第四十一話 苦渋の決断
■永禄11年(1568年)8月 美濃 稲葉山城城下の屋敷 武田義信
畿内から美濃に帰ってからの一ヶ月、ひたすら愛妻を抱いた。赤い玉が出るんじゃないか、粉しか出ないんじゃないかって位に抱かせて頂きました。……ご馳走様です。
お陰で春ちゃんは無事に懐妊した。
一月で懐妊したかどうか分からないって? 俺には分かるんだよ、匂いで!
えっ? どこの匂いかって? 聞くな、馬鹿者! 日本人なら察しろ。
そして今夜も三ラウンドしてから(懐妊しているから勿論、優しさ第一ですよ)、お肌が艶々の春ちゃんを横にはべらしながら、この一ヶ月、宿題になっていた懸案を口にする。
「なあ、春」
「何です?」
気だるそうに振り向く春ちゃん。汗で頬にへばり付いた乱れ髪がそそるぜ。って、イカン! 此処は真面目モードにチェ~ンジ。
「香姫の縁談については俺の一存で決めさせて貰う事を本家に言う事にする。だけど夜叉丸については本家に預けようと思う」
「……」
「夜叉丸も既に七歳だ。外の世界を見るのには良い年頃だろう」
「……はい」
「なあに、他家に養子に出す訳でもない。勝手知ったる本家だ。鬼が住んでいる訳ではない事はそなたも存じておろう」
「……それは、そうですが……」
親離れ、子離れ。この時代の子供は早熟を求められるから早い方が良いだろう。でも春ちゃん、少し寂しそう……。
「なあに、今生の別れって訳じゃないさ。それに、また子供ができれば忙しくなるぞ」
「……そうですね」
「それに俺も春もまだ現役。これから沢山の子供に囲まれる事だって夢じゃない」
「はい(ポッ)」
ふうー、やっと春の機嫌が直った。……さて、もう一ラウントするとしよう。俺の腰は鋼で出来ているのさ(キリッ。
■永禄11年(1568年)8月 美濃 稲葉山城城下の屋敷 真田昌幸
「ふうー、やっと終わった」
「お疲れ様です、右京兆様(くどいようだけど、義信の事ね)」
やっと滞っていた政務が一段落した。この一月、右京兆様の居ない間に溜まっていた書類の決裁を皆が徹夜で行なっていたのだ。
右京兆様がお戻りになってから、迅速に、いや、怒涛の勢いで決済が処理された。……やれば出来るのだ、右京兆様は! 何故、普段から真面目になれないのだろう? 普段の怠け癖や放蕩癖さえなければ仕え甲斐のある主君なのだが……。
「それでは、お茶を用意しますね」
「おお、気が利くな。源五郎」
近習にお茶の用意を手配して、部屋に右京兆様と二人きりになった。今日こそ言わねば!
「右京兆様」
「ん、何だい。……ウチの亀姫はあげないからね」
「そうではございませぬ! そろそろ、その『源五郎』を止めて頂けませんか。それがしも既に人の親。何時までも幼名で呼ばれては周りに示しがつきませぬ」
「うーん、じゃあ何て呼べば良いんだよ」
何て呼ぶか? フッ、愚問を……。
「それがしにはれっきとした真田喜兵衛昌幸という名がございます!」
「きへー? なんか奇声みたいだな。それに『昌幸』なんて立派な名前、お前には分不相応だよ」
「し、失礼なっ!」
全く何なんだ、右京兆様は! そんな俺の怒りを無視して右京兆様が言葉を続けた。
「虎昌なんて未だに俺を『太郎様』って呼ぶ事があるぞ、三十路過ぎのこの俺を。だから二十歳そこそこのお前は源五郎で十分だよ」
「右京兆様とそれがしは違います!」
「どう違うんだよ、言ってごらんよ」
…………。売り言葉に買い言葉で言い返されてしまった。右京兆様との違い……、そうだ。
「右京兆様には官位がございますが、それがしにはございません!」
「じゃあ、官位が無いんだから幼名で良いじゃないか」
「くっ、それは……」
「もー、面倒臭いなあ」
「わっ、分かりました。それがし、今から安房守を名乗ります。これからは『安房守』と呼んで下さい」
「えー、ダサい! 恰好悪いよ、通称なんて」
恰好悪くったって、野暮ったくたって、垢抜けなくても良い。俺は今から安房守だ。
「フンッ、これからは『安房守』と呼んで頂かないと返事をしませんからね」
「良いよ、別に。……お前を呼ばなければ良いだけだから」
「ぐう~、ああ言えばこう言う! 分かりました、もう右京兆様の面倒は見きれませぬ。暇を出させて頂きます」
「あっ、丁度良かった。じゃあさ、夜叉丸が来月、駿河に行くからその時の護衛を宜しくね。でも半兵衛は連れて行っちゃ駄目だからね」
お、おのれぇ! 何時かギャフンと言わしてやる! この恨み晴らさでおくべきか!
■永禄11年(1568年)9月 駿河 駿府城 武田勝頼
「疲れてないか、夜叉丸」
「大丈夫です、御館様」
俺の言葉に対して夜叉丸が元気良く返事を返してきた。……健気な者じゃ。
「うむ、倅の武王丸は当年二歳だが、良き遊び相手になってやってくれ」
「はい!」
うむ、元気が良くて清々しい。しかし分かっているのだろうか、自分が人質という事を。それにしても……、父上からの内密な御達しだったが、まさか兄上が嫡男の夜叉丸を寄越してくるとは思わなんだ。
『息子を寄越せばそれで良し。寄越さねば職を解き、断罪するのみ』
父上の言葉が脳裏をよぎる。いかんな、これでは俺まで兄上を疑っているようではないか。
俺は兄上を信じる。兄上は俺を思い、自身が苦労して得た政務の指南書を無償で届けてくれたではないか! 俺が兄上を疑うなど有ってはならぬ!
「夜叉丸」
「はい、御館様」
「後々の事となるが、武王丸の成長と共にそなたを武王丸の傅役としようと考えておる。今後とも精進せよ」
「は、はい!」
そうだ。兄上が俺を信じて嫡男を寄越してくれたのだ。俺も兄上を、そして目の前に座っている夜叉丸を信じよう。
■永禄11年(1568年)11月 美濃 稲葉山城城下の屋敷 武田義信
うーん、困った。非常に迷う。
今、俺の手元には『香姫をぜひ、当家に』という嘆願書、所謂、ラブレターが数十通も来ている。
親父には『香姫の縁談は俺が決める! 外野は黙っとれ(注:意訳)』と啖呵を切ったからには、縁談を進めないといけない。
ああ……、香姫。俺の可愛いお姫様。目に入れても痛くない愛娘。なんで、どこぞの男に嫁がせねばならんのだ。
そんな俺を無視して嘆願書に目を通している春ちゃんが俺に話し掛けてきた。
「この方なんてどうでしょう?」
「……」
「貴方、いい加減『ウチの娘は嫁にはやらん』は通用しませんよ」
「……」
分かっているんだ。分かっては……。
香姫も、もう十一歳。大名の、それも嫡流の娘なんだから政略結婚で嫁に出さねばならない事ぐらい分かっている。
ああ……。この十年余りの香姫との輝かしい日々が走馬灯のように俺の脳裏をよぎる。
『ちちうえー』
『うん? 何だい、お姫様』
『あんまー』
『おお、姫はお馬さんが好きなのかあ』
『乗りゅー』
『うんうん、お父ちゃんと一緒に乗ろうね』
『うん』
ああ……。ううっ、香姫ぇ~~~~~~~。
「貴方! ア、ナ、タ!」
「えっ、なっ、何!」
春ちゃんの言葉によって俺を夢の世界から連れ戻された。うーん、幸せな時間が……。
「何、じゃありません。早々に縁談を取りまとめないと、甲斐の先代様に勝手に決められますよ」
「う、うん。分かってはいるんだけど……」
「もー、私が決めちゃいますよ」
「ちょっ、ちょっと待て!」
「家柄で言えば、板垣家の加助殿(史実の乾正信)なんてどうでしょう」
勝手に婿候補を物色する春ちゃん。だから、ちょっと待ってって。
「昌景殿の嫡男の昌次も良いわねえ、甲斐名門の山県家ですし……。でも二十歳を過ぎてますから釣り合いが……」
「お願い、ちょっと待て! まだ心の準備が出来てないんだよ~」
「心の準備には、既に十一年の歳月がありました。観念しなさい」
ピシャリと言い放つ春さん。ウチの嫁、こんなに強かったっけ?
「お、お主……先月、夜叉丸を見送った時あれ程悲しんでいたのに、香姫の事は良いのか!? 少しは悲しくないのか?」
「女子は何時かは嫁にいきます。だから産んだ時から覚悟は出来てます。夜叉丸とは違います」
ぐっ、おのれぇ。急に娘を持つ母親の顔になりおって! 今夜も『女の顔』にしてくれるわっ! 覚悟しておれ。
「わ、分かったよ。……でも、なるべく近くに置きたい。何時でも会いたいから美濃、飛騨の家臣の中から選ぼうね、ねっ。俺からの一生のお願い」
「分かりました。では、そのように取り図らせて頂きます」
この後、喧々諤々、紆余曲折、右往左往の末に香姫の婿には家康の嫡男の竹千代くん(後の信康)に決定した。香姫よりも一歳歳下だけどね。……精々、ウチの娘の尻に敷かれろ!
―――― それから暫くの間、美濃国主の屋敷から泣き声とも悲鳴ともつかない奇声が発せられ続けた、とか ――――




