今度は一徳斎が話を繋いだ。
「のお、丹羽殿と申したか……。この際だからはっきりと申してやろう。当家は覚慶様を神輿に領土拡大、果ては上洛を目指しておる。その道に邪魔な石があるなら退かすしかなかろう」
「……」
「織田家が何を目指して伊勢、志摩に手を広げておるかは知らぬ。だが武田家は上洛し、この戦国の世を終わらせる。その大儀の為なら苦行も厭わぬ構えじゃ」
「……」
もう長秀は俯いて放心状態となった。そして話を飲み込めないでキョロキョロしている人質候補(御坊ちゃん)。
「分かったら、早々に尾張に帰られよ」
「……はっ」
長秀は道鬼斎に引導を渡され、トボトボと屋敷を後にしていった。丹羽さん一行が帰ってから、俺は御大二人に話し掛けた。
「親父や家中の者達がはぐらかしたのに、良かったのかな。勝手に宣戦布告しちゃって……」
「まあ、早いか遅いかの違いだけじゃて、問題無かろう」
「左様。後で書状にて謝っておけば済む話ですじゃ」
うーん、改めて……、恐るべし御大。
―――― そして乱世の歴史がまた一ページ……(笑) ――――




