第四話 流行は戦三昧
■天文14年(1545年)3月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田太郎
やはり親父様の内に秘めた怒りは半端無かった。
宮川の戦いに敗れた後も依然として勢力を保っていた高遠頼継を攻略すべく、親父様は自ら出陣して高遠城に向かおうとしている。現在は評定の間で家臣団を集めて、どう攻めるかを討議しているようだ。まあ、まだお子ちゃまの俺は評定の席に入ることさえ許されていないから、どうなるのかはよく分からないんだけどね。
まだ八歳の俺だが、暇なので転生してからの短い人生を一度振り返る事にした。時々、人生を振り返る事は過去に転生者にとっては大事だと思う、だって自分のこれまでの行ないによって史実からどれだけ乖離があるのかを確認しなければならないし、俺が転生前にやっていたゲームには今まで身近で行なわれてきた戦は出てこなかったからよく分からない。
その為って訳でもないけど転生してからの短い人生で忘れてしまっている史実があるんじゃないかと不安にかられてしまうのだ。下手に紙に覚えている事を書き残していて、それを誰かに見られでもしたら……間違いなくキチガイ扱いされるだろうからなあ。
そんな事を考えていると、評定の間から続々と家臣達が出てきた。その中から勘助を見つけて話し掛けた。
「先生、本日の授業では何を教えて頂けるのでしょうか」
「そうですね……丁度、今評定をしていた事もありますし、戦の流れを話しましょう。それと前から言っております通り、それがしは武田家の家臣ですので敬語は不要に願います」
「うん……分かった」
勘助が少し思案した後、戦の流れについて教えてくれると言う。それにしても戦の流れとは一体どういう事だろう。それと敬語は無しって釘を刺されてしまった、まあここは大人しく従うとしよう。
「まず、丁度今行なわれていた軍評定です。敵対する大名が味方の城に侵攻してきた時、或いはこちらから敵の城を攻め領土の拡大を図るといった軍事的な行動について家臣一同を集めて意見を求めます」
「大将が勝手に決めれないのか?」
「どの大名家もそういうものです。最終的な結論を出すのは大将で、その結果によって出陣か籠城か、或いは第三者の有力者に斡旋を頼み講和を目指すかといった大方針を決定すのです」
「出陣か篭城、或いは講和かあ……」
「次に方針が後詰め、或いは合戦と決すれば家臣の分限に合わせた動員が行われます。家臣達は知行地あるいは領地に戻って、傘下の地侍に動員令を伝えて領地の住民に割り当てた軍役を実行させます」
「早く来いっての!」
「そうも参りませぬ。一つの村あたりに何人という人数が割り当てられていて、その中には幾度かの合戦経験がある者が何人か居たら新しく軍役に就く者はそうした経験者から一応の手ほどきを受ける。大柄で体力のある者は長柄組、歳を取っていたり体格に劣る者は小荷駄や陣屋、柵の普請といった形で一定の訓練を受けます」
「ふーん、足軽という形で常雇いになっている兵は陣振れによって編成されて、それぞれの領主の下で集結地に向かうのだな」
「そうです」
「次に集結ですが、主君の居城が集結地である場合はそれぞれの分限によって人数を定めた着到帳を軍奉行へ提出し承認を得る事になります」
「先程の『動員』で出てきた年寄りや体格に劣る者が行なう小荷駄や陣屋、柵の普請には通常何人程を連れて行く事になるんのだ?」
「そうですね……大体、戦闘以外の任務に携わる者は3割ほどを占めているでしょう」
「そしていよいよ、出陣となります」
「いよいよ戦か?」
「いえ、すぐに戦とはなりませぬ。出陣した後には陣営がございます」
「出陣にあたっては軍師が吉凶を占い、吉日、吉方向を選んで行います。出陣の時には出陣式を行い、打ち鮑、勝ち栗、昆布などを肴に三献の儀式に続いて、場合によっては血祭りを行います」
「血祭りとは?」
「敵の捕虜が居る場合などにはその首を刎ね、夜叉、軍神に勝利を祈願する事です」
「次に予定の戦場に着けば野営の陣を張ります。本陣の周りには幔幕を張り、大工が大将や侍大将といった幹部の為の陣屋を建てるのです」
「すぐに布陣する訳ではないのか?」
「いえ、野営は合戦が終わるまでの生活の場所であり、大将の陣屋は戦評定が開かれる重要な設備となりますので、布陣の前に行なわなければなりません」
「ふーん」
「次にやっと布陣です。まず通常、情報を得る為に陣営と同時に物見を放ちます。物見とは偵察ですが、敵の出現を見張る小物見、敵の軍勢と戦ってみてその戦力を推し量る威力偵察の大物見といった区別があります」
「えっ、陣形を組むんじゃないの?」
「それでは駄目です。物見の功拙は合戦の結果にも直結します故」
後年で知った事だが、ウチの親父様は物見の巧者は重く用いた。例えば後の上田城城主・真田昌幸と足軽大将の曽根昌世を物見の名人として『我が両目』と呼んで重用したほどに……。
「話を戻します。物見の結果、敵の動向が明らかになれば予定戦場に進んで布陣する。この時にも敵の陣形によって取るべき陣形が変わります。敵勢の規模や装備、敵の後詰めとしてきたのか、こちらが後詰をしているのかなどの状況によって、守りを固める方円の陣や衝軛の陣、攻撃を主体とするなら魚鱗の陣や鋒矢の陣、味方が大勢ならば鶴翼の陣、戦況によって攻防いずれかに変化するなら雁行の陣といった形に布陣する」
「成程なあ……」
「次に鉄砲合戦ですね」
「鉄砲戦?」
「はい、まだまだ全国に出回っておりませぬが最近になって九州の薩摩、畿内の博多で盛んに製造されている鉄砲なるもので打ち合うのです。かつては戦いの合図として鏑矢を放ったり一騎打ちから始めた時代もありましたがその名残りのようなものです」
「成程、鉄砲か……当家も早く鉄砲を大量に配備できたら良いのだけどなあ。当家ではまだ鉄砲を持っておりませぬゆえ、もっぱた弓ですね」
「そうですね。まあ私も聞いた話ですが、両軍が射程距離に接近するまでに竹束や鉄張りの盾などの防御用具を前面に出し、その間に折り敷いた鉄砲組が狙いを定めて鉄砲組物頭の下知に応じて発砲するそうです。ただ次第に発砲出来る間隔が開いてきますので、その隙間を埋める為に弓組も配置されていて鉄砲射撃の合間に弓を射ります」
「……」
「その後に槍合わせです。射撃戦で一定の被害を敵に与えたと見れば、その後方に控えていた長柄組の足軽が押し太鼓や銅鑼、鐘に合わせて前進して敵の長柄槍と激突すします。長柄槍は突く武器ではなく、声を合わせて振り上げ叩き伏せたりします。また長柄槍同士で絡ませて、ねじ伏せるなどの戦いを繰り広げ、やがて力の差が出てきて一方が押され気味になってきた所をすかさず新たな下知が下って穂先を揃えて突撃する槍襖や槍絡みのまま押し崩すなどして味方のための血路を開くのです」
「うーん、では槍は出来るだけ長い方が良いな」
信長が何故、三間もの長槍を多用したのか分かったような気がする。
「槍合わせで血路が開ければ、次は騎馬が中心となって突撃です。敵勢の綻びが見えればそこに騎馬武者、徒歩武者が突撃します。長柄槍の間をすり抜け、或いは押し崩すなどして敵の布陣に押しかかれば敵も武者が出て防ぎにかかり、その間、戦況によっては騎馬武者が突撃して『乗り切り』、『乗り崩し』などの戦法を駆使して敵勢を攪乱するのです」
「乗り切り? 乗り崩し?」
「戦法については、また後日お教えします」
「分かった」
「敵勢が崩れたなら『追撃』といって敵勢に対して追い討ちをかけます。どれほど精強な軍勢でも一度崩れれば脆いですからな」
「しかし……戦果拡大の機会だが迂闊に追えば伏兵があったり、殿軍の繰引き(二組の殿軍が協力し合い、一方が危機になれば他方が、その逆の場合には助けられていた方が助けるなど、二つの軍勢が繰り返し動きながら退く)にかかって、思わぬ損害を生じる事になりかねないのではないか?」
「成程……そうですね、気付きませんでした。以後、気を付けましょう」
俺が史実で覚えていた金ヶ崎の退き口の戦法を口にしたら、勘助に逆に関心されてしまった。ちょっと嬉しかったりする俺が居る。
「追撃が済み、勝ち戦と判断できたら勝ち鬨です。大将の音頭に合わせて将兵が鬨を作ります。大将が右手を突き上げ「えい、えい」と叫ぶのを受け、将士が「おう」と応えるのです」
「へえー、俺も一度で良いから勝ち鬨をしたいものだな」
「ハハハッ、先ずは初陣が先でしょうね」
笑われちゃったよ、俺。
「そして最後に論功行賞です。討ち取った首の首実験を行ない、その場では簡単な論功行賞を行なって本格的なものは本拠地に戻ってから行います。そして生け捕り人、負傷者の処置、そして新たに占領した土地があれば、それらの仕置きを終えて、初めて凱旋できるのです」
「ふー、これが戦かあ」
「多額の費用と人的資源を浪費するため、余程の大大名でも国の浮沈を賭けるほどの合戦は数年に一度の大事件です。大将は家臣の論功行賞を正確に行わなければなりませんし、恩賞に不満があればその家臣の忠誠心は下がり敵の調略につけ込まれる元となります。真に合戦は勝利したとしても華々しい反面、大将にとっては出陣前から凱旋後まで気が抜けない事案といって良いでしょうね」
「じゃあ、ウチの父上は誠の戦上手だな」
うーん、戦をするって思っていた以上に大変なんだな。恐らく今回はさらっと戦の流れを説明して貰っただけだけど、他にも戦によるデメリットはあるのだろう。それについても追々教えて貰えるだろう、俺も戦を指揮する立場にもしなったとしたらなるべく戦をしない、するとしても短期間で決着が付くように精進しよう。
■天文14年(1545年)4月 甲斐 躑躅ヶ崎館 武田太郎
武田勢が無事に高遠城の戦いで勝って凱旋してきた。
聞く所によると、四月十五日から始められた攻撃により高遠城は四月十七日に自落して高遠頼継は逃亡した。その後、武田勢に捕らえられた結果、従った頼継は結果的に自刃を命じられた。これにより高遠氏は滅亡した事になる。確か俺の中学レベルの知識で覚えている限りでは、高遠城は武田氏滅亡の直前の高遠城の戦いで落城するまで増改築はありつつも伊那における武田方の拠点となったはずだ。
さて今日は何をしよう。この前は興因寺に無断で行った事が母上にバレて一刻近く説教を喰らったばかりだし、虎昌や勘助達は戦から戻ったばかりで疲れているだろうから迷惑だろうし……そうだ、一つ歳下の叔父である竹松(後の一条信龍)と遊ぼう。竹松は俺の祖父・信虎の八男で十七番目の子らしい、我が祖父ながら信虎も絶倫よのー。
「竹松ー、遊ぼうぜ」
「良いよー、ところで今日は何の悪巧みを思い付いたの?」
流石は俺の叔父にして心の友(悪友とも言う)、話が早いぜ! 因みに以前、俺が竹松を『叔父上様、お年玉下さい』って言ってやったら激怒された。全く、仕様が無い奴だ。
「今日は皆が高遠から凱旋してるだろ」
「うん、うん」
話の先を聞きたくて目を輝かせている竹松、こういった所は嫌いじゃない俺。
「酒は重臣達ばかり呑んでて、雑兵の皆さんまで行き届いてないじゃないか。だからさー、館にある酒の全部を兵達に与えてやろうと思うんだ」
「成程ね、それは兄上達が激怒しそうだね」
否定の言葉を発しながらも、満面の笑みで応える竹松、お主も悪よのう。
「でも問題は酒樽が重い事、それと数が多い事なんだよな」
「ふーん……じゃあこういうのはどうかなあ? 適当な兵達に『戦勝祝いだから蔵にある酒を全部与えるように御館様からの御達しです』って言うんだ。そうすれば兵達が勝手に酒樽を持って行ってくれるんじゃないかな」
少しの間思案した振りをした竹松が俺の出した課題の正解を導き出した。
「流石は竹松! 名案だよ」
「いやー、そうでもないよ」
ちょっと照れる竹松、その愛くるしい顔で何人の人間を騙してきた事か……愛い奴よのう。
「じゃあ、早速作戦開始だ」
「おぉー!」
俺達の作戦は途中までは見事に実行された。ただ、躑躅ヶ崎館の周辺でドンチャン騒ぎをする兵達に気付いた春日虎綱(後の高坂昌信、俺達は『尻小姓』と陰で呼んでいる)に見つかり、犯人が俺達だと親父様に知られるのに一刻半と掛からなかった。勿論、俺と竹松は武田家重臣が集まる席の中心で親父様(竹松にとっては長兄)からオハナシ(重い鉄拳とも言う)を喰らった後、更に半刻の説教を授かった。
■天文14年(1545年)7月 駿河 河東 今川義元
おのれ、氏康め! 折角、此方が武田晴信による仲介の他に独自に北条氏との和睦の道を探ったり、京都より聖護院門跡道増の下向を請うて交渉を行ってやったのに難色を示しおって! もう許さん、目に物を見せてやる。
まずは晴信や北関東において北条方と抗争している関東管領・山内上杉憲政に北条氏の挟み撃ち作戦を持ちかけるか……。その後は富士川を越えて晴信と対面し、申し合わせて善得寺に布陣すれば良かろう。
恐らく氏康率いる北条勢は駿河に急行してこれに応戦するだろうが、今川と武田が駿河を、山内上杉が関東で同時に軍事行動に出れば北条は兵力を分断する作戦に打って出るしかなく、前回(天文5年(1536年))とは逆に挟み撃ちに出来るはずだ。
九月初旬には、我が今川勢に加えて武田勢も合流してくるはずだから、この連合軍の攻撃に押された北条勢は吉原城を放棄して三島に退却だろう。そうなれば、そのままの勢いで三島(現 静岡県三島市)まで攻め入り、北条幻庵の守る長久保城(現 静岡県駿東郡長泉町下長窪)を包囲すれば投了だ。関東では山内・扇谷連合の大軍に武蔵国河越城(現 埼玉県川越市郭町)を包囲されて窮地に陥る氏康の顔が目に浮かぶわい! 後は武田に再度、仲介役を依頼して双方の間で停戦を成立させれば良かろう。
全く……俺は早く上洛したいというのに、北条め! 俺の邪魔をしおってからに。




